CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

大津島回天基地跡

2007年04月05日 05時49分09秒 | Weblog
下の写真は大津島(山口県 旧徳山市=周南市)の回天基地
に関わる地図です。
詳細はこちら
Human torpedo Kaiten used by Japanese imperial navy
at the last stage of world war II:
the torpedo is operated by a pilot and explodes
with him at the target.
Initially proposed in 1943 summer by lieutenants
Nishina and Kuroki, the plan was first rejected
due to its consequence, but finally adopted in
Feburaly1944 because of a hopeless situation.
4 training bases were created in Yamaguchi
(Ohzu island,Hikari,and Hirao) and Oita prefectures
(Ohkami) with 400 apparatus.
昭和18年(1943)日本軍は制空、制海権を失い敗戦を
続けていた。このような状況下で2人の成年士官(黒木大尉と
仁科中尉)が回天の開発研究を重ねついに回天を完成させた。
回天の訓練基地は山口県と大分県に設置され1375名の搭乗員の
訓練が行われた。
回天は400機製造された。
大津島は山口県周南市からフェリーの便がある。
回天基地のあったところとして知られている。
20歳すぎの若者が志願し戦場で尊い命を落とした
やはり戦争は起してはいけないと考えさせられました。
回天を英語で表現する時日本では特攻と言う意味で
「Special attack weapon」という表現されるが
USAからの表現では「Suicide attack」と表現され
日本の自殺行為の攻撃というのは如何に戦争中といえども
理解されないようである。


下の写真は回天の発射訓練の施設です。


回天に関しての記事は下記のとおりである。
回天記念館の前に回天Ⅰ型の8/10の縮尺模型があります
回天は昭和19年(1944)9月に93式魚雷を改装して実用化した
航行中気泡を出さないように工夫されている。
400機ほど製造されている。
Ⅰ型の改良型でⅡ型、4型、10型も開発されたが実戦では
使用されなかった。
以下回天Ⅰ型の主な仕様を記す。
回天Ⅰ型 KAITEN model-1
全長 Length:14.75m
総重量 Total weight:8.30t
乗組員 Crew:1
最大径 Max.diameter:1.00m
東部爆薬量 Warhead:1.55t
エンジン Engine:Engine of type-93 torpedo
燃料 Fuel:Oxygen and Kerosine
馬力 Power:550phs
行動半径 Range:78000m/10kt,43000m/20kt,23000m/30kt
回天記念館には前館長の高岡氏?(名前がうる覚え)
がおられ、第2次世界大戦での日本の状況説明をされて
います。
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西念寺と服部半蔵

2007年04月04日 06時20分48秒 | Weblog


西念寺 以下立て札より要約引用
住所:新宿区若葉2丁目9番地
宗派:浄土宗

服部半蔵は徳川家康の旧臣で槍の名手として、また伊賀の指導者
として知られている。
主君家康の長男の切腹の折、半蔵は介錯を命ぜられたがついに
果たすことが出来ず、後に信康の冥福を祈るため仏門に入った。
天正18年(1590)家康に従い江戸に入国し麹町清水谷に庵居を設け
信康の遺髪をここに埋め霊を弔った。
服部半蔵は文禄2年(1593年)に徳川家康より寺院を建立するよう
内命を受けたが果たせず慶長元年(1596年)11月14日に55歳で没した。
その後、同所(麹町清水谷)に寺院の建立がなり「専称山安院養
西念寺」となった。
寛永11年(1634年)の江戸城の拡張工事により現在地に移転した。
 
服部半蔵が主君徳川家康より拝領した槍がここ西念寺本堂に
保存されている。 槍先と柄の一部が欠けており現在の全長は
258cmである。

西念寺には服部半蔵の墓と信康の供養塔がある。
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顕性寺

2007年04月03日 05時35分05秒 | Weblog


顕性寺(けんしょうじ)

住所:東京都新宿区須賀町13-5
地図はこちら本性寺の隣
宗派:真言宗 豊山派
山号:金剛山 蓮華院
本尊:大日如来

御府内八十八ヶ所の44番 顕性寺

有名人のお墓として落語家の古今亭今輔氏がある



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第6潜水艇浮上せず

2007年04月02日 04時43分48秒 | 岩国情報
第6潜水艇は第7潜水艇とともに明治39年(1906)、川崎造船所で我が国で初めて建造された。
明治43年(1910)4月15日、山口県岩国市新港沖で訓練中、事故のため沈没した。

佐久間艦長以下14名は沈没前日の4月14日宮島から新港まで2時間30分にわたる潜航をして
第6潜水艇は新港に停泊し岩国の錦帯橋周辺の散策を楽しんだらしい。

潜水艦は水上では内燃機関(当時はガソリン)、水中では蓄電池で行動する。
水中では蓄電池の電力で小さい為3ノット程度で3時間で電池が無くなり
航行不能となる。

6号艇はガソリン潜航の訓練をしていた。半潜航しながら通風筒から空気をとり
機関を動かすことで高速(水上と同じ8ノット)を得ようとするもの。
しかし、深度が難しく、潜りすぎると水が浸入し危険である。

6号艇の場合も通風筒から海水が入った。佐久間艇長はいろいろアクションを
とったが、大量の水が艇内に入り艇は沈下した。


佐久間艇長はメインタンク排水を命じたが、侵入した水の方がタンク内の
水より多く、浮上しなかった。
乗員は代わるがわる手動ポンプで復旧に努めたが浮上することはなかった

このような状況下で佐久間勉艦長は下記の遺書を書いた。


艇長の遺書 
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳ナシ、
サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲショセリ
 
我レ等ハ国家ノ為メニ斃(倒)レシト雖(いえど)モ唯唯(ただただ)

遺憾トスル所ハ 天下ノ士ハ之(これ)ヲ誤リ以(もっ)テ将来潜水艇

ノ発展ニ 打撃ヲ与フルニを至ラザルヤヲ憂フルニアリ希(願)クハ
諸君益々勉励以テ比(こ)ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ

盡(尽)クサレン事ヲ サスレバ我等一モ 遺憾トスルトコロナシ

上記の他に 沈没の原因とその対策。今後艇の改善を要する諸点などが
記されている。12時40分との記載で終わっている。
下の図は第6艇の沈没場所である。


慰霊碑(下の写真)


原文はこちら
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