学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0264 桃崎説を超えて。(その29)─「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(後半)

2025-02-14 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第264回配信です。


一、前回配信の補足

『平安時代史事典』には「久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領」とある。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb81adbe9915f86f435607f64ff992e

しかし、野口華世氏の「待賢門院領の伝領」(『平安朝の女性と政治文化』所収、明石書店、2017)によれば、待賢門院領は統子内親王(上西門院)にそのまま継承されたのではなく、いったん崇徳院が管理し、保元の乱の後、統子内親王が継承したとのこと。

『平安朝の女性と政治文化─宮廷・生活・ジェンダー』
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html

資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)(その2)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e801cd773da4a34bf43b0ccc85768b5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d81f56783edab70b0550abc78953490

統子内親王は多数の荘園を領有し、女院庁には練達の事務官僚や有力武士が参集。
和歌など文化活動も盛ん。
出家しても、別に女院庁が解散する訳ではない。
そもそも二条があれこれ指図できるような女性ではない。

保元三年(1158)二月三日 後白河天皇の准母として立后
保元四年(1159)二月十三日 院号宣下
永暦元年(1160)二月十七日 仁和寺法金剛院で出家

なぜ二月に重要行事が集中しているかは分からないが、出家は単に従前(平治の乱勃発以前)から予定されていた行事ではないか。

守覚法親王と上西門院はそれぞれ別個の事情から、平治の乱勃発前に出家の準備がなされ、たまたま同日に出家しただけではないか。
しかし、経宗・惟方捕縛の三日前という点は確かに気になる。
二月十七日に何らかのトラブルが発生し、それが桟敷事件、そして経宗・惟方の捕縛に繋がったのではないか。


ニ、「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(続き)

(3)「皇位継承問題」

桃崎氏は、
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 なぜ、桟敷封鎖事件のような子供じみた嫌がらせ事件が起きたのか、私は長らく疑問に思ってきたが、ここまで多くの考察を重ねた結果、シンプルで最良の答えにたどり着いたようだ。一八歳の二条という、精神的に幼い人の仕業だったのだ、と。
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と言われるが(p192)、これは複雑な検討を重ねた上で到達すべき結論ではなく、むしろ考察の出発点ではないか。

二条天皇(守仁親王)は康治二年(1143)六月十八日生まれなので、平治元年(1159)十二月九日の平治の乱勃発時点では数えで十七歳、満年齢では十六歳。
年が明けて永暦元年(1160)二月の時点でも、満年齢ではまだ十六歳。
この年齢で、まだ自分の子すら生まれていないのに、自分の子孫に皇統を継がせようと血道を上げることがあり得るのか。

「後白河院黒幕説」に立つ河内祥輔氏の場合、「後白河は、二条の弟にあたる守覚の皇位継承を望んだが、それを不可能にして守覚を仁和寺の御室(長)に押し込む出家の予定日が、タイムリミットとして迫っていた」(p189)と想像するのは理解できる。
しかし、「二条天皇黒幕説」に立つ桃崎氏が「<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼」(p190)を自説の基礎とするのは非常に奇妙。
満十六歳の二条が「皇位継承問題」を痛切に意識するのは、さすがにもう少し先の話であろう。

結論として「皇位継承問題」は平治の乱に全く関係がないと考えるべき。
従って、「二条一派の望みに反して、信西は守覚の出家を阻止しようとしていた」(p191)とするのも無理。
確固とした信念から自分の政策を実現することに傾注していた信西にとって、「皇位継承問題」など基本的にどうでも良い話だったはず。
自分が政治を運営できるのであれば、後白河院政であろうと二条親政であろうと、また(二条のまだ生まれもいない皇子を天皇としての)二条院政であろうと、どうでも良かったはず。
コメント (4)
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