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三隅研次の『剣鬼』で市川雷蔵のチャンバラ映画を楽しみ獣婬と狂気をちょっとだけ考えたりして

2016年02月29日 | 映画の話し
映画『剣鬼』を観ました。

三隅研次監督、市川雷蔵主演 原作柴田錬三郎で1965年10月の公開です。

面白かったです、飽きることなく、最後まで観てしまいました。あっと云う間の1時間23分でした。

見終わって感じたのは、何か、紙芝居でチャンバラを見ていた感覚でした。

1965年ですから、私が15歳でたぶん中学3年の頃です。あの頃は、もう、映画も全盛期から斜陽期への過渡期的な頃だったと思います。

全盛期のチャンバラ映画は、ハラハラとドキドキで、笑いあり涙ありで、最後は正義が勝って、ハッピーエンドで、観客はヨカッタ!ヨカッタ!で、映画館を後にしたのでした。

勧善懲悪でもなく、誰が勝った負けだでもなく、笑いもなく、ハーピーエンドでもなく、ど真ん中の大衆娯楽作品でもなく、時代劇としては、微妙な作品だと思います。

微妙な時期ですから、市川雷蔵の化粧も白塗りで、アイラインはバッチリキメキメで、二枚目で、大衆娯楽ど真ん中の色を引き摺っているのでした。

大衆娯楽的作品として、ストーリーの展開の速さ、ストーリーの分かり易さ、これは、観ていて、とても、とても、ここち良かったです。

主人公の設定とかは、それなりに考えると、それなりに疑問とか、謎とか、隠しテーマとか、深読みも?楽しめる作品だったりして、ここいら辺が過渡期の時代劇なのです。

それで、ストーリーなのですが、藩主の奥方に使える女中が、奥方の臨終の床で賜ったのが、何故か『斑の大きな犬』で、賜った女中も子を産み落として直ぐに謎の死を遂げるのです。

奥方も、女中も、死を遂げるシーンの背景に、うめき声とも、喘ぎ声ともとれる、犬の声と、犬のアップが映し出されるのです。

女中の死に際では、犬の声と重なるように、喘ぎ声をあげ、身もだえるシーンが映し出されるのです。奥方も、女中も、犬と交わり狂い死にしたと、城中では、家来一同みんな、そう囁くのでした。

そして、女中の産み落とした子は、下級武士の家に引き取られ育てられるのでした。犬と人間の間にできた「犬子」と云われつつ、蔑まれながら、虐められ、それでも、挫けず真面目に育って行くのでした。

それにしても、犬と人間の交合により子供が産まれた、と、匂わせる、暗示させる設定、生物学的にはありえないのですが、文学的にはありえるのです。

獣婬は、古今東西の歴史上、よくある事でもなく、それほど珍しい事でもないのです。

製作意図として、人間の業とか、欲望とか、罪深さとかを、隠し味とし、作品としての、厚みとか、奥行きとか、重みとか、単なる薄っぺらなチャンバラ映画ではないと、そう主張したかったのでしょう。

それで、犬の子と囁かれている子供に、犬が斑模様だったので、班平と命名するのは、かなり変です。そうあからさまに「犬子」を背負わせてどうするの?

成長して、何故か花造りの名人となったり、また、何故か、馬と同等の早足で、殿様の遠乗りのお供をに引き上げられたり、何故か、居合いの達人にその技を伝授されたり。

そうでした。殿様は狂い死にした奥方の息子で、かなり狂気的な行状で、母の血を受け継いでいると囁かれ、藩の存続を危ぶまれる存在なのです。演じた“戸浦六宏”は、とても、とても、犬顔でした。

犬との関わりを暗示させる二人り、狂気の殿様と、驚異の走り、驚異の剣の使い手、互いにもに、その宿命に、それとなく気づきつつ、繋がっていくのです。

斑平は、花作りを愛しつつ、殿様を守る為に、十数人を容赦なく斬り殺す。一時、そんな己に疑問を抱くが、人を斬り殺す魔力からは逃れることはできないのです。

取り憑かれている、呪われている、宿命として、狂気として、鬼として、斬り殺し続けるのです。

まあ、そんな、屁理屈はこれぐらいにして、兎に角、展開の速さ、殺陣の見事さ、美しさ、市川雷蔵は、とても、とても、素晴らしい時代劇役者です。

まあ、気楽に、あまり余計なことを考えずに、チャンバラ映画として、とても、とても、楽しめる作品です。


それでは、また。



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