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⑩ 『どうする家康』本能寺の変はかなり変!北川景子の”お市の方”は良かったです!

2023年08月05日 | テレビの話し

家康です。

本能寺の変です。

冒頭は、突然、少年信長のシーン。

 『身内も家臣も、誰も信じるな。信じられるのは己一人! それがお主の道じゃ!』

父の教育方針に健気に従う少年信長が、遂にぶち切れて、通説どうりの"うつけもの信長"に変身します。信長12歳。

次に、何度か流れた、寝床で物音に気付き、刀を抜き辺りを警戒するカット。ホント、このシーンは、夢幻として2~3回見せられています。

画面に『天正十年(1582年)6月2日』文字、そして、本能寺の文字が映し出されます。

ここで、視聴者に『今回は夢幻ではありません』のメッセージです。

信長と鎧兜に覆面の武士と切り合うシーン。どうなるのかと思って見ていると、途中で場面は、本能寺門前のシーンへ転換。

そして次の場面は、家康と家臣たちが山中を駆けるシーン。

ここで、タイトルバックに転換。

この手の演出が流行りなのでしょうか、冒頭に、本編のキーになる場面を細切れにして見せる手法。

わたしは、これが、嫌いです。分かりずらく、ドラマの中に入りずらく、思考が途切れます。

タイトルバックが終わります。

場面は出陣の準備をする明智光秀のシーン。5月29日のテロップ。

家来より、信長が少ない手勢で京に向かったことを知らされた光秀。

そこで、明智光秀が、小雨降る中、本能寺に向かう決意を固め、天を仰ぎ、

『ときは 今 雨がしたしる 五月かな』と、歌を呟くのです。

本能寺の変の9日前に、京都の威徳院での歌会で、明智光秀によって詠まれた有名な発句。

何故に有名かと、それは明智光秀が、天下取りを決意した歌との説が、戦国時代好き筋で、それなりに支持されているのです。

こういう解釈なのです。

「とき」は、明智光秀の本姓「土岐」で、

「雨がした」は、雨〈あめ〉は天〈あま〉で、

「した」は下で、

「知る」は「治める、支配する」で、

         『ときは 今 雨がしたしる 五月かな』

                 ↓

         『明智は 今 天下を治める 五月かな』

まあ、それなりに面白いです。解釈が強引です、いくら何でも、そんな風に解釈される歌を、本能寺襲撃の9日前に、それなりの公の場で詠むことは、とても危険で不自然です。

かなり強引な説を、古川良太さんは採用しました。特に、新たな視点ではありません。

これまでの「新たなる視点」が、それなりに面白かったので、いろいろ期待していたのですが、この回は、期待外れでした。

考えて見たら、いくら、なんでも、新たな視点で「本能寺の変」の史実を変えることはできないのです。

本能寺に至る、家康と信長の、内面を、新たにな視点で描くことは可能ですが、史実を新たな視点で、変える事は出来ない、と云う、当たり前の話。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が、京都本能寺に宿泊する、織田信長を襲撃し、信長が亡くなった。これだけの話。

それにしても、です。この明智光秀でですが、人相からして、とても、とても、嫌な奴として、悪役として描かれています。光秀がすこしだけ可哀そう。

そして、家康が京都に向かった情報は、京都で待つ家康にも届き、信長を討つ決意を固める家康。

しかし、家臣たちより、「信長を討ったとて、天下は転がり込んでこない。信長の息子たちはどうする 天子様は、公家たちは、彼らを味方につけなければ」と問われ。

「わかっている、だから、これから境に向かう」と、答える家康。堺は国際貿易港で、国産鉄砲の生産地。有力商人との顔つなぎ。

5月29日 織田信長本能寺へ。

6月1日、6日間滞在した京から堺へ向かう家康。信長の入京直前に、京を離れ、堺に向かった家康。このことも「本能寺の変」謎のひとつ。これについての、新しい視点は特になし。

それにしても、実質滞在は一日だけ、信長後に向けての体制作りには、実質的な成果は無理。

そして、そして、ここで新たなる視点。

堺の町で、家康は、信長の妹、お市の方と町中で出会います。

はじめは、男と女、恋愛感情を挟み込み、中休み的な色模様と思っていたら、突然、

「兄を恨んでいるでしょう」と云われ、「とんでもない」と答える家康。そして、驚きの話をきかされます。

「あなた様は、兄のたった一人の友ですもの・・・兄はずっとそう思っております。こころを許すたった一人の友には憎まれている・・・あれほど哀れな人はおりませぬ。兄の人生で楽しかったのはほんのひととき・・・竹殿(幼き頃の家康)と相撲を取っていたあのころ・・・。いずれ誰かに討たれるのであれば、あなた様に討たれたいと、兄は、そう思っているのではと・・・兄が遠い昔に捨てさせられたものを、あなたは、ず~っと持ち続けているから」

※家康は幼少期に織田家に人質にだされていたのです。その後、今川家の人質に。

家康、衝撃です、混乱です。安土城での信長の言葉を思い出し動揺します。

でも、でも、しかし、恨まれることを承知で、たった一人の友に、妻と息子を殺すように命じるでしょうか。疑問です。

まあ、それなりに、互いに男と女を意識しての、なかなか微妙なやりとりもあるシーンでした。立ち去るときのお市の方の表情、よかったです。

『花のあと』〈2009年公開〉での北川景子 2013年08月19日 | と比べると、うまくなりました。十数年の歳月が流れ、それなりに、大人の女に見えてきました。よかったです。景子ちゃん。

話は戻ります。それで、本能寺で家康を待つ信長。死が近いと父から、家督を継ぐように言われた時のことを回想します。

『どうしても耐え難ければ、心を許すのは、一人だけにしておけ。こいつなら殺されても悔いはないと思う友を、一人だけ』との言葉を思い起こし、家康を待つ信長。

そして、本能寺の襲撃シーン。信長を襲った鎧兜に覆面の武将に、腹を刺されながらも反撃し、覆面を剥ぐと、何と驚きの家康。

混乱しました、わたしの見間違い、このカット何度も見直しました。家康なのです。どうなっての、歴史の改ざん、しかし、そのあとの死に絶えたカットを何度も見ると、武将は別人になっていました。

混乱します。こんな演出はありません。

信長の目で、一人称でのカメラアングルで撮影されたならば、信長の目にはそう見えた、となりますが、信長の肩ごしのカットに家康の顔ですから、こんな混乱する手法はありません。

そして、燃え上がる本能寺、腹を刺されても、超人的に闘う信長。あのような闘いの状況であれば、光秀軍は信長の首を取れたと思います。

本能寺の変の謎の一つとして、信長の遺体が見つからなかった事が伝えられています。

そして、堺での家康。お市の方から聞かされた信長の想い。瀬名と息子を殺され、信長に復讐すること、"瀬名の夢"を実現するために天下を取ると誓ったこと。迷います、苦悶します。

そして、「今のわしには到底成し遂げられぬ」と、信長を殺し、天下をとることを断念する、苦渋の決断を家臣に告げます。

そして、翌朝、信長が本能寺で、明智光秀の軍勢により、討ち死にしたことが伝えられます。

数日前まで、殺そうとしていた信長、断念した翌朝に信長の死を知ります。迷い、苦悶し、苦渋の決断をしていた頃、信長はすでに殺されこの世にはいなかったのです。

何という、悲劇、何という喜劇。

明智が、家康の首をとれとの号令を発したこと、明智の兵も名を上げたい浪人、褒美目当ての民百姓、四方は敵だらけと告げられます。

信長は家来と共に、敵だらけの中、伊賀の山中を岡崎に向け、距離約200kmを2泊3日間で駆け抜けます。これも謎のひとつです。

次回、『伊賀を越えろ』となります。きっと、謎の「神君伊賀越え」の新しい視点が提示されるのでしょう。

 

それでは、また。

 

 

コメント
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