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梁田 蛻巖の句碑 in 明石城坤櫓の下 on 2020-2-9

2020年05月14日 05時38分35秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月9日、明石城坤櫓の石垣の下にある梁田蛻巖句碑を見つけましたので

写真紹介します。

上の写真は梁田 蛻巖(やなだぜいがん)先生の句碑です。

「眩をまげてとは しぐれ聞く夜なるべし」と書かれています。

元兵庫県知事の阪本勝氏の書です。

上の写真は句碑の裏側の説明書きで

この句碑は梁田 蛻巖先生の200回忌の記念事業の一つとして昭和32年(1957)

10月17日に梁田 蛻巖先生顕彰会により建立されたとのこと。句について

詩史に異彩を放つ儒学者であった」などと書かれています。

梁田 蛻巖先生は明石藩のおかかえの儒者として上水町(日富美町)の邸内に

「景徳館」を開設、30年間に渡り藩主や藩士に講義を行いました。

江戸期の大名の間で「明石に過ぎたるものに、儒学の蛻巖、砲術の六兵衛、

馬術の源八」と言われていました。

新井白石、祇園南海、秋山玉水と共に「正徳の四家」と称された偉大な学者です。

Wikipediaより梁田 蛻巖先生の解説引用紹介します。

梁田 蛻巖(やなだ ぜいがん、寛文12年1月24日(1672年2月22日) - 
宝暦7年7月17日(1757年8月31日))は、江戸時代中期の漢詩人。
名は邦美、字は景鸞、通称は才右衛門、蛻巖と号す。

旗本の家臣の家柄に生まれ江戸で育つ。11歳で幕府の儒官であった人見竹洞に入門し、
新井白石や室鳩巣などと交流する。元禄6年(1693年)に加賀藩に儒者として
仕えるがまもなく辞して、美濃の加納藩や播磨の明石藩に出仕した。
晩年までには漢詩の大家として敬仰されるようになった。
門下に江村北海・稲垣白嵓などがいる。明石で没する。享年86。
墓は兵庫県明石市日富美町の本立寺にある。 

 

上の写真は梁田蛻巖先生の肖像画

出典:ロマンあふれる街 明石 明石観光協会編 平成18年(2006)Page53


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