歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

関東大震災は怖かった!?

2008年04月25日 | 建物の話し
昨日の続きです。

外に出ました、改めてこれが新館の建物です。三部屋あり、それにトイレで、各部屋の広さは10畳ほどだったと思います。

ホントにお寺か神社の佇まい。朝鮮半島に調査に行った際、あちらの建物の様式が気に入り、取り入れたそうです。そう云われて見ると、そんな雰囲気があります。


この写真は、我孫子見学の終盤に撮ったものです。画面中央の林の中に建っています。大通りとの間は未だ空き地になっています。


この空き地にもそのうち建物が建ってしまうことでしょう。手賀沼の湖畔に建っていた別荘は、町中の裏通りの別荘になってしまいます。

知らない人が通りがかりにこの建物を見れば、間違いなくお寺か神社と思う筈。


昭和2~3年にかけて(正確な記録がない?)建てられたようで、大正12年の関東大震災の経験から、建物の基礎部分は鉄筋コンクリートにしたそうです。

堅固さんは、震災で恐ろしい惨状を目の当たりにしたか、自らもかなりの恐怖を体験をしたのかも知れません。

寝室を母屋ではなく、強固な基礎の上に立てられた新館にしたのも、恐怖の記憶に依るものかも知れません。

基礎部分は床下倉庫になっています。

“展望室”のガラス窓は出窓になっていたのです。腰掛けの下は何も無いのです。強度的にはかなり弱いです。


鋳造品の金具で補強して有りますが不安な構造です。展望室の出窓構造は基礎が出来上がってからの設計変更でしょうか。


出窓部分もしっかりとしたコンクリートの基礎の上に造ってほしかったです。


これを見てからですと、出窓に巡らす腰掛けに安心して座り、のんびり酒も呑めなくなります。


これで、新館部分が終わったのですが、未だ母屋があるのです。ガイドの方の親切丁寧な説明を受け、村川さんの別荘見学はまだ続きます。

それでは、また明日。



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「白樺」と「柳」に“嘉納治五郎”

2008年04月24日 | 建物の話し
昨日の続きです。

外に出る前に、この軸の説明がありました。これをみても何が何だか読めません。堅固の奥さん遠縁に当たる「中島廣足」(1792年~1864年)の書だそうです。


堅固さんは熊本出身、廣足さんは郷土の国学者です。堅固さんは座右の銘としていたそうです。

それで、書かれている内容なんですが、脇に現代語訳がありまして、


みんなが寝る頃になって、机に向かい勉学に励む訳です。この頃は、西洋に追いつけ追い越せで、エリート達は寝る間も惜しんで勉強していたのです。

堅固さんの書です。“克己”とあります。「こっき」と読むそうです。おのれにかつこと。意志の力で、自分の衝動・欲望・感情などをおさえることだそうです。     
   

私は、衝動、欲望、感情の赴くままに生きています。

堅固さんの肖像画です。明治生まれの男は髭を蓄えるのです。私は昭和生まれですが髭を蓄えています。

   

堅固が熊本出身と云う事で、この我孫子に別荘を建てたようです。熊本が何故、我孫子かと云うと、堅固は熊本の第五高等学校の出身で、当時の校長が「嘉納治五郎」だったのです。

あの講道館の嘉納治五郎です。治五郎さんが、我孫子に別荘を建てたので、堅固も誘われ、白樺派も誘われたのです。

白樺派と嘉納治五郎に繋がりがあるとは知りませんでした。

我孫子と白樺派の繋がりは治五郎さんだったのです。白樺派の柳宗悦の義母は治五郎の姉だそうです。

治五郎さんは講道館を創った“柔道一直線”の柔道家としてしか知りませでした。文武両道の教育者だったのです。

この別荘に来なければ、わたくし一生、嘉納治五郎を単なる柔道家と思い込み続けていたでしょう。

まぁ、それで特に問題が起きる訳では有りませんが、それでも、これまでの認識が書き換えられることは、これまた楽しいことです。

それと、治五郎さんの実家は“灘の生一本”で有名な酒造業を中心とする、嘉納財閥に連なる人だったのでした。菊正宗酒造”も、“白鶴酒造”も嘉納一族の会社なのでした。知りませんでした。

進学校で有名な“灘高”は、嘉納財閥が創設した学校だったのです。創設の中心になったのが治五郎さんだったのです。知りませんでした。

それで、調べ序でに「第五高等学校」を調べてみると、熊本大学のホームページに“旧制第五高等学校”のページがあり、

著名教授として、嘉納治五郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーンの名前がありました。

それと、著名な卒業生には、寺田寅彦、大川周明、宇野哲人(知りません)、大内兵衛、池田勇、木下順二、梅崎春生(知りません)、佐藤栄作、とありました。

村川堅固の名前は残念ながら有りませんでした。  


今日は、新館の外回りの話を予定していたのですが、話の方向が少しだけずれてしまいました。

それでも、いろいろと調べ、いろいろと新しい発見があり、私としては、それなりに楽しかったです。

明日は、間違いなく新館の外回りです。


それでは、また明日。



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旧村川別荘で大正、昭和を語る?騙る?

2008年04月23日 | 建物の話し
昨日の続きです。

手の挟まるドアを開けると、2面に窓を大きく切った“パノラマ展望部屋”です。当時は、ここから手賀沼を一望できたようです。

今では、住宅、マンション、家電量販店等の広告塔が建ち並び、パノラマ展望を遮っています。


この部屋で、友人、知人、家族等と供に、眼下に広がる手賀沼の風景を眺めながら、楽しく語らい、お茶を飲み、酒を酌み交わし、食事をしたのでしょう。

時は、大正から昭和初期、ゆっくりとした時間が流れていた筈です。当時のインテリ層は豊かだったようです。

ガイドの方の話では、村川教授は雑司ヶ谷に自宅を構え、箱根方面にもう一軒別荘を所有していたそうです。当時の帝大教授は相当な収入があったようです。


窓際に巡らした腰掛けに座り、「いいなぁー、こんな処で、一杯やりなから、ぼんやり景色を眺める・・・・・・ふーん、堪らないなぁー」と云うと、

「私も、見学者が来ない時にはここで本を読んでいます」とガイドさん。真面目な方なのです。

私としては、ここはやっぱり、楽しく酒を飲む方に行ってしまうのです。この場所は教育委員会が管理しており、会議室として一般に開放しているそうです。

「みんなで我孫子の歴史を語る会」・・・何て騙って、勉強会と偽り、宴会何てやって見たい・・・・・・そんな妄想が頭を過ぎりました。

【窓を開けずに雨戸が閉められるとの説明中】

このガイドの方ですが、温厚で、優しく、穏やかで、親切で、丁寧な方でした。ボランティアの見本のような方でした。

このガラスを見て下さい。シワの様な歪み。


こちらには“えくぼ”があります。


このガラスは、たぶん建物が造られた当時のままだと思います。と云うことは“80年前?”の板ガラスかも知れません。

平面度が悪く波打ったガラスは見たことがありますが、この様なガラスは始めてみました。波打ちガラス以前の製法かも知れません。

こちらの天井の“シミ”に時代を感じます。


展望部屋の奥にある部屋です。寝室として使われベットが置かれていたそうです。青漆喰の壁がなかなかモダンです。こちらは引き戸になっています。


こちらも会議室として使用しているため、エアコンが取り付けられていたり、ポットや湯飲みが置かれていたり、折りたたみ式のテーブルや椅子が置かれていたり、現代の日常が入り込んでいます。

会議室としての使用頻度はそれほど無い様な気がするのです。もったいない使い方と云うか、残念と云うか、もう少し何とか・・・・・・と云うか、昔の匂いをそのまま感じる施設であって欲しいような気がします。

わざわざ、ここで会議室をする事もないと思うのです。全室、大正、昭和の色で染めて欲しいのです。

そして、季節が変わる毎に、静かに、和やかに、大正、昭和を語る“おとなの宴会”・・・何てものを、催したら如何なモノかと思う次第です。

こちらは“厠(かわや)”の前にある“手水場(ちょうずば)”の電灯です。昭和のロマンが“匂い”ます。

但し、トイレの方は水洗になっておりますから“臭い”ません。


つぎは、建物の外回りを拝見します。


それでは、また明日。

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バーナード・リーチ様 これって椅子?腰掛け?

2008年04月22日 | 建物の話し
昨日の続きです。

それでは、いよいよ内部の見学です。変わった屋根の新館から覗くことにしました。

室内に入って先ず眼に付くのはこの写真です。左側が“堅固さん”で、右側が息子の“堅太郎さん”です。

親子2代、東大教授をしていたのです。息子の堅太郎さんですが、この顔、誰かに似ている気がします。こんな顔の役者を見た覚えがあります。

堅太郎さんはホントに“先生顔”をしています。


玄関から入った直ぐの、この部屋に写真が立てかけてありました。部屋に入った第一印象は、アレ?築後80年ってこんな感じ?


何か新しいのです。床、壁、天井、ドア、どれもが歳月を経た変化を感じさせないのです。

“これで? 80年ねぇ~? ふぅ~ん? だったのです”

床の「寄せ木斜め張り」とか、照明器具とか、ドアとか、それなりに“最近風”のデザインのせいなのか。


それと、各材料の表面状態なのですが、それほどの経年変化を感じさせないのです。特にドアですが、数年前に取り付けた様に見えます。


そんな思いで部屋を眺めていると“何処からともなく”60代後半の男性が現れました。

「今日は!ご案内致しますよ」と、笑顔で話かけてきました。ボランテイアガイドの方です。

「どちらからですか?はじめてですか?」と聞かれ、つくば方面からと答えると、アンケート用紙を渡されました。

住所と、氏名と、見学回数を、嘘偽り無く、正直に記入しました。記入した用紙を手渡すと、変わりにガイドパンフをくれました。

先ずは、第一印象の“古くない感じ”に関連した質問をしました。

「全体に古さを感じないのですが、特にあのドアは、かなり新しい様に見えますが、あれも建築当時のままですか?」

「はい。そうです」

私はドアに近づき、眼で眺め回し、手で撫で回しながら、「これって、材質は“ラワン”ですよねェ」と、ラワンの処を強調して云うと、

「ラワンは当時、高級な素材だったのです。それにこの模様は手で彫ったもので・・・」と云いながら、隣の部屋に置いてあったバックの処に行き、手帳を取りだし戻ってきました。

手帳を身ながら「このドアの彫刻は“○○○彫り”と云うそうです」と、丁寧に教えてくれたのですが、残念ながら“何彫り”だったか忘れてしまいました。

説明を聞きながらドアノブを持ってドアを閉めると、手が柱とドアの間に挟まれてしまうのです。

このドアは、指先だけでドアノブを持ち、閉め終わる際には相当な注意が必要です。

たぶん、襖や障子の“引き戸方式”の建築経験しか無い、そんな大工さんの仕事と思われます。やはりここら辺に築80年を感じました。


玄関を入った直ぐ脇にある“腰掛け”です。あの“バーナード・リーチ”のデザインと云われているそうです。陶芸だけではないのです。


ガイドパンフには“椅子”とありますが、これは明らかに「腰掛け」であって、「椅子」ではないと思います。

椅子は、全体重を預け“ゆったり”と“くつろぐ”ものです。この背もたれに体重を預けると、そのまま後方に転倒しそうです。

造りも華奢で、安定感に欠け、かなり座り難い感じがします。これは、ほんの一時“腰だけを休める”為だけの、“腰掛”けだと思うのです。

ふつうの民衆の、ふつう生活の中で使われる、ふつうの職人の造った、ふつうの道具類に、それなりの価値を見いだしていった白樺派としては、何か変な気がするのです。

デザイン優先で実用無視。これでは、単に芸術品を造る目的で、椅子の様に見えるオブジェを造ったと、見える、思える、そんな気がする・・・・・・、のです。

やっと、白樺派が登場しました。建物の見学は、これから沢山見る処があります。


それでは、また明日。


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“村川堅固”の別荘は屋根が“堅固”

2008年04月21日 | 建物の話し
先週の続きです。

お寺のような、神社のような“子の神大黒天”の階段を下り、自転車を置いた所に戻りました。

途中で60代の男性とすれ違ったのですが、かなり辛そうな表情でした、休み休み、ゆっくりとした足取りで登って行きました。


足腰に御利益があるのでお詣りに来たのでしょうか、それにしても、参拝の度にこの階段を何度も登り下りしていると、結果として、足腰は間違いなく強化されます。

さて次は?と、ペットポドルのお茶を一口飲んで、自転車に跨ったがり数㍍行った処で、道端の足元に案内板を発見。


700㍍行くと“志賀直哉邸跡”、950㍍行くと“杉村楚人冠碑”とあります。直哉は知っていますが、「楚人冠」と云う方は、いったいどんな人何のでしょうか?

先ずは700㍍先の“直哉邸跡”を目指しペダルを漕いだ途端、何やら“見学施設らしき建物”が、丘の中腹に見えたのです。


少し戻って、入り口に架かった案内板を見ると“旧村川別荘公開中”とあり、“入場料金”には触れていないので“無料”のようです。


“旧東京帝国大学教授”の“村川さんの別荘”だったようです。現在は市の施設になっているようです。


それで、これを読んでいたらて「・・・景勝地と知られた子の神(現延寿院)境内に隣接して・・・」とあるのです。

これからすると、子の神大黒天は“古い名称”で、現在の名称は“延寿院”と云うことになります。となりの何処にも延寿院の文字は有りませんでした。

ますます判らなくなった“子の神大黒天”? いや。“延寿院”?です。
     

兎に角、村川さんの別荘を拝見する事にします。建物は二軒あり、こちらが“元我孫子宿本陣離れ”を解体移築した母屋です。


大正10年(1921年)の移築です。新しい建物を移築する事はあまり有りませんから、建物は明治時代のものかも知れません。

最初に“本陣離れ”との記述からのイメージと、現物の母屋とはかなり落差があります。“本陣”の建物ではなく、あくまでも本陣の“離れ”なのです。

見た目は、ふつうで、何処にでもありそうな、古い木造平屋建ての、田舎の民家と云った感じです。

こちらが新館です。見た目は、“ふつう”ではなく、かなり変わっています。


先ず眼に付くのが“屋根”です。かなり大げさな屋根です。入母屋造りで銅板張りです。

屋根の造りは、どう見ても“神社仏閣”です。かなり“冗談好き”な方と思ったのですが、職業が帝大の教授で、名前が“堅固”ですから、かなり本気で建てたのかも知れません。

それでは、内部の見学です。

ボランティアのガイドさんが居て説明してくれるそうです。

さぁ、どんな方が?、どんなガイドを? してくれるのか、楽しみです。


それでは、また明日。


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“水海道商人博物館”と“銀行建築”は何処へ?

2008年02月13日 | 建物の話し
昨日の続きです。

諏訪神社の前を通る「宝町大通り」を歩き駅前に向かいます。

これが、「宝町大通り」ですから・・・・・・。


「宝」と「大」の字が寂しそうです。


寂しく、そして寒い「大通り」を歩いていると、銀行らしき建物が見えてきました。


何処から見ても「銀行」だった建物です。庇の下に、金属製看板文字の取り付け跡が残り、“東 陽 銀 行”と読みとれます。


傍らに「高札」が立ち、「銀行建築」とあります。


1923年(大正12年)建築と記されていますから、今から84年前の建物です。



大理石造りとありますが、一見「煉瓦造り風」であり、ただ「素焼きの赤煉瓦」とは異なる「色」と「質感」があります。

たぶんこれは、「煉瓦風」の「タイル」を張ったのでしょう。この「煉瓦風タイル張り」何処かで見たような気がするのですが思い出せません。


この「庇」を支える「金具」が赤錆びていて、なかなか「時代」があり「わび・さび」があります。


正面の「太い角柱」が、銀行への揺るぎない「信頼感」を演出します。


ところが、この銀行、大正、昭和、平成と、時代の波をかぶり、かなり「揺らいで」ここに辿り着いたのです。

   1923年(大正12年)報徳銀行の水海道支店として設立

   1924年 合併で東明銀行

   1929年(昭和4年)昭和恐慌で破産。町営へ

   1935年 茨城農工銀行に吸収

   19??年 日本勧業銀行に吸収

   1951年 下妻無尽

   1952年 下妻無尽が東陽相互銀行へ

   1988年(平成元年)つくば銀行に吸収

   2003年 合併で関東つくば銀行

   2004年 移転 

昭和恐慌、第二次大戦、敗戦、高度成長、バブル崩壊、平成の金融危機、80有余年、いろいろと揺らいできました。看板を「8回」も塗り替えてきたのです。

やっとここにきて落ち着いたのです。空き家になって4年の月日が流れています。このまま、佇んでいるだけではもったいない気がします。

町の中心部に位置しているので、内部を開放して「街角歴史資料館」にでもと、思うのですが、いろいろと問題が“有りそう”なのです。

先ほどの「銀行建築」と書かれた「高札」の上に“水海道商人博物館”とあります。


それで、この何やら企ての匂いのする「商人博物館」をネットで検索すると、「常陽新聞」に計画段階を報じた記事を発見しました。

『2003年6月14日
 現在、市内に残る蔵や屋敷跡を使用し、同市の商業の歴史を紹介する「商人博物館」運営事業、チャレンジショップ推進事業など二十六案が計画されている』

現在の活動状況を伝える記事、運営事業のサイトも有りません。2003年に計画され、その後、何年かは実行に移され、そして5年後の現在“水海道商人博物館”の運営事業は消えてしまったように思われます。

その他にも、「千姫の町」として売り出す計画も、それなりに実行されたのですが、それも「この3月」で消えようとしていたのです。

消えて行く話はこれから触れて行く予定ですが、当日、歩いた順路に従い書いていこうと思います。

“日本初の絵画の道”とか、“21世紀の夢見台”とか、“千姫なごみ館”とか、その他に、神社仏閣の話も取り揃えました。

これから、まだまだ水海道は面白いのです。


それでは、また明日。


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「取手宿本陣」歌に込めた斉昭の思い!?

2007年11月28日 | 建物の話し
昨日の続きです。

母屋を出て、庭の脇を通り、階段を登った先にある、水戸藩九代目の藩主「徳川斉昭」の詠んだ「歌碑」を見に行きました。

歌は、天保11年(1840年)の1月、水戸に向かう斉昭が利根川を渡る船の中で詠んだそうです。

一泊した翌日、和歌2首を上段の間の袋戸に貼り付けて出立しました。貼り付けられた2首の和歌は、軸装されて家宝として染野家に伝わっています。

取手川のところは読めますが、後はほとんど読めません。

このうちの1首は,天保14年(1843)5月に、水戸藩より石に刻まれ染野家に贈られています。

  『指して行く さほのとりての 渡し舟

           おもふかたへは とくつきにけり』

わざわざ、歌碑まで造った思いは何か?

染野家に対する配慮ではなく、これには斉昭の「歌に対する」強い思い入れがあった様に思うのです。

石に刻んでまで、後世に残したかった思いが、この歌に込められていると思うのです。


それで、歌碑の脇に立てられている「案内板」を見たのですが、歌の経緯はあるのですが、歌の解釈は書かれていません。


そこで、大胆にも! ど素人の! このわたくしが! 歴史的背景を探り! 歌に込められた斉昭の「思い」を! 解釈する! 暴挙に出る! 決意を固めました!


斉昭が生きた時代は「幕末」であり、家康以来の幕藩体制に制度疲労が生じ、政治経済が行き詰まっていた状況で、海外からは開国を迫られていました。

所謂、「内憂外患」の時代で、その解決方針をめぐって、改革派と守旧派が対立していました。

斉昭は「尊皇」であり、「攘夷派」です。しかし、西洋の科学技術の導入には積極的でした。蘭学者に造船技術書の翻訳をさせたり、間宮林蔵に「蝦夷地」の状況を訊ねています。

歌を詠んだ天保11年ですが、前年に斉昭は幕府に対して、外洋航海可能な「大船解禁」や「蝦夷地開拓」ついて、幕府に提案するのですが、却下されています。

そこで、この和歌なのですが

  『指して行く さほのとりての 渡し舟

           おもふかたへは とくつきにけり』

“指して行く”は、「これからの日本のあり様を指し示す」と、解釈できます。

“さおのとりて”は、船頭の事であり、これは「国を先に導く指導者」を意味します。指導者は勿論「斉昭」です。又、“とりて”は「取手」に引っ掛けてもいます。

“渡し船”は日本のことです。

“おもふかたへは” 「考えている方向に進めば」となります。

“とくつきにけり”は、「とくつき」は富みであり「繁栄」が約束される。

と、この様に解釈したのであります。

斉昭の改革案が幕府に否決され、不満を抱きつつ水戸に向かっていた利根川の船上で、舟を操る船頭を見ていて、自分が日本の船頭になり、思うとおりに棹を操ってみたいと思ったのでしょう。

歌碑を贈った天保14年は、水戸藩内の改革で、反改革派との権力闘争に敗北し、藩主を失脚、翌年(1844年)、幕府より致仕・謹慎を命ぜられています。

この人が「斉昭」です。左は斉昭の息子、最後の将軍「慶喜」です。


幕府の大老「井伊直弼」により、「日米修好通商条約」を結んだのが1858年。

「日米修好通商条約」対して尊王攘夷派が反対運動を起こし、それを押さえ込む為に、井伊直弼は、1858年から59年にかけて尊王攘夷派の公家や大名を処刑します。「安政の大獄」です。
 
これに怒った尊王攘夷派の水戸藩士たちは井伊直弼を殺害します。1860年に起こった「桜田門外の変」です。

そして、1867年の大政奉還で幕藩体制が終わり、明治維新となるのです。


きょうは、「激動の時代」幕末を生きた「徳川斉昭」の「お勉強」でした。


それでは、また明日。
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「旧取手宿本陣染野住宅」 その3

2007年11月27日 | 建物の話し
昨日の続きです。

「旧取手宿本陣染野家住宅」は「茨城県指定有形文化財」、「取手市指定史跡」になっています。

有形文化財で「一番エライ」のが「国宝」で、次が「国指定重要文化財」で、次が「都道府県指定有形文化財」で、一番下っ端が「登録文化財」ようです。

「取手宿本陣」は上から三番目に重要なのです。

昭和62年から平成8年まで解体修理工事が行われたようですが、それに関する説明、改修前、改修中の写真展示等があれば、それなりに面白いと思うのです。

当然、教育委員会には写真が保管されている筈です。仕舞って置かないで公開して欲しいと思うのであります。

戸のすり減り具合は、建築当時のままのようです。


この柱も二百年の色です。


この天井板も、二百年の「風雨の跡」なのです。


「シミ天井」のある、居住部分に「神棚収納箱?」があります。格子戸付きの収納箱の中に神棚が入っていたようです。

南向きに取り付けられているので、多分、神棚に間違いないです。


この正面玄関脇のガラス窓は、郵便局だった名残だそうです。


郵便局の局長さんは「村の名士」で、昔は学校の運動会には、「駅長」「局長」「村長」さんの、「三長さん」と、駐在さんと寺の住職は、必ず来賓席に居たようです。

郵便局の局長さんは、「局長」だからエライのではなく、その土地の、旧家、資産家等の、元々の「エライさん」が郵便局長になったそうです。染野さんも「偉かった」のです。


最初に外から見た時に、この部分だけが「少し変」でした。どう見てもこのガラス窓は「受付窓口」に見えました。


本日は天候も思わしくなく、気分も思わしく、いまいち「ノリが悪い」ので、この辺で終了します。


それでは、また明日。 





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“旧取手宿本陣 ”の曲がりくねった梁

2007年11月26日 | 建物の話し
一昨々日の続きです。

厠で「用足し」をして、裏庭を鑑賞し、土間の勝手口より母屋に戻ります。室内は薄暗く天井は真っ暗です。

火を使い煮炊きする土間の上には天井板は張ってありません。天井裏がモロ見えです。



眼が慣れたところで見上げると、煙に燻され、煤にまみれ、黒々とした太い梁でしっかりと支えられています。


築二百十二年(寛政7年・・・1795年)で、敷地面積は2393.65㎡(725.3坪)、建坪は312㎡(94.5坪)で、常磐線快速の始発駅より徒歩5分、都心まで約30分です。

今、この程度の家をここいらに建てたら「数億円」でしょうね。この施設は昭和62年に「染野さん」から、取手市に「寄贈」されたそうです。

染野さんは、旧家で、資産家で、大地主で、太っ腹なのでしょう。

土地については寄贈されていないようなので、土地についての「固定資産税」はどうなるのでしょうか? 多分、公共目的に使用されているので「免除」されているのでしょう。

ヤバイ! 話しが「下種の勘繰り」方向に・・・・・・・。

黒々と歴史の染み込んだ立派な梁です。


この曲がりくねった素材を組み合わせて、真っ直ぐな家に造り上げるのは、現場での「現物合わせ」で、切ったり、削ったり、穴を開けたりして、水平、垂直を出していくのでしょう。


真っ直ぐな材料だけの組み合わせよりも、曲がりくねった材料の組み合わせの方が「建てがい」ありそうですし、「鑑賞がい」があります。


それでは「座敷」にあがります。


槍を掛けるところです。かなり「質素」な造りです。


奥の一段高い座敷「上段の間」は、「御大名様」のお部屋になります。


この「取手宿本陣」は水戸藩の本陣なのですが、水戸藩は徳川御三家で「参勤交代制」ではなく、「定符制」で、藩主は常時江戸の藩邸にいたそうです。と云う事は、この「上段の間」はあまり使われたことは無いのです。

上段の間にある「板欄間」。なかなか「寂び」が効いています。


上段の間、二の間、三の間の西側にある縁側です。


見学者は3組ほど見かけました。中年の夫婦らしき見学者です。


上段、二の間、三の間、すべて八畳敷で、思っていたよりも狭く、全体に質素な造りでした。

もう少し「本陣」の見学は続きます。

それでは、また明日。 


※余談です
世の中の三連休に合わせた訳ではないのですが、プログも三日間お休みしました。

ところがです、昨日26日に「144」と最近にないアクセスがありました。それに加えて、その内の「56」が、今年の2月9日の“「奥谷禮子さん」知りませんでした!”だったのです。

今頃になってどうして? 「過去の人」の話しにアクセスが集中したのか不思議です。

奥谷さんに何かあったの? 誰か知っている人いませんか? 何か気持ちワルーイです。

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「旧取手宿本陣」は“ひっそり静かに”

2007年11月22日 | 建物の話し
昨日の続きです。

弘経寺を後に、水戸街道を越え、常磐線を越え、「取手宿本陣」を目指しました。

取手駅の近くに「旧本陣」の建物が残っていると、「それとなく」聞いていたのです。場所も「それとなく」でした。

取手駅の周辺は、車では何度も通り過ぎた事があります。一度だけ、自転車で走った事もあり、その時「何となく」本陣を探した覚えがあります。

今回も、それらしき、ありそうな場所を目指しました。「本陣」なんですから、当然、街道に面している筈です。

駅を過ぎ、暫く走ると「それらしき門」があり、「公開中」の・・・何て云うのでしたっけ? この「折りたたみ式立て看板」の名称?

兎に角、これは「間違いない」と思い門を潜りました。

入って直ぐのところに「案内板」がありました。間違いなく「旧取手宿本陣」です。


この手の案内板は、外を通る人の眼に付き易い場所を選んで立てるのが「普通」です。

取手市教育委員会は、分けの判らない輩に入られるのを嫌っているようです。そっと静かにしておきたいのでしょう。

興味のある人達だけが、静かに訪れる事を望んでいるのでしょう。中に入って判ったのですが、公開は、金曜日、土曜日、日曜日の週3回なのです。

以前、それとなく本陣を探した時、この前を通り過ぎています。その時に気が付かなかったのは、閉館日で門を閉ざしていたからでしょう。

「興味のある人達だけに、ひっそり、静かに見て貰う」。この姿勢、それは、それでOKだと思います。

それで、入って最初に眼を引くのは「大きな茅葺き屋根」の重量感です。

「大きな屋根」は「公(おおやけ)」の語源だった様な・・・・・・そんな思いが頭を過ぎりました。何と云っても「権力者の宿」ですからね。

時代劇に出てくる様なと云うか、正しくこちらは本物です。ここから「殿様」が入って行ったのです。


殿様ではない私は「脇の勝手口?」の土間のある「入り口」から入らせて頂きます。ここが「正式」の見学者入り口になっています。


二人の中年女性係員がいる受付で入館手続きです。住所と、名前と、利用交通手段に丸を付けます。


自転車は交通手段に無く「その他」の所に丸を付けるように指示されました。自転車はその他なのです。

私が首からカメラをぶら下げ、目つき、人相が悪かったせいなのか、「営利目的の撮影は禁止されています」と云い、傍らの同僚に「そうよねぇ」と同意を求めていました。

営利を目的に撮影に来る者が自転車に乗っては来ないでしょ? まして、安物のコンパクトカメラでは撮影しないでしょ? と思いつつ、何となく軽く頷くのでした。

受付を済ませ、先ずは外側から攻めようと、土間の奥にある出入り口から外に出ました。

外に出ると、「土蔵風」の立派な「トイレ」と云うよりも、ここは「厠(かわや)」と呼に相応しい便所を発見。

見ると条件反射的に「もよおして」来たのです。


新しいようで、管理も行き届いています。色使いもイイです。


サッパリ、スッキリしたところで、本陣の見学を開始します。

厠を出て正面に見えたのは「裏庭」です。なかなかです、茅葺き屋根に調和した、田舎風の「寂び」のある庭です。


高床、踏み石、縁側、真っ白い障子。 イイです!落ち着きます。


これから、内部の見学、なかなか面白そうです。


この続きは次回とします。


それでは、また明日。 




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