学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

和知の場面の英訳(その1)

2014-10-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月12日(日)20時12分38秒

『日本中世の領主一揆』全体の中では『とはずがたり』に関する部分などどうでも良い話で、私も別に呉座氏の「中世人の名誉観念に関わる問題」の一般論に疑問を抱いている訳ではなく、『とはずがたり』を基礎に論じるのはどんなものかなあ、と考えているだけです。
また、私にとって『とはずがたり』全体の中では和知の場面などどうでも良い話だったのですが、何故か歴史研究者の琴線に触れる要素があるらしいので、少し丁寧に検討してみようかな、と思います。
さて、久しぶりに『とはずがたり』の注釈書をいくつかめくってみて、ついでに「下人」は英訳ではどうなっているのだろうと思ってカレン・ブラゼル氏の The Confessions of Lady Nijo を見たら、まあ、これは servant でしたね。
ついでのついでですが、『とはずがたり』に興味を持っていても英訳までは調べていない人が多いと思うので、参考までに和知の場面を紹介してみます。
カレン・ブラゼル氏の翻訳は1973年にスタンフォード大学出版会から出ていて、日本で『とはずがたり』のまともな注釈書が出始めてから間もなくですから、時期的にはずいぶん早いですね。


The Confessions of Lady Nijo
http://www.sup.org/book.cgi?id=2484

-----------
 Toward the end of the eleventh month I was happy to learn of a ship bound for the capital, but no sooner had we embarked than a heavy sea with high winds, snow, and hail made progress difficult, and I was in a state of terror. When we put ashore I inquired about Bingo province, and upon being told it was nearby, I disembarked at once and set out for the home of the lady I had met earlier on board the ship to Itsukushima, following her writen directions to Wachi. The first several days I spent there passed pleasantly enough for me, except that there were four or five cruelly overworked men and women whom the master abused almost every day. It was more than I could stand to watch. What kind of place was this? I also learned that the men used falconry to kill large numbers of birds, and that they hunted down wild animals as well, so heavy was their evil karma.

falconry:鷹狩
evil karma:悪業深重

 The lay priest Hirosawa Yoso, who was closely connected with the Kamakura government, sent word that he would visit here on his way to Kumano Shrine, whereupon the household, and indeed the entire district, went into a flurry of preparations. The master of the house where I was staying wanted a picture painted on a screen he had had covered with silk, and without really considering it, I said that if I had the proper materials I would be glad to paint the screen. Everything I needed was available in Tomo, I was assured, and a servant was sent to fetch it. I began to regret my offer, but seeing no way out of it, when the materials arrived I did the painting. The master expressed his delight and added, "You must settle down here," which seemed even at the time to be a strange remark.

lay priest:(直訳すれば「俗人の聖職者」)入道
※原文では「今は、これに落ちとゞまり給へ」と敬語を用いている部分、"You must settle down here," となっている。

 During his elaborate welcome, the lay priest noticed my painting. "Such skill is not usually found in the countryside. Who is the artist?" he asked.
 "Someone staying here," was the reply.
 "I suppose she can also write poetry. It would be a pleasure for me to meet such an accomplished person."
 Uneasy at the thought of meeting him, I suggested we could have a more leisurely visit on his return from Kumano, and I fled in confusion.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「法人格」

2014-10-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月12日(日)10時03分36秒

>筆綾丸さん
神田千里氏の『織田信長』、読んでみたいと思います。

筆綾丸さんが10月5日の投稿で触れられている「法人格」ですが、法律の世界でも「権利義務の帰属主体であって自然人以外のもの」程度の意味で用いるのが普通なので、私は呉座氏の表現に特に違和感は抱きませんでした。
<「北方一揆」という集団は、一揆全体として一個の直勤御家人(幕府直臣)=国人に匹敵する身分を有していたと考えられる>(p43)のであれば、適切な用法だと思います。
他の歴史学者も、例えば「村請制」に関して「村」が法人格を有していた、といった説明をする人は多く、呉座氏はオーソドックスな表現を用いているだけみたいですね。

ちなみに呉座氏が批判している「中世後期の在地法秩序に関する再検討─肥前松浦党一揆を素材にして」(『法制史研究』44号、1994)の著者・西村安博氏は現在は同志社大学教授だそうですね。

--------
鳥取市生まれ。鳥取西高校卒業。九州大学法学部(法律専攻)、九州大学大学院法学研究科修士課程・博士課程(基礎法学専攻)に学ぶ。日本法制史について石塚英夫、植田信廣両教授の指導を仰ぐ。九州大学法学部助手、新潟大学法学部助教授等を経て、2003年4月、同志社大学法学部助教授に着任、2005年4月より同教授。博士(法学、九州大学)。

呉座氏は「第三章 松浦一揆研究と社会集団論」の注(20)で、

---------
そもそも一揆の法を形式的な「スローガン」にすぎないと評価する西村氏が、一揆の押書状から"反対解釈"を導き出すのは論理矛盾ではないだろうか。一揆の法が単なるスローガンなら、その条文が近代法的な厳密さを備えているはずがない。西村氏は近代的な法概念を中世社会に持ち込んでいるように思えてならない。
---------

と書いていますが、まあ、これは呉座氏の言われる通りなのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

the most ungraspable human destinies 2014/10/10(金) 16:18:36
小太郎さん
「さても、不思議なりし事はありしぞかし。この入道下り会はざらましかば、いかなる目にか遭はまし。「主にてなし」と言ふとも、たれか方人もせまし。さるほどには、何とかあらましと思ふより・・・」という文がまた曲者であって、
http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-29553516
---------------
The academy said the award was "for the art of memory with which he has evoked the most ungraspable human destinies and uncovered the life-world of the occupation".
---------------
本年度ノーベル文学賞の授賞理由「the most ungraspable human destinies」と似ていなくもなく、二条の下人論は事実なのか、あるいは、ただの the art of memory にすぎないのか・・・歴史研究者が誑かされているのでなければ良いのですが。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480067890/
神田千里氏の『織田信長』を読み終わりました。
信長はサン=テグジュペリ『星の王子さま』冒頭の箱の絵の中のヒツジのようなものだ、と神田氏は言われますが、信長と Le Petit Prince は意表を突く組み合わせですね。
---------------
信長はいわば、頑丈な観念の「箱」に入っているといってよい。様々な学問上の成果の登場にもかかわらず、信長の「箱」は牢固として健在なのが現状である。(14頁)
---------------
そして「本当の」織田信長は、この観念の中に収まっているわけではなく、実をいえば厖大な史料の集積という、外から見ただけでは分からない「箱」の中に入っている。こちらの方が信長の「本当の箱」なのである。「箱」の中の人物はどんな人だったのか、納得のいくまで調べようとするならば、「王子さま」がやったように自分で穴から覗く、すなわち史料を自力で読んでみる他ない。(229頁)
---------------

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9C%E3%83%A9%E5%B7%9D
『日本通信』(1598年)が出版されたポルトガルのエヴォラは Evora で(232頁)、コンゴの Ebola 川とは何の関係もないのですね。

信長が義昭に宛てた「十七箇条の諫言」(48頁~)は、聖徳太子の「十七条憲法」の駄洒落ではあるまいか、とふと思い、なんだか大発見のような気がしました。

-----------
第一日本で当毛利家と和睦すれば平和になるのですから、天下を握っておられる方にとって、上分別というものでしょう<第一日本に当家一味に候へば、太平になり行く事に候条、天下持たれ候上にての分別には尤もに候>。(133頁)
-----------
この「日本」は日本六十余州のことで、天下を五畿内に限るとすれば、天下⊆日本という理解で良いのでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』の和知の場面(その2)

2014-10-10 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月10日(金)09時40分50秒

続きです。

-------
 この主、事のやう言ひて、「よしなき物参り人ゆへに、兄弟仲ひぬ」と言ふを聞きて、「いと不思議なる事なり」と言ひて、「備中の国へ、人を付けて送れ」など言ふもありがたければ、見参して、事のやう、「能は仇なる方もありけり。御能ゆへに、欲しく思ひまいらせて、申けるにこそ」と言ひて、連歌し、続歌など詠みて遊ぶほどに、よくよく見れば、鎌倉にて飯沼の左衛門が連歌にありし者なり。その事言ひ出して、ことさらあさましがりなどして、井田といふ所へ帰りぬ。雪いと降りて、竹簀垣といふ物したる所のさまも、慣らはぬ心地して、

 世を厭ふならひながらも竹簀垣憂き節々は冬ぞ悲しき

 年も返りぬれば、やうやう都の方へ思ひ立たむとするに、余寒なを烈しく、「船もいかゞ」と面々に申せば、心もとなく、かくゐたるに、如月の末にもなりぬれば、このほどと思ひ立つよし聞きて、この入道、井田といふ所より来て、継歌など詠みて、帰るとて、餞など、さまざまの心ざしをさへしたり。これは、小町殿のもとにおはします中務の宮の姫君の御傅なるゆへに、さやうのあたりをも思ひけるにやとぞおぼえ侍し。
 これより、備中、荏原といふ所へまかりたれば、盛りと見ゆる桜あり。一枝折りて、送りの者に付けて、広沢の入道につかはし侍し。

 霞こそ立ち隔つとも桜花風のつてには思ひをこせよ

二日の道を、わざと人して返したり。

 花のみか忘るゝ間なき言の葉を心は行て語らざりけり

 吉備津宮は都の方なれば、参りたるに、御殿のしつらいも社などはおぼえず、やう変はりたる宮寺体に、几帳などの見ゆるぞ珍しき。日も長く、風おさまりある頃なれば、ほどなく都へ帰り侍ぬ。
 さても、不思議なりし事はありしぞかし。この入道下り会はざらましかば、いかなる目にか遭はまし。「主にてなし」と言ふとも、たれか方人もせまし。さるほどには、何とかあらましと思ふより、修行も物憂くなり侍て、奈良住みして、時々侍。
-------

ということで、この後は東二条院崩御の場面に続くので、和知の一件は嘉元元年(1303)から二年(1304)にかけての出来事だったことになりますね。

『とはずがたり』巻五「帰洛、東二条院の病と死を聞く」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』の和知の場面(その1)

2014-10-09 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 9日(木)23時35分34秒

『とはずがたり』の和知の場面に言及しているサイトはいくつかありますね。

『備後山城風土記』
http://blogs.yahoo.co.jp/rokutopuu19551219/6337691.html
『武家家伝』・和知氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wati_k.html

ただ、原文を紹介しているサイトはないようなので、参考までに『新古典文学大系 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)から引用してみます。(p219以下)

--------
 とかくするほどに、霜月の末に成にけり。京への船の便宜あるも、何となくうれしくて、行くほどに、波風荒く、雪、霰しげくて、船も行きやらず。肝をのみつぶすもあぢきなくて、備後の国といふ所を尋ぬるに、こゝにとゞまりたる岸より程近く聞けば、下りぬ。船の内なりし女房、書き付けて賜びたりし所を尋ぬるに、ほど近く尋会ひたり。
 何となくうれしくて、二三日経るほどに、主がありさまを見れば、日ごとに男、女を四五人具し持て来て、打ちさいなむありさま、目も当てられず。こはいかにと思ふ程に、鷹狩とかやとて、鳥ども多く殺し集む。狩とて、獣持て来るめり。大方、悪業深重なる節、鎌倉にある親しき者とて、広沢の与三郎入道といふ者、熊野参りのつゐでに下るとて、家の中騒ぎ、村郡の営みなり。
 絹障子を張りて、絵を描きたがりし時に、何と思ひ分く事もなく、「絵の具だにあらば、描きなまし」と申たりしかば、「鞆といふ所にあり」とて、取りに走らかす。世に悔しけれども、力なし。持て来たれば、描きぬ。喜びて、「今は、これに落ちとゞまり給へ」など言ふも、おかしく聞くほどに、この入道とかや来たり。大方、「何とがな」ともてなすに、障子の絵を見て、「ゐ中にあるべしともおぼえぬ筆なり。いかなる人の描きたるぞ」と言ふに、「これにおはしますなり」と言へば、「さだめて歌など詠み給ふらん。修行の習ひ、さこそあれ。見参に入らん」など言ふもむつかしくて、熊野参りと聞けば、「のどかに、この度の下向に」など言ひまぎらかして、立ちぬ。
 このつゐでに、女房二三人来たり。江田といふ所に、此主の兄のあるが、娘よすがなどありとて、「あなたざまをも御覧ぜよ。絵のうつくしき」など言へば、この住まひも余りにむつかしく、「都へは、この雪にかなはじ」と言へば、年の内にありぬべくやとて、何となく行たるに、この和知の主、思ふにも過ぎて腹立ちて、「我年頃の下人を逃がしたりつるを、厳島にて見つけてあるを、又江田へかどはれたるなり。打ち殺さむ」などひしめく。とは何事ぞと思へども、物おぼえぬ者は、「さる中夭にもこそあれ。な働きそ」など言ふ。
 この江田といふ所は、若き娘どもあまたありて、情けあるさまなれば、何となく、心とゞまるまではなけれども、先の住まひよりは心延ふる心地するに、いかなる事ぞと、いとあさましきに、熊野参りしつる入道、帰さに又下りたり。
「これに、かかる不思議ありて、我下人を取られたる」よし、わが兄を訴へけり。此入道は、これらが伯父ながら、所の地頭とかやいふ者なり。「とは何事ぞ。心得ぬ下人沙汰かな。いかなる人ぞ。物参りなどする事は、常の事なり。都に、いかなる人のおはすらん。恥かしく、かように情けなく言ふらん事よ」など言ふと聞くほどに、これへ又下るとて、ひしめく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中世人の名誉感情に関わる問題」(by呉座勇一氏)

2014-10-09 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 9日(木)22時30分4秒

>筆綾丸さん
呉座氏もけっこう大きな問題の一環として和知の場面に注目されているようですね。
筆綾丸さんが既に引用された箇所の直前の文章、念のため確認しておくと、

------
 最後に、本章の主要な議題の一つであった「人返」協約について補足しておきたい。従者に関する「人返」協約が結ばれる原因としては、元の主人(本主人)と現在の主人(当主人)との間で従者の帰属をめぐる争いが多発していたことがあげられる。こうした主人権をめぐる争いには、既述の通り政治的・経済的・社会的な背景があるが、より根源的な問題が潜んでいることも無視できない。それは中世人の名誉観念に関わる問題である。
------

という具合ですが、うーむ。
確かに『とはずがたり』には「下人」という表現が出てきますが、それは兄弟喧嘩の中での理不尽な悪口の一部であって、実際には二条はおよそ「下人」ではないですからねー。
注(1)を見ると、

-----
(1)これまでの研究により、当時の史料に見える従者(武家奉公人)は三つの階層に分類できることが明らかにされている。最上位は「被官」で、「内者」「郎従」「悴者」「若党」などとも呼ばれる。彼らは有姓で侍身分を有し、みずから同名や従者を従えてイエを形成している。次が「中間」で、「僕従」「小者」などとも表現される。彼らは無姓・凡下である。最下位が「下人」で、「中間」よりも身分が低く隷属性が強い。(後略)
-----

ということで、「下人」は無姓・凡下の「中間」より更に下の非常に隷属性が強い従者ですが、最上級貴族の出自を誇り、芸術的才能に溢れたお客様として短期間滞在しているだけの二条は、およそ「下人」とは程遠い存在ですね。
まあ、永原慶二氏の<在地領主の「家」権力>論ほどトンチンカンな印象は受けませんが、「従者(武家奉公人)」、特に「下人」でないことが明らかな二条の「日記文学」(私見では自伝風の小説)における冒険譚を基礎として「より根源的な問題」=「中世人の名誉感情に関わる問題」を論じるのは些か乱暴な感じがします。

※追記
引用部分を再掲しておきます。

---------------
鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
---------------

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

日記文学 2014/10/06(月) 21:09:38
---------------
鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
---------------
以上は、「第七章 領主の一揆と被官・下人・百姓」の末尾の記述ですが、この章だけ重要な引用史料が「日記文学」で、他の章と比べると、非常に異質なものがあります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90a74e07e5f92655c5dcc2c04cbd5919
以前、小太郎さんが仰っていましたが、「後深草院二条のような女の証言」はどこまで信用が置けるのか、危惧を覚えますね。『とはずがたり』の記述から恥辱(屈辱)というようなものを導き出せるものなのかどうか・・・。

京都に大学がなかった頃の話 2014/10/08(水) 17:32:21
小太郎さん
『とはずがたり』の和知一族の話は、恥ずかしい話ですが、今だによく理解できないんですよ。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1409/sin_k787.html
高橋昌明氏の『京都〈千年の都〉の歴史』をパラパラ捲ると、次のような記述がありました。
----------------
千本通丸太町上ル西側奥には内野児童公園がある。その一角に「大極殿遺址」と刻まれた石碑が立つ。立派な台座をともなう堂々たる碑である。遷都千百年記念事業として京都市参事会が建てたもの。
この場所を大極殿の跡地と比定したのは、在野の歴史家である京都府の役人湯本文彦で、平安京のことや桓武天皇の事績、および京都市の沿革・歴史を記した『平安通志』全二〇冊は、彼が発議し編纂主事となって、一八九五年、京都市参事会によって刊行された。わずか二年で完成できたのは、湯本の豊かな学識と、江戸後期以来進められてきた京都研究の蓄積、編纂に協力した田中勘兵衛(号教忠)・碓井小三郎ら、これまた在野の学者たちの力による。田中教忠は古文書・古典籍の収集家・考証家として知られ、平安神宮の造営は彼の提案にもとづく。碓井小三郎は、京都の名所・旧跡・伝説等の研究・保存に尽力し、二〇年かけて京都の地誌『京都坊目誌』を完成させるなど、故実家として知られる。(20頁~)
----------------

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6
http://www.pref.kyoto.jp/dezi/data/index3.html
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi30.html
1895年と言えば、日本全国において(帝国)大学は東京にあるだけで京都には(帝国)大学がない時であるから、そんな時代の「在野の歴史家」とか「在野の学者たち」とは何なのか、よくわからないものがあります。京都府立総合資料館が「アカデミズム」の以前と以後というふうに分けているのも面白く、アカデメイアの豹変には私塾長の君子プラトンも驚いているかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田沼睦氏「『とはずがたり』の下人史料」

2014-10-07 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 7日(火)23時36分36秒

>筆綾丸さん
呉座氏が言及されている「先行研究」とは永原慶二氏の見解ですが、永原氏が『とはずがたり』のような奇妙な「史料」を<在地領主の「家」権力>論を基礎づけるために用いたことは氏の研究者人生における汚点と言っても良いように思います。
<在地領主の「家」権力>論自体もドイツの理論を形式的に日本中世にあてはめただけのような感じがしますが、若手の研究者はどのような評価をしているのか、ちょっと気になりますね。

ちなみに「下人史料」という観点から『とはずがたり』に最初に着目した歴史研究者はおそらく田沼睦氏(宮内庁・筑波大学)で、『中世後期社会と公田体制』(岩田書院、2007)には「『とはずがたり』の下人史料」という1969年の論文が再掲されています。
田沼氏が『永原慶二の歴史学』(永原慶二追悼文集刊行会編、吉川弘文館、2006)に寄せたエッセイを見ると、若い頃の田沼氏は永原氏の荘園調査に同行するなどしていたそうなので、謹厳な永原氏に、こんな面白い「下人史料」がありますよ、と御注進したのはどうも田沼氏みたいですね。

『永原慶二の歴史学』

『中世後期社会と公田体制』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

日記文学 2014/10/06(月) 21:09:38
---------------
鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
---------------
以上は、「第七章 領主の一揆と被官・下人・百姓」の末尾の記述ですが、この章だけ重要な引用史料が「日記文学」で、他の章と比べると、非常に異質なものがあります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90a74e07e5f92655c5dcc2c04cbd5919
以前、小太郎さんが仰っていましたが、「後深草院二条のような女の証言」はどこまで信用が置けるのか、危惧を覚えますね。『とはずがたり』の記述から恥辱(屈辱)というようなものを導き出せるものなのかどうか・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白井聡氏の軍事知識

2014-10-05 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 5日(日)12時11分2秒

>筆綾丸さん
『日本中世の領主一揆』は面白いですよ。
タイトルから予想したのとは違って同書の中心は法制史なのですが、呉座氏は法的なセンスが非常に良い人だなと思いました。
「一揆」という基本概念に執拗にこだわって論理的にゴリゴリ攻め続ける一方で、新しい法秩序が生成されて行く曖昧な領域をふわっとうまく包み込む柔軟さもありますね。

>白井聡氏の「永続敗戦論 戦後日本の核心」
検索したら、ご本人が「永続敗戦論からの展望」という文章を書いていました。

--------
 私はここに、日本人の生物としての本能の破壊を見る。しかも、原子力がこれだけの不祥事を起こしてしまった、「王様は裸だ」と誰もが知ってしまったのに、いまだに原発批判はかなりの程度タブーであり続けている。芸能界はその典型である。大学も大差はない。財界については言うに及ばず、脱原発を掲げる経営者もそれなりの数がいるものの、経団連をはじめとする主流派は、臆面もなく引き続きの推進を求めている。つまり、腐敗しているのは国家だけではない。市民社会もまた同じである。
 「三・一一以後の光景」を体験してわかったのは、この国の国民は奴隷の群れだということだ。このことがわかったとき、震災前から考えてきたことと震災後の光景が一貫したものとしてつながった。「敗戦」を「終戦」と呼び変えることによって、一体何が温存されたのかが見えてきた。
 あの戦争の時代、国民は全体として軍国支配層の奴隷にされたわけだが、その構造は基本的なところで持続してきたということが見えてきた。このことは、大部分の日本人にとって、主に冷戦構造と戦後日本の経済的成功のおかげで見ないで済むようになっていた。この構造を私は「永続敗戦」と名づけた。敗戦の事実を誤魔化しているがゆえに、敗戦をもたらした体制が延々と続いている。


まあ、これだけ読めば『永続敗戦論』は買わなくてよいかな、と思います。
全体的に語彙が幼稚で、子供が「王様は裸だ」と叫ぶのはけっこうですが、その子自身もパンツをはいていない感じがしますね。
ツイッターで私がフォローしている人が白井聡氏の軍事知識に疑問を呈していましたが、国際政治を論じる若手論客に軍事知識が乏しいのは困ったものです。

「人の心」を巡る現代戦争

>井上安代氏の『豊臣秀頼』
これは私家版みたいですね。
霞会館の『平成新修旧華族家系大成』を見ると、大正6年生まれの井上光貞氏には翌7年生まれの元勝・元廣という双子の弟がいて、元勝氏の夫人が和代(やすよ)氏なんですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Grand Maître 014/10/02(木) 17:18:44
小太郎さん
『日本中世の領主一揆』は、以前、パラパラ眺めただけですが、呉座勇一氏は今最も注目される中世史研究者の一人なのでしょうね。この掲示板で、御座候さんの切れ切れの感想を読んでいた頃は、そういう感じはしなかったのですが。

『筧克彦翁のいとも質素なる時祷書( Les Très Modestes Heures du Grand Maître KAKEI,K.)』の modeste を pauvre(≒ poor)にすると、意味がまるで違ってしまいますね。

白井聡氏の「永続敗戦論 戦後日本の核心」も、かなり売れているようですね。

以前、『酒井忠清』(人物叢書)と『江の生涯』(中公新書)と『淀殿』(ミネルヴァ日本評伝選)を読んで、福田千鶴氏をずっと男性だと思ってました。お江や淀殿への思い入れから推察できそうなもんですが、なんとも間抜けな話ではあります。

秀頼の書が語るもの 2014/10/03(金) 23:20:33
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b182062.html
福田千鶴氏の『豊臣秀頼』を読了しましたが、残念ながら、秀頼像はいまひとつ明確ではないな、と感じました。
福田氏の秀頼像が生き生きとしてくるのは、二条城における家康との会見直後の書状(『豊臣秀頼自筆披露状』京都大学総合博物館所蔵)の解釈で、これは家康への挑戦状であとして書札礼の分析をされているのですが(153頁~)、末尾の宛所に相当するするのはあくまで「大御所御方にて誰にても御披露」であって大御所自身ではないのだから、この披露状がやや敬意を欠くようにみえても別段不思議ではないのではないか、と思われました。大御所御方の内の誰かに対して秀頼が対等の敬意を表わしたら、かえって可笑しくなるのではないか。福田氏は言及されていませんが、文中の「恐々謹言」は、相手が大御所自身であれば「恐惶謹言」くらいになるはずですが、大御所御方の内の誰かであれば、「恐々謹言」で充分のように思われます。福田氏の披露状についての解釈は何か違うような気がしますが、書札礼に関する私の知識が単に欠落しているだけなのかもしれません。
「ここで秀頼が家康に本気で詰めの勝負に挑む決意をさせてしまい、三年後の大坂冬の陣の引き金を大きく引いてしまったことは、若気の至りとはいえ、爪を隠し通せなかった秀頼の勇み足だったといえなくもない」(161頁)
とあるのですが、秀頼はそれほど不用心だったのだろうか。

秀頼自筆の神号(『豊國大明神 秀頼八才』)ですが、わずか八才(数え年)で、これほど雄渾な字を書くとは、凄いものだと思いました(139頁)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E9%9B%84%E4%B9%85
些細なことながら、「土方勘兵衛雄久」の「雄久」に「おひさ」とふりがなしてあるのですが(77頁)、「かつひさ」と訓む方が武士らしく、「おひさ」では居酒屋の女将のようです。また、「・・・対陣をとって・・・」(59頁)は「対陣して」のことかとも思われますが、意味不明です。図10(143頁)における「勝所」は「膳所」の間違いでしょうか。「秀頼は右大臣、右府と呼ばれ」(136頁)の「右府」に「ゆうふ」とふりがなしてあるのですが、普通は「うふ」と訓み、実朝も信長も「ゆうふ」様ではなく、「うふ」様ですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E7%AC%AC
福田氏は一貫して「聚楽城」と書き、「聚楽第」という表記はしていないのですね。

プロローグで井上安代氏の『豊臣秀頼』を紹介されていますが、氏は井上光貞の義妹とのことで、福田氏と井上氏の会話はいつも、「いつか必ずや秀頼や茶々の無念の思いを晴らしてあげましょう」で終わるとありますが(3頁)、私には『とっぴんぱらりの風太郎』が秀頼の無念を充分に晴らしていて、四百年忌の嵩陽寺殿秀山大居士は幸運だと思いましたね。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG0301G_T01C14A0CR0000/
永禄9年(1566)8月28日付の全14通が熊本県立美術館で10日から公開され、見たいとは思いますが、遠すぎて行けません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉座勇一氏、角川財団学芸賞受賞

2014-10-01 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 1日(水)22時42分37秒

3月に出た呉座勇一氏の『日本中世の領主一揆』(思文閣出版、2014年)を今頃やっと購入し、本文のみをざっと読んだ後、改めて注記を含め精読し終えて感想を書こうと思っていたところ、下記ニュースを目にしました。

--------
角川学芸賞に呉座、白井氏

第12回角川財団学芸賞(角川文化振興財団主催)は1日、呉座勇一氏(34)の「戦争の日本中世史 『下克上』は本当にあったのか」(新潮社)と白井聡氏(37)の「永続敗戦論 戦後日本の核心」(太田出版)の2作に決まった。賞金各100万円。贈呈式は12月4日、東京都千代田区のホテルグランドパレスで。(2014/10/01-20:40)

私は角川源義賞と学芸賞の区別がついていなかったのですが、源義賞は「日本文学あるいは日本史分野(関連分野を含む)の研究として刊行された、個人の学術書」が対象で、学芸賞の方は「高レベルの研究水準にありながら、一般読書人にも読まれうる個人の著作」が対象ということなので、『戦争の日本中世史』はその文体からも学芸賞にふさわしいのでしょうね。
『日本中世の領主一揆』は源義賞を受賞してもおかしくないレベルの著作だと思いますが、さすがに源義賞と学芸賞を両方もらっている人はいないようですね。

角川財団学芸賞

『戦争の日本中世史』の感想(2014年2月13日)

>筆綾丸さん
「時祷書」もつい最近になってその正確な意味を知った言葉なのですが、『風俗習慣と神ながらの実習』は「筧克彦翁のいとも質素なる時祷書」かもしれないなあなどと、まんざら冗談でもなく思ってしまいます。

>福田千鶴氏
10月31日に三省堂書店神保町本店で「『豊臣秀頼』 刊行記念出張講義」を予定されているそうですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

四百年忌ーダメよダメダメ 2014/09/30(火) 12:31:25
小太郎さん
装飾写本はユネスコ記憶遺産の対象外でしょうか。「クルアーン」などはイスラム諸国が恐ろしくて記憶遺産には認定できず、語弊がありますが、東寺百合文書や御堂関白記くらいが Memory of the World に丁度良いのでしょうね。むかし、フランスのラジオ放送で enlumineur(写本彩飾師)へのインタビューを聞いたことがありますが、地味で根気の要る仕事だなあ、と思いました。

http://www.chateaudechantilly.com/
「ベリー公のいとも豪華なる時祷書( Les Très Riches Heures du Duc de Berry)」を見にシャンティイ城のコンデ美術館を訪ねたことがありますが、残念ながら非公開でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A4%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4
別の機会に、シャンティイ競馬場でディアヌ賞を見ましたが、優勝馬の馬主は貴族風のマダムで、住む世界が違うものだ、と実感しました。ウィキの写真では、馬場の向こう側に見えるのがシャンティイ城で、ここの何処かにベリー公の時祷書があるはずです。蛇足ながら、スポンサー(エルメス)の看板は、役立たずの馬は我が社で引き取りますよ、という意味でしょうか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Banca_Monte_dei_Paschi_di_Siena
イタリアの名門モンテパスキ銀行もスポンサーになっていましたが、経営危機に公的資金を仰いでいるくせに、随分ふてぶてしい銀行だな、と思ったものです。この銀行は Monte dei Paschi という名からわかるように、たしか放牧羊を質草にしたことに由来し(室町時代の土倉のようなもの)、羊で起業して馬に投資、というようなわけですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b182062.html
福田千鶴氏『豊臣秀頼』のプロローグやあとがきを立ち読みしてみましたが、四百年忌にあたり秀頼の怨念を晴らすんだというわりには、『とっぴんぱらりの風太郎』を読んだ風もなく、巻末には普通の参考文献があるばかりで、評伝執筆にあたり、福田さん、万城目氏の秀逸な秀頼像はおそらく空前だから、読まなきゃ、(流行りのギャグを借りれば)ダメよダメダメ、と思いました。

ショーン・コネリー悲願のスコットランド独立はダメでしたね。今頃、ショックで寝込んでいるかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リンディスファーンの福音書 (その2)

2014-09-29 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月29日(月)20時33分7秒

『美しい書物の話』の続きの部分も引用しておきます。

-----------
 六五三年にオズワルド王は、宣教師団としてアイオナ島からノーサンブリアに来るように、聖エイダンを招聘した。彼はホーリー・アイランド、即ちリンディスファーン島にやって来て、本拠地とした。そして、そこに彼はアイルランド様式で修道院を建設した。七〇〇年になるほんの少し前に、ここで、ノーサンブリアの彩飾写本の現存する最も見事な例であるリンディスファーン福音書が製作された。約二百五十年後、アルフレッドとティルウィンの息子であるアルドレッドが、英語でそれに注釈をつけ加えている。私たちにとって幸いなことに、彼はその書物の起源についての記録も書きのこしてくれている。それは、あの嵐の吹きすさぶ島での生活をおおい隠しているカーテンを、ほんの少しの間わきに引いてくれるのである。

 リンディスファーンの教会の司教であるエド
フリスが、まず最初に神と聖カスバートと、そ
れから遺骨がこの島にあるすべての聖人たちの
ために、この書物を書いた。そして、リンディ
スファーン島の人々たちの司教であるエセルウ
ォールドが出来る限り上手に綴じて、外側にカ
バーをつけた。独居修道士のビルフリスが金属
細工師として外側の飾りを細工し、金や貴石や
金めっきされた銀、つまり合金ではない金属で
装飾をほどこした。それから、尊敬に値いしな
いもっとも哀れなる司祭であるアルドレッドが
神と聖カスバートのご加護のもと、英語で注釈
を付けたのである。
---------

「あの嵐の吹きすさぶ島での生活をおおい隠しているカーテンを、ほんの少しの間わきに引いてくれる」とありますが、「リンディスファーンの福音書」で最も有名な絵のひとつにマタイが福音書を書いている場面があって、そこでは「カーテンを、ほんの少しの間わきに引いて」いる様子も描かれているので、これを念頭に洒落た表現にしてみたのですかね。

http://en.wikipedia.org/wiki/File:Meister_des_Book_of_Lindisfarne_001.jpg

なお、前回投稿で引用した部分の最後に出てくるボビオ(ボッビオ)はウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の舞台ですね。
検索したら種村季弘氏の書評が出てきました。

--------
とりあえずは僧院連続殺人ミステリーである。北イタリア、ボッビオの町にほど近い山上台地の修道院内で、7日間のうちにつぎつぎに6人の修道僧が殺害される。その謎(なぞ)ときを、さる重要会議のために修道院に立ち寄った、その名もバスカヴィルのウィリアムという、みるからにシャーロック・ホームズに縁のありそうな修道士が依頼される。・・・・
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011072806864.html

Bobbio Abbey
http://en.wikipedia.org/wiki/Bobbio_Abbey

ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』、久しぶりに観たくなってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リンディスファーンの福音書

2014-09-28 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月28日(日)21時48分20秒

>筆綾丸さん
10月6日、ちくま新書で神田千里氏の『織田信長』が出るそうですね。
楽しみです。

>王御嶽
ニュース映像を見ていると、やはり中高年登山者が非常に多いですね。
救出活動で二次災害が起こらなければ良いのですが。
登山に夢中になっていた若い頃、大抵の三千メートル級の山は実際に登るか山行計画を立てていたのですが、御岳山だけは信仰の山というイメージが強くてあまり行く気になれませんでした。

>la Parcheminerie
俄か勉強で中世後期のフランスには装飾写本の数々の傑作があることを知ったのですが、個人的には爛熟期ともいうべき中世後期のフランスより中世前期のイギリスの作品に惹かれます。
なかでも7世紀の「リンディスファーンの福音書」の美しさは驚異的ですね。

Lindisfarne Gospels

アラン・G・トマス『美しい書物の話』にも簡単な紹介があるので、メモとして少し引用しておきます。(p25以下)

---------
 ヨーロッパのどこもかしこもが暗黒時代の中でのたうちまわっていた頃、アイルランドは燃えるように輝いていた。野蛮人たちはイングランドを攻撃することでその勢力を使い果たしてしまって、アイルランドは平和のままおかれていたのである。その平和から、エリザベス一世治下のイギリス、あるいはメディチ家の支配下のフィレンツェに似た、歴史上理解しがたいほどの創造的な時代が出現した。学問は繁栄し、ヨーロッパの人々はギリシャ語を学ぶためにアイルランドにやって来た。暗黒時代にあって旅がどんなものであったかを考えると、ギリシャ語はアイルランドの文明にただならぬ貢献をしたのである。
 アイルランドのキリスト教宣教師団は、異教のヨーロッパを再びキリスト教に改宗させることに着手した。修道院を建設し、そこで写本を製作することで、宣教の旅の足跡を印していった。まずスコットランドのアイオナ島で、それから北部イングランドのリンディスファーン島に、それから、現在のドイツやスイスに当たる地域を通り、スイス東北部のザンクト・ガレン地方へ行き、アルプスを越えてイタリアへ向かった。そして彼らはイタリアで後に写本で有名になるボビオに修道院を建設した。
----------

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

王御嶽 2014/09/28(日) 16:19:35
小太郎さん
http://en.wikipedia.org/wiki/Saint-S%C3%A9verin,_Paris
http://fr.wikipedia.org/wiki/Rue_de_la_Parcheminerie
パリ5区のカルチェ・ラタンにサン・セヴランという教会があり、その敷地を区切る通りの一つに「la Parcheminerie(羊皮紙製造・販売)」の名が今も残っていて、周辺はセーヌ左岸の川辺なので、羊の解体や皮紙の製造工場などがあったのでしょうね。ウィキには1287年から続く由緒ある通り名だそうで、ソルボンヌ大学の創立と同時期になりますね。

http://www.ovninavi.com/lengue
この通りに「れんげ」という日本人経営の居酒屋があり、蓮華に羊皮紙か、などと思いながら、二度ほど、酒(コルシカ産の白ワイン)を飲んだことがあります。

---------------
明け方も、近うなりにけり。鳥の聲などは聞えで、たゞ、翁びたる聲に、ぬかづくぞ聞ゆる。起居のけはひ、堪へ難げに行ふ。いと、あはれに、「朝の露に異ならぬ世を、何をむさぼる、身の祈りにか」と、きゝ給ふに、御嶽精進にやあらん、「南無當来導師」とぞ、拜むなる。(『源氏物語』夕顔巻、岩波文庫版(一)127頁)
---------------
これは夕顔が暮す京六条わたりの場末の描写で、「御嶽精進」の注(421頁)に、「御嶽精進は、大和の金峰山、即ち御嶽に入る前に、山伏が一千日の精進をして、弥勒菩薩に祈願することをいう。南無當来導師とは、弥勒菩薩のこと」とありますが、私は長い間、何か変だなと思いつつ、この御嶽とは木曽の御嶽山だと誤解してました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C)
-------------------
遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている。修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される。日本全国で多数の山の中で、「山は富士、嶽は御嶽」と呼ばれるようになった。
-------------------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アラン・G・トマス著『美しい書物の話』

2014-09-26 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月26日(金)22時08分29秒

>筆綾丸さん
牛皮山というのは、ちょっとドキッとするような山号ですね。
随心院の公式サイトには、

--------
古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。
仁海僧正一夜の夢に、
亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、
その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、
日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き
本尊にしたことに因んでいます。


とありますが、仁海僧正が牛皮山曼荼羅寺を創建し、後にその子院のひとつとして随心院が建立され、本寺の方は滅んでしまったという事情からすると、牛皮山はあくまで旧曼荼羅寺の山号であって、今の随心院には山号はない、という理解でよいのですかね。

たまたま今日、アラン・G・トマス著『美しい書物の話』(小野悦子訳、晶文社、1997)を読んでいたのですが、「第一章 中世の彩飾写本」に次のような記述がありました。(p22)

---------
 最初、すべての書物はヴェラム、つまり普通には羊、山羊、仔牛などの皮を洗って、表面を整えてから、こすって柔らかくしたものに書かれていた。もっと小型の書物や優美な書物は、より上等なユートラム・ヴェラム、つまり牛や羊の胎児の皮に書かれた。ヴェラムはかつて書物の製作に使用された最高の素材の一つである。それは滑らかで、白く、丈夫で長持ちがするが、唯一の欠点は高価だということだった。一体、一冊の聖書のために何頭の羊が必要なのだろうか、と考えてしまう。
 〔この問いに、大英博物館所蔵の『アルクィン聖書』の複製本の序文で、ボニファティウス・フィッシャーが答えている。それによると、聖書一冊に二百十頭から二百二十五頭の羊が必要だということである。〕
---------

〔 〕内は翻訳者が自ら調べて注記したようですが、「聖書一冊に二百十頭から二百二十五頭の羊が必要」というのは初めて知りました。
ヴェラムの時代には聖書もいささか殺生な存在だったようですね。

最近、ツイッターの方では写本の世界にはまってしまって、日本と欧米の写本愛好家のアカウントを多数フォローしているのですが、私はキリスト教の素養に乏しいので、けっこう難しい面もありますね。
日本では西欧の中世写本を専門に研究している人は僅少であって、日本語の文献を読むだけだったら、それほどの負担でもなさそうな感じですが、いったん欧米の学者を追い始めたら、とんでもない深みが待っていそうです。

『美しい書物の話』:紀田順一郎氏の書評

>農村の土の匂いに対する消臭剤
『家と村 日本伝統社会と経済発展』が入手できていないので、代わりに渡辺尚志・五味文彦編『新体系日本史3 土地所有史』(山川出版社、2002)の坂根嘉弘氏執筆部分を読んでみたのですが、坂根氏は非常に固い、着実な議論をする人ですね。
苦手な分野ではありますが、もう少し坂根氏の研究を追ってみようと思っています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

『舞妓はレディ』ー花の色はうつりにけりな 2014/09/24(水) 15:47:24
小太郎さん
http://www.maiko-lady.jp/
『舞妓はレディ』は佳い映画で、主役の上白石萌音は才能豊かな子ですね。
津軽弁と鹿児島弁のバイリンガルの田舎娘が京言葉を覚えて舞妓になるというストーリーでしたが、尾張弁(?)の信長は、京都弁に対してコンプレックスを感じていたろうか、などと思いながら見てました。
金子氏の描くような誠実な信長ならば、京都弁を真似て公家衆と話していたかもしれないのですが、そんな信長はちょっと想像しにくいですね。光秀などは、京都弁も尾張弁も器用に操ったのだろうな、という感じはします。「天下」とは、もしかすると、「京言葉」のことではあるまいか、などと思って、神田千里氏の「天下」の定義を見直すと(『織田信長<天下人>の実像』12頁)、歴史学者は言語学者ではないから、当たり前のことながら、「京言葉」への言及はないですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E5%BF%83%E9%99%A2
映画には、隨心院の書院(方丈?)にイタリア料理をケータリングして、小野小町と深草少将の伝説を語るシーンがありましたが、所在地の「小野御霊町」は小町の御霊を指すのでしょうね。百人一首にある小町の名歌の碑をさりげなく映していて、これは、妻の草刈民代をはじめとして、女優や舞妓への、周防監督のオマージュなんだろうな、思われました。導入部における緋牡丹博徒のお竜さんのパロディは若者にはわからないでしょうが、小町の歌は富司純子にも相応しいですね。
随心院の山号の由来は、パーチメント(parchment)ではなくヴェラム(vellum)に描いた両界曼荼羅を本尊としたからなんですね。

----------------
らんしやたいは、東大寺のみつくらにおさめられたる物にて候。これは、ちやうしやせんの御はからひにはならぬ事にて候。(中略)これは勅ふうにて候まゝ、勅しをたてられ候はねは、ひらかぬみつくらにて候を、こうふく寺のはからひに、わたくしの御氏てらに、このたひなされ候へき事、しやうむてんわうの御いきとをり、てんたうおそろしき事にて候。(後略)(同書98頁~)
----------------
三条西実枝「蘭豪待香開封内奏状案」は同書の解釈が今後の定説になると思われますが、東大寺の三蔵は勅封であって長者宣如きでは開けられぬ、という初歩的なことを知らぬほど正親町天皇の知識は貧しかった、というようなことになり、これでは、公家一統どころではなく、なんだ、そんなことも知らぬのか、馬鹿な奴め、と誠実な信長に軽侮されたのだろうな、と思われました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%85%AC%E6%9D%A1
以前、将棋のタイトル戦が温泉宿で行われて大盤解説会に行ったとき、将棋通の老人たちがモニターの画面を見ながら、(駒は)水無瀬かね、いや、錦旗だね、と話していたことがあります。錦旗は後水尾天皇の書体、水無瀬は水無瀬兼成の書体のことですが、この兼成は三条西実枝の弟なんですね。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG2300V_T20C14A9CR8000/
日経の記事の内、「豊臣秀吉に寄進されたもの」は、助詞の使い方が変で、「文禄は5年で改元されているが、秀吉の治世が続いているため、あえて「文禄」の年号を続けたとみられる」は、理由付けが変ですね。

坂根嘉弘氏の「地主制の成立と農村社会」は、ご引用の僅かな文章に、プレイヤー、アドバンテージ、コスト、カバー、マイナスという風にカタカナ英語がふんだんにばら撒かれていて、農村の土の匂いに対する消臭剤のような感じがしますが、これは、「わが国の伝統的な近代主義(丸山政治学、大塚史学など)やマルクス主義」への意識的な反発なんでしょうか。
私の英語の語感からすると、プレイヤー(「家」)という用語には馴染めないものがありますが、以下の文における「家」を「天皇」に置き換えてもあまり不自然ではなく、「不変の同じプレイヤー(「天皇」)」という概念も導き出せそうな気がしますね。
----------
日本の「家」制度の特徴は、単独相続にある。「家」のあとつぎ(長男が理想とされる)は、家長の地位をはじめ、動産・不動産などの家産をまるごと受け継いだ。日本以外のアジア諸地域はすべて分割相続地帯であったから、アジアで単独相続慣行をもつのは日本の「家」制度だけである。「家」は家長が先祖から受け継いだものであり、子々孫々まで受け渡していかなければいけないものと考えられていた。
----------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂根嘉弘氏「地主制の成立と農村社会」

2014-09-24 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月24日(水)09時25分45秒

まるで伊勢神宮の式年遷宮のように20年毎に新調される『岩波講座日本歴史』、何だかんだ言っても歴史学の最新の動向を鳥瞰できて、とても便利ですね。
ウィキペディアには、式年遷宮が20年ごとに行われる理由の一つとして、

--------
建替えの技術の伝承を行うためには、当時の寿命や実働年数から考えて、20年間隔が適当とされたため。建築を実際に担う大工は、10歳代から20歳代で見習いと下働き、30歳代から40歳代で中堅から棟梁となり、50歳代以上は後見となる。このため、20年に一度の遷宮であれば、少なくとも2度は遷宮に携わることができ、2度の遷宮を経験すれば技術の伝承を行うことができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

とありますが、歴史学の場合、大工さんよりは修行の出発点が遅いので、20~30歳代で見習いと下働き、40~50歳代で中堅から棟梁、60歳代以上が後見という具合でしょうか。
『岩波講座日本歴史』の執筆者は概ね中堅ないし棟梁クラスですね。
さて、現在発行中のシリーズの中で、今のところ私が一番興味を引かれたのは坂根嘉弘氏の「地主制の成立と農村社会」(第16巻近現代2)です。
失礼ながら坂根嘉弘氏のお名前も知りませんでしたが、奥付の執筆者紹介を見ると「1956年生まれ 広島修道大学教授」だそうですね。
「はじめに」から少し引用してみます。

---------
(前略)
 第二に、本稿で手がかりとするその社会関係は、日本の「家」制度、およびその「家」制度を前提に形成された日本の「村」社会である。(中略)
 日本の「家」制度の特徴は、単独相続にある。「家」のあとつぎ(長男が理想とされる)は、家長の地位をはじめ、動産・不動産などの家産をまるごと受け継いだ。日本以外のアジア諸地域はすべて分割相続地帯であったから、アジアで単独相続慣行をもつのは日本の「家」制度だけである。「家」は家長が先祖から受け継いだものであり、子々孫々まで受け渡していかなければいけないものと考えられていた。(中略)
 このように日本の村落では、「家」制度により、不変の同じプレイヤー(「家」)が農業集落を舞台に、長期間にわたり生産や生活を営むことになったのである。(中略)
 本稿の基本的視座は、日本独特の「家」や「村」が、経済発展の様々な局面で日本経済に大きなアドバンテージを与えたのではないか、という点にある。とりわけ、本稿で重視したいのは、「家」や「村」が、経済取引において情報の非対称性ゆえに生じる経済コストの高騰をカバーする役割を担い、日本の近代経済発展の基底を支えたのではないか、という点である。この点は日本経済発展の様々な局面であらわれたが、本稿では、この諸相を、地主制(地主小作関係)を軸に描くことを課題としている。従来、わが国の伝統的な近代主義(丸山政治学、大塚史学など)やマルクス主義の立場からは、日本の「家」や「村」は、非民主的・封建的なものであり、日本社会の遅れた部分の象徴として一刻も早く排除・克服されるべきものとみなされてきた。それらの議論の枠組みは、かなり政治主義的で、「家」や「村」が「正常な」経済発展にマイナスの効果をもつことが強調されてきた。本稿の主張は、そのような議論に与するものではなく、それらとはまったく違う議論を展開することになる。(後略)
---------

私は基本的にマルクス主義の歴史理論は好きではありませんが、まあ、それでも地主制のような社会経済の基礎的な領域はやっぱり史的唯物論の独壇場じゃなかろうか、と思っていて、坂根氏の議論はちょっとショックでしたねー。
坂根氏が開拓した世界をもう少し知りたいと思っているのですが、手頃なのは『家と村 日本伝統社会と経済発展』(農文協、2011年)あたりみたいですね。

http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54011238/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

構想力のない男

2014-09-20 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月20日(土)09時10分30秒

金子拓氏が結論として描き出した信長像は「序章 信長の政治理念」にまとめられていますね。(p26以下)

--------
 信長が構想していた武家政権としてのあり方は、室町幕府の体制、つまり畿内を中心とした将軍権力と、地域の大名権力が並存してゆるやかな国家をかたちづくるというあり方からそれほど大きくかけ離れたものではなかった。信長が理想としていた統治の仕組みは、天正三年末の時点において彼が近い将来実現するだろうと描いていたようなものだったと考えればよい(第五章参照)。
 たとえば領国の支配体制にしても、近年の研究により明らかにされたように、柴田勝家や羽柴秀吉ら大身の家臣たちに分権的に領国支配を委ね、そのうえに天下人として信長が君臨するようなあり方であって、さして目新しいものではなく、領国統治のための行政制度や租税徴収制度といった面ではむしろ後進的であったという評価もなされている。天下静謐という高邁な理念と旧来的な領国統治のあり方が混じりあわずに併存しているのが、信長権力の基本的な性格であった。
 枠組みとして室町幕府の体制を大きく変えるものではなかったにしても、その中心となる人物が、将軍とは異なる論理でその立場にあった天下人であったという点で、それまで形式的にせよ将軍に従っていた諸大名が違和感を抱き、容易に従おうとしなくなったことは想像できる。最終的には朝倉氏や浅井氏、大坂本願寺のようにはっきりとした敵対行動をとる勢力もあらわれる。それぞれに個別的事情もあるにせよ、彼らはあたらしい武家権力者に対する拒否反応を起こして自己防衛本能がはたらき、逆に攻撃的になり信長に敵対することとなったと考えることができるだろう。
 天下静謐維持を第一義の目標とした信長は、このような敵対勢力を服属させようとして軍事行動を起こし、彼らを滅ぼしたり服属させたりすることにより、結果として、その領国がみずからの支配領域に組みこまれた。信長が全国統一に邁進し領国を拡大していったかのように見えたのは、実はこの行動の反復による結果論にすぎないのだ。
--------

今は昔、植木等と谷啓のコントに「主体性のない男」というシリーズがありましたが、金子説によれば、織田信長は「天下静謐という高邁な理念」の持ち主であるので主体性に欠けることはないものの、しかし、およそ構想力を持たない人物であった、ということになりますね。
「静謐」を維持してくれさえすれば信長には何の不満もなかったのに、周囲は信長の謙虚な性格を理解してくれなかった。そして信長には何故か他人に「拒否反応」を起させ「自己防衛本能」を喚起させる要素があったため、「はっきりした敵対行動をとる勢力」が次から次へと現われて、信長が「天下静謐という高邁な理念」に基づき、やむなく「敵対勢力」をひとつひとつつぶして行くと、結果的にけっこう広大な領域を支配するようになりましたとさ、ということですね。
まあ、非常に斬新な信長像ではありますが、小説家にとっては甚だ創作意欲を刺激しない人物像ですので、金子説に基づく小説はおそらく登場せず、大河ドラマにもならず、歴史学界においてのみ、ひっそりと地味に評価されることになるのでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誠実すぎる信長像

2014-09-17 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月17日(水)22時19分1秒

>筆綾丸さん
>3,000(部)程
筧克彦はつかみどころのない人ですが、一時は相当に人気があったらしいので、この数字は一桁、あるいはもしかしたら二桁違うかもしれませんね。

金子拓氏の『織田信長<天下人>の実像』、今頃やっと読み終えたのですが、確かに良い本ですね。
金子氏による新出史料の丁寧な分析の結果、信長と公家との関係は、一時的に公家側が信長の期待に十分応えられなかった時期があるにせよ、基本的には一貫して親和的であった考えてよさそうであり、これは金子氏の大きな功績なんでしょうね。
問題はやはり「天下」の意味で、これが終章の結論にも直接影響しますね。
金子氏が立脚する神田千里説で固まったかというと、堀新氏の「織田政権論」(『岩波講座日本歴史第10巻 近世1』)あたりを見る限り、まだまだ議論は続きそうですね。
また、「麟」については筆綾丸さんがおっしゃる通りの疑問を私も感じました。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのリンクあり。

信長のユーモア 2014/08/23(土) 21:50:36(筆綾丸さん)
小太郎さん
ロベスピエールはなんとなく優男のようなイメージがありましたが、強面のデスマスクからは、こいつ、何人くらい殺めたのだろう、という感じがしてきますね。
ちなみに、マラーの暗殺現場は、パリ6区、メトロのオデオン駅を出てすぐ、パリ第5大学の構内のどこかで、むかし探検したとき、何の案内版もなくて、歴史にうるさいパリにしては珍しいな、と思ったものです。この大学は通称ルネ・デカルト大学という医学校ですが、マラーの死と何か関係があるのか、医師マラーを踏まえたものなのか、これもわかりませんでした。

金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』は、ひさしぶりに良書に出会えた、という感じです。キーパーソンは三条西実枝で、この人物の分析はとても面白いですね。ただ、「終章 信長の「天下」」は残念ながら尻切れトンボのような気がします。
興福寺別当職相論に関して、信長が正親町天皇を叱責し、誠仁親王が天皇に代わって詫びる、という書状の中に「瓜」が出てきますが、本文を能とすれば、これは狂言に相当するのでしょうね。
信長「・・・さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候。些少候といえども、濃州真桑と申し候て、名物に候あいだ、かくのごとく候。・・・」
誠仁「・・・まずまずこの瓜名物と候えば、ひとしお珍しく眺め入り候。・・・」
信長のとぼけたユーモア感覚といい、親王の返しといい(すぐ食べないで眺め入る、というところがよく、ひょっとすると、ポンポンと鼓のように叩いている気配すらあります)、狂言の名場面のようです。この場合、親王はシテ、信長はアド、ということで君臣の秩序は保たれているのかな。
大蔵流あたりで、この話を適当に脚色し新作狂言として上演してほしい。題はもちろん、真桑瓜、です。
注記
金子氏は、「さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候」を「とはいえ冥加のため、この瓜を親王様に献上します」と訳していますが、「冥加」のニュアンスが掴みにくいですね。神の御加護を得るために、あるいは、神の御加護に謝するために、と理解したとしても、神の御加護に対して、名物とはいえ、なぜたかが瓜なんだろう、神の御加護と瓜ではバランスがとれまい、という気がします。

些末なことですが、「塙直政」に「はのう なおまさ」とふりがなしてありますが(81頁)、塙保己一は「はなわ ほきいち」、塙直政は「ばん なおまさ」と記憶している者としては、この「はのう」の根拠は何なのか、知りたいと思いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E6%94%BF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80

天尽しの綸旨 2014/08/24(日) 17:36:00
---------------
ところが最近、高木叙子氏によって、「麟」花押が示唆する聖人君主とは義昭であり、この花押は義昭による理想の世の中の達成を願望したものではなかったかという議論が提起された(「天下人『信長』の実像?」)。「麟」花押が見られるのは永禄八年(一五六五)頃に義昭から上洛への協力要請が届いた時期であることから、この頃の信長は義昭に仕え幕府に入りこもうと考え、「麟」花押を考案したというのである。信長が室町将軍による政治秩序の枠組みを継承して登場したことを考えると、高木氏の「麟」花押論はすこぶる納得のゆくものである。(「織田信長<天下人>の実像」267頁)
---------------
天正改元の問題から、信長の天下静謐のための役割認識・考え方へと話が拡がった。これは、天正へと改元をうながしたことが、義昭追放後天下人の立場となった信長が最初に着手した行動であるとともに、かつてみずからが義昭に諫言した内容を誠実に履行したことを示す重要なできごとだからである。(同書55頁)
---------------
高木説の論理によれば、義昭を追放した後、信長は「麟」花押を破棄し新たな花押にしてもよさそうですが、追放後も同じ花押を信長はなぜ使い続けたのか、という素朴な疑問が湧いてきて、「すこぶる納得のゆくものである」と金子氏はいうけれども、まったく納得がゆかないですね。当該論文を読むべきなんでしょうが、他人のために自らの花押を考案するなどというのは、非常識というか、私の感性にいたく抵触するものがあります。義昭追放直後、天皇に改元を迫った信長が、義昭のための「麟」花押をのんびりと使い続けますかね。人は何を信じてもいいけれども、私には寝耳に水のようなアンビリーバブルな話です。
一部の戦国大名が足利将軍家の武家花押のマネをして、似たような花押を使用していますが、この場合であれば、ひたすら将軍家の弥栄を念じたもので他意はない、と言えなくもないけれども、やはり牽強付会でしょうね。というような訳で、当該論文を読んでみようかしら、という意欲は湧いてきません。

-----------------
改元執行せられ、年号天正と相定まり候。珍重に候。いよいよ天下静謐安穏の基、この時にしくべからざるの条、満足に察し思し食さるるの旨、天気候ところなり。よって執達くだんのごとし。
   七月廿九日  左中将親綱
   織田弾正忠殿             (『東山御文庫所蔵史料』勅封三八函-六九)(同書56頁)
----------------
信長による蘭奢待の切り取りの時と同じように、『東山御文庫所蔵史料』の勅封も勅使派遣により開かれたのでしょうね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

思想的価値と経済的価値の相剋 2014/09/15(月) 16:18:04
小太郎さん
http://it.wikipedia.org/wiki/Cappella_Brancacci
むかし、マザッチョの『貢の銭』は、これがクワトロチェント初期の傑作だな、とブランカッチ礼拝堂で見上げたことがあります。

『大日本帝國憲法の根本義』の内容にさっぱり興味が湧かず、次のようなことを考えてみました。
? 旧蔵者(あるいは相続人)はなぜ破棄焼却せずに寄贈したのか
? 「昭和53年5月1日寄贈」の「寄贈」は図書館として「受贈」の方が良くはないか
? 「第三刷發行」を最後として全部で1,000×3=3,000(部)程の発行か
? 三千部を津々浦々に散華して一億総国民の頬をひっ叩く確率は如何
? 岩波書店のアーカイヴにデータは有りや無しや
? 帝大教授の月俸に占める「定價貮圓八拾銭」の割合は如何
? (約)参圓÷(月俸)参百圓×100=1%以下か
? 現在、月給500,000円の教職員が5,000円の専門書を買う程の負担(1%)か
? 岩波書店界隈の古本屋の親爺に尋ねれば直答を得るか
? 幾星霜の死蔵・退蔵で骨董的価値は発生するか
? 果たして紙魚(thysanura)の好物となるや否や
? 紙魚(thysanura)は闇米を峻拒した某裁判官を以て範とし餓死の道を択ぶか
・・・・・・・・・

追記
http://www.bsfuji.tv/primenews/
昨今のNHKの報道番組は駄目なので、BSフジのプライムニュースを見ることにしていて、今日(9月17日)は民法120年振りの大改正がテーマでしたが、丸山・松本・篠塚各氏の発言を聞いていると、別に法改正などしなくても今まで通りでいいんじゃないか、この三人には法に対して理念があるのだろうか、と思いました。
いつも感ずるのですが、反町・島田両キャスターはほんとに頭の良い人ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筧克彦著『大日本帝國憲法の根本義』

2014-09-15 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 9月15日(月)10時47分26秒

>筆綾丸さん
>「 Der Zinsgroschen(貢の銭)」
ありがとうございます。
英語だと"The Tribute Money"ですか。
マサッチオの同名の作品も有名なんですね。


『大日本帝國憲法の根本義』は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で閲覧できますね。


なぜこのような本が岩波書店から出ているのか、ちょっと不思議な感じがしますが、「まへがき」には、

-------
本書は昨年七月中旬文部省開催の憲法講習会に於て為したる「大日本帝国憲法の根本義」と題する講演の速記を訂正補筆せしもので、文部省より憲法教育資料中の一書として上梓配布せられたる処、今回同省の同意を得岩波書店に託して発行することとなし(中略)

 紀元二千五百九十六年
  昭和十一年五月二十五日に
-------

とありますね。
岩波書店にしてみれば、文部省ないしその影響下の団体が確実に買い上げてくれるだろうから商売として確実な上に、ウチは特定の思想に偏った出版社ではなく、いろんなものを出してますよ、という当局向けのアピールに使えるからですかね。
ついでに最初の方も引用してみると、

--------
おほむね五つ

一 神ながらのこころ
我が憲法は 皇祖様 皇宗様の御遺訓を明徴になし給ひたるもので「まこと」を以てのみ之を正解し得しめ完全に運用し得しむる。「まこと」は皇国に在つては極めて具体的のもので、斎神・尊皇・愛国の二なく三なきこころである。神と君と国とが歴史上隔歴するものとして立ちつつある諸国に於ては、神はドグマの信奉と分つべからず、君は権勢を領有する俗人<独立単純人>に外ならずして、国は国民の集団以上に出でぬ。故に是等の国に於ては、敬神も愛国も必しも尊王ならず、尊王も愛国も必しも敬神とはならず、敬神も尊王も必しも愛国とは同じくない。しかのみならず、敬神・尊王・愛国の一つ一つも純真・精緻・宏大・永遠たり難き憾が在る。皇国に於ては、斎神・尊皇・愛国の心が本来相待つものとして同じ「まこと」のかく方面であり、神ながらの一つ心である。即ち、吾人生来の一心にして弥々純真にし、益々徹底せしめ更に更に拡張すべき永遠の心である。

二 ことあげせぬこころ
 (中略)
三 徳と力と二つならぬこと
 (中略)
四 「みこと」より出でて弥々「みこと」たるに油断なかるべきこと
 (中略)
五 本と末の分を以て始とする
 (中略)
--------

という具合で、何だか全体が祝詞のような文章ですね。
30・31コマなどに図も載っていますが、カラーでないのが残念です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Der Zinsgroschen (貢の銭) 2014/09/13(土) 12:44:31
小太郎さん
九条家の黒姫様はなぜ筧克彦などに傾倒したのか、理知的な昭和天皇はどう思われていたのか・・・少し興味が湧いてきました。
「研究に用いる本物の頭蓋骨」ですが、ロンブローゾ的研究か、はたまた、立川流の髑髏か。
「国体の中身は『空(くう)』みたいなもので、なんだか知らんけれども紙袋みたいなものの中から、ぴょこぴょこ親鸞がとび出したり、道元がとび出したり、ゲーテのファウストまでとび出してくる」
頭蓋骨は、アマテラスもスサノオもプラトンもアリストテレスも親鸞も道元も松陰も・・・あらゆるものを包含して空である、という寓喩であるとすれば、現代の量子論的な真空概念に近いものがあるかもしれないですね。
(筧は貞明皇后だけでなく皇帝溥儀にも「神ながらの道」の講義をしていたのですね(『天皇と東大』下巻79頁)。

http://de.wikipedia.org/wiki/Gem%C3%A4ldegalerie_Alte_Meister
http://kotobank.jp/word/%E8%B2%A2%E3%81%AE%E9%8A%AD
http://it.wikipedia.org/wiki/Cristo_della_moneta
ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館所蔵「 Der Zinsgroschen(貢の銭)」が、「テイチアンのチンスグロッシェンのキリスト」のようですね。筧はドイツ留学中に訪れたのでしょうが、第二次世界大戦時の空爆を奇跡的に生き延びたらしく、イタリア語では「Cristo della moneta」と云うようですね。

図書館で、私も、法學博士筧克彦述『大日本帝國憲法の根本義』を眺めてみました。所々に鉛筆で傍線を引いて書き込みがしてあり、図書館が偉いのはこんな本でも保存していることだ、などと思いつつ頁を捲ると、「昭和53年5月1日寄贈」、昭和十三年十一月二十日第三刷發行、定價貮圓八拾銭、とありました。

追記
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1112
文藝春秋の『「昭和天皇実録」の衝撃』の鼎談を立ち読みして、明治天皇の胞衣塚は京都の吉田神社にある(磯田氏)、とはじめて知りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする