私の母の実家は新潟、直江津の近く、山と海の狭間、寒村、有間川にある、
実家の入口前は北陸道、裏庭は北陸線の土手に挟まれていた。
東京の空襲が激しくなり、父は東京に残り、一家は母の実家に疎開した、
幼児だった私の疎開の記憶は当然ながら全くない。
配給手帳、食糧難の時期、その期間の兄弟4人の口減らしの意味もあったのだろう、
東京での生活が戻った子供の頃、夏休みは田舎で20日ほど過ごすことが当たり前のようになっていた、
当時祖父母は健在、いつも名前の書いた下駄を用意し、我々の行くのを待っていた。
祖父母、叔父叔母、子供3人の7人家族に我々4人が加わリ11人、
食事の用意だけでも叔母は大変なことだっただろう。
裏の木戸から北陸線の土手のトンネルを抜け、浜辺まで1分もかからない海で毎日遊んだ、
2階の窓辺の籐椅子に座ってすぐ目の前を走る汽車を眺め、
甘えん坊の私、ホームシックにかかり涙を流した記憶、夜汽車の車輪、汽笛、潮騒の音の記憶・・・
庭の池、鯉、築山、泉水、家の中のつるべ井戸、囲炉裏、土間、家の前に干している天草の匂いの記憶・・・
村長をしていた祖父、GHQの公職追放で隠居生活、書籍、書道具に囲まれた離れのコマで(小間だろう)
過ごしていた、食事も運び込ませ、一人特別生活、兄と私は時々コマに呼ばれ、
晩酌している祖父の説教を正座して聞いた(説教の内容は全く覚えていない)
ただ、嬉しかったのは食べたこともないおいしいお菓子をもらえること、そんな記憶・・・
姉の持っていた海のこの写真の複写が出てきたのがきっかけか、
この夏、白馬に行く途中、なぜか急に道をそれ、田舎に立ち寄った、
突然なので従兄弟の家に挨拶にも寄らず。
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