学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0259 桃崎説を超えて。(その24)─河内祥輔説の問題点

2025-02-05 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第259回配信です。


一、前回配信の補足

『平治の乱の謎を解く』p185
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 二条はこの頃、強い自我によって強引な政治を始めていた。その証拠が藤原多子の入内である〔『今鏡』六─ふじなみの下─宮木野〕。多子は徳大寺公能の娘で、教養高く筆跡・絵・音楽に優れ、下々の者にまで気配りを尽くす「なさけ多くおはします」性格に二条が惚れたらしい。多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺忻子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后となっていた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

「玉突き」の正確な経緯は以下の通り。

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(1)「多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は」、保元元年(1156)10月27日、(「多子の義理の姉妹」ではなく)六歳上の同母姉の忻子が後白河天皇に入内して中宮となったことにより、皇后から皇太后に転じ、
(2)保元3年(1158)2月3日、後白河天皇の一歳上の同母姉、統子内親王が(入内ではなく)後白河天皇の「准母」として立后したことにより、皇太后から太皇太后に転じたが、
(3)保元4年(1159)2月21日、姝子内親王が二条天皇に入内して中宮となったことの影響は受けず、「平治の乱の日には」(「皇太后」ではなく)太皇太后となっていた。


「中宮→皇后→皇太后→太皇太后」の順番が「玉突き」のルールであるが、多子は出発点が皇后なので、二回の「玉突き」で太皇太后に。


資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

経宗・惟方の逮捕から六日後、二月二十六日に後白河は公卿を院御所に招集。
議題は皇居の件、日吉社参詣の件、熊野参詣の件の三つ。
特に重要なのは皇居の件。
どこを内裏にするかを議論するのは「院政の復活」を象徴。
何故に後白河院政が突如として復活したのか。
河内氏は、ここで「二条方と貴族の間に亀裂が生じるような問題」として「多子の入内」を提示。
「公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう」とされる。

しかし、河内説では「二代后」問題が平治元年(1159)十二月の三条殿襲撃・京都合戦と切り離され、永暦元年(1160)正月に突如として発生したような印象を受ける。
以前、私はこの問題を「長恨歌絵」と関連づけて、信西は二条天皇に反省を促すために「長恨歌絵」を作成したものと考えた。
しかし、再考の結果、「長恨歌絵」は「二代后」とは無関係と考えるに至った。

0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期〔2024-12-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374251d95ee52146acc518fa6fba966d
0248 桃崎説を超えて。(その13)─「長恨歌絵」再考〔2025-01-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db4abbbc794a481a23e6c1d2f2467d91

ただ、「二代后」問題の発生時期自体は三条殿襲撃の前で間違いないだろう。
『今鏡』には、二条天皇が何度も多子に手紙を書いたが、多子本人は嫌がり、父親の徳大寺公能も繰り返し反対したとある。
さすがに三条殿襲撃以降にそんなのんびりしたやり取りをするはずはなく、二条が「二代后」問題を惹起して公家社会から反発を受け、特に美福門院・姝子内親王との間に緊張をもたらしたのは三条殿襲撃以前であろう。
そして、二条天皇が三条殿襲撃・京都合戦で自分に逆らう者は殺戮も厭わない冷酷な人間であることを公家社会に周知させたために徳大寺公能も恐れをなし、多子の再入内を認めたということであろう。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a
資料:『源平盛衰記』巻第二(ろ巻)「二代后の事 附 則天皇后の事」〔2025-01-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eff0f461d9bea75d10cfa4ef78002876


二、河内祥輔説の問題点

『保元の乱・平治の乱』p163
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 公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう。
 ここに後白河の付け入る隙が生まれる。後白河は美福門院と貴族の側にすり寄り、二条と経宗・惟方の軽率な行動を咎めることに成功した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

河内氏の議論は「後白河院黒幕説」を前提としているので分かりにくい。
河内説の最大の弱点は後白河院が信西を討つ、しかもその際に自らの御所である三条殿を襲撃・放火させる動機。

河内氏は、後白河が二条を退位させて二条の七歳下の異母弟(守覚法親王)を即位させる計画を立てていて、この計画に反対するであろう信西の殺害を謀ったとする。
しかし、史料的根拠は皆無。
この点については、以前、古澤直人氏の河内説批判を紹介したが、呉座勇一氏の見解が非常に分かりやすい。

資料:呉座勇一氏「後白河黒幕説は成り立たない」〔2025-02-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07d600df87b72b2bb5031650cbbbf1

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101

なお、桃崎有一郎氏は河内氏が守覚法親王に着目した点について「従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい」とまで言われるが、河内説を「二条天皇黒幕説」の立場から修正した桃崎説は極めて難解。

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5
コメント (3)
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