歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

ありがとう! 兼高かおるさん 合掌!

2019年01月10日 | その他

今朝のニュースで知りました。

いまから12年前の記事です。

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先日の深夜、「名曲のアルバム」を見ていて思い出しました。

「兼高かおる世界の旅」です。中学生の頃から、20代前半まで見ていたような記憶があります。

最初のころは「白黒」だった気がしたのですが、調べてみたら、「カラー」で放送されていました。アレ?と思ったら、我が家の受像機が「白黒」だったのです。

遠い昔のテレビ番組と思っていましたが、「1990年」まで放送されていました。放送開始は1959年からです。



放送は日曜日の11時ごろだったと思います。兎に角、夢のような番組でした。「兼高かおる」さん素敵でした。綺麗でした。

それと、彼女が「日本人」として世界を回ると、「何か変?」と思ったりしました。容貌は西洋人ですし、英語はペラペラでしたから、外国の人達は「日本」と云う国は、「ヨーロッパ」の「端っこ」の国と思ったのか? 一度は聞いて見たかったのです。そんなことも思い出しました。


提供が「三井物産」で、後援?協賛?があの今は無き、航空会社「パンアメリカン航空」でした。そう「パンナム」です。垂直尾翼の「あのマーク」鮮明に覚えています。



番組は「パンナム」の「大型ジェット旅客機」が大空を飛んでいるシーンから始まったような気がします。もしかして、FMの「ジェットストリーム」のイメージと重なってしまった?

「世界の旅・三井物産・パンナム・ジェット機」この言葉の響きを聞いただけで、ドキドキしました。手の届かない「遠い夢」「憧れ」・・・・・・そんな時代でした。

見た事も、聞いた事も、行った事もない、遠~い国の「見知らぬ風景」。南の国の「青い空・紺碧の海・白い波・白い雲」・・・・・・。



見知らぬ「ヨーロッパの街角」歴史を刻む、建物、石畳、見るものすべてが、新鮮でした。不思議でした。驚きでした。



夢の海外旅行が現実となり、誰でも手軽に海外旅行に行かれる時代となった、1990年に番組が終了しました。

それで、「誰でもいける時代」なったのですが、私の場合、海外旅行はバブルの時代に「会社持ち」で行った、「香港」と「グァム」の2回しか経験がありません。

少し無理をすれば自腹の「海外旅行」も可能ではありましたが、「少し無理」するほどの「欲求」が生じなかったのです。

今は、私にとって「見知らぬ外国」は「夢と憧れ」のままで、大事に「とって置きたい」・・・・・・そんな気がしています。

私にとって、見知らぬ外国の、見知らぬ街の、夢と憧れナンバー1はスペインの「アルハンブラ宮殿」です。



スペイン、グラナダ、アルハンブラと見ただけ、聞いただけで「あの曲」、あの「幻想的」で、「寂しく」、「もの悲しく」、「やわらか」な・・・・・・ギターの弦を弾く音、そして、夕陽に照らされた「宮殿」の「情景」が目の前に現れてきます。

これって、宮殿」の建築的素晴らしさと、「曲」の素晴らしさですね。そして、宮殿が「スペイン・グラナダ・アルハンブラ」であること、曲が「ギター演奏」であること等、幾つかの重なりが生んだ、奇跡と云ってもいい出会いだと思います。

曲と宮殿はふたつで一つの「芸術」です。


そうだ。「兼高かおる世界の旅」でした。

番組の終了後の翌年。1991年に、アメリカの「自由と繁栄の象徴」、「パンアメリカン航空」が倒産しました。

調べてみると、「パンナム」は番組終了のかなり以前に降りていて、後半は「スカンジナビア航空」の協賛になっていました。知りませんでした。

夢の番組、「兼高かおる世界の旅」の想い出でした。ホントに「かおる」さんは「素敵」でした。「綺麗」でした。


今夜は「アルハンブラ宮殿の想い出」を聞きながら飲みます。

Recuerdos de la Alhambra アルハンブラの思い出


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日本も、私も、未来に夢を描けた、ホントに、ホントに、いい時代でした。

兼高かおるさん、ありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

     合掌

 

 

 

 

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本日69歳に辿りつきました!これからもボーっと生きて!チコちゃんに叱られるかも?

2019年01月05日 | その他

本日は誕生日です。

69歳です。

1950年1月5日に生まれたのです。 

ホントに!ホント!に信じられません!生まれてから69年の時が流れたのです。

昭和に生まれ、平成の世になり、今年で平成が終わりを告げるのです。

最近はテレビなどで、この店は老舗で、創業70年とか、80年とか、90年とか、100年とか言われても、その程度では老舗じゃねぇ!と、画面に向かって独り呟いてしまうのです。

1950年の69年前は、1950-69=1881で、明治14年となります。

何故?そんな事を?と、お思いの方もいらっしゃるでしょうが、69年の変化を、長さを、考えるのに、私としては、この方法がとても良いのです。

明治14年から昭和25年までの間には、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争の勃発、と、69年間の時代の、長さを、変化を、実感するのです。

昭和25年から平成31年の69年間も大きく変化しました。

敗戦、復興、高度経済成長、バブル崩壊、そして、現在の長期低成長で格差社会で、少子高齢化。

1950年(昭和25)の人口は83,199,637人で、1億人を越えたのが1970年(昭和45)で、2010年頃より人口は減り始めたのでした。

話は逸れますが、1970年前後は、いろいろ思い出すのです。いろいろあった時代でしたので、昨日の事のように感じるのです。でも、しかし、何と、半世紀近く前なのでした。

話を戻します。

それで、1950年の特殊出生率は驚きの「4.54」で、現在は何と「1.3~1.4」に落ちているのです。

戦後ベビーブームの世代は、進学でも、就職でも、競争が激しかった!何て解説?を聞いた事がありますが、私としては、まったく意識することはありませんでした。

景気は絶好調で、高校に入学する時期は、新設校ラッシュで都内に公立高校が乱立した時代でした。私も乱立した新設の工業高校に潜り込みました。

木造2階建ての「ハーモニカ長屋(死語?)」の「引き揚げ者住宅(死語?)」で生まれて、普通の能力で、普通に働き、普通の給料で、普通の庭付き一戸建てに住めた時代。

歳をとると、これからより、これまでの方が長いので、昔の事を思い出すのです。

ちなみに、69歳の余命を調べてみたら「15年」でした。80と4・5歳でこの世を去るみたいです。

う~ん、15年は、やっぱり、かなり短いです。

仕事を辞めて15年が経ちましたが、ホントに、ホントに、ホントに、アット!云う間の15年でした。これから先も、アット!云う間。

これから先のアット云う間を、それなりに、密度の濃い時間にしなければ、と、誕生日を迎えて、つらつら思うのです。

う~ん、でも、やっぱり、密度濃くは、かなり、かなり、かなり難しい。

やはり、これまでどおり、ボーっと生きてしまう可能性大。

きっと、チコちゃんに叱られるかも?

 

それでは、また。

 

 

 

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おめでとうございます

2019年01月01日 | その他

    

 

 

 

    2019年もよろしくねェ!

 

 

 

 

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パソコン買い換えでいろいろと大変です!高齢者バージョンは無いのか!

2018年12月10日 | その他

3日の月曜日に、近所のヤマダ電機でPC購入しました。

LENOVOです。

最低限の価格と、最低限の機能で選択しました。約6万円でした。

これまで使用していたのは東芝製で8年前に確か7万円で購入。

3ヶ月ほど前に、PCはディスクドライブの機能が、内部も外付けも検出しなくなったのでした。メーカー修理で3万円位と言われ、まあ、8年使ったので、修理は断念。

すぐに購入も考えたのですが、日常的な使用には、それほど不都合はないこと、そして、一番の要因として、新しいPCを購入すると、いろいろと設定が面倒なので、先延ばしにしていたのです。

歳をとると、ホント、新しいものに拒否反応が起こるのです。設定も面倒ですが、新しくなると、ハードもソフトもいろいろ変えられているので、拒否、拒絶、面倒くせい!となるのです。

それで、ホントに!面倒くさかったのです。

まずは、インターネットの接続ですが、無線LANと言うやつで、ルーターとか言うやつに接続するのに「アクセスキー」とか言うやつを要求されたのです。

「アクセスキー」って、何じゃ!そりゃ?となり、所有者のNTTに問い合わせをしたら「こちらから設定に係員を派遣しましょうか?有料ですけど」と告げられたのです。

その程度のことで設定を依頼する気はありません。設定のやり方を聞きたいだけと告げると、「こちらでは設定方法の説明はできません。技術的な問い合わせはこちらの電話番号におかけ直し下さい」となったのです。

電話番号は一応メモしたのですが、落ち着いて考えると、これはネットの検索が一番手っ取り早いとなり、早速検索、答えは簡単、ルーターの脇に貼ってあるシールに記載されていたのです。

早速、極小文字の暗号キーの、1番から3番までを、老眼鏡をかけてメモし、1番目は最初の設定で使ったか?と思い、2番目の暗号キーを入力すると、インターネットに接続完了。

まあ、そんな、こんな、が、いろいろあって、何とか、かんとか、従来道理に使いこなせている今日この頃。

確かに、8年前に購入したPCより、通信速度は速くなりストレスは、それなりに解消。

それにしても、2018年版の一太郎と言い、Outlookと言い、Internet Explorerと言い、いろいろと表示とかが変わっていて、それなりに戸惑うのです。

おじさんとしては、改善、改良、と言って、いろいろいじくり回さないでくれ!と言いたいのです。年寄り向けの旧バージョン表示を選択できるようにしてほしい!

兎に角、そんな、こんなで、いろいろあって、ブログの更新が遅れているのです。

でも、しかし、更新しなくても、何故か、アクセス数に変化はないのです。嬉しいような、嬉しくないような・・・。

兎に角、今日のところは、これで、おしまい。

 

それでは、また。

 

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⑤ 鴨長明の方丈記は世俗的な欲望に対する裏返しの!逆説の!葛藤の!表れ!

2018年11月27日 | その他

はい、暫くのご無沙汰です。

方丈記、鴨長明をまだやっております。

そして、今回が最終回となります。

それにしても、長明さんは、晩年いろいろと書き記しているようです。

57歳から没年にかけて、和歌関連の『無名抄』、58歳で『方丈記』、60歳には仏教関連の『発心集』を書き記しているのです。そして、62歳で没。

今から800年まえですから、出版社も、印刷会社も、取次会社も、書店も無い時代、自筆で書き記した原本を、友人知人に貸し出して、借りた人が気に入れば、書き写して、ネズミ算的に世に流通する方式?

方丈記の原本は残っていないようで、現在残っているのは写本だそうです。原本は本人の手元に置いて、亡くなったとき、遺体とともにあの世に?

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』

人の世は、儚く、虚しく、移り変わり、消え去り、とどまることは無く、ですから、本人の遺言で、遺品ははすべて、原本も含めて、遺体とともに焼却?、埋葬?、された?

それで、前回にも触れたのですが、鴨長明の、すみか、家、住居、屋敷、大邸宅への拘りについての解釈です。

ここで、大胆にも、ずばり結論を述べると、方丈記は、彼の世俗的な欲望に対する、裏返しの、逆説の、葛藤の表れと解釈します。

『・・・世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』の「すみか」ですが、これは、彼が意識する、しないに関わらず、単なる住居だけではなく、権力を、公職を、表現していたと考えます。

住居、「大きな家」は、おおきな屋根で、「おおやけ」であり、「公」で、天皇、朝廷を、支配権力を意味します。

それと、鴨長明さんが生きた時代ですが、平安の貴族社会が衰退し、戦闘集団の武士へと、権力が移行しつつある時代でした。

鴨長明は貴族として、没落してゆく階級に所属していた方ですから、個人的事情に、社会的な背景が重なり、『・・・世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』で、方丈記へとつながっていったのだと考えます。

18歳で父を亡くした頃より、公職から遠ざかり、自然災害、天変地異、飢餓、疾病の流行を経験し、禰宜後継争いに敗れ、隠遁生活に入り、57歳で、再度、公職へ挑戦して、藤原定家との争い敗れ、方丈記で、4年後62歳で没。

最後の最期まで、公職の地位に執着していたのです。

「公職・地位=大きな家」など、地震や火災でひとたまりもなく、崩壊し消え去ると云いつつ、でも、しかし、手に入れたかったのです。

敷地の広さや、門構え、母家の立派さは、公職の地位によって変化するもの、より大きな家を手に入れると云うことは、より上位の公職を、地位と名誉と富を、手に入れることです。

小さな家に、みすぼらしい家に、住むと云うことは、地位も名誉も富も、まったく無いと云うこと。望みが叶わぬたびに度に、運の悪さを嘆くたびに、

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

を、何度も、何度も、こころの中で呟いていて、こころの平安を保っていたのです。

彼は、心の中で、かなり強く、地位、名誉、富、を欲していたのです。

しかし、それが叶わず、夢幻とし消え去り、死期を迎えて、自らの一生に思いを馳せて、それなりに、価値のある人生だったとして、自分自身を納得させるために、方丈記を記したのです。

心の中で、ひとり呟くだけでなく、書にしたため、それを友人知人に、配り、回覧させ、世俗的欲望の愚かさ、虚しさ、儚さを説いた行為。

あばら家暮らしの、意味を、価値を、世間に知らしめ、書として残した行為に、世俗的欲望への想いが、断ち切れなかったことの現れです。

そして、不運の度に呟いた『ゆく河の流れは絶えずして、・・・又各のごとし』を方丈記の冒頭に記したのです。 

世の中は、常に変化しとどまることは無いのです、しかし、方丈記は800年の歳月を生き抜いて、いまでも、その心情は、美意識は、それなりに共感を得ているのです。 

いつの時代においても、人は、ときおり、立ちどまり、儚さを、虚しさを、運の悪さを、嘆き、呟き、無常観に浸るのです。

方丈記は、それなりに、生きていくためには必要なのかも・・・。

成功者にとって、方丈記は負け犬の遠吠え ?

これで、5回にわたった「鴨長明の方丈記シリーズ」を終わります。

 

それでは、また。

 

 

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④ 方丈記の無常観は「観」ではなく「感」で情緒的で!美意識的で!日本的!

2018年11月17日 | その他

すこし間が空きましたが、前回の続きです。

方丈記です、鴨長明です。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

 光文社古典新訳文庫の「方丈記」640円+税を買い求め読んでいます。

まあ、それほど売れる本ではないと思います。買い求める方々は、やはり、40代から60代迄でしょうか。そうです、わたし、68歳で買い求めました。

70代に入ると、たぶん、もう、無常感どころではなく、命の灯は消える寸前、無常感に浸っている余裕は、もう無いのです。死は身近な現実となるのです。

でも、鴨長明さんは58歳で方丈記を書き記し、その4年後に亡くなっています。当時の日本人の平均寿命(主に貴族)は男性が33歳と云われています。

でも、まあ、乳幼児期を乗り越えた人は、それなりに60歳位までは生きていたようですから、鴨長明さんは当時としては、それなりの寿命。

 ※明治期の画家 菊池容斎 画 Wikipediaより転載・・・しかし、菊池容斎さんも、見た事も無い700年も前の方を、よく描くものです。まあ、それとなく、なんとなく、鴨長明的、方丈記的な雰囲気は感じられます。

死期を迎えつつある年齢にして、方丈記を綴った動機は何だったのか? 

地震とか、竜巻とか、大火とか、疫病とか、飢餓とかを目の当たりにして、

『世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

とあるのです。人は分かるのですが、栖(すみか) 住む家を、同列にする、その発想に、いろいろな思いが、迷いが、込められている、と思います。

家屋敷とは、地位、名誉、権力、富の象徴です。人も権力も無常と云う事です。

人も権力も、無常と、云いつつ、説きつつ、でもしかし、死ぬ間際まで俗世間への欲望を抱き続けていた、そんな方だった気がするのです。

死ぬ5年前に、鎌倉に赴き将軍源実朝の和歌指導役を藤原定家と争い敗れ、翌年、方丈記を書き記し、2年後にこの世を去るのです。

そもそもです。いつの世も、俗世間から隔絶し、あばら家で自由気ままに暮らす方は、それなりに居るのです。

死期を間近にして方丈記を記し、無常「感」を自らと、世間に説いた行為は、それなりの悟りではなく、世俗的欲望への思いを断ち切れない、迷いの現れだと思うのです。

自然災害、天変地異に対して、無常「感」に浸るのは、それなりに、素直で情緒的な反応だと思います。

方丈記の無常「感」は、「観」ではなく、感情的で、情緒的で、美意識的で、日本的な感情であり、仏教の「無常」は、思想的、体系的なものであり、無常「観」なのだと、思うのです。

美意識的には、それなりの価値観として、受け入れやすいのです。

自然災害、天変地異が多く、コメを主食とし、木と藁の住居に住む、東北アジアの住民には、無常感は、それなりに受け入れやすいのかも。

でも、しかし、地震や、台風や、川の氾濫や、火災や、干ばつ等、自然災害、天変地異に立ち向かっての、治山治水、衣食住の確保してきたのが人間の歴史です。

それでも、時として、世の無常感に浸り、我が身の不幸を運の悪さを嘆き、それでも、翌日には、生きるため、食うために、無常感から抜け出して、世俗的な欲望の中に身を置いて、それなりの充足感に浸るのが、それなりのフツウの人。

年がら年中、無常感に浸っていては、フツウの人は、生きては、食べては、行けないのです。

それにしても、鴨長明は生活の糧はどうしていたの? 妻や子供は? 居たの? 棄てたの?

それにしても、この菊池容斎さんが描いた鴨長明、坊主頭に無精ひげ、 どこか私に似ているのです。

もう少し、鴨長明、方丈記に思い馳せてみたいと思います。

 

それでは、また。 

 

 

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③ 方丈記 俗世間の地位と名誉の争いに敗れ! 辿り着いた方丈の暮らし!

2018年11月06日 | その他

前回の続きです。

鴨長明さんのお話しです。

「カモノチョウメイさん」の俗名は、訓読みで「ナガアキさん」のようです。昔から偉くなると、名前を音読みする傾向があったのです。

私の名前は、生まれた時からずっと、偉くもないのに音読みです。

まあ、そんな事はどうでもよいのです。

それで、鴨長明さんですが、この方は、

1155年 下賀茂神社の禰宜の次男として生まれ

1161年 7歳 「従五位下」を授け

1172年 18歳 父が亡くなり

1177年 23歳で大火に遭遇

1180年 26歳の時に竜巻に遭遇

1181年 27歳の飢饉に遭遇

1184年 30歳で家族と離れ河の淵で一人暮らし

1185年 31歳で大地震に遭遇

1201年 47歳 後鳥羽天皇の抜擢により和歌所の選者になる 

1204年 50歳 河合社の禰宜後継争いに敗れ、和歌所も辞め出家

1205年 51歳 新古今和歌集に十首入集

1208年 54歳 京都郊外日野の山中へ移り方丈の庵で暮らす

1211年 57歳 鎌倉に赴き将軍源実朝の和歌指導役を藤原定家と争い敗れる

1212年 58歳 方丈記出筆

1216年 62歳 没

と云う一生を歩んでこられた方なのでした。

下賀茂神社の禰宜の次男として生まれたのです。禰宜は神主より下のようですが、それなりの地位なのです。

それなり、と、云っても、一般庶民からは、遠く、遠く、かけ離れた、7歳にして 「従五位下」を授けた、大きな屋敷に住む支配階級に属するお方でした。

そして、しかし、1172年、18歳の時に父を亡くし、後ろ盾を失い、中心に位置していた人が、少し端っこに追いやられ、不運の幕開け、方丈記につながる第一歩となります。 

それからは、官職から遠ざかり、和歌を詠み、琵琶を奏で唄い、自由人として暮らしをしているのです。その間、歌人として、それなりの地位にあったようです。

その頃に、大火に、竜巻に、飢餓に、大地震に遭遇して、人間の、そして、住居の虚しさ、儚さを、感じるのです。

それでも、世の中の端っこから、中心に戻りたい気持ちは消えていなかったのです。そして、1201年47歳の時に、後鳥羽天皇の抜擢により、宮中の和歌所の選者になるのでした。 

ところが、ところが、3年後の1204年50歳の時に、下賀茂神社の関連神社、河合社(ただすのやしろ)の禰宜後継争いに敗れ、和歌所も辞め出家してしまうのです。

彼は、河合社の禰宜に、相当な思い入れがあり、後継争いに敗れたショックは大きかったようです。

それにしても、です。神社に生まれた方が、出家して仏門に入ってしまうの?

まあ、隠遁生活で、神道はあまり聞いたことがありませんから、神道と隠遁は結びつかない? 

神道だとしたら、山伏となって、野原を、野山を、駆け巡る、そんな活発なイメージとなり、かなり、かなり、隠遁的、内省的、そして、虚しさ、儚さ、とは、遠ざかることになる?

兎に角、54歳から、本格的に世間とは離れ京都郊外で、折り畳式で移動可能な、方丈での暮らしを始めるのです。

※光文社古典新訳文庫「方丈記 鴨長明 蜂飼耳 訳」より引用。

歌を詠み、琵琶を奏で唄い、また経典を読み、村の少年と野山を歩く生活に入り、俗世間から隔絶した暮らしをはじめるのです。

でも、しかし、1211年57歳、隠遁生活たった3年で、俗世間の官職を目指し鎌倉に赴き、将軍源実朝の和歌指導役を、藤原定家と争い敗れるのです。

彼としては、18歳で父を失い、50歳で河合社の禰宜後継争いに敗れ、57歳で定家との争いに敗れ、つくづく運の悪さを嘆くのです。

そして、そして、57歳にして「方丈記」に辿り着き、書き終わって4年後にこの世を去るのでした。

まさに、彼にとっては、大邸宅から、掘立小屋への、貴族から乞食同然の、急降下の、敗北の、不運の、人生なのでした。

鴨長明、方丈記は、薄っすらとは知っていましたが、今回、それなりに、勉強になりました。

本日はこのあたりで終わりますが、もう少し方丈記に思いを巡らしたいと思います。

それでは、また次回。

 

 

 

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② 方丈記の"方丈"は3m四方のあばら家で鴨長明の家への想いと無常感

2018年11月01日 | その他

前回の続きです。

方丈記のお話しです。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』

前回、この冒頭が内容の全てと断言?しました。全てが凝縮しているのです。

いわゆる、無常観です。この世の物や現象はとどまることなく生滅して、常に移り変わっている。「常にそのままで無い」と云う事です。

河の流れは、まあ、フツウは絶えることはなく、上流から下流に流れ、同じ水が同じところに止まっている、何て、考える人はいません。

人の一生なんてものは、河の流れに浮かぶ泡のようなもので、すぐに現れ、すぐに消え、留まることはない、何て、考えるのは、それなりに、まあ、フツウのことだと思っています。

まあ、この無常観は、別に、鴨長明の発見、発明でもありません。インド発祥の仏教によって日本に伝わったものです。

まあ、人の世の儚さを、水の流れに例えた、その表現が、言葉の響きが、人の心の内にじんわり染み込むのです。歌人としての鴨長明の腕の見せ所。

鴨長明のセンスの良さで、日本的な美意識とピッタンコと嵌って、平安の世から現在まで、時代を越えて、それなりに、一定の層に受け入れられているのです。

儚さとか、虚しさとか、侘しさとか、ものの哀れとか、そんな思いに時より浸るのは、それなりに酒の肴にはもってこいなのです。四六時中浸るものではありません。

まあ、インド仏教の方は「無常観」で、日本の方は、美意識的で、感覚的な「無常感」と記すのが正しいとの意見もあるようです。確かに、ごもっともな説。

それで、"人と栖(すみか)と、又各のごとし" この言葉です。何で、ここで、人と住家が同列に並んでいるの? 人の無常はわかりますが、住家の無常はわかりません。

考えてみれば、タイトルが方丈記"なのです。 方丈とは本来、僧侶が寝起きし生活する"粗末な家のことです。でも、まあ、いつの頃からか、粗末が忘れ去られ、豪華絢爛でも、僧侶の住まいを方丈と呼ぶようになりました。

ちなみに、こちらは、鎌倉は円覚寺の方丈。

でも、しかし、現在ここで僧侶が寝起きしているわけではありません。粗末から豪華への変遷の過程で、使用方法も変化した結果です。

円覚寺には、こんな注記が掲げられています。 

それで、鴨長明さんのころの修行僧は、まだ方丈の名にふさわしい住まいに暮らしていたようです。方丈とは、一丈(約3m)四方、現在の四畳半程度の広さになります。

こういう、 慎ましいと云うか、粗末と云うか、みすぼらしいと云うか、簡素と云うか、そんな住いで暮らしつつ、この世の無常を綴ったので、タイトルを方丈記としたのです。

それで、"世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし"なのです。世の中の人は理解できのですが、住いも儚く無常とあるのです。

鴨長明さんは、相当というか、かなりと云うか、とても、とても、住まいに拘りがあったようです。

これは、きっと、きっと、その生い立ちが関係しているのでは?と、推測します。

それで、この続きは次回とします。

 

それでは、また。

 

 

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① 方丈記は400字詰め原稿用紙でたったの二十数枚だった ! 知らなかった !

2018年10月29日 | その他

鴨長明です。

方丈記です。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

この冒頭は、あまりにも有名で、わたくしとて、それなりに、耳にし、目にし、こころの片隅に、薄っすらと刻まれているのです。

薄っすらですから、この後は、まったくもって知らないのです。方丈記は高校の授業で、古文?か日本史?で、ほんの少しだけ触れたのかも。

鴨長明さんは、何となく、平安時代の物書きとしか記憶がありません。

それで、最近、新聞で、ちらっと眼にして気になってアマゾンで購入(640円)しました。

光文社古典新訳文庫で2018年月20日初版第一刷り、訳者は蜂飼耳(はちかいみみ)さんです。女性で、詩を書いたり、小説を書いたり、エッセイを書いたり、翻訳をしたり、絵本書いたり、する方で、それなりに名前の知られた方のようです。現在、早稲田大学文化構想学部教授で44歳の方です。

それにしても、です。苗字が「蜂飼」で名前が「耳」とは、これって、どちらも、とても、とても、珍しいです。本名なの?

それで、方丈記での中身ですが、ざっと読んだところ、冒頭の『ゆく河の流れは絶えずしてもとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ・・・・・・』

が、すべてなのです。

あとは、作者がそこへ辿り着いた経緯が述べられているのです。ですから、冒頭部分を知っていれば、その意味に、その思いに、各自が、これまでの人生、これからの人生に思いを巡らし、思いを馳せれば良いのでした。

簡単明瞭、必要にして充分なお話しなのでした。

原典は、400字詰め原稿用紙にして二十数枚程度で、この本でも23ページしかありません。それで、前書き、新訳、エッセイ、解説、年譜、図版、あとがきを付け足して、152ページの構成となっています。厚さ5mmですぐ読めるのです。

5mmで640円ですから、1mm128円で、1ページ当たり4円21銭となります。←何を云っているのか!、身も蓋もない!

 本日は、週初め、中身に対して、思いを巡らしたり、思いを馳せたりするのは次回とします。

 

それでは、また。

 

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ロバアート・キャパで記録更新で何だか分からないけど拍手!

2018年08月02日 | その他

昨日の訪問者が、なんと、なんと、2,301人でした。

これは、新記録です、やはり、それなりに、嬉しいのです。

こういう訪問者の多いい時は、ある記事に集中してアクセスがあった時なのです。

今回は、総閲覧数が4,511ページで、その内で2,236ページがロバート・キャパの記事でした。

キャパの記事は4年前に書いたものですが、それなりに書き散らした中で、それなりに納得の出来栄えと自画自賛の、ひとつなのでした。

これまでも、毎日、毎日、十数ページの閲覧のある記事でしたが、一日で、2千と、3百と、1人に見ていただいて、ヨカッタ、ヨカッタ、なのです。

何か事件があったり、テレビ、ラジオで関連の話題が採り上げられたりすると、アクセスが集中するのです。

これまでの最高アクセスは、原節子さんが亡くなった時で、その前が、女優の羽田美智子さんが入籍発表した時でした。

それでも、どちらも、千数百程度だったと記憶しています。

兎に角、今回の訪問者の記録更新は、それなりに、大したモノなのです。

それにしても、今回、何で、キャパの記事にアクセスが集中したの?

まあ、何だか、分からないけど・・・・・・・。 

兎に角、それでは、ひとりで、

拍手! パチ! パチ! パチ! パチ! パチ!で、お終い!

 

それでは、また。

 

 

 

 

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