CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

今週の「らんまん」と田邊教授のモデル谷田部良吉

2023年08月19日 06時06分53秒 | Weblog
今週のNHK朝ドラマ「らんまん」は第20週「キレンゲショウマ」でした。

虎鉄(寺田心)から万太郎(神木隆之介)の元に植物標本が届く。
それはなんと、田邊(要潤)が巡り合ったのと同じ花だった。
田邊は、今後は欧米の学者に頼らず日本人自らが学名を与え発表すると、
西洋の植物学者たちに宣言。新種かもしれない花の研究にいっそう打ち込むようになる。
一方、期せずして田邊と同じ花に出会った万太郎(神木隆之介)も研究に没頭。
新種か見極めるためには果実の標本が必要だが、ついに田邊がそれを手に入れ新種と認定、「キレンゲショウマ」と名付ける。
一歩及ばなかった万太郎だが、田邊を心から祝福する。
田邊のもとに大学から手紙が届くその内容は大学から非職を命ぜられる旨であった。
事実上の追放だった。後任として、ドイツから帰った徳永(田中哲司)が教授に任命される。
 
上の写真は東京大学の植物学教室の田邊教授と大久保ほか教室のメンバー
出典:2023年8月18日朝、NHKBSプレミアム「らんまん(100話)」の番組
上の写真は植物学会誌で新種認定された「キレンゲショウマ」
出典:2023年8月18日朝、NHKBSプレミアム「らんまん(100話)」の番組

実話での牧野富太郎と矢田部良吉の出会い:
22歳で上京した牧野富太郎は、3年前に訪れた東京大学理学部植物学教室を訪ね、
植物学の第一人者だった植物学教室のトップ、矢田部良吉と面会しました。 
富太郎の植物図の精巧さと志の高さを認めた矢田部は、部外者の富太郎に大学の出入りを
認め、図書室や植物学教室の標本室などの施設、設備の利用を許可します。
そういう意味で富太郎にとって谷田部は大恩人であったと言えます。

以下はレキショックが作成したYoutube動画でGooで共有させていただきました。 

矢田部良吉の生涯
【らんまん】矢田部良吉の生涯 26歳で教授となり多分野で活躍した秀才

牧野富太郎の生涯
【らんまん】牧野富太郎 植物を愛し続けた波乱万丈の94年の生涯

牧野富太郎を支えた2人の女性(妻)
【らんまん】寿恵子 綾のモデル 富太郎を支えた2人の献身的な妻の生涯

松村任三の生涯 
松村任三はドラマでは徳永助教授(田中哲司)で8月18日の放送では田邊教授
の突然の免職を受けて新たに教授となる人物です。
【らんまん】松村任三の生涯 矢田部の後を受け植物学教室二代目トップに

大久保三郎の生涯
大久保三郎はドラマでは大窪昭三郎(今野浩喜)助教授です。

【らんまん】大久保三郎の生涯 徳川家の支援で植物学へ進んだ幕臣の息子

ドラマでも第22週「オーギョーチ」(8/29火曜日放送107回)で大窪は大学を去り
細田(渋谷謙人)が助教授に就任するストーリーのようです。
詳しくはとらドラマからの予告Youtube動画(下に添付)で・・・・
朝ドラ「らんまん」第107回予告 大窪(今野浩喜)大学を去り細田(渋谷謙人)が助教授…万太郎(神木隆之介)に特別指令…NHK連続テレビ小説・牧野富太郎博士・植物学者・植物図鑑・浜辺美波・宮﨑あおい

田中延次郎の生涯
ドラマでは藤丸次郎(前原瑞樹 )に相当します。

【らんまん】田中延次郎の生涯 菌類研究で活躍するも悲劇の最期を迎える

来週第21週のらんまん
来週(8/21~8/25)のらんまんは兵庫県の花となっている「のじ菊」です。
朝ドラ大好きchが作成したYoutube動画をGooで共有

【らんまん】8月21日からの物語はどうなる?【朝ドラ】神木隆之介 浜辺美波 要潤 中田青渚 宮澤エマ  

らんまんのモデルとなった植物学者
神木隆之介 前原瑞樹 前原滉 亀田佳明
【らんまん】3人の植物学者たち 壮絶な人生をドラマでは描くのか?史実から検証&考察 【朝ドラ】神木隆之介 前原瑞樹 前原滉 亀田佳明


牧野富太郎の子孫

下記サイトで詳しく書かれています。

最後に牧野富太郎博士の年譜を添付して筆を置きます
青字は神戸関連の事象

文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。
幼少のころから植物に興味を示していた。
明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ
明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる
明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学
明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学
 地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。
欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。
明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷
明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う
明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。
   書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。
            田中芳男などと知り合う
明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。理科大学で谷田部良吉、松村任三と知り合う
明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死。神戸の裏山、布引の滝周辺で植物採集する。
明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。
        「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。
明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。
            『植物学雑誌』に発表
明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される
  自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る
  牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死
     帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
  その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
  ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
  参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり
  厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。
明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始
明治34年(1901)39歳 コヤスノキの記載をする
明治40年(1907)45歳 飯沼慾斉原「増訂草木図説」第1巻を出版する
明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する
明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。
明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る
明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務)
大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。
上の写真は大正5年(1916)12月18日大阪朝日新聞の記事
当時、東京大学の講師であった牧野富太郎の月給が35円で高額の書籍などの購入で
借金がかさみ収集した植物標本約10万点を海外に売却することを計画。これを知った
東京朝日新聞が記事を掲載、その翌日に大阪朝日新聞が同様の記事を掲載した。
      神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る
      池長孟は牧野博士の10万点の植物標本を3万円で買い取り
      植物研究所を会下山「正元館」に設立することが決まった。
       津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊
大正6年(1917)「植物研究雑誌」に「余が年少時代に抱懐した意見」を発表。池長植物研究所の開館準備。
大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く)
      開所式が会下山で行われる。牧野が所長、池長が正元館主に就任
大正8年(1919)57歳、池長植物研究所に保管していた標本が京都帝大に寄贈される話が浮上
大正10年(1921)59歳 高砂市石宝殿、新宮などでノジギク、コヤスノキの自生地に出かける。
         須磨寺の池で「スマフサモ(現在はオオフサモ)」を採集
大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる
昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。
昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。
           新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
昭和4年(1929)67歳、西村旅館(栄町)で南国の植物について講演
昭和6年(1931)69歳、2月、6月、9月に摩耶山温泉ホテルで講演
昭和8年(1933)70歳、兵庫区制始まる。六甲高山植物園が開設
昭和9年(1934)72歳、「牧野植物学全集」刊行開始
昭和10年(1935)73歳、神戸女子薬科専門学校、神戸市立諏訪山小学校で講
昭和11年(1936)74歳、西村旅館(栄町)で講演
昭和12年(1937)75歳、「牧野植物学全集」によって朝日文化賞を受賞
          氷の山で植物採集。岡部芳郎が同行した映像が現存
          有馬近郊で「アリマウマノスズクリ」を発見、命名
昭和13年(1938)76歳、神戸女子薬科専門学校、神戸市立諏訪山小学校で講
          池永孟が「池長美術館」を竣工。阪神大水害が発生。
昭和14年(1939)77歳、東京帝国大学理科大学講師を辞任
昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行
          六甲高山植物園で講演。池長美術館が開館
昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。
           安達氏より標品館が寄付される
昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開
昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講
昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する
昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。
           文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる
           池長美術館が神戸市に移譲され、神戸市美術館となる
昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる
昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園


昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館  
         東京都練馬区立牧野記念庭園が開園

平成20年(2008)東京都練馬区の名誉区民となる
平成24年(2012)生誕150年
令和4年(2022) 生誕160年

「牧野富太郎と神戸」の関係については下記ブログで書いています。
池長孟氏と牧野博士のツーショットの写真も掲載しています。


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回転寿司 力丸 神戸垂水店でのランチ on 2023-8-7

2023年08月18日 17時11分06秒 | 神戸情報
2023年8月7日(月)、回転寿司 力丸 神戸垂水店で頂いたランチを写真紹介します。


回転寿司 力丸 神戸垂水店の基本情報

住所:神戸市垂水区名谷町2569-6 TEL:078-752-7767
営業時間:11:00~21:30
本部:株式会社関西フーズ  開店:2018年7月20日


公式サイト:回転寿司【力丸】の株式会社関西フーズ (kansaifoods.co.jp) 

所在地のGoo地図を添付しておきます。 

上の写真は奥様が注文したお手頃握りと茶碗蒸しのセット1,089円(税込) 

上の写真は当日、私が注文したまる得限定ランチ 1,320円(税込)
2人の合計金額は2,409円(税込)でした。


上の写真はランチのメニュー表 

前回の訪問記(下に添付)に過去の訪問記をリンクしています。

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日光東照宮奥社の徳川家康の墓(東照宮奥社宝塔) 付:徳川3代~5代将軍の墓

2023年08月18日 04時56分40秒 | バーチャル探訪
徳川家康は元和二年(1616 年)4 月17 日、駿府城で生涯を終えた。
遺言によってその日のうちに久能山に埋葬され、翌年、朝廷から神号「東照大権現」が
宣下されて神となった。久能山東照宮は家康公を祀った最初の神社となった。

徳川家康の墓とされる場所は複数有り下記のとおりです。
・久能山東照宮(静岡県)
・日光東照宮(栃木県)
・南宗寺(大阪府)
・圓光寺(京都府)
・大樹寺(愛知県)
各墓所について下のサイトで詳しく書かれていますのでリンクさせていただきました。

最近、覚園寺の重要文化財 石造宝篋印塔(開山塔と大燈塔)を調べていた際、
東照宮奥社宝塔(徳川家康の廟)を見つけたので写真紹介します。

上の写真は徳川家康の墓(東照宮奥社宝塔)
出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page 74

この神域は昭和40年(1965)350年大祭以降は特別に公開されています。
徳川家康はこの地に、没後1年経った元和3年(1617年)に改葬されたと言われています。
高さは5mほどあり、もともとは元和8年(1622)に木造で創建されましたが、寛永18年(1641)に石造に改められました。さらに地震で倒壊した為、天和3年(1683)に
鋳銅製に改められました。1908年8月1日に国の重要文化財に指定されました。

訪問(墓参)され詳しい解説をされているサイトにリンクさせていただきました。


また、下野新聞社が面白いコラムを掲載されていたのでリンクさせていただきました。

今回作成のブログは内容が薄いので重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)
Page 74より徳川家3代将軍(徳川家光)、4代将軍(徳川家綱)、5代将軍(徳川綱吉)の
墓の写真を添付して筆を置きます。いずれも重要文化財に指定されています。




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鎌倉市 覚園寺の2基の石造宝篋印塔(開山塔と大燈塔)

2023年08月17日 07時33分39秒 | 神奈川県情報
2023年8月7日から始まったNHK Eテレ「趣味どきっ! 関東会いに行きたい仏さま」
の第1回の番組で覚園寺の薬師堂の薬師三尊坐像、十二神将及び愛染堂の愛染明王坐像、
不動明王坐像の紹介と解説がありました。
そこで、覚園寺について調べていく中で国の重要文化財となっている宝篋印塔が2基
(開山塔と大燈塔)覚園寺の境内にあることが判りました。
覚園寺の有料ゾーンでは写真撮影禁止ということで、2基の宝篋印塔の写真は
毎日新聞社が監修した重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page72
より引用して紹介します。 

本題に入る前に覚園寺について簡単に概要を整理しておきます。

建保六年(1218)、第2代執権の北条義時により創建された大倉薬師堂は、建長三年(1251)に焼失し弘長三年(1263)ころに復興された。覚園寺と号されたのはこの頃。
本尊薬師如来像(重文)はその復興期のものと考えられているが、両脇侍像をはじめその他の造像は遅れて八代住持悦岩思咲(えつがんししょう)の時である。

鎌倉市 覚園寺の基本情報
住所:鎌倉市二階堂421  TEL:0467-22-1195 
宗派:真言宗泉涌寺派  山号:鷲峰山 院号:真言院 御本尊:薬師如来
開祖:建保6年(1218)、第2代執権の北条義時により創建された大倉薬師堂
開基:永仁4年(1296)北条貞時が造営 
開山:智海 心慧(ちかいしんえ)が真言、律、禅、浄土四宗兼学の寺として開山
重要文化財:薬師如来三尊、十二神将、開山塔、大燈塔、覚園寺文書など
史跡指定:昭和42年(1967)6月22日、覚園寺境内が史跡に指定
史跡指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
公式サイト:
鎌倉 覚園寺 (kamakura894do.com)

覚園寺の所在地のGoo地図を添付しておきます。

 覚園寺は、北条義時の建立した大倉薬師堂の後身で、永仁4年(1296)、北条貞時が造営して覚園寺とした。谷奥には開山塔・大燈塔の2基の法篋印塔[ほうきょういんとう]があり、境内の山の斜面には多種多様なやぐら(鎌倉特有の岩壁をくりぬいてつくった墓、主として鎌倉・室町時代の造営)が群在している。


開山塔(国指定重要文化財)

上の写真は覚園寺を開山した僧、心慧智海(1306年歿)の供養塔(石造宝篋印塔)
心慧没後26年経った正慶元年(1332)に造立された。刻銘より判明。
正慶元年壬申仲冬廿七日の刻銘がある。昭和9年(1934)1月30日に重文に指定

出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page72

写真の背後には三世以降の歴代住職の無縫塔 が写っています。
宝篋印塔内には納置品があります。
関東大震災の折、塔身より阿弥陀経笹塔婆が発見されました。また、昭和41年(1966)
阿弥陀経笹塔婆には正慶元年(1332)十一月円信奥書
塔の解体修理の際、黄釉草葉文壼、基壇より銅五輪塔および褐釉壼が発見されました。
銅五輪塔の卜書:元亨三年(1323)三月十九日光広在銘
これらの納置品も昭和43年(1968)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
下記文章の黄釉草葉文壼は骨壺として使用されたもの。
以下、文化庁のデータベースよりの引用文です。
銅五輪塔の銘文に見える「孝子光廣」は両石塔の刻銘中の「大工光廣」と同一人とみられ、笹塔婆の奥書には開山塔の刻銘と同年同月の紀年がある。また銅五輪塔には南朝、両石塔および笹塔婆には北朝の年号が使われているなど注目される。これらの遺物はわが国中世の墓制を知る上に貴重な資料であるばかりでなく、黄釉草葉文壼は鎌倉時代、古瀬戸の遺品としてまれに見る優品であり、日本陶磁史上特記すべきものである。


上の写真は重要文化財17 建造物Ⅵ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)に
記載の銘文など。塔内の納置品についても記載されています。

大燈塔(国指定重要文化財)

上の写真は覚園寺の二世大燈(歿年不詳)の供養塔(石造宝篋印塔)
心慧没後26年経った正慶元年(1332)に造立されたことが刻銘より判明。
正慶元年(1332)壬申仲冬廿七日の刻銘がある。昭和9年(1934)1月30日に重文に指定

出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page72

昭和41年(1966)塔の解体修理の際、塔身より水晶五輪塔、石室より褐釉双耳壼が発見された。
これらの納置品も昭和43年(1968)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
上の写真は大燈塔の銘文など解説
出典:重要文化財17 建造物Ⅵ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)

宝篋印塔の各部名称


上の図は宝篋印塔の各部の名称です。
出典:神戸の石造遺品 川辺賢武 著 (1971)神戸市史資料室 Page4

宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経を納めておく塔で、インドに
おこり中国を経て平安時代に日本に伝わってきた塔である。
本来は納経のための塔であったが、鎌倉時代頃から、
主として供養塔、墓石として建てられるようにようになった。

境内案内
神奈川県には在住期間が約20年で、鎌倉には何度か訪問していますが覚園寺には
訪問していません。そこで、詳しく境内案内をされているサイトにリンクさせていただきます。


せっかくの機会なので冒頭に書いた覚園寺の薬師三尊と十二神将及び薬師堂の
写真を添付して筆を置きます。

出典:2023年8月7日NHK Eテレ「趣味どきっ! 関東会いに行きたい仏さま」の第1回

上の写真は薬師三尊像 中央薬師如来坐像、右日光菩薩坐像、左月光菩薩坐像
本尊薬師如来座像(重文)はその復興期(弘長三年(1263の頃)のものと
考えられているが、両脇侍像をはじめその他の造像は遅れて八代住持悦岩思咲
(えつがんししょう)の時の作である。
上の写真は12神将のうちの6体
上の写真は覚園寺の本堂にあたる薬師堂の建物外観
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グラッチェガーデンズ 須磨パティオ店でのランチ on 2023-7-27

2023年08月16日 15時28分53秒 | 神戸情報
2023年7月27日、グラッチェガーデンズ  須磨パティオ店でランチをいただきましたので
写真紹介します。
グラッチェガーデンズ はすかいらーくグループの一員です。

グラッチェガーデンズ  須磨パティオ店の基本情報
住所:神戸市須磨区中落合2丁目2-3パティオ3番館  TEL:078-797-6211
料理ジャンル:イタリアン
営業時間:10:00~22:00  




上の2枚の写真は当日注文した2品。魚介類たっぷりのペスカトーレ1,044円(税込)と
単品のピザ(マルゲリータ)659円(税込)これにドリンクバー165円×2(税込)で
総額は2,033円(税込)でした。
奥様とシェアしていただきました。この組み合わせがお気に入りです。


上の写真はペスカトーレが掲載のメニュー表

上の写真はピザ「マルゲリータ」が掲載のメニュー表

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国指定 特別遺跡 63カ所のリスト その2(No.36~No.63)

2023年08月16日 03時36分56秒 | Weblog
国指定 特別遺跡 63カ所のリストを作成してみました。
数が多いので2回に分けて記述していきます。今回はその後半です。前半は下記リンク

特別史跡は史跡の中でも特別重要な史跡で世界遺産、国宝、特別名勝、日本100名城
等にもなっている特別史跡も多数あります。
一度は訪問しておきたい場所のリストでもあります。
Wikipediaでもリストを作成されています。
手元に写真があるものは添付し無いものは公式サイト等、関連サイトにリンクしておきます。
            都道府県 指定日           時代
㊱ 山田寺跡      奈良   昭和27年(1952)3月29日  飛鳥
  指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 

 上の写真は約1370年前の山田寺と周辺の様子推定図
出典:藤原京資料室の大パノラマ模型の中の山田寺付近の部分写真
当時の様子がビジュアルに想像できます。 
 詳細は下記ブログで書いています。

㊲ 本薬師寺跡     奈良   昭和27年(1952)3月29日  飛鳥
  本薬師寺は藤原京(現橿原市)にあった寺院跡です。
    現在奈良市の「薬師寺」の前身寺院です。
  指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 
上の写真は本薬師寺跡の金堂付近の現況と礎石(2016-12-22撮影)

㊳ 平城宮跡      奈良   昭和27年(1952)3月29日  奈良
  世界遺産でもあります。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 
上の写真は平城宮跡の推定復元図  平城宮の説明板より 撮影:2016-10-5
平城宮は約1Km四方の敷地と東側に東西約250m、南北750mの張り出し部を持ち、
その南半分の南北350mの範囲を東院地区と呼んでおり皇太子がいる時はその居所
「東宮」として、いない時は内裏に準ずる天皇の居所「東宮」、「東院」、「東内」
として利用され、神護景雲元年(767)に完成した東院玉殿(瑠璃色の瓦を葺き彩色)
宝亀年間(770~780)には「揚梅宮(やまもものみや)」に改造
高麗福信(*1)が造営卿として造営を担当 





㊴ 文殊院西古墳    奈良   昭和27年(1952)3月29日  古墳
  文殊院の境内にある古墳(円墳)で訪問して写真を撮った記憶がありますが
  写真が見つからないので関連サイトにリンクしておきます。
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 
     

㊵ 巣山古墳      奈良   昭和27年(1952)3月29日  古墳
  巣山古墳は、奈良県北葛城郡広陵町三吉にある古墳 (4-5Cの前方後円墳)
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 

㊶ 石舞台古墳     奈良   昭和27年(1952)3月29日  古墳
  石舞台古墳は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。 
  埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
上の写真は石舞台古墳の現況 方墳であることが確認されています。
何度か訪問していますが写真が出てこないのでこの写真を添付しました。
出典:NHK総合テレビ2020年4月18日19:30より放送 「ブラタモリ#162」
  「奈良・飛鳥~なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?~」

  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 

㊷ 藤原宮跡      奈良   昭和27年(1952)3月29日  飛鳥
  藤原宮跡は奈良県橿原市の藤原京(694~710年)跡の中心史跡 
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 
上の写真は橿原市 藤原京資料室展示の藤原京の模型です。撮影:2016-12-22
 




㊸ 高松塚古墳     奈良   昭和48年(1973)4月26日  古墳
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 
上の写真は高松塚古墳の外観 撮影:2011年5月16日 

上の写真は高松塚古墳壁画の西壁です。
出典:写真撮影禁止だったので展示ガイドのリーフレットよりコピー。
西壁には飛鳥美人として超有名になった女子群像(写真の右手)、真ん中に白虎
左手に男子群像、さらに白虎の上方に月像が配置されています。

㊹ 平城京       奈良   昭和53年(1978)10月27日  奈良
  左京三条二坊宮跡庭園
  宮跡庭園は奈良の主要道路の一つである「大宮通」沿いの、かつての奈良そごうや
  イトーヨーカ堂奈良店、現在のミ・ナーラの向かい正面に位置する遺跡(庭園)です。
  知名度が低く訪問する人も少ないが奈良時代の「庭園」がそのまま残る見応えのある遺構です。 
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 
上の写真は2015年12月20日に訪問した平城京左京三条二坊宮跡

㊺ キトラ古墳     奈良   平成12年(2000)11月24日  古墳
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 
上の写真はキトラ古墳 撮影:2016-10-6



㊻ 岩橋千塚古墳群   和歌山  昭和27年(1952)3月29日  古墳
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 
  かんさい情報ネットten. 2023年7月19日で放送紹介されました。 
  その内容は下にGooで共有させていただいたYoutube動画のとおりです。
【若一調査隊】国内最大級の石室内へ潜入!ここでしか見られない埴輪に遭遇…特別史跡『岩橋千塚古墳群』を徹底調査!


㊼ 斎尾廃寺跡     鳥取   昭和27年(1952)3月29日   奈良
  (大高野官衙遺跡) 
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
文化庁のデータベース解説文
鳥取県の中央部,古代においては伯耆(ほうき)国(のくに)の中央部に位置する八橋(やばせ)郡(ぐん)に所在する。遺跡の西方約350mには白鳳期(はくほうき)の寺院跡で,特別史跡斎(さい)尾(のお)廃寺(はいじ)跡(あと)がある。
調査は,昭和56年まで遡り,礎石(そせき)が列をなしていることが明らかとなり,炭化米が確認されたことから,八橋郡の正倉(しょうそう)あるいは郷倉(ごうそう)と推測された。その後の調査の結果,南北105m,東西130m以上の範囲を,北・東・南を溝によって区画され,西側は自然地形によって区画された長方形に近い敷地内に企画性をもって整然と並ぶ総柱(そうばしら)礎石(そせき)建物(たてもの)11棟,総柱(そうばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)5棟,側柱(がわばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)7棟と掘立柱塀3条を検出した。礎石の中には被熱(ひねつ)痕(こん)を残すものも認められ,須恵器(すえき)や土師器(はじき)などから,Ⅰ期は7世紀末~8世紀中葉,Ⅱ期が8世紀後葉~9世紀前半,Ⅲ期が9世紀後半の変遷をたどったことが知られる。
この遺跡は倉庫令に記されている防湿に適した台地上に立地し,総柱の高床倉庫が建て替えによって踏襲されながらも整然と並んでおり,稲穀収蔵施設である正倉の姿を具体的に示すものである。また,礎石に火災と考えられる被熱痕があることと焼米の存在は,正倉の火災との関係を示唆するものである。このように,確認された遺構は八橋郡郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))の正倉の可能性が高く,古代国家の地方支配の実態を具体的に知る上でも重要である。

㊽ 旧閑谷学校     岡山   昭和29年(1954)3月20日   江戸
  附 椿山・石門・津田永忠宅及び 黄葉亭
  指定基準:四.学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡 
  文化庁データベースの解説文:
  閑谷学校は、岡山藩主池田光政<いけだみつまさ>(1609~82)が、家臣津田永忠<つだながただ>(1640~1707)に命じて創設した藩営の学校で、寛文10年(1670)に備前国和気郡木谷村の地に仮学校を設けたのがその起源である。学校には、藩士の子弟だけでなく、百姓の子弟にも入学を許した。また、学校経営のために近隣の所領が「学田」とされた。元禄年間には、校地を囲む石塀や聖廟・講堂をはじめとする施設の多くが整備された。
 光政と永忠の没後、藩の方針により一時廃校の危機に見舞われたが、その後は順調に発展し、江戸時代後期には、郷学<ごうがく>として全国的に名を知られた。維新後の明治3年(1870)に閉鎖されたが、同6年に有志による私立学校として再興、その後、県立中学校、高等学校となり、県立和気高等学校閑谷校舎として存続したが、昭和39年(1964)に閉校した。
 旧校地は特別史跡、建物は講堂が国宝、その他校内の主要建物は重要文化財に指定されている。旧校地の一部に社会教育施設県青少年教育センター閑谷学校が設立され、その名をとどめている。
 本資料は、江戸時代の閑谷学校で用いられた典籍類を中心として、一部関連の資料を交えた4,041点からなる。典籍類は、学校の文庫(重文)に保管されてきたもので、193種・4,034冊が伝来している。大半は漢籍で、一部和書を交える。明版の『十三経註疏<じゅうさんきょうちゅうそ>』は、開校に際して光政が手沢本の中から下賜したものと伝えられる。和刻の儒書の中には、多く17世紀後半の刊記をもつものが含まれ、草創期の学校整備に併せて購入されたものと思われる。『小学』『蒙求<もうぎゅう>』といった初学者向けの典籍は複数部が伝来し、学校の蔵書としての特徴を示している。また、光政の教学に影響を与えた儒者中村惕斎<てきさい>(之欽<しきん>)の著書の木活字本は類品の少ないものである。
 また、絵画および器物が7点含まれている。文化10年(1813)の学校の景観を描いた「閑谷学図」と、隣接地に設けられた茶室黄葉亭を描き、頼山陽<らいさんよう>の撰した「黄葉亭記」を添えた「黄葉亭図」は、江戸時代後期の閑谷学校の実態を伝える。「習字所扁額<しゅうじしょへんがく>」は、生徒の学習場の建物に掲げられていたものである。
 本資料は、江戸時代の郷学を代表する閑谷学校でその教育に用いられ、大きな散逸なく伝存してきたものであり、校地・校舎とともに保存されてきたことと相まって、わが国教育史上に意義が深い。

㊾ 厳島        広島   昭和27年(1952)11月22日   平安
  世界遺産でもあります。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
       三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
 
日本三景安芸の宮島の最も有名なのは厳島神社であり、そのシンボルの鳥居の
写真を撮りました。 撮影年月日は不明だが2005年?頃か。
神社の創建は推古天皇即位された年(593)とされ仁安3年(1168)平清盛によって現在の
姿に造営された。現在の大鳥居は明治8年(1875)に建てられたもので
平安期からは8代目である。

㊿ 廉塾ならびに菅茶山旧宅 広島 昭和28年(1953)3月31日   江戸
  江戸時代後期の儒学者・菅茶山(1748~1827)が故郷の福山市神辺町に「廉塾」と呼ばれる
  私塾を開きました。1796年(寛政8年)には塾を永続させることを目的に
  塾の建物などを福山藩に献上し,福山藩の郷校としました。
  全国から常時20人ほどの塾生が学び、頼山陽が塾頭を勤めていたこともありました。 
  指定基準:四.学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡
       八.旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類 

51 讃岐国分寺跡    香川   昭和27年(1952)3月29日   奈良
  指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 

52 水城跡       福岡   昭和28年(1953)3月31日   飛鳥
  日本遺産「大宰府」の構成要素でもあります。
  百済の役(660年)敗戦に際し、日本を守るために築かれた城砦です。
  水を貯えた濠と土塁とからなっており、今も長さ1.2kmもの巨大な土塁が存在しています。 
  664年に造成されたとされています。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 

53 大宰府跡      福岡   昭和28年(1953)3月31日   飛鳥
  日本遺産にも指定されています。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 

54 大野城跡      福岡   昭和28年(1953)3月31日   飛鳥
  大野城は、大宰府政庁を守るためのお城であるとともに、大宰府都城の外郭形成の
  一部であったとも考えられています。 665年に築城されました。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
       三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 

55 王塚古墳      福岡   昭和27年(1952)3月29日   古墳
  王塚古墳は日本を代表する装飾古墳です。(装飾古墳は全国で660基、九州地方に集中分布)
  6世紀の古墳で豪華絢爛な装飾が施されています。
上の写真は王塚古墳の装飾
出典:2023年7月26日 NHK総合テレビ「歴史探偵 古墳最前線」
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 

56 基肄(椽)城跡   福岡・佐賀 昭和29年(1954)3月20日  飛鳥
  基肄城(きいじょう)は天智4年(665)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた
  日本最古の本格的な山城で、構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。 
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 

57 名護屋城跡     佐賀   昭和30年(1955)8月22日   戦国
  築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名の割普請により数ヶ月で完成したといわれています。
  「文禄・慶長の役」の拠点として秀吉も1年あまり在陣 した。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 

58 吉野ケ里遺跡    佐賀   平成3年(1991)5月28日    古墳
  説明を要しない位、有名な遺跡で邪馬台国の九州説の場所
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡 


59 金田城跡      長崎   昭和57年(1977)3月23日   飛鳥
  金田城(かなたのき) は、対馬国下県郡の城山にあった日本の古代山城。 
  660年百済滅亡、663年白村江で倭国軍大敗。
  国防の最前線となった対馬に防人が築いた大要塞です。 
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 

60 原の辻遺跡     長崎   平成12年(2000)11月24日     弥生
  原の辻遺跡は、長崎県壱岐市にある弥生時代の環濠集落の遺跡 
  「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡 
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡

61 熊本城跡      熊本   昭和30年(1955)12月29日   江戸
  日本100名城の一つ。
  指定基準:二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡 

62 臼杵摩崖仏     大分   昭和27年(1952)3月29日    平安・鎌倉
         附 日吉塔、嘉応二年在銘五輪塔承安二年在銘五輪塔
      59体が国宝に指定。石仏群は4群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第1群
  (堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられました。
  指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡 
  公式サイト:国宝臼杵石仏 (sekibutsu.com) 

63 西都原古墳群    宮崎   昭和27年(1952)3月29日         古墳
  Wikipediaによれば、現在、高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、
  方墳2基、円墳286基[2]であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が
  12基確認されている。
  指定基準:一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡


時代区分に関して安土桃山時代も戦国時代として区分しています。 


指定基準のリスト
 
(特別史跡には、指定基準「5」及び「9」に対応するものはありません)
貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡
医療・福祉施設、生活関連施設その他社会・生活に関する遺跡
交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
墳墓及び碑
旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類
外国及び外国人に関する遺跡

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終戦の詔の全容 及び玉音放送  78回目の終戦の日に寄せて

2023年08月15日 16時17分53秒 | Weblog
本日(8月15日)は終戦から78年ということで戦争関連のテーマを選びました。
 
昭和20年(1945)8月14日の御前会議で、ポツダム宣言の受諾が決定され、同宣言受諾に
関する詔書が発布されました。鈴木貫太郎内閣の各国務大臣が署名しています。翌15日正午、いわゆる「玉音放送」が行なわれたのち、「内閣告諭」が読み上げられました。
「聖断既に下る」として、国を挙げて「国威を恢弘(かいこう)」する決意を明らかに
するとともに、「内争」・「軽挙妄動」を戒めました。

終戦の詔の全容を纏めてみました。
 終戦の詔は「大東亞戰爭終結ノ詔書」として国立公文書館に原文が掲載されています。

上の2枚の写真は上記国立公文書館より切り貼りして作成した原文です。
 
(注)現代語訳は朝日新聞デジタルより、英語訳はWikisourceより引用させていただきました。 

「大東亞戰爭終結ノ詔書」 
”Imperial Rescript on Surrender”
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告

私は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
 
We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
 
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb,[2] the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives.
Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.
 朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
 
上の文の緑字「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル」
現代語訳:あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。

上の文の青字の部分 「然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所」
現代語訳:しかし、私は時の巡り合わせに従い、

上の文の赤字の部分「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」
現代語訳:堪え難くまた忍び難い思いをこらえ

上記文の太字部分「以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」
現代語訳:永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う


私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっているしかし、私は時の巡り合わせに従い堪え難くまた忍び難い思いをこら永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.
朕ハ玆ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
 
私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。 まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って必ず国のあるべき姿の真価を広く示し進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。
Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the innate glory of the Imperial State and keep place which the progress of the world.
御 名 御 璽 (ぎょめいぎょじ)
内閣總理大臣 男爵 鈴木貫太郞
海軍大臣     米内光政
司法大臣     松阪廣政
陸軍大臣      阿南惟幾
軍需大臣     豐田貞次郞
厚生大臣     岡田忠彦
國務大臣     櫻井兵五郞
國務大臣     左近司政三
國務大臣     下村宏
大藏大臣     廣瀨豐作
文部大臣     太田耕造
農商大臣     石黑忠篤
内務大臣     安倍源基
外務大臣兼
大東亞大臣    東鄕茂德
國務大臣     安井藤治
運輸大臣      小日山直登
天皇陛下署名及び天皇の印
Emperor’s signature and seal
昭和二十年八月十四日
1945.8.14

玉音放送のYoutube動画他
玉音放送の英訳はJewel Voice Broadcast
西日本新聞では玉音放送の原文と現代語訳を掲載されています。(下記リンク)

玉音放送のYoutube動画をGooで共有させていただきます。

宮内庁:玉音放送の原盤を初公表 音声も公開(毎日新聞)
戦後70年に当たり宮内庁は2015年8月1日、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤を初めて公表し、併せて音声を公開した。 玉音放送は、1945年8月15日正午からラジオ放送された昭和天皇による終戦詔書の朗読(約4分30秒)。前日の14日深夜、当時の宮内省内で録音された。昭和天皇はとり直しを希望して2回読み上げ、2種類の原盤が完成した。今回公表されるのは、実際に放送された2回目の録音の原盤。 

玉音放送(原盤音源 ノイズ減少処理)


上の2枚の写真は昭和20年(945)8月15日12時、玉音放送を聞く日本国民
出典:2023年8月7日 22:00 NHK総合テレビ「NHKスペシャル 発見 昭和天皇御進講メモ
知られざる外交戦」宮内省御用掛・松田道一の御進講メモ発見(2022年10月)
 
ポツダム宣言受諾までの経緯 

ポツダム宣言受諾までの経緯について下記ブログで纏めています。

日本に宣戦布告をした国々

第2次世界大戦で日本に宣戦布告をした国々について2023年8月7日 22:00 NHK総合テレビ
「NHKスペシャル 発見 昭和天皇御進講メモ知られざる外交戦」で紹介されていました。
1941年(開戦時)に宣戦布告した国は18カ国に対して1945年(終戦時)は40カ国に
なっていました。完全に外交の失敗を証明する事象であります。
上の写真は1941年(開戦時)に日本に宣戦布告をした国々(18カ国)

上の写真は1945年(終戦時)に日本に宣戦布告をした国々(40カ国)

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サイゼリヤ イオンジェームス山でのランチ on 2023-6-8&2023-8-4

2023年08月15日 07時12分40秒 | 神戸情報
2023年6月8日と8月4日、サイゼリヤ イオンジェームス山でランチを
いただきましたので写真紹介します。

サイゼリヤには奥様があまり好まないので滅多に入店しません。

今迄にサイゼリヤでのランチを紹介したブログは下記リンクのみです。

 
サイゼリヤ イオンジェームス山の基本情報
住所:神戸市垂水区青山台7丁目7−1 イオンジェームス山 2F TEL:078-755-5075
料理ジャンル:イタリアン(パスタ、ピザ、ドリアなど) 営業時間:11:00~21:00 
定休日:不定休  オープン日:2022年8月26日

上の写真は当日、奥様と私が選択した牛100%オニオンソースハンバーグ650円(税込)
小ライスを選択(50円引き)。ランチドリンクバー100円を追加。
2人の合計金額は1,400円(税込)でした。
上の写真は最初に出てくるサラダ
上の写真はランチのメニュー表

8月4日は6月8日と全く同じメニューを注文し、いただきました。
 合計金額2人で1,400円(税込)でした。






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今週の予定 2023年8月14日(月)~2023年8月20日(日)

2023年08月14日 04時25分20秒 | 有用な情報
2023年8月14日(月)~2023年8月20日(日)今週の予定をお送りします。

今週は台風7号の動きが気になります。
まだまだ暑い日が続きます。熱中症にはくれぐれもお気をつけください。

8月12日から16日は日本の七十二候の第38候、寒蝉鳴く(ひぐらしなく)
夜明け前や夕暮れ時時、薄暗く曇った時に、かなかなと響くのはひぐらしの声が聞こえます

8月17日から22日は日本の七十二候の第39候、蒙き霧升降う(ふかききりまとう)
残暑という言葉がしっくりとくる季節です。朝や夕に白く濃い霧が立ち込める場所もあります。
そろそろツクツクボウシの声も聞こえてくる時期でもあります。
 
先週の写真

 まず、先週(’23年8/7~’23年8/13)に撮った写真を何枚か紹介します。

猛暑が続いていますのでできる限り外出を抑えています。
それゆえ、家にひこもってTVを視聴して気になる写真を撮る機会が多くなっています。

上の写真は8月7日に撮影したクマゼミのオス


上の写真はふたば学舎(旧二葉小学校)の花壇 撮影:2023-8-8
ふたば学舎の花壇は令和元年度(2019)長田区市民花壇コンクールで最優秀賞に輝きました。
上の写真は神戸市埋蔵文化財センターの速報展示 垂水日向遺跡 第42・43次 発掘調査
撮影:2023-8-9 ブログを作製しています。

 
上の写真は松代大本営地下壕の写真
出典:2023年8月9日放送の10ch 夕方放送ニュースten 若一調査隊

上の写真は淡路島 南あわじ市で発掘調査された明治32年(1899)に建造のドーム状砲台跡
出典:8月12日(土)7時前 NHK総合テレビ おはよう日本

今週の予定

8月14日(月)
 ・長崎平戸のジャンガラ
 ・長野・新野の盆踊り(~16日)
 ・青森・黒石よそれ(~20日)
 ・台湾の頼清徳副総裁が大統領就任式出席のためパラグアイ訪問

8月15日(火)
 ・終戦記念日
 ・月遅れ盆
 ・長崎精霊流し
 ・全国戦没者追悼式(日本武道館)
 ・パラグアイの新大統領に中道・右派のサンティアゴ・ペニャ元財務相が就任
 ・光復節(韓国)
 ・ラグビーW杯フランス大会の日本代表メンバー発表
 ・中国が生成人口知能(AI)を規制する管理規則を施行
 ・4~6月期GDP速報値(内閣府)
 ・アフガニスタン・タリバンの政権掌握から2年
 ・京都府福知山市の花火大会の露店爆発事故から10年

8月16日(水) 
 ・月遅れ盆送り火
 ・箱根大文字焼
 ・京都五山送り火
 ・秋田 西馬音盆踊り(~18日)
 ・米連邦公開市場委員会(FOMC)の議事要旨公表
 ・公明党の山口那津男代表がフィリピン、インドネシア、ベトナムを歴訪(~23日)
 ・7月の訪日外国人旅行者数(日本政府観光局)

8月17日(木)
 ・ハンドボール パリ五輪女子アジア予選(~23日、広島)
 ・岩手知事選告示
 ・7月貿易統計(財務省)
 ・6月の機械受注統計発表(内閣府)

8月18日(金)
 ・日米韓首脳会談(米国キャンプデービッド)
 ・全国農業協同組合中央会(JA全中)総会(東京)
 ・7月の消費者物価指数発表(総務省) 6月は前年同期比3.3%上昇
 ・サマージャンボ・同ミニ宝くじの抽選(盛岡市)

8月19日(土)
 ・陸上世界選手権(~27日、ブダペスト)パリ五輪代表の内定がかかる
 ・G20財務省・保健相合同会合(インド・ガンディナガル)
 ・G20デジタル・技術相会合(インド・ガンディナガル)
 ・高校生平和大使が反核署名を届けるため国連欧州本部を訪問(~25日、スイス・ジュネーブ)
 ・セイジ・オザワ松本フェスティバル(~9月6日、長野・松本)

8月20日(日)
 ・首都直下地震など大規模災害に備え「首都防災ウィーク」(~9月10日、東京)
 ・サッカー女子W杯決勝(オーストラリア・シドニー)
 ・蛤御門の変(元治元年(1864)7月19日=新暦換算8月20日)から159年

最後に全国の週間天気予報を添付して筆を置きます。
今回は最高気温のデータはありません。代わりに台風7号の進路予想と雨量予想も添付。
出典は8月6日(日)NHK総合テレビ 夜 ニュース7






神戸には15日(火)の昼過ぎから夕方にかけて神戸周辺を直撃するような進路となっています
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神戸三宮・元町周辺の闇市の写真

2023年08月13日 04時49分14秒 | 神戸情報
今年も78回目の終戦(敗戦)の日がやってきました。
日本では終戦は8月15日となっていますが世界では9月2日のミズーリ号上で
テレビでも太平洋戦争関連の番組も多く放映されています。
当ブログではふたば学舎(神戸市長田区)の2階でおこなわれている「神戸終戦記念パネル展」
から神戸三宮周辺の闇市の写真(2023年7月11日と8月8日に撮影)を紹介します。
神戸終戦記念パネル展の写真提供者は神戸アーカイブ写真館です。
添付した写真は特記していないものは全て上記の「神戸終戦記念パネル展」からです。

神戸終戦記念パネル展では副題として「戦災を生き抜いた神戸っ子たち」としています。

上の写真は三宮~元町に出現した日本一長いヤミ市

上の写真は省線三宮駅西口のヤミ市とバラック飲食店街「ジャンジャン市場
この写真は1989年に発刊された「こうべ/市制100周年記念」誌にも掲載されています。
神戸市における最も規模の大きかったヤミ市は「三宮自由市場」と呼ばれた。
昭和20年(1945)9月中旬、省線高架下の食糧立売商人に始まったヤミ市は
1946年初頭にかけて阪急三宮駅から省線元町駅、そして神戸駅に至る約2Kmにわたり、
屋台が約1,500軒が並んだという。

上の写真は日本一長いヤミ市「三宮自由市場」で売られていた釜
食べることがやっとの時代であり食べ物以外では上述のような釜の他に鍋やフライパン等
必需品と言える商品が並んでいた。
最も多かったのは生鮮食料品であったが鍋のような日用雑貨、古着なども販売
されていました。
上の写真は戦後直後に川崎重工が製造したナベとフライパン
出典:「海鳴りやまず 第4部 神戸近代史の主役たち」神戸新聞社編(1979) Page 26

三菱神戸造船所でも鉄カブト利用のナベをはじめ洋服ダンスやゲタ箱、水屋まで作った。
神戸製鋼ではナベの他に農作業用のカマ、ジュラルミン製のトランク、シガレットケース、
進駐軍用の家庭用電気洗濯機などをつくった。
しかし、これらの製造は戦後の6か月そこそこで、造船は食料確保のための小型漁船や
輸送力増強のための船舶修理、戦時標準船の継続などで本来の重工業生産体制となった。
製鉄分野も同じように本来の生産体制となった。

上の写真はヤミ市の取り締まりを行う神戸市警
取り締まりでは禁制品の粛正、露店の禁止などが主な任務であった。
昭和21年(1946)8月1日、内務省の通達により全国主要都市のヤミ市に対して
「八・一」粛正と呼ばれる厳しい一斉取り締まりが行われました。

立ち退きになった業者によって、現在の三宮駅東に通称「国際マーケット」が誕生した。
国際マーケットは雲井通6丁目と旭通4丁目の2か所にあった。
上の写真は三宮国際マーケット(三宮駅の東南にあった)
三宮国際マーケットでは朝鮮人の商人組織が取り仕切り、菓子やゴム靴を売る問屋街
数百軒がひしめいていた。

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