学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」

2025-02-08 | 鈴木小太郎チャンネル2025
資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd
資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5


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  第一〇章 「信西謀反」の真相と守覚擁立計画

二条天皇の動機─後白河院政否定=信西一家失脚=二条親政実現
二条親政で二条は傀儡ではなかった─多子入内という暴走
二条は君臨の危機を暴力で解決するため三条殿を襲撃させた
信西の梟首は二条に対する謀反容疑の証拠
守覚・上西門院の出家は信西一家の赦免と一つの事件
信西の「謀反」の内実は守覚擁立による二条皇統の否定
守覚擁立の動機─美福門院との訣別
二条は一年後に同じ構図で異母弟の立太子を拒む
恩人の美福門院も疎んじて皇位に執着する二条
王家で孤立して子供じみた独善に走る二条
皇位継承抗争の結末と清盛の台頭
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p186以下
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【前略】二条は政務を執るためではなく、後白河院政の否定そのものを目的として事件を起こした可能性が高い。
 では、そのためになぜ、後白河の三条殿を襲撃・放火する必要があるのか。
 ヒントは、この事件が保元の乱の二番煎じだったことにある。保元の乱は、後白河天皇が崇徳院・藤原頼長に対して、非常手段に訴えるべき危機感と、断固たる姿勢を示した事件だ。崇徳・頼長が今すぐにでも反逆を起こして後白河天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった天皇側が、手遅れになる前に暴力に訴えたのだ。そこから類推すると、三条殿襲撃は、後白河院・信西が今すぐにも二条天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった二条が、ことの重大さと緊急性から、非常手段をもって断固たる姿勢を示す決意を固め、手遅れになる前に暴力に訴えた事件だった可能性が高い。

信西の梟首は二条に対する謀反容疑の証拠

 では、それほど緊急の、重大な危機とは何か。鍵は、信西一家の処罰理由にある。
 一二月一七日、信西の首は鴨川の河原で検非違使に引き渡され、検非違使は大路を渡し、つまり群衆の収容能力が高い大路をわざと通り、沿道の群衆に首を誇示しながら進んでから、西の獄の門前にあった木に首を吊して晒した(『百錬抄』平治元年一二月一七日条)。
 これは朝廷の伝統的な梟首(晒し首)の作法である。【中略】
 このように、謀反人でも梟首されない事例はあるが、梟首された人が謀反人でなかった事例は、平安時代にはない。したがって、すでに河内氏が指摘した通り、信西が梟首された事実は、朝廷が信西を謀反人と断定したことを意味する[河内02‐一二五頁]。【中略】
 では、二条が公的に認定した<信西の二条に対する謀反>の中身は、何だったのか。【中略】

守覚・上西門院の出家は信西一家の赦免と一つの事件

 その内実を探れる材料は、現状では一つしかない。河内氏が指摘した、守覚の出家である。後白河は、二条の弟にあたる守覚の皇位継承を望んだが、それを不可能にして守覚を仁和寺の御室(長)に押し込む出家の予定日が、タイムリミットとして迫っていた、と河内氏は主張した。【中略】
 先述の通り、河内説の全体は成立しない。しかし、<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼は、別の出来事と組み合わせると、真実に迫る鍵になる。
 その出来事とは、後白河の姉である上西門院の出家だ。守覚は、永暦元年(一一六〇)二月一七日に出家した〔『仁和寺御室系譜』、『仁和寺御伝』喜多院御室〕。その全く同じ日に、上西門院も出家していた〔『女院記』『女院小伝』〕。河内説に従った場合、そうなった理由を説明できない(そのためか、氏は上西門院の出家に言及しない)。守覚の母は、藤原季成の娘の成子(高倉三位局)であり〔『仁和寺御伝』喜多院御室、『本朝皇胤紹運録』〕、上西門院・後白河を産んだ待賢門院は季成の姉だ。入り組んでいるが、上西門院の母方の祖父藤原公実は、守覚の父方の曾祖父(父の母の父)であり、守覚の母方の曾祖父(母の父の父)でもある(一四三頁図15参照)。いい換えると、守覚は、父後白河院を通せば上西門院の甥であり、母成子を通せば上西門院の従姉妹の子である。その意味では濃密な一族関係にあるが、同じ日に出家するには、養子関係でもよいから上西門院が直系の尊属であるくらいの近さがないと、自然でない。上西門院には、守覚と一緒に出家する理由がないのである。【中略】
 彼女が病気だった形跡もない。すると、彼女自身には、この日に出家する個人的理由がなくなる。そして当時、彼女の最も重要な社会的属性は、<同母弟の後白河が最も大切にした家族>という点にあった。その後白河の家族(次男)で、なおかつ彼女と直接つながりがない守覚が、同じ日に出家した。その事実は、次の構図を浮かび上がらせる。後白河の家族全体に俗世での繁栄を諦めさせる圧力がかかり、上西門院と守覚が出家に追い込まれたのだろう、と。
 では、それはどこからの圧力か。ヒントは経宗・惟方の逮捕だ。後白河は二人を逮捕させるために、清盛に躊躇なく内裏を襲撃させ、二人を内裏の門前に引き据え、自らそこに出向き、眼前で拷問させた。その凄まじい怒りを後白河が爆発させた逮捕劇の日は、実は後白河の大切な家族である上西門院と守覚が出家した永暦元年(一一六〇)二月一七日の、わずか三日後だった。さらに興味深いことに、その経宗・惟方の逮捕のわずか二日後に、信西一家が赦免され復権した。その六日間の三つの事件は、一つの大事件と考えるべきだ。

信西の「謀反」の内実は守覚擁立による二条皇統の否定

 その大事件とは、次のようなものと考えざるを得まい。二条一派は、上西門院と守覚を出家に追い込み、上皇御所の桟敷を封鎖して院政を否定する大攻勢を、後白河一家に仕掛けた。しかし、忍耐の限界を超えた後白河は逆襲に転じ、経宗・惟方を失脚させて二条の羽翼を奪い、彼らが弾圧した自分の羽翼の信西一家をすぐに復権させた、と。
 なぜ、桟敷封鎖事件のような子供じみた嫌がらせ事件が起きたのか、私は長らく疑問に思ってきたが、ここまで多くの考察を重ねた結果、シンプルで最良の答えにたどり着いたようだ。一八歳の二条という、精神的に幼い人の仕業だったのだ、と。
 二月一七日~二二日の六日間は、二条一派が容赦なく後白河一派を弾圧して優勢だった段階から、後白河一派が一発逆転を果たし、優勢に立った正念場だった。そして逆転の結果、経宗・惟方は解官・流罪となって失脚し、それで勝敗が確定した。この六日間は、後白河が劇的に劣勢を覆し、そのまま二条一派との抗争の勝利を確定させた最終決戦だったのだ。
 この一連の事件に、守覚の出家と信西一家の復権が含まれていた。つまり、守覚の出家と信西一家の没落は直結し、どちらも二条一派の画策だった。ならば、こう考えられる。二条一派の望みに反して、信西は守覚の出家を阻止しようとしていた、と。その動きを「謀反」と断定するのは飛躍だ。その飛躍を埋める筋書きは、こうなるだろう。信西は、二条の次の天皇に守覚を立てようとした。それは、現天皇の二条が持つ皇位の処分権を踏みにじり、正統な次代天皇である二条の息子から皇位を奪い、そして二条が天皇の父として治天の君となって院政を敷ける可能性を奪う。すべて君主権の侵害であるから「謀反」である、と。
【後略】
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※傍点部を太字としました。
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0261 桃崎説を超えて。(その26)─やる気のない帝王・後白河

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第261回配信です。


一、前回配信の補足

守覚法親王の問題は河内祥輔氏が提起。
河内氏の「後白河院黒幕説」は誰の支持も得ていない超絶単独説なので、守覚法親王についても今までさほど検討して来なかった。
しかし、桃崎有一郎氏は河内氏が守覚法親王に着目した点について「従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい」とまで絶賛され、河内説を「二条天皇黒幕説」の立場から修正した独自説を展開。

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

桃崎説は極めて難解だが、これを理解するためには前提として河内説をきちんと押さえておく必要があるので、改めて検討してみたい。


ニ、やる気のない帝王・後白河

資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6ac6391076aea0194097d3924f9f66e

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101
資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

河内説:
「天皇は往々にして、父(祖父)の決めた通りに事が進むことに反発するもの」
「鳥羽自身がそうであった」
「後白河の数々の行状、すなわち、保元の乱で崇徳を葬り去り、平治の乱後に二条と対立し、さらには平清盛とも対立した、その激しさを見るとき、温和に父の遺志を受け容れるイメージは何とも似つかわしくない。むしろ、後白河のような人物にこそ、父に対して反抗する姿が似合っているであろう」
「しかしながら、文献上にその徴証を見出すことができるわけではない。無意味なことと言われるかもしれないが、あえて想像を廻らしてみよう」

二条天皇(1143‐65、母:大炊御門経実女・懿子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
守覚法親王(1150‐1202、母:藤原季成女・成子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%A6%9A%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
以仁王(1151‐80、母:藤原季成女・成子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B

父・鳥羽院が決めた二条天皇ではなく、自分の希望する別の皇子に皇位を継承させようと執念を燃やす後白河院像は、「今様狂いの前半生」(棚橋光男氏)との整合性があるのか。

資料:馬場光子氏『梁塵秘抄口伝集 全訳注』〔2025-02-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de06bbf68834c38687844ac47911b41e
資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2fb5514e7e452060a14f88ad99d998b

二条天皇に主体性を認めず、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終わりとする通説的な立場だと、乱の終了後から後白河と二条の権力闘争が始まり、その嚆矢が桟敷事件となる。
しかし、「二条天皇暴発説」からは、二人の暴力的対立は経宗・惟方流罪で既に終わっていて、以後は比較的平穏な時代が二条の死まで続くことになる。
この間、後白河・二条・藤原忠通・基実の四者による協調期(というより責任回避のタライ回し期)を経て、平滋子所生の皇子(高倉天皇)誕生の頃から後白河が「排除」され、二条と忠通が主導するようになると言われている。
しかし、実際には当該時期から後白河が従来のような形で朝廷の意思決定に関わらなくなった事実が確認されるだけで、「排除」の具体的根拠はない。
→後白河が自制した可能性も。

そもそも三条殿襲撃・放火という二条の露骨な暴力に比べれば、経宗・惟方の捕縛・流罪は微温的な暴力であり、全く釣り合っていない。
経宗・惟方流罪後、後白河は二条を完全に排除することも可能だったはずだが、タライ回しとはいえ、むしろ二条を尊重するような扱い。

平治の乱後、基本的には後白河が二条に対して自制しているのではないか。
その理由は何か。

(1)芸術家肌の後白河はもともと余り政治が好きではない。
(2)信頼を偏愛し、増長させてしまったのは自分で、自分も平治の乱に全く責任がない訳ではない、という引け目。
(3)二条に対する父親としての愛情。

また、二条に対しては藤原伊通が『大槐秘抄』を献じている。
内容は大半が平凡な説教であって、あまり面白いものではない。
ただ、二条も若気の至りをいろいろ反省し、このような忠告を受け容れる程度には成長した、ということで、これも後白河が自制した理由に加えてよいのではないか。
コメント (3)
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資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34533.html

資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8ea4593a6466c0bf0bff9f5a0f7dead
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e
資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』「はじめに」〔2025-01-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/144dd2989f95f008e84c6114845660d1
0259 桃崎説を超えて。(その24)─河内祥輔説の問題点〔2025-02-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac9db96aefb10ef274ecd9767e432a16

p113以下
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(8)皇位継承問題のあり処

 以上のごとく、皇位継承は鳥羽法皇の決めた通りに進んでゆくということであり、もはやその問題は解決し切っているように見える。しかし、はたしていかがであろうか。表面上はそのようであっても、実はそこに問題が胚胎するであろう。
 天皇は往々にして、父(祖父)の決めた通りに事が進むことに反発するものである。鳥羽自身がそうであった。彼が崇徳を冷遇したのは、祖父白河が崇徳を直系に定めたからであった。天皇は後継者を自らの意思で選ぼうとする。それによって、天皇としての自らの権威を確立しようとするのである。後白河についても、この観点は必要であろう。
 後白河は父鳥羽が定めた通りに、二条を直系として素直に認めていたのであろうか。後白河の数々の行状、すなわち、保元の乱で崇徳を葬り去り、平治の乱後に二条と対立し、さらには平清盛とも対立した、その激しさを見るとき、温和に父の遺志を受け容れるイメージは何とも似つかわしくない。むしろ、後白河のような人物にこそ、父に対して反抗する姿が似合っているであろう。
 しかしながら、文献上にその徴証を見出すことができるわけではない。無意味なことと言われるかもしれないが、あえて想像を廻らしてみよう。問題は、二条の即位によって、皇太子が空いたことにある。誰が次の皇太子に立つのであろうか。
 勿論、朝廷には合意があった。二条の男子を皇太子に立てることが鳥羽の遺志であり、そのために鳥羽の皇女(姝子内親王)が二条に配されてもいた。しかしながら、その結婚から二年を経たにもかかわらず、まだ懐妊の徴候はない。他の妻にも子供は生まれていない。まだ合意がそのままに実現されてはいない状態にあった。
 そこで一つの可能性が生まれよう。合意の柔軟な運用という方法である。二条の男子が皇位を継承するという合意を認めた上で、なおその間に別の者の即位があってもよいのではないか、という考え方がありえるだろう。ここに後白河がその意図を実現できる手懸かりが潜んでいるように思われる。二条に男子が誕生しない間がそのチャンスであろう。
 それでは、後白河はどのような皇位継承の候補者を用意できたであろうか。当時、後白河には三人の男子がいた。長男は二条、次男は後の守覚法親王、三男は後の以仁〔もちひと〕である。次男と三男は同腹で、母は藤原季成(公実の男子)の娘季子(高倉三位局)であり、同母姉妹に殷富門院(亮子内親王)や式子内親王らがいる。閑院流が外戚であるとなれば、二条に引けは取らない。次男は一一五九(平治元)年に十歳、三男は九歳であった。
 後白河の妻には中宮に忻子(公能の娘)、女御に琮子(公教の娘)がいた。どちらでも男子を産めば、有力な皇位継承者として公然と浮上したであろうが、ついに男子は生まれていない。したがって、二条以外に皇位継承者を挙げるとなれば、それは次男である。
 この次男は、一一五六(保元元)年十一月、七歳で仁和寺の入道親王覚性に入室し、出家の道を歩んでいた。皇位継承には縁のない存在にされていたわけである。しかし、それで話が決まるかといえば、この場合は必ずしもそうではなかろう。まさに身近に二条の例がある。二条も入室して出家の道を歩みながら、一転、立太子したのであった。二条と同じことが、次男の身の上にも起こらないとは限らない。
 結果をいえば、次男は平治の乱の二ヵ月後、一一六〇(永暦元)年二月十七日に出家を遂げている。これによって、次男、すなわち、守覚の皇位継承資格は失われた。それにしても、平治の乱と守覚の出家との時間的関係はきわめて微妙であろう。守覚がこの二月に出家することは、おそらくかなり以前に決まっていたはずである。平治の乱は、まだ守覚の出家を止めることができるという、そのタイムリミットの時期に起きているのである。
 この点に、卑見は無視しがたい問題性を感じる。たしかに守覚と皇位継承問題との絡みは憶測にすぎず、文献には表れない。しかし、これはそもそも文献に表れるはずのない話なのではなかろうか。
 後白河が守覚の立太子を望んだとしても、彼はそれを誰に相談できるであろか。守覚擁立案に理解を示してくれる者が、後白河の周囲にいるとは思われない。後白河はこの意図を、自分一人の心の中に密かに封じ籠める以外になのではないか。
 まずは信西が問題になろう。もしも信西が守覚擁立案を知れば、おそらく真っ先に反対するであろうという予想がつく。信西に漏らすことはできない。そのような信西は、後白河にとって鬱陶しく邪魔な存在といえるのではないか。
 となると、その信西のライバルとして、信頼がにわかに登場することの意味が問われなければならない。なぜ突然に後白河は信頼を寵愛するようになったのか、一筋の糸が繋がるように思われる。後白河の鬱屈した衝動、すなわち鳥羽法皇の遺志の遵守という合意に対する反感が、そこにみえてくるのではなかろうか。
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参考:河内説への批判

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101
資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1
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資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『後白河法皇』(講談社選書メチエ、1995)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151368
 
資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

p84以下
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今様狂いの前半生

 いよいよ後白河論(本論)に入る。
 まず、関係系図を掲げておこう。《後白河王朝》の創設をめざしての精力的な邁進の日々がご理解いただけるであろう。

鳥羽・後白河関係系図(要部)【略】

 雅仁親王(後白河)の践祚は、一一五五年(久寿ニ)七月二十四日。二九歳(満ニ七歳一〇ヵ月)のことだ。その践祚が鳥羽=美福門院=関白忠通の提携によったこと、むしろ崇徳の子重仁親王即位の野望を封殺し、守仁親王(当時一三歳)即位を実現するまでの"ワンポイント・リリーフ"の性格が当初は強かったこと、践祚・即位後の親政の期間は擁立に暗躍した乳父(乳母の夫)信西が政策立案・遂行の全般をリードし、"後白河親政"というよりは、"信西親政"(「信西政権」)の性格が強かったことなどは周知の事実だ(だから、「後白河が信西を重用した」というよりは「信西が後白河を傀儡にして"自己実現"をはかった」といった方が正確だ)。鳥羽=美福門院=関白忠通ラインの策謀も、信西の思惑も、後白河は少なくとも政治的には暗愚で政治的執着が希薄で、御しやすいという判断が基底にあったことは間違いない。
 ともかく白河院政以降、堀河(一〇歳)、鳥羽(五歳)、崇徳(五歳)、近衛(三歳)と幼少の天皇が続いた。二九歳の践祚はそれだけでも異例であった。そして、践祚までの後白河の前半生は、まさしく《今様狂い》の前半生であり、《今様狂い》は践祚・即位後も際限なく続く。
 まず、そのハンパでない VITA MUSICA =音楽的自叙伝『梁塵秘抄』口伝集巻十から。

【以下二字下げ】
そのかみ十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。……四季につけて折を嫌はず、昼は終日〔ひねもす〕に謡ひ暮らし、夜は終夜〔よもすがら〕謡ひ明かさぬ夜は無かりき。夜は明くれど戸蔀〔としとみ〕を上げずして日出づるを忘れ、日高くなるを知らず。その声を止まず。大方夜昼を分かず、日を過し月を送りき。その間、人数多〔あまた〕集めて、舞ひ遊びて謡ふ時もありき。四五人・七八人、男女ありて、今様ばかりなる時もあり。常に在りしものを番におりて、我は夜昼相具して謡ひし時もあり。又、我独り雑芸集をひろげて、四季の今様・法文〔ほうもん〕・早歌〔はやうた〕に至るまで、書きたる次第を謡ひ尽くす折もありき。声を破〔わ〕る事三箇度なり。二度は法の如く謡ひ交はして、声の出づるまで謡ひ出したりき。あまり責めしかば、喉腫〔は〕れて、湯水通ひしも術無かりしかど、構えて謡ひ出しにき……。

 掲載したのは、口伝集の冒頭部分。このあと、「十余歳」、今様の魅力にとりつかれた初心から治承年間(一一七七~一一八一)、五十代の「今」まで、一途な執心が回顧される
 左の系図は、『今様之濫觴』(尊経閣文庫所蔵)に記す師資相承の系譜をリライトしたもの。口伝集では、回想をたどりつつ後白河の真摯な精進が時を追って綴られていく。
 このような後白河にかかっては、『愚管抄』が「鳥羽院失せさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりにける」とおどろおどろしく書き記した内乱の時代への突入=保元乱も、「鳥羽院崩〔かく〕れさせ給ひて、物騒がしき事ありて、あさましき事出で来て、今様沙汰も無かりしに」という表現になってくるのだ。このような表現と記述に、私は後白河の魔性と狂気を見る。
 口伝集全篇を通じて、今様という芸術の広さと深さが存分に描写されていく。そして次の叙述など、同じ一つの道、芸術を通じてのみ共有することのできる感動が惻々と我々の心を打つ。

【以下二字下げ】
法住寺の広御所にして今様の会あり。小大進が足柄を聞くに、我(後白河)に違はぬ由〔よし〕申す。……人々、「いづらあこ丸がに似たりける。五条がには違がはず」など云ひ合ひたり。「釈迦の御法〔みのり〕は浮木」の歌、「今は当来弥勒」と上ぐる所など、露ばかりも御所(後白河)の御様に違はずと、その座に侍る成親卿……(等)、色代〔しきだい〕かひがひしく、この節〔ふし〕違はぬを賞〔め〕で感ず。広時、「御歌も聞かぬ居中〔いなか〕より上りたるが、欺【ママ】く露違はぬ事の、物の筋あはれなる事」とて流涕するを、人々これを笑ひながら、皆涙を落とす。あこ丸腹立ちて、小大進が背中を強く打ちて、「良かむなる歌、また謡はれよ」と云ふ。皆人憎み合ひたり……。

 今様という芸術のみによって結ばれた人々の、芸道精進の深さの分だけ増幅される愛憎悲喜劇だ。
 口伝集末尾に、後白河は、

【以下二字下げ】
大方、詩を作り和歌を詠み手を書く輩は、書き留めつれば、末の世までも朽つる事無し。声技の悲しきことは、我が身崩〔かく〕れぬる後、留まる事の無きなり……。

と記す。
 一つの芸術をきわめた者のみに許される執心が、傍点部にはこめられている。
-------

※「傍点部」を太字としました。

参考:「梁塵秘抄口伝集巻第十」(「紅玉薔薇屋敷」サイト内)
http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/index10.html

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0260 桃崎説を超えて。(その25)─「平治の乱直前アンケート」

2025-02-06 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第260回配信です。


一、前回配信の補足

資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

呉座氏の見解の興味深い点。
普通は「二条親政派」の筆頭に大炊御門経宗を挙げるが、呉座氏は「藤原惟方ら二条親政派」とする。
経宗は謎の存在。

資料:遠藤基郎氏『後白河上皇 中世を招いた奇妙な「暗主」』〔2025-01-11〕
0243 桃崎説を超えて。(その8)─後白河院と「アスペルガー症候群」〔2025-01-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f123a0c2ea76e7758a7d44570f6cd0e3
資料:遠藤基郎氏『後白河上皇 中世を招いた奇妙な「暗主」』(その2)〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2fc8effdfd6073f8ddd64aac778202e
0245 桃崎説を超えて。(その10)─平治の乱以降の後白河・二条父子の関係〔2025-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65981c52b916a7e741ba8e02949cc673


ニ、「平治の乱直前アンケート」

実施日:平治元年(1159)十一月十五日
対象 :朝廷関係者(武士を含む)
内容 :

Q1:あなたは朝政に興味がありますか。

大いに興味がある。
ある程度興味がある。
あまり興味がない。
全然興味がない。

Q2:Q1で「あまり興味がない」「全然興味がない」と答えた方への質問です。
   あなたが「あまり興味がない」「全然興味がない」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

政治は難しくて理解できない。
政治家の質が低い。
応援したい政治家や派閥がない。
自分がどう考えようが、政治に影響を与えることはできない。
趣味(和歌・今様・管弦・蹴鞠等)の方が大切である。
世俗の出来事には興味がなく、早く出家したい。
その他。(具体的に:            )

Q3:あなたは信西氏の政治運営に満足していますか。

大いに満足している。
ある程度満足している。
あまり満足していない。
全く満足していない。

Q4:Q3で「大いに満足している」「ある程度満足している」と答えた方への質問です。
   あなたが「大いに満足している」「ある程度満足している」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

知識が豊富で信頼できる。
大内裏の造営等の実績が素晴らしい。
従来の慣行にとらわれず、斬新な政策を打ち出してくれる。
性格が良い。
自分の官位官職を引き上げてくれた。
自分に荘園の職などの利権を与えてくれた。
自分の嫌いな人を弾圧・放逐・圧迫するなどしてくれた。
その他。(具体的に:            )

Q5:Q3で「あまり満足していない」「全く満足していない」と答えた方への質問です。
   あなたが「あまり満足していない」「全く満足していない」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

知識が乏しい人を馬鹿にする。
頭が良いのを誇って偉そうにしている。
性格が良くない。
家族・親族への依怙贔屓が過ぎる。
自分の官位官職を引き下げた。
自分の荘園の職などの利権を奪った。
自分の親族や友人を弾圧・放逐・圧迫するなどした。
その他。(具体的に:            )

Q6:Q3で「あまり満足していない」「全く満足していない」と答えた方への質問です。
   仮に信西氏の政治運営を止めさせる動きが生じた場合、あなたは参加しますか。

大いに参加したい。
ある程度参加したい。
あまり参加したくない。
全く参加したくない。

Q7:Q6で「あまり参加したくない」「全く参加したくない」と答えた方への質問です。
   あなたが「あまり参加したくない」「全く参加したくない」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

信西以外の人が政治を運営しても、特に世の中が良くなるとは思えない。
自分が参加しても、特に活躍できそうもない。
トラブルに巻き込まれたくない。
失敗したときの報復が怖い。
その他。(具体的に:            )

Q8:Q6で「大いに参加したい」「ある程度参加したい」と答えた方への質問です。
   あなたが「大いに参加したい」「ある程度参加したい」と答えた理由は何ですか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

正義の実現に貢献したい。
自分の官位官職の上昇につながると予想されるから。
荘園の職の獲得など、自分の経済的地位の上昇につながると予想されるから。
中心となるはず人が、自分の親族・友人だから。
その他。(具体的に:            )

Q9:Q6で「大いに参加したい」「ある程度参加したい」と答えた方への質問です。
   信西氏打倒の手段としてはどこまで許容しますか。
   あてはまるものを以下より選択してください。(複数回答可)

信西氏が失脚するように、後白河院または二条天皇に要請する。
信西氏が失脚するように、信西氏に関する悪い噂などを流す。
信西氏を襲撃し、傷害を負わせる(殺害まではしない)。
信西氏の自宅を襲撃・放火し、信西氏とその家族を殺害する。
信西氏の勤務先である三条殿を襲撃・放火し、信西氏とその家族を殺害する。(三条殿に居合わせた人に多少の犠牲が出るのは仕方ない)
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資料:馬場光子氏『梁塵秘抄口伝集 全訳注』

2025-02-06 | 鈴木小太郎チャンネル2025
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『梁塵秘抄口伝集 全訳注』(講談社学術文庫、2010)

平安末期に大流行した「今様」を集大成し、歌詞集十巻・口伝集十巻、現存すれば五千余首を数え『万葉集』にも匹敵したとされる大歌謡集「梁塵秘抄」。このうち、後白河院が生涯を通しての今様習練、今様の歴史、傀儡女たちとの交流、編纂の意図等を綴った『梁塵秘抄口伝集』こそが主流であった。全訳、懇切な注釈に加え、今様の基礎知識も詳しく解説。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211476

p32
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 神楽〔かぐら〕、催馬楽〔さいばら〕、風俗〔ふぞく〕、今様の事の起こりより始めて、娑羅林〔しやらりん〕・只の今様・片下〔かたおろし〕・早歌、歌ふべきやう、初積・大曲足柄〔だいごくあしがら〕、長歌をはじめとして様々の声変はる様の歌、田歌にいたるまで記し終はりぬ。かやうの事、一様ならねば、のちに謗ること多からむか。それを知らず。
 故事を記し終はわりて九巻は撰び終はりぬ。詠む歌には、髄脳〔ずいなう〕・打聞〔うちぎき〕などいひて多くありげなり。今様には、いまださること無ければ、俊頼が髄脳を学びて、これを撰ぶところなり。
-------

p37以下
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 そのかみ十余歳の時より今にいたるまで、今様を好みて怠ることなし。遅々たる春の日は、枝に開け庭に散る花を見、鶯の啼き郭公〔ほととぎす〕のかたらふ声にもその心を得、蕭々〔せうせう〕たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、夏は暑く冬は寒きをかへりみず、四季につけて折をきらはず。昼はひねもすに歌ひくらし、夜はよもすがら歌ひあかさぬ夜はなかりき。夜は明くれど戸・蔀〔しとみ〕を上げずして、日出づるを忘れ、日高くなるをしらず、その声小止まず。おほかた夜昼を分かず、日を過ぐし月を送りき。
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p42
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 そのあひだ、人あまた集めて舞ひ遊びて歌ふ時もありき。四、五人、七、八人男女ありて今様ばかりなる時もあり。つねにありしものを番におりて、我は夜昼、あひ具して歌ひし時もあり。また我ひとり雑芸集をひろげて、四季の今様・法文・早歌にいたるまで、書きたる次第を歌ひつくす折もありき。声を破〔わ〕ること三箇度なり。二度は法のごとく歌ひ交はして、声の出づるまで歌ひ出だしたりき。あまり責めしかば喉腫れて、湯水かよひしも術〔ずち〕無かりしかど、構えて歌ひ出だしにき。あるいは、七、八、五十日、もしは百日の歌など始めてのち、千日の歌も歌ひ通してき。昼は歌はぬ時もありしかど、夜は歌を歌ひ明かさぬ夜はなかりき。
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p47
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 資賢、季兼など語らひよせても聞き、鏡の山のあこ丸、主殿司〔とのもりづかさ〕にてありしかば、つねに呼びて聞き、神崎のかね、女院に候ひしかば、参りたるには申して歌はせて聞きしを、「あまりにては。時々はこれにても、いかで聞かではあらむずるぞ」とて、「夜まぜに賜ばむ」とて給ひしかば、あの御方へ参る夜は、人をつけて暁帰るを呼び、我給はる夜は、いまだ明かきより取り籠めて歌はせて、聞き習ひて歌ふ歌もありき。明け方に返し遣りても、なほ歌ひしを、かねが局〔つぼね〕、対〔むか〕へなりしかば、明けてのちもなほ鼓の音の絶えぬさまに、「いつの暇にか休むらん」とあさみ申しき。かくのごとく好みて、六十の春秋を過しにき。
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p213以下
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 我、永暦元年十月十七日より精進をはじめて、法印覚讃を先達〔せんだち〕にして、二十三日進発しき。二十五日、厩戸の宿に、為保、左衛門尉にてありしに、それが具したりし先達の夢に、「このたび参らせたまふはうれしけれど、古歌を賜ばぬこそ口惜しけれ」と見たる由を申す。「もとより、王子にては、する事をばすなるに、御歌などは、あるべきものを」など言ふ者ありしかど、「あまり下臈がちにて顕証〔けんそ〕にや」など言ふ者もありて、ありしほどに、かく夢のことを聞きて、左右なく歌はむとて、厩戸を夜深く発ちて、長岡の王子に夜のうちに参りぬ。相具したりしかば、太政大臣清盛、大弐と申しし折なるべし、参りあひてありしに、この夢を言ひ合はせしかば、「さる事候はば、さにこそ候なれ。沙汰に及び候はぬ」由を返事に申して、心のうち、「いたく雑人など数多〔あまた〕ありて、いかが」と思ひけるほどに、きと寝入りたりけるに、束帯したる御前具して、唐車に乗りたる者、御幸のなるやらむとおぼしくて、王子の御前に立てたり。この歌を聞くにかと思ひて、きと驚きたるに、今様を或る人出だしたりけり。その歌に曰く、
  熊野の権現は     名草の浜にぞ降りたまふ
  和歌の浦にましませば 年はゆけども若王子〔にやくわうじ〕
これを、驚きて資賢卿に語りてあさまれける。夢に思ひ合せられて、人々、験兆なる由を申し合ひたりき。霜月二十五日、奉幣して、経供養・御神楽など終はりて、礼殿にて、我音頭にて、古柳よりはじめて、今様・物様〔もののやう〕まで数を尽くす間に、やうやうの琴・琵琶・舞・猿楽を尽くす。初度の事なり。
-------

参考:「梁塵秘抄口伝集巻第十」(「紅玉薔薇屋敷」サイト内)
http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/index10.html
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0259 桃崎説を超えて。(その24)─河内祥輔説の問題点

2025-02-05 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第259回配信です。


一、前回配信の補足

『平治の乱の謎を解く』p185
-------
 二条はこの頃、強い自我によって強引な政治を始めていた。その証拠が藤原多子の入内である〔『今鏡』六─ふじなみの下─宮木野〕。多子は徳大寺公能の娘で、教養高く筆跡・絵・音楽に優れ、下々の者にまで気配りを尽くす「なさけ多くおはします」性格に二条が惚れたらしい。多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺忻子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后となっていた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

「玉突き」の正確な経緯は以下の通り。

-------
(1)「多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は」、保元元年(1156)10月27日、(「多子の義理の姉妹」ではなく)六歳上の同母姉の忻子が後白河天皇に入内して中宮となったことにより、皇后から皇太后に転じ、
(2)保元3年(1158)2月3日、後白河天皇の一歳上の同母姉、統子内親王が(入内ではなく)後白河天皇の「准母」として立后したことにより、皇太后から太皇太后に転じたが、
(3)保元4年(1159)2月21日、姝子内親王が二条天皇に入内して中宮となったことの影響は受けず、「平治の乱の日には」(「皇太后」ではなく)太皇太后となっていた。


「中宮→皇后→皇太后→太皇太后」の順番が「玉突き」のルールであるが、多子は出発点が皇后なので、二回の「玉突き」で太皇太后に。


資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

経宗・惟方の逮捕から六日後、二月二十六日に後白河は公卿を院御所に招集。
議題は皇居の件、日吉社参詣の件、熊野参詣の件の三つ。
特に重要なのは皇居の件。
どこを内裏にするかを議論するのは「院政の復活」を象徴。
何故に後白河院政が突如として復活したのか。
河内氏は、ここで「二条方と貴族の間に亀裂が生じるような問題」として「多子の入内」を提示。
「公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう」とされる。

しかし、河内説では「二代后」問題が平治元年(1159)十二月の三条殿襲撃・京都合戦と切り離され、永暦元年(1160)正月に突如として発生したような印象を受ける。
以前、私はこの問題を「長恨歌絵」と関連づけて、信西は二条天皇に反省を促すために「長恨歌絵」を作成したものと考えた。
しかし、再考の結果、「長恨歌絵」は「二代后」とは無関係と考えるに至った。

0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期〔2024-12-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374251d95ee52146acc518fa6fba966d
0248 桃崎説を超えて。(その13)─「長恨歌絵」再考〔2025-01-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db4abbbc794a481a23e6c1d2f2467d91

ただ、「二代后」問題の発生時期自体は三条殿襲撃の前で間違いないだろう。
『今鏡』には、二条天皇が何度も多子に手紙を書いたが、多子本人は嫌がり、父親の徳大寺公能も繰り返し反対したとある。
さすがに三条殿襲撃以降にそんなのんびりしたやり取りをするはずはなく、二条が「二代后」問題を惹起して公家社会から反発を受け、特に美福門院・姝子内親王との間に緊張をもたらしたのは三条殿襲撃以前であろう。
そして、二条天皇が三条殿襲撃・京都合戦で自分に逆らう者は殺戮も厭わない冷酷な人間であることを公家社会に周知させたために徳大寺公能も恐れをなし、多子の再入内を認めたということであろう。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876


二、河内祥輔説の問題点

『保元の乱・平治の乱』p163
-------
 公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう。
 ここに後白河の付け入る隙が生まれる。後白河は美福門院と貴族の側にすり寄り、二条と経宗・惟方の軽率な行動を咎めることに成功した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

河内氏の議論は「後白河院黒幕説」を前提としているので分かりにくい。
河内説の最大の弱点は後白河院が信西を討つ、しかもその際に自らの御所である三条殿を襲撃・放火させる動機。

河内氏は、後白河が二条を退位させて二条の七歳下の異母弟(守覚法親王)を即位させる計画を立てていて、この計画に反対するであろう信西の殺害を謀ったとする。
しかし、史料的根拠は皆無。
この点については、以前、古澤直人氏の河内説批判を紹介したが、呉座勇一氏の見解が非常に分かりやすい。

資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101

なお、桃崎有一郎氏は河内氏が守覚法親王に着目した点について「従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい」とまで言われるが、河内説を「二条天皇黒幕説」の立場から修正した桃崎説は極めて難解。

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5
コメント (3)
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資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」

2025-02-04 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321609000109/

呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』〔2018-03-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c38d905a374d9dc5a351afb8161781

p43以下
-------
後白河黒幕説は成り立たない

 ところが、河内祥輔氏は右の通説を批判して大胆な新説を提起した。河内氏は平治の乱の政治的背景として後白河院政派と二条親政派の対立を想定する従来の見解を完全に否定する。両派の対立は平治の乱後に発生したものであり、乱前の朝廷は二条親政の速やかな実現という合意が形成されていたというのである。
 確かに両派の対立が露わになるのは平治の乱後であり、乱前から対立していたことを具体的に示す史料はない。信西は後白河上皇の側近だが、もともとは鳥羽法皇の側近であり、鳥羽の遺志である二条親政の実現に反対するはずがないという河内氏の論理展開は一定の説得力を持つ。実際、信西も二条親政への移行は早晩避けられないと考えていた節があり、二条が即位する前から長男俊憲を近侍させるという布石を打っている。
 だが、ここで注意すべきなのは、藤原惟方ら二条親政派が二条天皇の親政の実現そのものを目的としているわけではないという点である。彼らは二条親政下で政治の実権を握ることを目論んでいた。信西は息子たちを朝廷の要所に配置し、二条親政開始に備えて周到に準備を進めていた。惟方らにしてみれば、二条親政が実現したところで、信西一門が権力を維持するのでは意味がない。信西と惟方らの利害が一致していると捉えるのは皮相な見方だろう。
 さて河内氏は、後白河の寵愛によって異例の昇進を遂げた信頼が後白河の意に反する軍事行動を起こすはずはないとする。そして『愚管抄』の記述を読み直し、後白河が信頼らによって監禁されていないと主張した。
 河内氏は従来、藤原信頼らのクーデターにより幽閉された被害者と見られてきた後白河上皇を事件の黒幕とみなす。後白河が側近の信頼に指示して信西を抹殺させたというのである。史料上に後白河の事件への関与が見られないという問題については、清盛の挙兵によって信頼が破れたため、信頼は事件の全責任を押しつけられ、後白河の関与は隠蔽されたと説く。これは、前節で紹介した「立場の逆転」というテクニックである(二二頁を参照)。
 後白河の動機については、後白河が二条を退位させて二条の弟(のちの守覚法親王)を即位させるという計画を秘かに立てており、この計画に反対するであろう信西の抹殺を図った、と河内氏は推測している。つまり、鳥羽法皇の遺志を否定し後白河院政を継続するための「上からのクーデター」だというのである。しかし史料的根拠はなく、想像の域を出ない。
 元木氏が批判するように、仮に後白河が二条親政を阻止したいのならば、真っ先に殺すべきは藤原惟方ら二条の側近であろう。信西一門を標的にするのは筋が通らない。河内説は動機面の説明に大きな問題を抱えていると言わざるを得ない。
 また、何らかの理由で後白河が信西を抹殺したかったとしても、後白河の御所である三条殿を焼き討ちするという過激な方法を採る必然性はない。河内氏は『愚管抄』の記述を再検討し、藤原信頼・源義朝らは三条殿に放火しておらず、三条殿が焼けたのは失火によるものだと主張する。だが古澤氏が批判するように、「三条殿は放火されていない」および「後白河は幽閉されていない」という結論を導いた河内氏の史料解釈はかなり苦しい。
 もし失火だったとしても、その上、後白河が幽閉されていなかったとしても、信頼らの院御所襲撃が後白河の権威を傷つけるものであることは間違いない。後白河が信西を邪魔だと感じたならば、義朝あたりに信西の逮捕を命じれば済む話であり、大規模な軍事行動で人々を怯えさせる必要はない。信西の排除が後白河の意向に反すると考えたからこそ、信頼らは武力に訴えなくてはならなかったのである。したがって、後白河黒幕説は成り立たない。
【後略】
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『増鏡』を読む会(第8回)「後白河院と二条天皇の父子関係」

2025-02-02 | 鈴木小太郎チャンネル2025
毎週土曜日に開催しています。
『増鏡』を基軸として、『平治物語』『今鏡』『平家物語』『吾妻鏡』『承久記』『六代勝事記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『太平記』『梅松論』等にも随時言及し、中世史と中世文学の中間領域を探求して行きます。
第8回のテーマは「後白河院と二条天皇の父子関係」です。
美福門院と信西の「仏と仏との評定」で後白河天皇の二条天皇への譲位が決まった後、平治の乱を挟んで、この二人の父子関係は複雑に変化しており、単純に対立していたとは思えません。
その様相、特に後白河院が息子に対してどのような感情を抱いていたかを考えてみたいと思います。

日時:2月8日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/gakusyuu/map/01.html

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターにて。
https://x.com/IichiroJingu
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資料:桃崎有一郎氏「乱の終幕─三条公教の死、二条の朝覲行幸、美福門院の死」

2025-02-02 | 鈴木小太郎チャンネル2025
資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

p276以下
-------
乱の終幕─三条公教の死、二条の朝覲行幸、美福門院の死

 そうして清盛の権柄掌握が始まる参議昇進の前後に、時代は大きく動いていた。まず、一ヶ月前の七月九日に、内大臣の三条公教が五十八歳で病没した。三条殿襲撃で後白河院政が致命傷を負った後、経宗・惟方を主軸とする二条親政への移行によって朝廷の再起動をすぐさま計画し、二条天皇脱出作戦とそれに伴う京都合戦を立案・準備・遂行するという、並外れた指導力と行動力を発揮して平治の乱の中盤を形作ったフィクサーが、世を去ったのである。それは、二条の手先として最後に消された源光保の誅殺の一ヶ月後だった。その事件と合わせて、公教の死は、二条親政の推進という茶番劇を演じた演者の完全消滅といえる出来事だった。
 その三ヶ月後の一〇月一〇日、乱が本当に終わる決定的な出来事があった。二条が後白河院に朝覲御幸したのだ(『朝覲御幸部類』)。朝覲御幸は、天皇が父母を訪ねてご機嫌伺いをする行事で、息子たる天皇が孝心を発露する、という形で親子円満をアピールする儀礼である。平治の乱で、暴力の応酬という過激な形で対立した後白河と二条が、これで最終的に和睦した。そう天下に公示されたのだ。乱は後白河の勝利に終わったのだから、これは二条の降参に等しい。
 そして、そのわずか六日後に、後白河と清盛の戦勝記念碑である新日吉社・新熊野社に神体を納める遷宮、つまり落成式典が行われた。これらは間違いなく、一つの出来事だ。それは後白河の勝利宣言と二条の敗北宣言による、内戦の終結宣言なのであり、手打ち式なのだった。
 これは、美福門院の完全敗北に等しい。二条の次の皇位を、二条の子が継承できる可能性は低くなった。美福門院の血を引皇子に皇位を継がせるために二条に嫁がせた娘の姝子は、愛する多子一筋の二条に冷遇されて実家に出戻り、病に伏し、出家してしまい、皇子を儲ける可能性がゼロになった。愛息近衛天皇の死を埋め合わせるべく無理を重ねてきた美福門院の画策は、水泡に帰したのだ。
 それを痛感させる二条の敗北宣言(朝覲行幸)の衝撃が、彼女の気力を奪った可能性がある。一ヶ月後の一一月二三日、美福門院は四四歳で病死した。憤死といっていいかもしれない。彼女は、鳥羽院の寵愛に依存し、愛息の近衛天皇の死を頼長の呪詛のせいにして保元の乱の原因を作るなど、朝廷に大混乱をもたらした。そして、養子の二条を正統な皇位継承者にしたい妄執から、中継ぎの後白河と二条の軋轢を招き、二人が衝突する平治の乱の遠因を作った。その朝廷屈指のトラブルメーカーが世を去ったのは、朝廷にとって明らかに安心材料だった。
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0258 桃崎説を超えて。(その23)─「二代后」についての河内祥輔氏の解釈

2025-02-01 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第258回配信です。


一、前回配信の補足

中世の后位の分かりにくさは、皇后の地位が必ずしも天皇の地位と連動しないことが原因。
天皇ではなく、上皇の妻が皇后とされる場合がある。
例えば美福門院は永治元年(1141)十二月に二十五歳で皇后となるが、その時点で鳥羽院は天皇ではない。

美福門院(1117‐60)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BE%97%E5%AD%90

また、「准母立后」という極めて分かりにくい制度もあった。
統子内親王(上西門院)は後白河天皇の一歳上の同母姉だが、保元三年(1158)、後白河天皇の准母として皇后となっている。

准母
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E6%AF%8D
統子内親王(1126‐89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B


0257 桃崎説を超えて。(その22)─「二代后」についての桃崎有一郎氏の解釈〔2025-01-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29e5cd6a6a174745db31aa1d6d931efd

桃崎氏の「多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺欣子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后となっていた」(p185)という説明についての私の指摘は基本的には正しかったが、一部、私にも勘違いがあった。
姝子内親王が中宮となったのは保元4年(平治元年、1159)2月21日だが、これを保元3年(1158)2月21日と勘違いしてしまったため、「⑤と⑥の間は皇后が二人」などと書いてしまった。
正しい時系列は以下の通り。

※配信時にはなお若干の誤記があったので、配信後に再修正しました。

-------
①久安6年(1150)3月14日
  藤原多子(十一歳)皇后

②同年6月22日
  藤原呈子(二十歳)中宮

③保元元年(1156)10月27日
  藤原忻子(二十三歳)中宮
  →藤原呈子(二十六歳)皇后
  →藤原多子(十七歳) 皇太后

④保元3年(1158)2月3日
  統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
  藤原忻子(二十五歳)中宮
  →藤原呈子(二十八歳)皇太后
  →藤原多子(十九歳) 太皇太后

⑤保元4年(1159)2月13日
 ※統子内親王(三十三歳)、院号宣下(上西門院)→皇后ではなくなる。
  藤原忻子(二十六歳)中宮
  藤原呈子(二十九歳)皇太后
  藤原多子(二十歳) 太皇太后

⑥保元4年(1159)2月21日
  姝子内親王(十九歳)中宮
  →藤原忻子(二十六歳)皇后
  藤原呈子(二十九歳)皇太后
  藤原多子(二十歳) 太皇太后
-------


二、「二代后」についての河内祥輔氏の解釈

資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e
資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』「はじめに」〔2025-01-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/144dd2989f95f008e84c6114845660d1
0244 桃崎説を超えて。(その9)─「八条堀川桟敷事件」〔2025-01-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abf9f58bb8f1f74e87d11d0ec7ae07a7
コメント (4)
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0257 桃崎説を超えて。(その22)─「二代后」についての桃崎有一郎氏の解釈

2025-01-31 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第257回配信です。


一、前回配信の補足

資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」〔2025-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d7f2e48b69e586a13acc22cd6697c68

「平治の乱の直後、二条は政治的自立の道を歩み始めていた。その第一歩が、乱翌月の永暦元年(一一六〇)正月に行われた、藤原多子〔まさるこ〕の再入内」
「『平家物語』は多子が天下第一の美人であったためとするが、政治的に重要な点は、多子が閑院流の出身であったこと」
「当時の権大納言・右大将の要職にあった公能は、再入内を渋る多子を、公能は「皇子が誕生すれば私も外祖父になる」と説得したと『平家物語』は伝える。それが事実か定かではないが、再入内後の同年八月に公能が右大臣へと昇進したように、公能にとって多子の再入内が政治的にプラスに働いたことは間違いなく、二条の意図は、後白河の外戚である閑院流を自派に取り込むことにあったと考えられる」
「『平家物語』は、後白河の再入内反対を、二条が「天子に父母なし」と押し切ったとする。これも真偽は定かではないが、院と天皇が婚姻をめぐって対立したことについては先例が存在」
「成人した天皇が親権者たる院からの政治的自立を目指したとき、皇位継承問題と密接にかかわる天皇の配偶者の選択は、一つの着火点たり得た」

→「政治的自立」を二度繰り返す。
 また、『平家物語』については「それが事実か定かではないが」を二度繰り返す。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876


二、「二代后」についての桃崎有一郎氏の解釈

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

p185以下
-------
 二条はこの頃、強い自我によって強引な政治を始めていた。その証拠が藤原多子の入内である〔『今鏡』六─ふじなみの下─宮木野〕。多子は徳大寺公能の娘で、教養高く筆跡・絵・音楽に優れ、下々の者にまで気配りを尽くす「なさけ多くおはします」性格に二条が惚れたらしい。多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺忻子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后【ママ】となっていた。
 別の天皇の配偶者だった過去を持ち、すでに皇太后【ママ】の地位にある女性を、二条が改めて配偶者にするのはおかしい。しかし、『今鏡』に「二条御門の御時あながちに御消息ありければ」とあるように、二条は強引な御消息〔ラブレター〕で彼女を口説いた。この非常識な行動を朝廷の世論は懸念し、入内の栄誉を喜ぶべき実父の公能さえ、何度も二条に翻意を迫った。しかし、二条は聞かず、「しのびたるさま(人目を忍ぶ形)」で多子を内裏に呼び入れ、配偶者にしてしまった。二度目の入内の時、多子はまだ二一歳の若さだったが、一人の女性が二人の天皇に嫁ぐのは前代未聞で、『平家物語』は「二代の后」と呼んで珍しがった。
 この多子の入内は、永暦元年(一一六〇)正月二六日に果たされた。それは京都合戦の一ヵ月ほど後、つまり、平治の乱における戦闘の直後であり、戦後処理が完了する前である。平治の乱の段階で、すでに二条は、世論の反発を顧みずに我意を強引に押し通す君主となっていたのだ。その二条の親政で、彼が傀儡だった可能性はない。経宗・惟方は、二条の意思決定や、決定事項の執行を近臣筆頭として全面的に支えることで「世をなびかせ」る権勢を誇ったが、二条親政は文字通り、主導権を握る二条の親政だったと推断してよい。
-------

「政治的自立」を始めたばかりとする佐伯智広氏に対し、桃崎有一郎氏は、「すでに二条は、世論の反発を顧みずに我意を強引に押し通す君主となっていた」、「彼が傀儡だった可能性はない」とする。

なお、基礎的な事実の点で、桃崎氏には勘違いがある。
「多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺欣子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后となっていた」とあるが、「皇太后」ではなく「太皇太后」。
また、多子は、

(1)保元元年(1156)10月27日、藤原欣子(多子の六歳上の同母姉)が後白河天皇の中宮となったことにより、皇太后となり、
(2)保元3年(1158)2月3日、統子内親王(後白河天皇の一歳上の同母姉)が後白河の「准母」として皇后となったことにより、太皇太后となった、

のであって、保元3年(1158)2月21日、姝子内親王が二条天皇の中宮になったことによる地位の変動はない。


統子内親王(上西門院、1126‐89、六十四歳、鳥羽院皇女、母:待賢門院、後白河准母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
藤原呈子(1131‐76、四十六歳、藤原伊通女、美福門院養女、藤原忠通養女、近衛后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%91%88%E5%AD%90
藤原忻子(1134‐1209、七十六歳、徳大寺公能女、多子の六歳上の同母姉、後白河后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%BB%E5%AD%90
藤原多子(1140‐1201、六十二歳、徳大寺公能女、藤原頼長養女、「二代后」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A4%9A%E5%AD%90
姝子内親王(高松院、1141‐76、三十七歳、鳥羽院皇女、母:美福門院、二条后)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9D%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B


※以下は⑤⑥が誤りです。
姝子内親王が中宮となったのは保元4年(平治元年、1159)2月21日ですが、これを保元3年(1158)2月21日と勘違いしたために、⑤⑥が逆転し、「⑤と⑥の間は皇后が二人」などと書いてしまいました。
ただ、このレジュメを修正すると配信内容との間にズレが生じてしまうので、次回配信のレジュメで修正することとし、こちらはそのままとしておきます。
なお、配信の途中で⑤が変であること(保元3年(1158)2月21日では二条天皇践祚前に姝子が中宮となってしまうこと)に気づき、次回修正する旨を話しています。

-------

①久安6年(1150)3月14日
  藤原多子(十一歳)皇后

②同年6月22日
  藤原呈子(二十歳)中宮

③保元元年(1156)10月27日
  藤原忻子(二十三歳)中宮
  →藤原呈子(二十六歳)皇后
  →藤原多子(十七歳) 皇太后

④保元3年(1158)2月3日
  統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
  藤原忻子(二十五歳)中宮
  →藤原呈子(二十八歳)皇太后
  →藤原多子(十九歳) 太皇太后

⑤保元3年(1158)2月21日
  姝子内親王(十八歳)中宮
  統子内親王(三十二歳)皇后(後白河准母)
  藤原忻子(二十五歳)皇后
  藤原呈子(二十八歳)皇太后
  藤原多子(十九歳) 太皇太后

⑥保元4年(1159)2月13日
 ※統子内親王(三十三歳)、院号宣下(上西門院)
  姝子内親王(十九歳)中宮
  藤原忻子(二十六歳)皇后
  藤原呈子(二十九歳)皇太后
  藤原多子(二十歳) 太皇太后

⑤と⑥の間は皇后が二人。
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0256 桃崎説を超えて。(その21)─「二代后」についての佐伯智広氏の解釈

2025-01-30 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第256回配信です。


一、前回配信の補足

資料:五味文彦氏「乱後の政治」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b474b3322fdc7f881da7795b9e60d7de
資料:永井晋氏「美福門院薨去」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e4606ab9924c493de3b0b74391b6d6

五味文彦氏は、

(1)「四 乱後の政治」とあるので、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終了したと扱う。
(2)平治の乱後、「後白河は院政の復活を試みることになり、また二条も親政の継続を望んだことから、二つの勢力は相争うところとなった」。
(3)平治の乱後も「二条のバックには美福門院がいた」。
(4)藤原多子(二代后)の再入内は「二条の立場を固める意図から発したものであって、『平家物語』に見えるような話は多分に脚色されたもの」。
(5)桟敷事件は「後白河が正月六日に八条堀河の藤原顕長の邸宅に御幸した時」に起きた。
(6)平治の乱後、「国政の案件については、院と天皇の双方へ奏聞を行い、前関白の忠通の内覧を経ていた」、「二頭政治が行われ」ていた。

とされる。
永井晋氏も、

①「平治の乱ののち、二条天皇は美福門院の御所八条殿に移り、後白河院は八条堀河の藤原顕長邸に移った」とされるので、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終了したと扱う。
②経宗・惟方捕縛の「発端となる事件は、永暦元年正月六日に起きた」。
③経宗・惟方捕縛から三月十一日の配流までの経緯から「後白河院と二条天皇のあいだで、権力闘争が始まっているのは明らかである」。
④「鳥羽院のような強力な主導者をもたない二条天皇親政派は、一枚岩ではない。集団を解体させない力はもっているが、その内部をまとめきれていないところが美福門院の限界」なので、平治の乱後も美福門院は「二条天皇親政派」をまとめようとしている。

とされるので、平治の乱の終了と桟敷事件の発生時については五味氏と共通。
また、平治の乱後も二条天皇と美福門院の関係が良好であったと考える点も共通。
しかし、少なくとも桟敷事件の発生時を平治二年(永暦元年)一月六日とする点は奇妙ではないか。

後白河院は一ヵ月前、十二月九日の三条殿襲撃で従来の生活の拠点を奪われ、内裏の「一本御書所」に幽閉されていた。
そして、同月二十五日、「一本御書所」を脱出し、仁和寺を経て平清盛の六波羅亭に移動。
一ヵ月近い不安定な生活が続いた後、一月六日にやっと近臣・藤原顕長邸に落ち着くことができた。
いきなり桟敷で見物を始めるのは変。
『平治物語』の古態本(九条本)では、「二月廿日比に、院も八条堀川の皇后宮権大夫顕長卿の宿所のさしきへ常に出御ありて、四方の山辺のかすミわたれる夕けふりのけしきを叡覧有て、御慰〔なくさミ〕有けるを」とあって、桟敷事件は経宗・惟方捕縛の直前と考えるのが自然。

資料:佐々木紀一氏「永暦の変と後白河院の動機」(その2)〔2025-01-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91e996dc06a8ab5940397d322dfc4e18


二、「二代后」についての佐伯智広氏の解釈

資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」〔2025-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d7f2e48b69e586a13acc22cd6697c68

佐伯説へのいくつかの疑問

(1)「二条が成長して政務を執ることが可能となる年齢(およそ二十歳前後)」とあるが、「およそ二十歳前後」の根拠は何か。
(2)「後白河派は、外戚である藤原氏閑院流や、近親である藤原信頼・成親、源師仲(村上源氏)・義朝らであった」とあるが、「本来は後白河の近臣であった信頼・義朝らが、後白河の院御所を襲撃している」のであるから、そもそもこんな人々を「後白河派」とまとめてよいのか。
「信頼・義朝らは、後白河を見限って、二条派に乗り換えを図った」のではなく、平治の乱の前から「後白河派」「二条派」という強固な二つの派閥があって、両者は対立していたとする前提自体が間違いではないか。
(3)佐伯氏は「後白河にとって最大の支持基盤であった外戚の閑院流は、乱の原因に一切関与しておらず無傷であった」などとして「閑院流」を極めて重視するが、「閑院流」はそれほど有力な集団なのか。「閑院流」を味方につけて、何か特別に良いことがあるのか。少なくとも軍事面では何の役にも立たないはず。
(4)「二条にとっての最大の庇護者であった美福門院」とあるが、「二代后」問題の発生以後も美福門院は「最大の庇護者」だったのか。
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資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」

2025-01-30 | 鈴木小太郎チャンネル2025
樋口健太郎・栗山圭子/編『平安時代天皇列伝』(戎光祥出版、2023)
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/703/

p361以下
-------
院政期に「親政」を布いた天皇

 歴史教科書等で、保元の乱から鎌倉幕府成立に至る平安末期の政治史の叙述を一読すると、貴族の主導者として武士に対したのは、一貫して後白河天皇(院)であったかのような印象を受ける。
 だが、実際には応保元年(一一六一)~仁安元年(一一六六)にかけて、後白河院政は中断していた。応保元年に後白河院政を停止して親政を行ったのが、二条天皇である。それはなぜ可能となったのか、また、二条はいかなる政治を行おうとしたのか、解説していこう。
【中略】
 こうした状況から、現在の研究において、当時の政治体制は信西政権と評されるほどであるが〔五味二〇一一〕、形式としては後白河による院政という形を取っていた。だが、院政という政治形態は、幼少の天皇に代わって直系尊属(父・祖父・曽祖父)として院が政務を代行するという根拠で行われていたから、二条が成長して政務を執ることが可能となる年齢(およそ二十歳前後)が近づくにつれ、後白河の執政を継続しようとする後白河派と、二条への執政交代を望む二条派との間で、利害の対立が生じつつあった。後白河派は、外戚である藤原氏閑院流や、近親である藤原信頼・成親、源師仲(村上源氏)・義朝らであった。これに対し、二条派は、養母である美福門院や、外戚である藤原経宗(懿子の弟)、乳母子である藤原惟方、乳母の父である源光保(美濃源氏、武士)らであった。
 信西は長男の俊憲を二条の蔵人頭として二条への権力移行に備えていたが、弁官や播磨守といった院近臣にとっての主要ポストを息子たちに占めさせたことが、後白河派・二条派双方の敵意を買った。その結果、平治元年(一一五九)、藤原信頼の主導の下、源義朝を主力とする軍勢が、信西の詰めていた後白河の院御所三条殿を襲撃した。これが平治の乱である。
 重要な点は、本来は後白河の近臣であった信頼・義朝らが、後白河の院御所を襲撃していることである。信西は自殺に追い込まれたが、その後の論功行賞も、二条の命令という形式で行われており、後白河は大内裏の一本御書所に押し込められていた。信頼・義朝らは、後白河を見限って、二条派に乗り換えを図ったのである。
 もっとも、旧来の二条派にとってみれば、信西という共通の敵を倒すために後白河派の近臣と手を結んだものの、一時的な呉越同舟であって、本来的な利害は対立する。かくして、二条派は、帰京した中立かつ最大の武力を有する平清盛と連携し、二条を清盛の六波羅第へと脱出させる。後白河にも仁和寺に脱出された旧後白河派は、清盛を中核とする官軍との合戦にも敗北し、平治の乱は終結したのである。
 乱の結果、旧後白河派のうち、信頼は死刑、義朝は東国に落ち延びる途中尾張国で家人長田忠宗(到)によって討たれ、師仲は下野国に流罪、成親は解官などの処分を受けた。ところが、最終的に官軍として勝利したはずの二条派も、経宗・惟方は乱の二ヶ月後に後白河院の命によって捕えられ流罪、光保は乱の半年後に薩摩国に流罪とされ、配流先で殺害されてしまった。直接的な罪状は、経宗・惟方は後白河院に無礼を働いたこと、光保は謀反の噂であったが、背景には、平治の乱を首謀したことに対する貴族社会の反感があったものと考えられている(以上、平治の乱については〔元木二〇一二〕)。
 こうした平治の乱の顛末は、一見すると後白河・二条双方にとって痛み分けに見える。だが、後白河にとって最大の支持基盤であった外戚の閑院流は、乱の原因に一切関与しておらず無傷であった。閑院流はすでに乱前に大臣への昇進を果たすなど摂関家に次ぐ勢力を有しており、信西一門や他の近臣たちは、直接の競争相手ではなかった。この点は摂関家傍流の出身である経宗も同様であり、乱に積極的に関わる必要性はなかったのだが、摂関の地位を狙ってはいたものの、現実には父も自身も大臣昇進すら果たしていなかった焦りが、経宗を乱へと駆り立てたのであろう。
 加えて、平治の乱からおよそ一年後の永暦元年(一一六〇)十一月、二条にとっての最大の庇護者であった美福門院が死去する。こうして二条が自派の有力者をことごとく失った状況下で、応保元年(一一六一)九月、後白河と寵姫平滋子(建春門院)との間に、新たに皇子(のちの高倉天皇)が誕生する。これは二条にとって最大の危機となりえる事態であったが、現実にはこれを機に後白河は政務から排除され、二条は親政を確立するに至った。それはいかにして成ったのか。

二条親政の成立

 平治の乱の直後、二条は政治的自立の道を歩み始めていた。その第一歩が、乱翌月の永暦元年(一一六〇)正月に行われた、藤原多子〔まさるこ〕の再入内である。多子は閑院流の藤原公能の娘で、久安六年(一一五〇)に摂関家の藤原頼長の養女として近衛の皇后となったが、近衛の死後は皇太后を経て太皇太后とされていた。本来、太皇太后は天皇の祖母に与えられる称号であるが、当時は新帝の后が立てられる際に以前の天皇の后がところてん式に押し出されて祭り上げられる地位となっており、多子はいまだ二十二歳【ママ】であった。
 とはいえ、日本において天皇の后が再入内した前例はなく、その後も現代にいたるまで行われていない。二条がそのような前代未聞の行動に出た理由を、『平家物語』は多子が天下第一の美人であったためとするが、政治的に重要な点は、多子が閑院流の出身であったことであり、当時の権大納言・右大将の要職にあった公能は、再入内を渋る多子を、公能は「皇子が誕生すれば私も外祖父になる」と説得したと『平家物語』は伝える。それが事実か定かではないが、再入内後の同年八月に公能が右大臣へと昇進したように、公能にとって多子の再入内が政治的にプラスに働いたことは間違いなく、二条の意図は、後白河の外戚である閑院流を自派に取り込むことにあったと考えられる。
 そしてもう一つ、『平家物語』は、後白河の再入内反対を、二条が「天子に父母なし」と押し切ったとする。これも真偽は定かではないが、院と天皇が婚姻をめぐって対立したことについては先例が存在する。それは、保安元年(一一二〇)、十八歳の鳥羽天皇が祖父白河院の意向に背いて関白藤原忠実の娘泰子(高陽院)を后に迎えようとした事件である。このときは激怒した白河によって忠実が謹慎させられ(翌年関白辞任)、保安四年に鳥羽は崇徳天皇へと譲位させられているが、成人した天皇が親権者たる院からの政治的自立を目指したとき、皇位継承問題と密接にかかわる天皇の配偶者の選択は、一つの着火点たり得たのだ。
-------

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876
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0255 桃崎説を超えて。(その20)─歴史研究者の「二代后」論ないしその不在

2025-01-29 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第255回配信です。


一、前回配信の補足

筒井早苗氏「高松院と澄憲 : 表白の検討を中心に」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第188集、2017)
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2309

p100
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2 高松院の病と出家

 澄憲は高松院の御持僧であったのだろう、さらに高松院と澄憲は、二人の子である海恵が生まれた前年の承安元年(一一七一)頃には関係していたと角田氏により指摘されているが、、二人はいつ頃から接点をもつようになったのだろうか。
 高松院は永暦元年(一一六〇)の早春頃から参内せず、母・美福門院の里第である白河押小路殿に下がっていた。同年秋には病魔に侵され、危篤状態となる。『山槐記』永暦元年八月十九日条には、次のようにある。

【以下二字下げ】
今暁中宮依御悩危急有御出家云々、院去夜有御幸、暁天還御云々、先々此事御発心之由粗有其聞、然而依上皇御制止不令遂御也、<下略>

 高松院は重病のため命の危機に直面し、出家を遂げる。以前から女院は出家を願っていたが、 異母兄の後白河上皇の制止により、 思いとどまっていた。今回の病を機に、女院は素意を遂げることになったのである。
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筒井氏は「永暦元年(一一六〇)の早春頃から参内せず」とされる。
他方、角田文衛氏は、「高松女院」の本文では「中宮・姝子内親王は、立后のあった翌年、すなわち永暦元年(一一六〇)の晩春に里第に遷幸した後は、引続きそこに籠り、再び参内されることはなかった」(p460)とされながら、「高松院年譜」では「早春 この頃より参内せず、専ら白河押小路殿に御座す(『山槐記』)」(p461)とされる。

資料:角田文衛氏「高松女院」(その1)〔2025-01-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15b0f46dd805a9d60cae578372bd979c
0252 桃崎説を超えて。(その17)─角田文衛博士のセクハラ論文を読む。(その1)〔2025-01-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b990b4a0335022d17152c6f7a4a38148

早春なのか、晩春なのか。

『山槐記』永暦元年八月十九日条(『史料大成』)
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今暁中宮依御悩危急有御出家云々、院去夜有御幸、暁天還御云々、先々此事御発心之由粗有其聞、然而依上皇御制止不令遂御也、今有御幸有此事、還御前後之条不知事也、御年廿云々、太悲事也、自去春比不入御禁裏、御白河押小路殿也、及晩頭予聞此事、仍逐電参上、自一昨日重悩、御物気凡不渡云々、御叫音頗漏於玉簾歟〔外歟〕、参上之由触女房退出了、
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八月十九日には病篤く、叫び声が外に漏れるほどの苦しみだった。
しかし、筒井論文によれば、姝子内親王は翌八月二十日から「三七ヶ日法華三昧行法」を行い、九月十日・十一日には法華経書写を行う。

→精神の病なのではないか。
 出家を決断し、世俗の縁を断ち切ったことにより、心の平静を取り戻したのではないか。

平治二年(1259)十二月二十五日、姝子内親王は二条天皇とともに内裏を脱出し、平清盛の六波羅邸に入った。
この点、『愚管抄』には特に記述がないが、『平治物語』には「中宮も、一御車〔ひとつみくるま〕にめされけり」とある。(岩波新体系、p180)
次いで、「カクテ二条院当今ニテオハシマスハ、ソノ十二月廿九日ニ、美福門院ノ御所八条殿ヘ行幸ナリテワタラセ給フ」(『愚管抄』、岩波旧体系、p237)となるが、姝子内親王については記述なし。

→二条天皇に同行せず、直接に白河押小路殿に行った可能性もあるのではないか。


二、歴史研究者の「二代后」論ないしその不在

資料:五味文彦氏「乱後の政治」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b474b3322fdc7f881da7795b9e60d7de

p136
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 二条のバックには美福門院がいた。二条は十二月二十九日に美福門院の八条殿に行幸したが、それを清盛が警護して送り届けている。翌年の永暦元年(一一六〇)正月に二条は近衛天皇の后だった多子〔たし〕を入内させており、これが『平家物語』の「二代の后」の章に取り上げられた話であるが、それは二条の立場を固める意図から発したものであって、『平家物語』に見えるような話は多分に脚色されたものである。
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資料:永井晋氏「美福門院薨去」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e4606ab9924c493de3b0b74391b6d6

永井著には「二代后」への言及なし。
コメント
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