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神戸市の垂水日向遺跡(垂水小学校)発掘調査

2021年11月29日 05時07分11秒 | 神戸情報

神戸市立 垂水小学校は2022年に150周年を迎えます。

150周年を記念して老朽化して耐震強度に問題がある北校舎と東校舎を撤去し、

新たに3,4,5階に体育館を備えた西校舎と4-5階にプールを備えた南校舎が新築される

計画で工事が進行する予定です。工事工程は下記のとおり。

  2022年度 西校舎の建設工事

  2023年度 東校舎の解体工事及び文化財調査

  2024年度 南校舎の建設工事 

  2025年度 北校舎の解体工事 体育倉庫建設及び運動場整備

上記、工事に先立ち2021年に神戸市文化スポーツ局文化財課が発掘調査を行いました。

遺跡名は垂水日向遺跡第40次調査、2021年11月13日(土)に現地説明会が実施されました。

私は当日、明石市立文化博物館で行われた講演会と重なってしまった為、未参加でした。

しかし、11月27日に神戸市埋蔵文化財センターで現地説明会の資料を入手したのでこの資料により

発掘成果の内容を整理してみました。

発掘現場

上の4枚の写真は2021年10月28日に撮影の発掘現場

上の2枚の写真は2021年11月11日に撮影の発掘現場。

垂水小学校の住所は神戸市垂水区日向2丁目4−6

現地説明会に出席された垂水のおもちゃ箱さんのサイトにリンクさせていただきます。

 「垂水小学校校舎建て替えの発掘調査」で、神戸市による現地説明会開催。 | 神戸垂水おもちゃ箱 (tarumitoybox.com)

 

全体

上の写真は2つの大型建物跡(平安時代)大型の井戸、かわらけ土坑等の主な遺構

大型建物1の南面の溝は南面思想に基づく配置か?

出典:現地説明会資料

大型建物跡

掘立柱建物の大型建物全部で4棟が検出。但し古いものを取り壊し新しく建て替えた

様子が伺え、実質は上の図のように2棟か?

最大幅は南北8間(約15m)、東西6間(約11m)?。

神戸市のサイトでは最大で東西14m、南北15m。

柱穴の配置から、鎌倉時代の武家屋敷のルーツとなる構造や間取りと推測されます。

神戸大学名誉教授で日本建築史が専門の黒田龍二氏によれば

柱穴の配置は、総柱型の大型建物とみられ、平安時代の寝殿造の基本形である身舎(もや)

庇(ひさし)の構成ではない。建築形態は復元できないが、鎌倉時代の武家住宅の

先駆となる建物遺構と推定される。

上の写真は鎌倉時代の武家屋敷 「法然上人絵伝」より復元作成 出典:現地説明会資料

上の写真は大型建物2の北東の地下室の出土状況 出典:現地説明会資料

上の写真は大型建物(掘立柱建物)の柱 出典:現地説明会資料

今回発見された掘立柱建物群は、平安時代に垂水を治めた在地豪族の屋敷跡と推定されます。

東大寺文書によれば8世紀から垂水は東大寺の荘園で「垂水荘」と呼ばれていました。

垂水荘の範囲は「東寒川(境川?)、南南海辺道(海岸沿いの道)、西垂氷川(福田川)、

北太山、堺地三百六十一町」

上の写真は中世明石郡の荘園の配置図 出典:現地説明会資料

また10世紀の「和名類聚抄」という辞書には垂水郷と書かれています。

平清盛(1118-1181)時代、垂水荘は西、北、東と三方を平氏領に囲まれ、平氏の影響を

受けていたようです。東大寺は小野市に「大部荘」と垂水を交換する条件で播磨に荘園を

持つ権利を守りますが、結果的に垂水は清盛の狙いどおり公有地に戻りました。

東大寺領としての「垂水荘」の歴史は12世紀中頃に閉幕します。

大型建物の主は中世的な在地領主でやがて武士になって発展していったと思われます。

彼らの上級支配者が東大寺→平氏→国衙と変遷する中で平氏と上手く付き合いながら

自分たちの立場を守ろうとした痕跡かもしれません。(建物が語る)

平安時代の末期治承5年(1181)平清盛公は63年の波乱の生涯を終えた。
平清盛の生涯で国守または国司になったのは4カ国(肥後、安芸、播磨、備前)で
他に大宰府大弐にも任ぜられている。
神戸での生活は仁安2年(1167)5月太政大臣を辞したときから死ぬ前の年の
治承4年(1180)まで13年間でこの間神戸(兵庫津)は政治の中心であった。

平清盛は舞子の風景が好きで垂水荘にも立ち寄ったのではと推測されます。

上の写真は大型井戸跡、かわらけ土坑、玉砂利排水路などの遺構 出典:現地説明会資料

 

大型井戸及び中型井戸

大型井戸については直径2.5mで、周辺に柱跡があり「井戸屋形」と呼ばれる覆屋が掛かって

いたと思われます。年代は平安時代後期(12世紀後半)。

造りの立派さなどから賓客のための儀礼や宴席用の水をくむ特別な用途が考えられます。

上の写真は井戸屋形のイメージ 出典:現地説明会資料

上の写真は中型の井戸 出典:現地説明会資料

 

かわらけ土坑

上の写真はかわらけ土坑の出土状況 出典:現地説明会資料

「かわらけ」と呼ばれる素焼き小皿が大量に棄てられており、屋敷で行われた宴会や

儀礼に使った皿をまとめて埋めたものと思われます。

かわらけの遺構は祇園遺跡が最も古い例でかわらけが大量に見つかっています。

さらに特徴的な遺物として「C字唐草紋軒平瓦」が1点出土しています。

これは12世紀中葉から後葉に造られた瓦で、京都の平安京や鳥羽離宮、神戸の祇園遺跡

でも出土しており、平氏との関係をうかがわせる瓦です。

この「C字唐草紋軒平瓦」は京都系軒平瓦とも呼ばれ屋敷の主であった人物が都の

権力者と交流したことを明らかにさせる発見です。

上の写真はC字唐草紋軒平瓦出土状況 出典:現地説明会資料

上の写真は祇園遺跡出土の「C字唐草紋軒平瓦」 出典:現地説明会資料

上の写真は鳥羽離宮で使われた「C字唐草紋軒平瓦」 出典:現地説明会資料

 

祇園遺跡

祇園遺跡の発掘は神戸・三田線(有馬街道)の拡幅工事に伴ない平成5年(1993)の

第1次調査で室町時代整地層から石帯が出土、付近での官人層の存在を示唆。

続く平成6年度(1994)第2次調査、平成7年度(1995)第5次調査で平安時代末の

大量の京都系土師器皿(かわらけ)が出土する園池遺構を確認、平清盛別業「平野」

に関連するものとして注目された。

平成7年度(1995)第3次調査では土器の他に京都系瓦、中国製陶磁器類の出土が目立ち、

国内での出土が稀な玳玻(たいひ)天目小碗が出土しています。

その後、長らく平安時代の顕著な遺構は確認されず。平成23年度(2011)第14次調査で

井戸を丁寧に埋め戻し、新たに掘立柱建物を構築する様子が確認された。

さらに第15次調査で少ない面積での発掘調査であったが先に確認されていた園池遺構の

続きを確認、東西15m以上の規模と推定。

上の写真は祇園遺跡第14次調査での現地説明会の様子 撮影は2011年11月3日

上の写真は祇園遺跡第14次調査(2011)の遺構全体図

第14次調査の現地説明会の詳細は下記のブログで纏めています。

 祇園遺跡現地説明会 on 2011-11-3 再編集版 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

祇園遺跡(福原京の遺構の一部)に何故京都で生産された瓦があるのか、その答えは

鴨長明の「方丈記」にあります。方丈記には都の家々が解体され、福原に移築するため

船に載せられ淀川を下っていくという記述があります。

また、瓦の総量に対して軒瓦の量が多いことも注目されます。これは屋根の構造にあります。

当時の屋根は基本的には檜皮葺の建物で一部に瓦が使用されていました。

建物跡の出土は上述の第14次調査での3棟と第18次調査での7棟など数えるほどしかありません。

 

最後に祇園遺跡及び雪御所の各次の調査地点(下の写真)を添付して筆を置きます。

出典:令和3年度秋季企画展「福原京の考古学」展示説明リーフレットPage10

 

現地説明会資料

Page1

Page2

Page3

Page4

 

関連ブログ

 垂水日向遺跡40次調査(垂水小学校)の概要展示 in 神戸市埋蔵文化財センター on 2022-7-23 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


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