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千々石ミゲルの墓所の発掘調査の成果

2021年04月26日 05時09分11秒 | バーチャル探訪

2021年 4月24日(土) 14:00〜14:54 BS・TBSで歴史鑑定天正遣欧少年使節の悲劇』

という再放送番組(2018年7月に本放送)を視聴しました。

この中で「千々石ミゲルの墓所の発掘調査の成果」について元長崎歴史文化博物館

研究グループリーダーの大石一久さんが解説されていましたので写真紹介します。

本論に入る前に千々石ミゲルについて概要を記載しておきます。

 

千々石ミゲルの生涯概要

千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)頃~ 寛永9年12月14日

(新暦換算1633年1月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。
「ミゲル」は洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)で棄教後は千々石清左衛門。
肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。

  以上はWikipediaよりの引用

千々石ミゲルはイエズス会による天正遣欧使節に派遣された4人の少年使節の1人で、
4人の中では唯一棄教してキリスト教から離れたと伝えられている。

 戒名 本住院常安 墓所は伊木力

ローマから帰国したのは天正18年(1590)6月。

で伝道師となるための修業を積んだ。天正19年(1591)豊臣秀吉の聚楽第に

招かれた4人は渡欧で習得した洋楽器による演奏を披露したさらに秀吉から仕官の要請が

あったが一様に神学の道を志してそれを断った。司祭叙階を受けるべく天草にあった
ノヴィシアード(修練院)に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(159)年7月25日、

他の3人とともにイエズス会に入会した。だが千々石ミゲルは次第に神学への熱意を
失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育の前提であった

マカオ留学への出発も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。
欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、
欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。

千々石ミゲルはただ一人、キリスト教を棄て仏教徒になった。
棄教後は名前を清左衛門せいざえもんと称し大村藩主(大村喜前)に仕えるが、冷遇され
長くは続かなかった。愛妻との間に4人の子供を授かったといわれているが、
晩年をどう過ごしたのか、詳細は謎に包まれている。

慶長8年(1603)千々石ミゲルはイエズス会の名簿から削除されています。

千々石ミゲルの棄教に関する文書(大村文書)と天正遣欧使節に関して下記ブログで

書いていますので、よかったらご覧ください。

 天正遣欧使節 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

棄教後の千々石ミゲルについてWikipediaで詳述されえちましので引用添付します。

 上の写真は千々石ミゲル
慶長6年(1601)、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。
棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ
従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。
大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。

ミゲルは棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は
異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。
また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、
さらに領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じないように諭したという。
イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された
伊東マンショと中浦ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を
見聞きして来たミゲルが反キリストに転じたことは宣教師達の威信を失わせた。

こうした出来事は、後に日蓮宗への改宗を迫った加藤清正と並んで大村喜前の棄教と
キリシタン弾圧の後押しとなったとする論もある[要出典]。
ところが、喜前が治める大村藩内はバテレン追放令後も布教が盛んであったため、この方針は
キリシタン派の反発を招き「大敵は喜前、その根源は清左衛門(ミゲル)」とされた。
喜前はミゲルを藩政から遠ざけさせただけでなく、この騒動の鎮静化を図るために
見せしめ的に処罰した。さらに島原の日野江藩に身を寄せるも、
本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった
有馬晴信の遺臣に瀕死の重傷を負わされる暗殺未遂が起きるなど、親キリシタン派からも
裏切り者として命を狙われ、長崎へ移り住むに至る[1]。
晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で
子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されており、領内で隠棲したものと考えられる。

伊木力の伝承では、大村喜前に対する恨みを弔うため、伊木力から大村藩の方を睨むようにして葬られたという。

千々石(ちぢわ)ミゲルの墓所の基本情報

 所在地住所:長崎県諫早市多良見町山川内

 アクセス:JR長崎本線「大草駅」下車、長崎県営バス「下川内バス停」を南へ徒歩10分

 公式サイト:千々石ミゲル墓所調査プロジェクト (migel-project.jp)

  これまでの調査という項目で過去の発掘調査の経過と成果の詳細が記載されています

上の写真は千々石ミゲルの墓所の位置をGoogle地図の上に示しました。

上の写真は千々石ミゲル夫妻の墓所の遠景

上の2枚の写真はストリートビューよりで千々石ミゲル夫妻の墓所への入り口です。

上の写真は千々石ミゲル夫妻の墓所の近景

上の写真は番組の中で解説される大石一久さん。

 

大石は法華宗寺院である琴海戸根町(旧戸根村)の本住山自證寺に残る浅田家

(千々石ミゲルの末裔)の位牌を調査した結果

墓碑には妙法の文字と千々石ミゲルの戒名 本住院常安とミゲルの妻の戒名 

自性院妙信 及び命日 千々石ミゲルが寛永9壬申年12月14日(新暦換算1633年1月23日)

ミゲルの妻が寛永9年12月12日(新暦換算1633年1月21日)

 

上の写真は2017年の第3次発掘調査(2017年8月20日ー9月20日)で出土の遺物

上の写真は長崎県教育委員会の「埋蔵文化財調査年報26 平成29年度調査分」Page10

(2018)出土遺物「棹(さお)通し」のクリーニング&保存処理の結果を示したもの。

さらに、ガラス製品(65点)の成分分析(蛍光X線分析)も実施された。

上の写真は発掘調査の結果からミゲルが最期まで信仰を保っていたことを示していると

語られた元長崎歴史文化博物館研究グループのリーダー大石一久さん。

イエズス会は脱会したものの信仰そのものを捨てたわけではないという結論。

千々石ミゲルは転び(棄教)したと後世まで裏切者扱いされ世間では「鬼の子」とまで

酷評されていたが上述のように信仰を捨てていなかった事が確定できれば名誉回復に

つながると期待されます。

千々石ミゲル墓所発掘調査実行委員会は、屈葬で墓石に戒名を刻みキリシタンの副葬品を

納めるという状況から潜伏キリシタン的埋葬状況だったと理解。

上の写真の右手下に地下レーダー探査の結果(真上から見た図)が示されています。

ミゲルの妻の墓壙(第3次発掘調査)の左手に方形の墓壙があることが事前調査で

判明している。(ミゲルが埋葬されている?)こちらを2021年8月から約2か月の予定で

発掘するとのこと。

 下記サイトに詳しく記載されています。

 天正少年使節の千々石ミゲルは棄教しなかった? 墓からロザリオとみられるガラス玉などが出土 : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

天正少年使節の千々石ミゲルは棄教しなかった? 墓からロザリオとみられるガラス玉などが出土

天正少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる石碑(長崎県諫早〔いさはや〕市)の発掘調査が8月20日から始められ、8日、そこから「ロ...

クリスチャントゥデイ

 

 

 天正少年使節の千々石ミゲルの墓続報 出土の歯は25~45歳女性 、ミゲルの妻のものか : 文化 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

 

発掘調査に関する報道

発掘の骨はミゲル妻か 長崎・諫早の石碑調査 産経新聞記事(2017-11-12)
  https://www.sankei.com/west/news/171112/wst1711120030-n1.html

 内容要旨:

 16世紀末の天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの墓とみられる長崎県諫早市の

 石碑を2017年9月まで調査した市民グループは11月12日、発掘した人の骨や歯の鑑定結果

 について「20~40代の女性のものの可能性が高く、ミゲルの妻とみられる」と

 明らかにした。(骨や歯は長崎大学などの専門家が鑑定)

朝日新聞 2017-9-8記事
 https://www.asahi.com/articles/ASK984W3WK98TIPE01P.html

 内容要旨:

 ミゲルの子孫や地元の歴史愛好家、専門家らでつくる発掘調査実行委員会が8日発表した。

 実行委によると、見つかったのは、真ん中に穴が開いた直径2~5ミリのガラス玉計59個(5色)
▽長さ2・6センチの半円形のガラス板
▽人の歯とみられるもの――など。板と一部の玉は欧州で作られたアルカリガラス製の可能性が高く、
玉はロザリオなど、板は聖骨の入れ物のふたの可能性があるという。

 (施錠された長持ちを転用した木棺と思われる)

 諫早市多良見町伊木力(いきりき)地区にある石碑は2004年、元長崎歴史文化博物館研究グループ
リーダーの大石一久さん(65)が、地区は大村藩に仕えたミゲルが藩主から与えられた土地であることや、
石碑の裏にミゲルの子の名前が刻まれていることなどから、ミゲルの墓とほぼ特定した。

 (ミゲルの子供は4男の玄蕃)

 今回の発掘で、出土した陶磁器の年代から、17世紀前半の墓坑とみられ、石碑の没年と合致
▽木製の棺の上に石板を敷くなど丁寧な埋葬方法▽キリスト教の聖具とみられるものの発見――などから、
ミゲルの墓の可能性がさらに強まったという。

 16世紀のキリスト教世界の繁栄を目にしたにもかかわらず、ミゲルは帰国後の1601年ごろ、
イエズス会を脱会。4人の中で唯一棄教したとされてきたが、明確な理由はわかっていない。

 大石さんによると、16世紀末~17世紀、修道会同士の対立や寺社の徹底破壊など様々な問題が
噴出していたという。「(日本という)異文化に適応しようとしなかったイエズス会に、
ミゲルは異を唱えたのでは。信仰そのものを捨てたわけではないと思う」

毎日新聞 2017-9-2記事

 千々石ミゲルの墓:発掘調査 木製の棺跡発見 /長崎 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 内容要旨:木製の棺(長さ1m、幅60cm)に屈葬されていた。

記者発表資料:これまでの調査 | 千々石ミゲル墓所調査プロジェクト (migel-project.jp)


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