学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0263 桃崎説を超えて。(その28)─「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(前半)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第263回配信です。


一、前回配信の補足

(1)女性名の読み方

「プロローグ─平治の乱に秘められた完全犯罪」に、「女性名の読みは確定できないことが多いが、『平安時代史事典』に拠って、正解だった可能性がある一つの読みで、振り仮名を施しておいた」(p12)とある。

平安時代史事典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E5%85%B8

例えば「上西門院」は「統子内親王 むねこないしんのう」を見よ、と案内される。
かなり鬱陶しい。 

(2)天皇の書跡

二条天皇を知る手がかりを得るために書跡を確認しようとしたところ、小松茂美『天皇の書』(文春新書、2006)には項目なし。

小松茂美『天皇の書』(文春新書、2006)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166604999

『宸翰英華』によれば、平安時代の歴代天皇三十二人中、宸翰が残っているのは嵯峨・宇多・醍醐・後朱雀・後白河・高倉の僅かに六代とのこと。

「宸翰英華編纂出版事業経過概要」(『宸翰英華 第二冊』、紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20090514085027/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm


ニ、「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点

資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」〔2025-02-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/241e0e8e3f60ea91047f9b8b78a7c5b3

(1)保元の乱についての認識

p30
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 崇徳や頼長が、本気で反逆を企んでいた形跡はない。この戦争はただ、鳥羽院・後白河の陣営が、頼長への猜疑心を無暗に募らせ、崇徳をも疑い、疑心暗鬼に囚われた根比べに負けて暴発した虐殺にすぎない。この戦争の根本原因は、かつて白河院が忠実を失脚させて忠通を取り立て、摂関家の内部紛争を引き起こしたことと、白河院が待賢門院と密通して不義の子(らしき)崇徳を儲けたことにある。つまり、すべて白河院の乱脈な政治の後始末なのだった。
-------

白河院(1053‐1129)の崩御は平治の乱の三十年前。
桃崎氏の認識は独特。

p187
-------
保元の乱は、後白河天皇が崇徳院・藤原頼長に対して、非常手段に訴えるべき危機感と、断固たる姿勢を示した事件だ。崇徳・頼長が今すぐにでも反逆を起こして後白河天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった天皇側が、手遅れになる前に暴力に訴えたのだ。
-------

これもかなり珍しい立場ではないか。
後白河側(信西・美福門院・藤原忠通)が、謀略的手段も交えて頼長・崇徳を追い詰めたと考えるのが普通では。
なお、後白河個人にとっては、保元の乱は「物騒がしき事」「あさましき事」。
落ち着いて今様を楽しむことができなくなってしまったのが残念(「今様沙汰も無かりしに」)という立場。

資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2fb5514e7e452060a14f88ad99d998b

(2)守覚法親王と上西門院の出家

資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6ac6391076aea0194097d3924f9f66e

桃崎氏は、
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<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼は、別の出来事と組み合わせると、真実に迫る鍵になる。(p190)
-------
とされ、守覚法親王と上西門院の二人が、大炊御門経宗・葉室惟方捕縛の三日前、二月十七日に出家していたこと重視。
そして、
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その事実は、次の構図を浮かび上がらせる。後白河の家族全体に俗世での繁栄を諦めさせる圧力がかかり、上西門院と守覚が出家に追い込まれたのだろう、と。(p191)
-------
と推論。
二人が同日に出家したことは確かに気になる。
しかし、守覚法親王の出家は別に失脚ではなく、仁和寺御室という仏教界の最高レベルの地位につくための栄達の道の出発点。
政治的意味の点でも、女院の出家とは別だろう。

上西門院の出家については、そもそも上西門院は二条に出家を強要されるような立場にはない。
ここが桃崎氏の根本的な誤解。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb81adbe9915f86f435607f64ff992e

資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)(その2)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e801cd773da4a34bf43b0ccc85768b5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d81f56783edab70b0550abc78953490

それでも僅か三日前というのは確かに気になるが、あえて参考になる例を探すとすれば、それは蓮華王院の落慶供養時のトラブルではないか。

資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「「中小別当」惟方」〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34d80c6183d14e3bd8deed97e856e7b2

守覚ないし上西門院出家の儀礼に関して二条・後白河間に若干のトラブルがあり、それが桟敷事件に発展した、といった可能性も考えられる。
桟敷事件はあまりに唐突な感じが否めないが、その前に小さなトラブルがあったと仮定すれば、多少は分かりやすくなる。
仮定に仮定を重ねるのは良いことではないが、桃崎氏の想定が唯一の可能性ではないことを示す意味はあるのでは。
コメント (3)
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資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その2)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『王朝の明暗』p422以下
-------
     三

 『平治物語』(上)は、義朝が源氏重代の太刀や鎧を一男の義平ではなく、三男の頼朝に授与したことに触れて、『三男なれ共、頼朝は末代大将ぞとみ給ひけるにや』と述べているが、これは誤解であろう。重代の宝物が譲与された理由は簡単であって、義平や朝長が庶腹であるに対して、頼朝は嫡腹の子であったからである。
 ところで、頼朝は、保元ニ、三年に十一、二歳で元服し、正六位上に叙されたらしい。保元三年(一一五八)の二月三日、統子内親王が後白河天皇の准母の故をもって皇后に冊立されると、正六位上の頼朝は、皇后宮権少進に任命された。『公卿補任』(文治元年条)や『尊卑分脈』(第三編、清和源氏)には、頼朝が翌平治元年の正月廿九日、右近衛将監を兼任した旨が記されているけれども、これは根本史料によって左兵衛尉と訂正さるべきである。即ち、平治元年二月十三日、皇后・統子内親王が女院に列せられると、頼朝は当然のこととして皇后宮権少進を停められ、代って女院の蔵人に補された。その時、彼の本官は左兵衛尉で、上西門院蔵人は兼職であった。この女院蔵人は、名ばかりのものではなく、現に二月十九日の殿上始〔てんじょうはじめ〕における三回の献盃では、頼朝は別当の藤原実定、殿上人の平清盛など十名ほどの関係者たちに対して初献の杓を取って巡廻しているのである。
 平清盛は、平治元年の初めには、正四位下太宰大弐で、四十二歳であった。二月十九日、上西門院の殿上始において頼朝が若い蔵人(十三歳)として清盛らの盃に酒をついで廻ったこと、従って『平治の乱』以前において清盛が確実に頼朝を見ていることは、注意さるべきである。頼朝は、清盛の好敵手である義朝の嫡妻腹の子であったから、清盛はそれを心に留め、頼朝の風貌や挙止を鋭く観察したことであろう。
 上西門院の蔵人としての頼朝の勤務期間は、非常に短かった。と言うのは、それから間もない三月一日、彼は母の喪に遭い、左兵衛尉ならびに上西門院蔵人を辞したからである。
 平治元年の六月廿八日、頼朝は復任の宣旨を賜わると同時に内の蔵人に補され、今度は二条天皇の側近に仕えることとなった。当時は珍しく内裏が皇居となっていたから、頼朝は、蔵人左兵衛尉として『乱』の勃発(十二月九日)まで内裏に出仕していた訳である。二条天皇の乳母の典侍・源重子(坊門局)は、義朝と昵懇な左衛門尉・源光保の娘であったから、彼の蔵人としての勤務は、それほど苦痛ではなかっただろう。それに院、内裏における暗闘に捲き込まれるにしては、頼朝は齢が若すぎたと認められる。
 頼朝の異母兄・朝長がいつ相模国の松田から京に上ったかは不明であるが、それが保元年間であることは確かであろう。朝長は、直ぐに従五位下に叙され、平治元年の二月廿一日、姝子内親王が二条天皇の中宮に冊立された日、中宮少進に任命された。『吾妻鏡』や『平治物語』(上)が朝長を指して『中宮大夫進』と記しているのは、朝長が従五位下の中宮少進であったためである。『平治物語』(中)が朝長を指して、

  朝長、生年十六歳。雲の上のまじはりにて、器量、ことがら優にやさしくおはしければ……

と評し、田舎育ちの若者にしては、態度や振舞いが洗練されていたと述べているのは、彼が中宮少進として宮廷生活に関係していたからである。中宮・姝子内親王(高松院)は、同じく内裏におられたから、出仕先こそ違え、頼朝は、次兄と一緒に内裏に勤務していた次第である。
 『平治の乱』のさなか、すなわち平治元年十二月十四日に行われた、所謂『信頼人事』によって、頼朝は従五位下右兵衛権佐に叙任された。しかしそれも束の間であって、同じ月の廿八日には、頼朝も位を剥奪の上、解官されたことであった。

     四

 頼朝の政治家としての資質や業績については、『愚管抄』以来今日まで、さまざまな角度から論評されている。この場合、恒に留意せねばならないのは、彼が都において生まれ、中級とはいえ、貴族的環境のもとで都で成人し、かつ短期間ながら女院や内裏で官人生活を送ったと言うことである。
 勤務の系統から見ると、彼は待賢門院─上西門院の圏内にあった。これは、母方の親族の主な人々がこの路線に近く、その方面からの吸引力が強かったからである。殊に上西門院の女房であった母方の伯母は、彼を上西門院側に率いた可能性が多い。確実な証拠はないけれども、彼の母も上西門院に仕えた女房であり、彼自身も殿上童として幼い頃から女院の御所に出入したとみなすのは、可能性に富んだ想定とされよう。
【中略】
 ところで、文治二年(一一八六)八月における将軍・頼朝と西行の鶴岡八幡宮での邂逅や二人の夜を徹しての芳談は、『吾妻鏡』に見られる最も興味深い挿話の一つである。恐らく初対面であろう二人が百年の知己のように終夜語り合えたのは、二人に共通の背景があったためである。
 もともと西行─佐藤義清〔のりきよ〕─は、待賢門院の実兄の左大臣・実能の家人であり、その関係もあって待賢門院や上西門院の御所に出入し、特に歌に優れた女房たちとは昵懇であった。これは、『山家集』の随所から知られるのであって、左の詞書などは、その一例に過ぎぬのである。

【以下二字下げ】
十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける。

頼朝が上西門院に仕えていた時分、西行は高野山に籠っていたから、二人は顔を合わせる機会はなかったであろう。しかし頼朝は、二人の伯母(大進局、千秋尼)や他の女房達からいやと言うほど西行の噂を聴かされていた筈である。
 『山家集』から窺うと、西行は『宮の法印』こと元性と極めて親しかった。四一九頁の系図の示す通り、元性(崇徳天皇々子)の母の典侍は、頼朝の従姉妹であったのである。
【中略】
 他方、文覚が蛭島に配流中の頼朝に強引に蹶起を勧めたと言う話は、『平家物語』や『源平盛衰記』にかなりの潤色を加えて述べられている。ここではこの問題を分析・批判する余白もないし、また頼朝と文覚との永年に亘る交際の歴史を述べる余裕もないけれども、頼朝の旗挙げに関して『愚管抄』(巻第五)に見られる、

【以下二字下げ】
……四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴れたりける、その文覚さかしき事どもを、仰せも無けれども、上下の御の内をさぐりつゝ、いひいたりけるなり。(『御の内』の意味は不明。誤写があるらしい)

と言う記事は、信用してよかろう。文覚が伊豆国に配流されたのは、承安三年(一一七三)五月のことであった。それより四年間、文覚は朝夕頼朝の許に出入し、政界の情勢を説いていずれ蹶起すべきことを勧めたという次第である。しかしそれにしても、文覚はなぜ頼朝の許に気易く出入し得たのであるか。
 ここで改めて注意されるのは、文覚は遠藤左近将監・茂遠の子で、俗名を盛遠と言い、上西門院の所衆〔ところのしゆう〕であったと言う伝承である。彼の父の名については異伝があるけれども、彼が上西門院に出仕していたとする点では、どの史料も一致している。所衆は、蔵人所に属するから、もし盛遠が平治元年頃、上西門院に出仕していたとすれば、頼朝は当然盛遠と面識があった訳である。またたとい出仕の時期が互に喰い違ったとしても、これら二人の流人は、同じ穴の貉であって、共通の話題が多かったはずである。まして二人とも同じ流人と言う身分であり、場所は都よりほど遠い伊豆国の片田舎であってみれば、出会いの当初から二人が互いに親近感を抱いたであろことは、充分に肯けるのである。
 頼朝が都で生まれ、待賢門院や上西門院と関係の深い環境で育ち、少年時代には上西門院に仕えたと言う閲歴は、彼の生涯を考える上で重視さるべきである。その時分に彼が得た印象、体験、願望は、いかに永く阪東に身を置いても払拭されることはなく、心の底に深く沈潜していたのであって、彼が後年、権力の座に就けば、それらは湧然と噴出する可能性があった。
【後略】
-------
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資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『王朝の明暗 平安時代史の研究─第二冊─』(東京堂出版、1977)
http://philosophy7136.blog.fc2.com/blog-entry-771.html

※初出は『古代文化』第26巻第12号(1974)

p414以下
-------
   一

 源頼朝の生母については、学界では余り関心がもたれていないようである。幸田露伴が『母は尾張の熱田の大宮司藤原季範の女』と述べるにとどめているのは、評伝の都合で止むをえなかったにしても、永原慶二氏などですら、

【以下二字下げ】
母は熱田大宮司藤原季範の娘であった。(中略)頼朝の母で義朝の正室だった藤原季範の娘も、種々のことからおして、熱田宮の父のもとにいたとみるよりは、京都にのぼって宮仕えをしていたと考える方が自然のようである。とすれば、頼朝の出生地については、鎌倉説、熱田旗屋町説もあるが、京都とする方がよいということになる。

に見る通り、簡単な説明に終始しておられる。
 その間にあって、大森金五郎氏(一八六七~一九三七)は、頼朝の母についてやや突込んで考究し、頼朝の旗屋町出生説を述べた後に、彼が平治元年(一一五九)三月一日、母を喪ったことを論証されている。
 右の旗屋町出生説というのは、早く『太平記』劔巻にも見える所伝であって、幡屋、すなわち名古屋市熱田区旗屋町の誓願寺の境内を出生地とする伝説である。この誓願寺は、念仏をもって知られた日秀妙光尼が慶長頃に建立した寺院であるが、それ以前、この地には大宮司・千秋家の下屋敷が存したとのことである。これは大変尤もらしい所伝であるけれども、全般的な見地から勘案すると、そう簡単には信用し難いものがあるのである。
 頼朝の母が熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘であったことは、『尊卑分脈』、『公卿補任』等の明記するところであり、何等疑いを要しない。またこの婦人の歿年月日も、大森氏が夙に論証された通りである。即ち、『平家物語』(下)は、永暦元年(一一六〇)二月に捕われた頼朝について、

  去年〔こぞ〕の三月には母御前にをくれまいらせ、……

と記し、頼朝が平治元年(一一五九)三月に母を喪ったことを伝えている。『公卿補任』(文治元年条)は、保元四年(平治元年)のこととして、

  同三月一日服解(母)。

と記載し、この婦人が平治元年三月一日に歿した事実を伝えている。これを傍証するのは、『吾妻鏡』の養和元年(一一八一)三月一日条に見る左の記事である。

  今日、武衛〔頼朝〕、依為御母儀忌日、於土屋次郎義清亀谷堂被修仏事。(下略)

 同じ『吾妻鏡』によると、頼朝の母の七七日の供養は、母の実弟に当たる園城寺の祐範法橋が一切沙汰し、唱導をもって知られた安居院の澄憲(信西入道の子)を導師に請じ、懇に後生を弔ったという。
【中略】

    ニ

 源頼朝の熱田神宮への尊崇は、頗る著名である。無論これは、熱田大神の神威もさることながら、彼の生母が大宮司・季範の娘であったと言う事実に負うているのである。
 しかしながら藤原季範(一〇九〇~一一五五)を単に熱田神宮大宮司とのみみなし、義朝や頼朝の事績を大宮司・季範との関連だけで理解しようとするのは、明らかに一方に偏した見方と言わねばならない。これまでの研究者たちは、この季範が従三位・藤原悦子〔よしこ〕の従兄弟であったという事実を看過することによって大きな不始末を演じている。周知の通り、悦子は、権中納言・藤原顕隆(一〇七二~一一二九)の妻、権中納言・顕頼(一〇九二~一一四八)らの母、そして鳥羽法皇の乳母であった。顕隆・顕頼父子は、官こそ権中納言であったけれども、白河・鳥羽両院の無雙の寵臣であり、隋一の実力者として知られていた。例えば、藤原宗忠は、顕隆の薨伝の中で、

【以下二字下げ】
抑モ去ル保安元年十一月、魚水之契リ忽チ変ジテ自リ、合体之儀俄ニ違ヘシ以来(忠実の関白罷免を指す)、天下之政此ノ人ノ一言ニ在リ。威ハ一天ニ振ヒ、富ハ四海ニ満ツ。世間ノ貴賤傾首セ不ルハ無シ。

と評している。『今鏡』には、顕隆が『世には夜の関白など聞えし』旨を伝えている。顕頼も、乳母子として鳥羽法皇の信任が絶大であったが、彼は策謀に巧みであり、その点では政治家として父より凄みがあった。顕隆、顕頼が院の近臣として顕枢の地位にあったのであるから、鳥羽法皇の乳母としての悦子が隠然たる勢威を保有し、法皇庁への接近が彼女の紅唇にかかるところが大きかったことは当然であろう。
【中略】
 季範の息子・範忠も、熱田大宮司でありながら殆ど都で過ごしていた。彼は、後白河上皇の近臣として上皇に常侍しており、大宮司の職にあっても、熱田神宮の方はいつも留守にしていた。『後清録記』の応保二年(一一六二)六月廿三日条には、範忠が上皇の側近として二条天皇の逆鱗に触れ、周防国に配流されたことについて、

  藤範忠〈周防。 前内匠頭、式部、熱田宮司。〉

と見えている。範忠が左近衛将監を経て、応保元年十一月に内匠頭に任じられたことは、他の史料からも知られる。要するに、範忠は、熱田神宮の大宮司でありながら、専ら都に居住し、中央官人としての途を歩んでいたのである。
 ここに掲げた系図三編は、『尊卑分脈』の記載に基づいて作成したものである。いま、系図を眺めると、季範は都に居住しながらいかに待賢門院に接近することを図っていたかが了解されるのである。
【中略】
 近衛天皇の治世、即ち一一五〇年前後において清和源氏を代表する大立者は、源頼政、源為義、源義康の三人であった。彼等について指摘されるのは、武門としての実力を涵養する一方、婚姻関係を通じて裏から法皇や女院に取入ろうと努めていたことである。四二〇頁の系図に示した通り頼政(一一〇五~七九)【ママ】の母は、弁三位・悦子の姪であったし、彼自身は娘を源隆保の妻としている。また四一九頁の系図に見るように、源義康(足利判官)は、鳥羽法皇の北面に祗候している間に前記の範忠の娘を娶っているし、彼の息子のうち、義清は上西門院判官代、義長は上西門院蔵人、義兼は八条院(暲子内親王)蔵人を勤めた。源為義(一〇九六~一一五六)は、白河法皇の眷顧を蒙っていた太皇太后(令子内親王)大進の藤原忠清─寵臣・隆時の弟─の娘を娶って義朝(一一二三‐六〇)を儲けた。『保元物語』(上)に為義の言葉として、『嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて』、とある通り、義朝は早く坂東に下向し、鎌倉を根拠地として自家の勢力の培養に努め、その間、一、二人の現地妻に義平、朝長らを産ませていた。
 久安元年(一一四五)において義朝は、廿四歳となっていた。その頃、彼は上洛して暫く都に逗留していたらしく、この間にどう言う手蔓によってか季範の娘を正妻に迎えたことであった。その時分、為義は検非違使左衛門大尉として院の北面に祗候し、大いに活躍していた。この為義の嫡男たる義朝は、婿として好条件を備えていたと言ってよい。
 四二一頁の系図は、源義朝の母方の親族を示している。これを一瞥するならば、権中納言清隆(一〇九二~一一六二)を初めとして、待賢門院や上西門院の関係者が多いのに驚かされる。また待賢門院と極めて親密であった太皇后・令子内親王(白河皇女)の関係者たちも若干混っている。これらの人々が待賢門院女房・大進局の妹と義朝の縁結びに協力したことは、充分に思考【ママ】されるのである。
 こうして義朝は、季範の娘を正妻に迎え、頼朝(久安三年出生)、希義、某女を儲けたが、前期の通り、この正妻は、平治元年(一一五九)三月に歿したのである。この某女は、四三二頁に説く通り、権中納言・藤原能保の妻となって大きな歴史的役割を果たしたのであるが、二人の結びつきが古く由来することは、四一九頁の系図を見れば判然とするであろう。
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資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『平安時代史事典』より。

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統子内親王 むねこないしんのう
(一一二六~八九)鳥羽天皇第二皇女。母は大納言藤原公賢女璋子(待賢門院)。同母兄弟に禧子内親王、後白河天皇、通仁・君仁・本仁親王(覚性法親王)がいた。大治元年七月二十三日誕生。本名恂子。同年十二月着袴。翌年四月、無品のまま三后に准ぜられ、賀茂斎王に卜定。長承元年(一一三二)病のため在任六年にして退下。同三年、式部大輔藤原敦光の勘申により改名。康治二年(一一四三)新造三条烏丸第に移徙。久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領。同三年、三条東洞院第に遷る。保元三年(一一五八)、同母弟後白河天皇の准母として皇后に冊立。翌平治元年院号を宣下され、上西門院と号した。永暦元年(一一六〇)法金剛院において出家。法名は真如理といった。寿永元年(一一八二)関白藤原基房の子家房を養子とする。文治五年七月、六条院において崩御。法金剛院において火葬に付された。武家政権の出現に果たした役割は大きく、源義朝・頼朝の政治的進出の背景には上西門院の存在があった。義朝は上西門院の女房である大進と婚しており、また頼朝は上西門院蔵人を務め、右兵衛権佐に任ぜられている。また和歌に秀で、一大文芸サロンを形成。西行との交流も深かった。
[史料]【中略】
[研究]目崎徳衛『西行の思想史的研究』(東京、昭53)、五味文彦『院政期社会の研究』(東京、昭和59)、所京子『斎王和歌文学の史的研究』(東京、平1)
[関口勉]
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