学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」

2025-02-04 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321609000109/

呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』〔2018-03-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/78c38d905a374d9dc5a351afb8161781

p43以下
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後白河黒幕説は成り立たない

 ところが、河内祥輔氏は右の通説を批判して大胆な新説を提起した。河内氏は平治の乱の政治的背景として後白河院政派と二条親政派の対立を想定する従来の見解を完全に否定する。両派の対立は平治の乱後に発生したものであり、乱前の朝廷は二条親政の速やかな実現という合意が形成されていたというのである。
 確かに両派の対立が露わになるのは平治の乱後であり、乱前から対立していたことを具体的に示す史料はない。信西は後白河上皇の側近だが、もともとは鳥羽法皇の側近であり、鳥羽の遺志である二条親政の実現に反対するはずがないという河内氏の論理展開は一定の説得力を持つ。実際、信西も二条親政への移行は早晩避けられないと考えていた節があり、二条が即位する前から長男俊憲を近侍させるという布石を打っている。
 だが、ここで注意すべきなのは、藤原惟方ら二条親政派が二条天皇の親政の実現そのものを目的としているわけではないという点である。彼らは二条親政下で政治の実権を握ることを目論んでいた。信西は息子たちを朝廷の要所に配置し、二条親政開始に備えて周到に準備を進めていた。惟方らにしてみれば、二条親政が実現したところで、信西一門が権力を維持するのでは意味がない。信西と惟方らの利害が一致していると捉えるのは皮相な見方だろう。
 さて河内氏は、後白河の寵愛によって異例の昇進を遂げた信頼が後白河の意に反する軍事行動を起こすはずはないとする。そして『愚管抄』の記述を読み直し、後白河が信頼らによって監禁されていないと主張した。
 河内氏は従来、藤原信頼らのクーデターにより幽閉された被害者と見られてきた後白河上皇を事件の黒幕とみなす。後白河が側近の信頼に指示して信西を抹殺させたというのである。史料上に後白河の事件への関与が見られないという問題については、清盛の挙兵によって信頼が破れたため、信頼は事件の全責任を押しつけられ、後白河の関与は隠蔽されたと説く。これは、前節で紹介した「立場の逆転」というテクニックである(二二頁を参照)。
 後白河の動機については、後白河が二条を退位させて二条の弟(のちの守覚法親王)を即位させるという計画を秘かに立てており、この計画に反対するであろう信西の抹殺を図った、と河内氏は推測している。つまり、鳥羽法皇の遺志を否定し後白河院政を継続するための「上からのクーデター」だというのである。しかし史料的根拠はなく、想像の域を出ない。
 元木氏が批判するように、仮に後白河が二条親政を阻止したいのならば、真っ先に殺すべきは藤原惟方ら二条の側近であろう。信西一門を標的にするのは筋が通らない。河内説は動機面の説明に大きな問題を抱えていると言わざるを得ない。
 また、何らかの理由で後白河が信西を抹殺したかったとしても、後白河の御所である三条殿を焼き討ちするという過激な方法を採る必然性はない。河内氏は『愚管抄』の記述を再検討し、藤原信頼・源義朝らは三条殿に放火しておらず、三条殿が焼けたのは失火によるものだと主張する。だが古澤氏が批判するように、「三条殿は放火されていない」および「後白河は幽閉されていない」という結論を導いた河内氏の史料解釈はかなり苦しい。
 もし失火だったとしても、その上、後白河が幽閉されていなかったとしても、信頼らの院御所襲撃が後白河の権威を傷つけるものであることは間違いない。後白河が信西を邪魔だと感じたならば、義朝あたりに信西の逮捕を命じれば済む話であり、大規模な軍事行動で人々を怯えさせる必要はない。信西の排除が後白河の意向に反すると考えたからこそ、信頼らは武力に訴えなくてはならなかったのである。したがって、後白河黒幕説は成り立たない。
【後略】
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