先週の続きです。
昨日は更新をお休みしました。日曜日は孫の幼稚園で発表会があり、そして月曜は“いろいろあって”それなりに忙しかったのです。
まぁ、それは、それで、「坂野家住宅」の続きです。
先ずは、裏口から裏庭に出て、裏からの様子を眺めます。
井戸です。こういう釣瓶式の井戸がいつ頃まで使われ、そして、どうして、何故?今でも残っているのでしょうか?
まぁ、そんな事を云えば、茅葺き屋根の古い民家が、今でも残っている方がもっと、もっと不思議です。茅葺き民家はときどき訪れ見学するには良いのですが、日々暮らして行くには、けっこう不便では?と思うのです。
ここだけではなく、各地いろいろな古民家も、意識して残したのではなく、結果として残ってしまった方が、たぶん多いい様な気がします。これって、貧乏人の“やっかみ”でしょうか?
お金持ちだったならば、江戸、明治、大正、昭和と、その時代にふさわしい最新式の住居に住み変えたと思うのです。
でも、しかし、その時々の、爺ちゃん、婆ちゃんが、ご先祖様の歴史が刻まれ、想いが刻まれ、暮らしが刻まれ、そして、生まれ育った住み慣れた家を、自分の代で取り壊すには忍びなかった?・・・・・・ まぁ、そんな事で、今も残されたりもするか?
でも、ここ坂野家では、時代毎に最新の家を建てたようです。隣には大正時代の書院造りの家が建ち、裏手には現在の家が建っていたような?
まぁ、いろいろな事情のなか、壊される事も無く、ここに残り、保存されている訳です。
それにしても、井戸が、ここにも、
そして、あちらと、そちらに、都合三カ所もあるのです。各時代毎に掘ったのでしょうか? 水は大切ですからね。
このアングルもなかなかと思って眺めていたら、
茅葺きの“茅”が何層にもなっているのを発見。
こういう断面をしみじみ眺めた事は初めてですが、たぶん、これまでになかったと思います。これって葺き方の問題なのか、材料的な問題なのか? 今度、そのうち調べます。
いよいよ、母屋?主屋?の客間から拝見します。廊下も畳敷き? アレ、もしかして、薄縁だったかも?
先ずは、一番奥の主賓の間?からは、庭が見渡せるのです。
こんな眺めになります。
このように客間が四つ並んでいます。
大事なことを忘れていました。主賓の間の裏手には“厠”になっており、こちらが“大”
こちらは“小”の方となっております。当然、現在は使用禁止で見るだけになっています。
それでは、室内に入ります。主賓の間には、床の間に違い棚。
うん。まぁ、そうか、そうかの欄間です。
そして、前に付いていた大きな釘隠の痕が残る、一回り小さい釘隠。右横には解体修理の時に付けられたと思われる“⑥”のチョーク書きが残っています。こういうモノは、復元完了後はしっかり消しましょうね。
まぁ、こんな感じ、
そして、こんな感じです。
確かに、武家屋敷のようです。農民と云っても大地主の豪農だったようですから、このような屋敷を建てることが、財政的にも、格式的にも可能だったのでしょう。
この、次の間付きの主賓の間ですが、もしかして、藩主クラスも?と思ったのですが、ふつう大名クラスが宿泊するのであれば、他の部屋より一段高く造られますから、ここは、やはり、藩の上級武士クラスを招いた部屋だったのでしょう。
それにしても、宿場の本陣並のお屋敷です。まだ、まだ、坂野家住宅の見学は続きます。
それでは、また明日。
昨日は更新をお休みしました。日曜日は孫の幼稚園で発表会があり、そして月曜は“いろいろあって”それなりに忙しかったのです。
まぁ、それは、それで、「坂野家住宅」の続きです。
先ずは、裏口から裏庭に出て、裏からの様子を眺めます。
井戸です。こういう釣瓶式の井戸がいつ頃まで使われ、そして、どうして、何故?今でも残っているのでしょうか?
まぁ、そんな事を云えば、茅葺き屋根の古い民家が、今でも残っている方がもっと、もっと不思議です。茅葺き民家はときどき訪れ見学するには良いのですが、日々暮らして行くには、けっこう不便では?と思うのです。
ここだけではなく、各地いろいろな古民家も、意識して残したのではなく、結果として残ってしまった方が、たぶん多いい様な気がします。これって、貧乏人の“やっかみ”でしょうか?
お金持ちだったならば、江戸、明治、大正、昭和と、その時代にふさわしい最新式の住居に住み変えたと思うのです。
でも、しかし、その時々の、爺ちゃん、婆ちゃんが、ご先祖様の歴史が刻まれ、想いが刻まれ、暮らしが刻まれ、そして、生まれ育った住み慣れた家を、自分の代で取り壊すには忍びなかった?・・・・・・ まぁ、そんな事で、今も残されたりもするか?
でも、ここ坂野家では、時代毎に最新の家を建てたようです。隣には大正時代の書院造りの家が建ち、裏手には現在の家が建っていたような?
まぁ、いろいろな事情のなか、壊される事も無く、ここに残り、保存されている訳です。
それにしても、井戸が、ここにも、
そして、あちらと、そちらに、都合三カ所もあるのです。各時代毎に掘ったのでしょうか? 水は大切ですからね。
このアングルもなかなかと思って眺めていたら、
茅葺きの“茅”が何層にもなっているのを発見。
こういう断面をしみじみ眺めた事は初めてですが、たぶん、これまでになかったと思います。これって葺き方の問題なのか、材料的な問題なのか? 今度、そのうち調べます。
いよいよ、母屋?主屋?の客間から拝見します。廊下も畳敷き? アレ、もしかして、薄縁だったかも?
先ずは、一番奥の主賓の間?からは、庭が見渡せるのです。
こんな眺めになります。
このように客間が四つ並んでいます。
大事なことを忘れていました。主賓の間の裏手には“厠”になっており、こちらが“大”
こちらは“小”の方となっております。当然、現在は使用禁止で見るだけになっています。
それでは、室内に入ります。主賓の間には、床の間に違い棚。
うん。まぁ、そうか、そうかの欄間です。
そして、前に付いていた大きな釘隠の痕が残る、一回り小さい釘隠。右横には解体修理の時に付けられたと思われる“⑥”のチョーク書きが残っています。こういうモノは、復元完了後はしっかり消しましょうね。
まぁ、こんな感じ、
そして、こんな感じです。
確かに、武家屋敷のようです。農民と云っても大地主の豪農だったようですから、このような屋敷を建てることが、財政的にも、格式的にも可能だったのでしょう。
この、次の間付きの主賓の間ですが、もしかして、藩主クラスも?と思ったのですが、ふつう大名クラスが宿泊するのであれば、他の部屋より一段高く造られますから、ここは、やはり、藩の上級武士クラスを招いた部屋だったのでしょう。
それにしても、宿場の本陣並のお屋敷です。まだ、まだ、坂野家住宅の見学は続きます。
それでは、また明日。