世の中、言葉遊びが過ぎると思う。
遠回しな言い方で直接的な非難を浴びないようにしているのがありありだ。
実態を直視しないでオブラートにくるんだ言葉でさも私は理解していると。
「こどもの貧困」は実際は親の貧困に起因する事象だ。
そして「親としての自覚・覚悟のないまま」に子どもを生したことに尽きると思う。
「こどもがいる親の貧困」がそもそも問題なのでは?
個人のことに対して社会が寛容になり過ぎおせっかいしなくなった。
「おせっかい」に対して自分の勝手と逆切れされるような風潮に。
まぁ、そのほうが個人としての圧迫感やうるささからは回避できる。
そこに社会の陥穽がある。
だったら、他人に頼らない生き方をしなさい、と。
そして、やってみたらダメだった。
その結果、「こどもの貧困」というカテゴリーに属する立場になった。
そういうことなのかな、と思う。
若い時は多分何にでもなれる、やっていけるという「全能感」に満ちている。
将来なりたい職業として挙げられるこどもへのアンケートでは
華やかな職業がトップ10に列挙される。
こどもなりの夢があっていいとは思う。
でも、現実は生易しくない、と気づいて軌道修正するか
夢の実現に向けて努力するかの二者択一なのが人生ではなかろうか。
その中途半端なままで成人し、やがて家族を持った時に家族を維持する意志の強さがあるかが問われる。
別に出世しなくては、とか一山あてるとかのリスクを取る必要はないと思う。
ひたすらに生活の糧を得ることができる仕事に就き真面目に務め上げるという
ごくごく普通の平凡な人生を目指すことでいい。
それこそが、その人にとってその人だけができる「平凡なる非凡」の人生なのだと思う。
であるからして「こどもの貧困」といわれるようなこどもの親はその親なりの「非凡」な人生を生きていると。
それが不憫と思うならこどもを社会福祉施設に託して再出発の道もあるやに思う。
マスコミが「こどもの貧困」を題にとり番組化しても視聴者からして多分何の痛痒も感じてないと思う。
むしろ、成人に向けての心構えを教育されている間(中高生時期)に教育する必要があるのかも知れぬ。
でも、そのことを真面目に受け止め考える子には教育する必要もなく自覚している。
そして、そのことを学ぶ必要のある子ほど教育の成果がない。
「学ぶ」ということへの意欲の有無なのだ。
「教育」、教えられ育つことにはそれを受容する能力が必要なのだが、その能力に欠けているこどもの存在が社会のひずみとして顕在化しているように思う。
で、その能力が親に起因しているのか、本人に起因しているかが問題となる。
前者なら親権を他に移すことが本人の生育にとって望ましい。
後者なら相応の手厚く保護できる施設で社会性を学べるようにするのが望ましいだろう。
どちらもこどもに対する公的扶助の充実が必要であることに変わりない。
老年の要介護者や障碍者同様に健常者とは違う保護が望まれる。
ところで、他人のこどもの悪さをたしなめる大人も少なくなった。
社会のこどもへの教育環境は薄れた。
親の教育権、子育て方針(というものがあるとすれば)への尊重あるいは見て見ぬふりの結果だろう。
こどものころからごみは散らかしほうだい、集団になると煙草は吸うわを見ているとその先行き、成長が危ういなと感じるこの頃だ。
そういう子どもはいつだって一定数はいると思う。
国の教育費はそういうこどもに対して十分な手当てがあっていいと思う。
自力で自らの道を切り開ける能力のあるこどもは環境うんぬんを言わず自助努力で進んで行くものだ。
60年代の国立大学のように「ただ」みたいな学費で学べる制度の復活を望みたい。
そして親元を離れて学ぶ低所得の子弟には寮を用意する。
70年以降「受益者負担」の声で私学並に学費を上げていったことが果して良かったのか、と疑問に思う。
取り留めない方向に話が発散していった気もするが、要は「こどもの貧困」は親の「貧困」に起因するのが事実だといいたいだけ。
論点そらしは何の解決にもならない。
こどもの能力に応じた教育制度の見直しが「親の貧困」から「こどもの貧困」を救う一つの解決の糸口になると思うのだが・・・
ただ、制度いじくりだけはなしにしてほしい。
遠回しな言い方で直接的な非難を浴びないようにしているのがありありだ。
実態を直視しないでオブラートにくるんだ言葉でさも私は理解していると。
「こどもの貧困」は実際は親の貧困に起因する事象だ。
そして「親としての自覚・覚悟のないまま」に子どもを生したことに尽きると思う。
「こどもがいる親の貧困」がそもそも問題なのでは?
個人のことに対して社会が寛容になり過ぎおせっかいしなくなった。
「おせっかい」に対して自分の勝手と逆切れされるような風潮に。
まぁ、そのほうが個人としての圧迫感やうるささからは回避できる。
そこに社会の陥穽がある。
だったら、他人に頼らない生き方をしなさい、と。
そして、やってみたらダメだった。
その結果、「こどもの貧困」というカテゴリーに属する立場になった。
そういうことなのかな、と思う。
若い時は多分何にでもなれる、やっていけるという「全能感」に満ちている。
将来なりたい職業として挙げられるこどもへのアンケートでは
華やかな職業がトップ10に列挙される。
こどもなりの夢があっていいとは思う。
でも、現実は生易しくない、と気づいて軌道修正するか
夢の実現に向けて努力するかの二者択一なのが人生ではなかろうか。
その中途半端なままで成人し、やがて家族を持った時に家族を維持する意志の強さがあるかが問われる。
別に出世しなくては、とか一山あてるとかのリスクを取る必要はないと思う。
ひたすらに生活の糧を得ることができる仕事に就き真面目に務め上げるという
ごくごく普通の平凡な人生を目指すことでいい。
それこそが、その人にとってその人だけができる「平凡なる非凡」の人生なのだと思う。
であるからして「こどもの貧困」といわれるようなこどもの親はその親なりの「非凡」な人生を生きていると。
それが不憫と思うならこどもを社会福祉施設に託して再出発の道もあるやに思う。
マスコミが「こどもの貧困」を題にとり番組化しても視聴者からして多分何の痛痒も感じてないと思う。
むしろ、成人に向けての心構えを教育されている間(中高生時期)に教育する必要があるのかも知れぬ。
でも、そのことを真面目に受け止め考える子には教育する必要もなく自覚している。
そして、そのことを学ぶ必要のある子ほど教育の成果がない。
「学ぶ」ということへの意欲の有無なのだ。
「教育」、教えられ育つことにはそれを受容する能力が必要なのだが、その能力に欠けているこどもの存在が社会のひずみとして顕在化しているように思う。
で、その能力が親に起因しているのか、本人に起因しているかが問題となる。
前者なら親権を他に移すことが本人の生育にとって望ましい。
後者なら相応の手厚く保護できる施設で社会性を学べるようにするのが望ましいだろう。
どちらもこどもに対する公的扶助の充実が必要であることに変わりない。
老年の要介護者や障碍者同様に健常者とは違う保護が望まれる。
ところで、他人のこどもの悪さをたしなめる大人も少なくなった。
社会のこどもへの教育環境は薄れた。
親の教育権、子育て方針(というものがあるとすれば)への尊重あるいは見て見ぬふりの結果だろう。
こどものころからごみは散らかしほうだい、集団になると煙草は吸うわを見ているとその先行き、成長が危ういなと感じるこの頃だ。
そういう子どもはいつだって一定数はいると思う。
国の教育費はそういうこどもに対して十分な手当てがあっていいと思う。
自力で自らの道を切り開ける能力のあるこどもは環境うんぬんを言わず自助努力で進んで行くものだ。
60年代の国立大学のように「ただ」みたいな学費で学べる制度の復活を望みたい。
そして親元を離れて学ぶ低所得の子弟には寮を用意する。
70年以降「受益者負担」の声で私学並に学費を上げていったことが果して良かったのか、と疑問に思う。
取り留めない方向に話が発散していった気もするが、要は「こどもの貧困」は親の「貧困」に起因するのが事実だといいたいだけ。
論点そらしは何の解決にもならない。
こどもの能力に応じた教育制度の見直しが「親の貧困」から「こどもの貧困」を救う一つの解決の糸口になると思うのだが・・・
ただ、制度いじくりだけはなしにしてほしい。
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