学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0233 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その3)

2024-12-25 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第233回配信です。


一、保元・平治の乱関係者

藤原忠実(1078‐1162、八十五歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%9F
藤原忠通(忠実男、1097‐1164、六十八歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%80%9A

鳥羽院(堀河院皇子、1103‐56、五十四歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87
信西(藤原通憲、1106‐59、五十四歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF

美福門院(藤原得子、1117‐60、四十四歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BE%97%E5%AD%90
平清盛(1118‐81、六十四歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
崇徳院(鳥羽院皇子、1119‐64、四十六歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
大炊御門経宗(1119‐89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97

藤原頼長(忠実男、1120‐56、三十七歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%95%B7
源義朝(1123‐60、三十八歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D
葉室惟方(1125‐?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%9F%E6%96%B9
後白河院(鳥羽院皇子、1127‐92、六十六歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

藤原信頼(1133‐59、二十七歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E9%A0%BC
藤原成親(1138‐77)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E8%A6%AA
近衛天皇(鳥羽院皇子、1139‐55、十七歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A9%E7%9A%87

藤原多子(徳大寺公能女、1140‐1202、六十三歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A4%9A%E5%AD%90
二条天皇(後白河皇子、1143‐65、二十三歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
源頼朝(義朝男、1147‐99、五十三歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
九条兼実(忠通男、1149‐1207、五十九歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F

慈円(忠通男、1155‐1225、七十一歳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86


二、平治の乱(1159)時点の年齢

藤原忠実(八十二歳)
藤原忠通(六十三歳)
信西(五十四歳)
美福門院(四十三歳)
平清盛(四十二歳)
崇徳院(四十一歳)
大炊御門経宗(四十一歳)
源義朝(三十七歳)
葉室惟方(三十五歳)
後白河院(三十三歳)
藤原信頼(二十七歳)
藤原成親(二十二歳)
藤原多子(二十歳)
二条天皇(十七歳)
源頼朝(十三歳)
九条兼実(十一歳)
慈円(五歳)


三、平治の乱関係年表

※桃崎著p20所載の年表を簡略化した上、☆を付加。

平治元年(1159)
 11.15 信西が動乱を察知し『長恨歌絵』を王家宝蔵に納める。
 12.9  藤原信頼・源義朝らが後白河上皇の三条殿を襲撃。
 12.10 早朝、信西宅に放火。信西の息子らを解官。
 12.14 義朝・頼朝親子らに恩賞人事。
 12.17 信西の首を梟首。平清盛が熊野詣から六波羅亭へ戻る。
 12.18 清盛が婿の藤原信親を父信頼のもとへ護送。
 12.22 信西の息子12人に流刑宣告。
 12.25 未明、二条天皇が六波羅亭へ、後白河が仁和寺へ脱出。
 12.26 京都合戦。清盛が義朝を破る。
 12.27 信頼を斬首。
平治二年(永暦元年、1160)
 1.9  尾張から届いた義朝の首を梟首。
 1.21  義朝の子義平を梟首。
☆1.26  藤原多子、入内。
 2.9  義朝の子頼朝を逮捕
 2.20  大炊御門経宗・葉室惟方を逮捕。
 2.22  信西の子らを赦免し京都に召還。
 3.11  経宗・惟方・師仲と源頼朝・希義兄弟に流刑宣告。


四、近時の学説の動向

資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8ea4593a6466c0bf0bff9f5a0f7dead
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

資料:元木泰雄氏『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd803b458b8db69d2cc57c656efd6025

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd
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資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その2)

2024-12-25 | 鈴木小太郎チャンネル2024
p160以下
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(6)後白河の復権
 後白河は復活を遂げる。経宗・惟方の逮捕から六日後、『百錬抄』に次の記事がある。

【以下、二字下げ】
廿六日。諸卿を院に召し、皇居、并びに、日吉社、八幡・賀茂に先んじ御幸有るべきか、又、四月の御熊野詣、憚り有るべきかの事を定め申さしむ。

 後白河は公卿を院御所に招集し、会議を催した。このこと自体が「院政」の復活を象徴するものである。
 さらに、その三つの議題(皇居の件、日吉社参詣の件、熊野参詣の件)の中、特に、皇居の件が注目されよう。他の二つは後白河個人のこととしても、これは二条に係わっている。内裏について後白河が裁可を下すとなれば(282)、後白河が二条より優位にあるという雰囲気が醸されることにもなろう。
 なぜ突然のように後白河は復活したのであろうか。二十五・六事件からまだ二ヵ月も経たないうちに、なぜ後白河は蘇ったのか。
 それを決定づけたのは経宗・惟方の逮捕である。その逮捕が実現したのは、清盛が後白河の命に従ったからにほかならない。後白河と清盛が親しい絆に結ばれたのは、おそらくはこのときが初めてであり、前引の『愚管抄』は、二人のこれからの長い因縁のはじまりとなった記念すべき場面なのである。それにしても、その場の後白河の態度はまことに情けなく、これでは清盛に侮られるだけのようにも思われるが、意外にも、清盛はこれに応じたのであった。経宗・惟方を逮捕するというのは、清盛としても相当の決意を必要としたはずである。なぜ清盛は後白河に味方したのか。
 問題は二条方にあろう。二条は貴族勢力に支えられて、勝利を得たのであった。その貴族の動向はどのようになっているのであろうか。もしも貴族がまだ強く二条を支持しているのであれば、経宗・惟方の逮捕・流罪ははたして可能かどうか。清盛もはたして後白河の命を受けたのかどうか。つまり、貴族はもはや結束して二条を支持しているわけではない、という情況を想定すれば、これらの事件の説明は可能になろう。
 それでは、二条方と貴族の間に亀裂が生じるような問題とは何であろうか。思い当たることが一つある。それは多子の入内である。
 多子はかつて近衛天皇の中宮に立てられたが、今は太皇太后の地位にあった。二条はこの多子を妻に迎えたのである。その事情を『今鏡』は次のように伝えている。

【以下、二字下げ】
年経るほどに、二条の帝の御時、あながちに御消息ありければ、父大臣もかたがた申しかへさせ給ひけれども、忍びたるさまにて、参らせたてまつり給へりけるに、(後略)

 「父大臣」とあるが、多子の実父の藤原公能はこのときは権大納言である。公能は入内を辞退したのであったが(「申しかへさせ給ひけれども」)、二条は強引に(「あながちに」)これを実現させた。多子は「忍びたるさまにて」内裏に参ったとあり、この入内が憚られるものであったことを語っている。
 入内の日付は、『帝王編年記』に一一六〇(永暦元)年正月二十六日とある。
 多子の入内が問題であるのは、二条の中宮に姝子内親王が存在するからである。鳥羽法皇は二条を近衛の後継者とする証に、美福門院所生の娘である姝子を二条に配したのであった。鳥羽法皇の皇位継承の遺志を守るということは、中宮姝子の立場を守ることに繋がるであろう。しかるに、后位にある多子が入内することはこれに矛盾する。二条の行動は、故鳥羽院に対する反逆とみられても仕方のないものであろう。
 姝子はこの年の八月十九日に出家を遂げた。次がその日の『山槐記』の記事である。

【以下、二字下げ】
今暁、中宮、御悩危急に依り、御出家有りと云々。院、去夜御幸有り。暁天に還御すと云々。先々此の事、御発心の由、粗ら其の聞え有り。然れども上皇の御制止に依り、遂げしめ御〔おわしま〕さざるなり。今御幸有りて此の事有り。還御の前後の条、知らざる事なり。御年は廿と云々。太だ悲しき事なり。去ぬる春の比〔ころ〕より、禁裏に入御せず、白河押小路殿に御すなり。(後略)

 これによれば、姝子は「去ぬる春の比」に内裏を去り、母の美福門院の屋敷である白河の押小路殿に籠っていた。「去ぬる春の比」というのは、多子が入内した時期に一致する。二条と姝子の夫婦関係が壊れた原因は、多子の入内問題にあるとみるのが妥当であろう。それは修復されぬまま、姝子が出家を遂げたことによって、夫婦関係の破局は決定した。
 またこの間、後白河は、姝子に出家を思い止まらせようと動いていたという。後白河は多子の入内を非難し、二条に姝子との修復を促す、という態度をとっていたのであろう。すなわち、後白河は鳥羽法皇の遺志を守るという立場を周囲に示したとみなされよう。ここに後白河が復活しえた鍵があるように思われる。
 公教らの貴族は、鳥羽法皇の遺志を遵守しようとして、二条を支持し、後白河に反抗したのであった。ところが、乱後一ヵ月にして事態は転変し、二条は鳥羽法皇の遺志を無視する行動をとった。美福門院は怒り、貴族の心はたちまちに二条から離れたであろう。
 ここに後白河の付け入る隙が生まれる。後白河は美福門院と貴族の側にすり寄り、二条と経宗・惟方の軽率な行動を咎めることに成功した。
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(282)内裏は八月には大炊御門殿(大炊御門大路北・高倉小路東)に変わっている(『山槐記』永暦元年八月二十二日・二十七日条)。おそらくは内裏を八条室町殿から他所(大炊御門殿等)に移すことを議したのであろう。あるいは、一一六二(応保二)年に二条は「新造里内」の二条東洞院殿(押小路殿)に入っているが(『百錬抄』応保二年三月二十八日条)、この二条東洞院殿の新築について議したのかもしれない。
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※内裏の位置についての注(282)を追記しました。(2025年2月4日)
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資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)

2024-12-25 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34533.html

p124
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 信西がもしも逃亡せず、京中で従順に捕縛されたとしたならば、はたして梟首されたかどうかは疑わしいように思われる。その場合は、流罪ですむか、あるいは死刑になったとしても梟首にはされないのではないか。しかし、信西は捕縛されること自体を拒否しようとした。その反抗の途を決めた時、信西は、自分が梟首されるに違いないと確信したのであろう。そこで彼は我が身体をこの世から消し去ることにしたのであろう。実際に、信西の予想は当たっていたのである。
 信西が梟首という異様な刑を予想しえたのは、自分に危害を加えようとする敵の、自分に対する憎しみの深さを知っていたからであろう。しかも、その敵はそのような刑を実行できる力を持つ者である。その敵とは誰か。はたして信頼だけでよいのであろうか。信頼の信西に対する憎しみは十分に深いとしても、梟首の刑が彼の一存で実施されるものであろうか。
【中略】
 従来の通説は、『百錬抄』十二月九日条をそのまま受容し、平治の乱の叙述を「信頼の謀反」から始めるのが常であった。この点を正し、事件の出発点において謀反人とされたのは信西であって信頼ではない、ということを明確にしたい。

二 後白河と二条の状況
 如上の論に絡まるのは、後白河上皇・二条天皇と信頼との関係である。九日事件において、後白河と二条はどのような立場にあったのであろうか。その一つの側面として、二人の置かれた状況について検討したい。
 というのは、『平治物語』には信頼が後白河・二条を「押籠め」た、信頼はあたかも自分が天皇であるかのように振舞ったという記述があり、これに拠って、信頼は後白河・二条を幽閉・監禁した、と説くのが通説になっているからである。もしもその通りならば、「信頼の謀反」と言われてもよかろうが、しかし、はたしてどうであろうか。そこで『愚管抄』をみると、次のように記されている。

【以下、二字下げ】
さて信頼はかくしちらして、大内に行幸なして、二条院、当今にておはしますを、とりまいらせて、世をおこなひて、院を御書所と云所にすゑまいらせて、すでに除目行ひて、義朝は四位して播磨守になりて、子の頼朝十三なりける、右兵衛佐になしなどしてありけるなり。

 まず、『愚管抄』は、信頼が二条天皇を他所から大内(大内裏の中の内裏)に移したかのように述べているが、これは誤解である。二条は践祚以来二十五日・六日事件まで、ときに短期間の移動はあったが、一貫して大内を皇居としていた。つまり、九日事件によって皇居が変わったわけではない。
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p129以下
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(5)俊憲らの流罪
 ところで、俊憲ら、信西男子のその後に目を向けると、彼らはそろって流罪となった。父の縁座である。彼らは事件の翌日、十二月十日に解官され、二十二日に配流が決定される。さらに、その流罪が実行されたのは、翌年(永暦元年)正月であり、その翌二月に赦免された。
【中略】
 つまり、十二月二十二日の流罪の決定は、その直後の異変(二十五・六日事件)にもかかわらず、朝廷の正式の決定として、なお生き続けたのであった。これは非常に興味深い事実である。信頼が謀反人に定まった後に、信西がなお依然として謀反人であるということは何を意味するか。それは一体誰が信西に謀反の罪科をかけたのか、という問題である。その人物が九日事件の真の主役であろう。信頼はここでは消去されてよい。となれば、そこに思い浮かぶのは、高位にある一人の人物ではなかろうか。

(6)後白河と二条の関係
 ここで『平治物語』陽明文庫本に触れておく必要があろう。陽明文庫本は信西の梟首について、次のように二条天皇の命令によるものであったとする。

【以下、二字下げ】
同十四日、出雲守光保、内裏にまいりて、「少納言入道が行方をたづねいだしてこそ候へ」と申ければ、やがて「首をきれ」とおほせられて、承てまかり帰りにけり。

 陽明文庫本は、後白河・信西に対して信頼が「謀反」を起こし、二条と信頼は連携したという構想である。それによれば、二条は信西を梟首に処したことの延長として、俊憲らの流罪も実行したことになろう。それは二条にとって、信頼に強制されたことではなく、自発的意思によるものであったということでなければ、俊憲らの流罪の実行にはなりえない。もしもこの通りであるならば、後白河と二条は露わに対立したことになる。
 この陽明文庫本の記事そのものの真偽は確かめようもなかろう。光保は早くも半年後(永暦元年六月)に謀反の罪により流罪となり、殺されたらしいので、光保がこの記事の基となるような証言を残していた可能性は乏しい。さりとて、これを直接否定する史料も見つかりそうにない。要するに、陽明文庫本の構想を是認するか否かは、それが全体的状況を説得的に説明できるのかどうかによって判断する以外になかろう。
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資料:元木泰雄氏『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)

2024-12-25 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000910172004.html

p5以下
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 さらに驚くべきことに、最近の河内祥輔氏の著書『保元の乱・平治の乱』では、つぎの平治の乱とあわせて、各天皇・院が自身の皇統に固執して内紛を引き起こした点が強調されている。天皇・院の意志だけで周辺が動き、内乱も惹起されるという理解は、まさに天皇・院こそが歴史の中心であり、臣民はそれに追随するだけということになりかねない。いかに天皇・院といえども、政治的活動をすべて個人の意志や判断のみで行うわけではない。皇位継承問題を含めて、その背後にある種々の政治勢力の支援や利害を反映していることは政治史理解の基本であろう。
 歴史の動因を個人の思惑や恣意に還元する短絡的で平板な視角では、保元の乱、さらに平治の乱の真相を解明することなど、とうてい困難と言わねばならない。たしかに河内氏の書物は、保元・平治の乱に関する既往の見解を根本的に見直し、事実を確定しなおそうという野心作である。評価すべき点もあるし、その意図には敬意を表するが、先述の点も含めて、結論にはとうてい首肯しかねるところが多い。それらについては、文中で言及する。
 平治の乱では信西や藤原信頼以外にも藤原経宗、同惟方らの二条天皇側近や、源師仲、藤原成親らの後白河院側近といった多くの貴族たちも重要な役割を果たしていた。信西と信頼という院近臣相互の対立に、武士の清盛・義朝の対立が結びついて乱が勃発したという、四人の行動で事件を捉える麻雀のような単純な図式は、考えなおすべきなのである。
 いやそればかりではない。保元の乱で藤原頼長が全軍を指揮しようとしたのと同様に、平治の乱でも信頼は武装して戦闘に加わろうとした。武士と貴族は明確に区分され、対立し、武士が貴族をしだいに打倒してゆくという見方さえも再検討が必要となりつつあるのである。
 『兵範記』というかなり確実な日記の存在する保元の乱に比べて、平治の乱の基本史料は鎌倉時代に作成された『愚管抄』や『平治物語』である。とくに後者の作為については国文学からの研究でも明らかとなっている。また、前者についても、摂関家、とくに忠通を弁護する姿勢が明白であるし、年代的にも大きく隔たる書物だけに、全面的に依拠することは困難である。 ただ、ここでも貴族と武士の対立、あるいは武士の主導権、そして清盛の勝利の必然性といった通説的理解の枠組みを排除し、乱の意味を再検討することとしたい。
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p149以下
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 およそ日本史を学んだことのある人の中で、平治の乱の張本人藤原信頼に好印象をもつ御人はまずおられないであろう。『平治物語』によると、「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、又芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」急激な昇進を遂げたという。『愚管抄』でも「アサマシキ程ニ御寵アリケリ」と批判的な記述が見える。「寵」となると、上皇との男色関係を念頭においた記述であることは疑いない。
 したがって、彼は無能でありながら、後白河院との男色関係によって破格の出世を遂げたことになる。そればかりか、昇進に待ったをかけた信西に逆ギレして殺害し、二条天皇・後白河院を幽閉して好き勝手な政治を行うが、あげくの果てに自身の失策で天皇・上皇の脱出を許し、平清盛の前に敗北する。それも、合戦に際して味方の義朝に罵倒され、武具を身につけるものの落馬して鼻血を出す体たらく……。『平治物語』と『愚管抄』の信頼像は共通しており、それをまとめるとこんなところになるだろう。
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p154以下
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 義朝はなぜ信頼と提携したのか。『平治物語』では保元の乱以後、「平氏におぼえ劣」って不満を抱いていたことから信頼の誘いに応じたとする。後述する『愚管抄』では、信西が義朝との縁談を手荒く拒絶しながら、清盛と縁談を結んだことに義朝が遺恨を抱いたとする。内容は異なるが、義朝は些細な理由で愚かにも信頼の誘いに乗り、ついに身を滅ぼす結果となったということになる。
【中略】
 そもそも、義朝と信頼との提携は、『平治物語』や『愚管抄』が述べるような単純なものではない。両者の間には、深く密接な関係が存在したのである。すでにふれたように、久寿二年(一一五五)八月、義朝の長子義平は叔父で頼長の腹心義賢を武蔵国比企郡大蔵館で攻め滅ぼしている。この時、義平の大胆な軍事行動は問題とならず、彼は処罰されることもなかった。これを黙認した武蔵守が、信頼だったのである。
 信頼は保元二年、武蔵守を弟信説に譲った。平治の乱の当時の武蔵守は宣説であり、信頼は知行国主と考えられる。保元の乱における武士の動員形態をみても、義朝にとって武蔵は相模とならぶ重要な拠点となっていた。したがって、一貫して信頼との連係は不可欠だったに相違ない。しかし、両者をつなぐ絆はそれだけではなかった。
 義朝が深い関係を有した国に陸奥がある。野口実氏によると、義朝は陸奥国に専使として近江の武士佐々木秀義を派遣して、矢羽や駿馬を購入していたという。秀義の叔母は秀衡の妻となっており、両者の関係は密接であった。優秀な馬や武具を入手して武門としての地位を保持するには、陸奥との交易は不可欠だったのである。その陸奥には信頼の兄基成が居住して藤原秀衡と姻戚関係を結び、政治顧問の役割を果たしていたと考えられる。
 基成以後、陸奥守は隆教の息子隆親、ついで信説、信頼の叔父雅隆とつづき、雅隆が在任中に急死するや、基隆の外孫源国雅と、信頼の一族が相次いで補任されている。陸奥もおそらく信頼の知行国となっていたのであろう。奥州藤原氏や陸奥との交易を重視する義朝にとって、信頼との提携は不可欠だったのである。こうしてみると、信頼と義朝との提携は保元の乱以前にまで遡ることになる。
 武士団の基盤武蔵と、駿馬や武具の生産地陸奥を押さえた信頼との提携は、義朝にとっては有力武士としての死命を制するに等しいものではなかったか。信頼と義朝との間にはきわめて密接な関係があり、それゆえに平治の乱における武力として義朝を起用したのである。したがって、たんに両者が信西に対する遺恨をもっていたために、乱直前に結託したわけではない。
 たしかに、信頼自身の武芸は大したものではなかったのかもしれない。しかし、彼は義朝と密接な関係を結んでおり、さらに姻戚関係を有する清盛にも強い影響力を及ぼすことができた。彼は自在に武士を行使できる、武門ともいうべき立場にあったことになる。摂関家の大殿忠通が信頼の妹と嫡男基実の結婚という屈辱を甘受したのは、摂関家領を管理する武力を失った忠通が、信頼の武門という側面を期待したためである。
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コメント (2)
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0232 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その2)

2024-12-24 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第232回配信です。


一、前回配信の補足

建久元年(1190)十一月九日、源頼朝が九条兼実に対して語った「証言」は、

①平治の乱(1159)の三十一年後、
②近親者(息子)が自分の父親に関して語ったもので、
③本人の記録ではなく、政治家同士の会談の中で出た話を、相手が記録した伝聞

に過ぎない。
従って、仮に頼朝による意図的な改変はないとしても、遥か昔の出来事に関する美化された記憶。
建久元年の時点での政治情勢を分析するための史料としては貴重であっても、平治の乱の史料としてはもともと証拠価値はない。

坂口太郎氏は頼朝の「証言」が「二条天皇黒幕説」の「拠り所となる証明の心臓部」とされるが、桃崎氏は頼朝の「証言」以外にも相応の根拠を示している。
その部分を含めて、桃崎説の全体を批判するならともかく、もともと証拠価値のない頼朝の「証言」だけを攻撃対象として糾弾する坂口氏は風車に向かって突進するドン・キホーテではないか。

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桃崎氏が「名探偵」ならば「歴史書氾濫の昨今、世人の耳目を驚かす奇矯な説」を退治せんとする坂口太郎氏は歴史学界の検非違使、あるいは詐欺専門の捜査二課・坂口太郎警部かな。 ただ、私としては坂口警部にもルパン三世の銭形警部っぽい滑稽感を覚えない訳でもありません。

https://x.com/IichiroJingu/status/1870322954086855150

桃崎氏が頼朝の「証言」を鬼の棍棒のように振り回しているのは研究者らしくないが、その棍棒だけを叩いて鬼の首を取ったように勝ち名乗りを上げている「太郎少年」も問題。

水曜日のカンパネラ『桃太郎』
https://www.youtube.com/watch?v=AVPgxn3xohM


二、平治の乱の研究史

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

飯田悠紀子『保元・平治の乱』(教育社歴史新書、1979)

河内祥輔(1943生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%A5%A5%E8%BC%94

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『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002)

武士が政治の表舞台に登場した保元の乱。平清盛一人が勝ち残り武士の時代を不動にした平治の乱。この、世を震撼させた二つの事件には不可解な疑問がいくつも残されている。『兵範記』『愚管抄』などの史料をもとに、乱の経過を克明にたどり、皇位継承問題や摂関家の内紛と複雑に絡み合う人間模様を活写。事件の真相に迫り、時代情勢を解き明かす。

https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34533.html

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『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)

信西と清盛の提携は、本当だったのか?
武士を主人公として語られてきた通説を打破し、院政派と親政派の対立が複雑に絡み合う院政期の混乱した政治状況を暴き出す。平清盛の関与の低さや藤原信頼の武門としての逞しさ、誰にも顧みられることのなかった後白河上皇の存在など、これまで語られたことのない乱の実体を明らかにする。

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000910172004.html

古澤直人(1958生)
https://researchmap.jp/read0174768

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『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019)

律令では天皇・朝廷への反逆とされていた「謀叛」は、承久の乱を経て中世初期にはどのような法概念に変わったのか。謀叛の代表的事例だが古記録に欠ける平治の乱の経緯と結末、源義朝や貴族らの決起の動機などを綿密に検証。古文書や『玉葉』などに見られる文例を博捜し、「謀叛」呼称の意味・機能・思想を考察して、御成敗式目の制定目的を解明する。

https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b383077.html
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資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』

2024-12-23 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』(文春新書、2023)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614059

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プロローグ─平治の乱に秘められた完全犯罪
 事実経過編
第一章 真相解明を妨げるもの
第二章 三条殿襲撃事件
第三章 二条天皇脱出作戦
第四章 京都合戦
第五章 二条派失脚
 全容究明編
第六章 保元の乱の恩賞問題と源義朝
第七章 先行学説の弱点と突破口
第八章 二条天皇黒幕説の論理的証明
第九章 源頼朝の証言と三条殿襲撃の「王命」
第一〇章 「信西謀反」の真相と守覚擁立計画
第一一章 残された謎─信西・清盛・後白河の動向
 最終決着編
第一二章 二条の勝利と後白河の逆転勝利
第一三章 乱の記念碑─新日吉・新熊野・法住寺殿
第一四章 孤立する二条の死と平清盛の覇権
第一五章 乱の清算─「朝の大将軍」の鎌倉幕府
エピローグ─平治の乱の新たな全貌
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p22
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 戦後歴史学の古典的通説はこうだ。当時、天皇の直系尊属として元天皇が政務を執る政治、すなわち院政が定着していた。そして後白河上皇の院政は、信西が実質的に主導していた。これに対抗心をむき出しにした一派が、二条天皇の親政(天皇が自ら政務を執る政治)を望んで信西一派を没落させた、と。"二条親政派暴発説"というべきこの通説は、平治の乱を正面から扱った戦後最初の専論だった飯田悠紀子氏の『保元・平治の乱』でも踏襲された。
 ところが、近年に出た三冊の平治の乱の専論のうち、二つがこの通説を否定した。まず河内祥輔氏の『保元の乱・平治の乱』は、信西を抹殺する後白河の策略だという"後白河黒幕説"を主張した。しかし、続く元木泰雄氏の『保元・平治の乱を読みなおす』はこれを全否定し、信西の台頭に反感を抱いた後白河の近臣たちと朝廷社会全体が、信頼をリーダーとして信西を抹殺したという"朝廷総がかり説"を主張した。さらに、古澤直人氏の『中世初期の<謀叛>と平治の乱』はどちらも否定し、二条天皇の親政を推進する一派が、信西を恨む信頼や義朝と組んで信西を抹殺したと、"二条親政派暴発説"に戻った。
 これらの前に、別の黒幕を名指しする説もあった。"二条親政派暴発説"を肯定しつつ、それを戦乱として激発させたのは平清盛の策謀である、と主張した多賀宗隼氏の説だ。この説には先の飯田氏や、この時代の研究の泰斗というべき五味文彦氏らが賛同してきた。
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p89
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 以上の事実経過をみると、平治の乱の経緯は、四段階に整理できることがわかるだろう。

①三条殿襲撃事件─平治元年(一一五九)の一二月九日、信頼・義朝らが後白河院の三条殿を襲撃・放火。
②二条天皇脱出作戦─一二月二五日未明、二条天皇が大内を出て六波羅亭に入る。
③京都合戦─一二月二六日、官軍(清盛軍)が義朝らの軍勢を京都市街地で破る。
④二条派失脚事件─年が明けた永暦元年(一一六〇)の二月二〇日~三月一一日にかけて、経宗・惟方が逮捕・解官・流罪宣告される。

 河内説も乱を区分したが、④がない。それを踏襲した古澤説も、「経宗・惟方の失脚」の話を「平治の乱後の政治過程について」という章に入れた。二人とも、二条派失脚事件を"戦後"の出来事と見なし、平治の乱の一部と考えなかった。
 しかし、経宗・惟方は、京都合戦の罪人(頼朝・希義・師仲)と同日に流刑を宣告された。つまり、彼らの処罰は平治の乱の戦後処理と同日であり、それは彼らの処罰で決着した二条派失脚事件が、平治の乱の一部だった証拠だ。この事実こそが、真相究明の突破口になる。
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p133以下
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 元木説は、信頼が「自在に武士を行使できる、武門というべき立場にあった」とも主張した。根拠は二つあり、一つは信頼の子信親が清盛の婿だったことだという。しかし、子世代が婚姻関係を結べば武士を自在に行使できる、という考え方でよいなら、清盛の娘を息子の成憲に娶らせた信西も、同様に清盛の子女と婚姻関係を結んだ廷臣も、全く同じ理由で平家を「自在に行使できる」武門になる。しかし、現実にそうだった形跡はまったくない。
【中略】
 元木説のもう一つの根拠は、信頼が義朝と密接な関係にあったことで、そのため信頼は義朝を自在に行使できたという。しかし、その"密接な関係"とは、義朝の子義平が武蔵で義賢(義朝の次弟)を襲殺した大倉(大蔵)合戦の時に信頼が武蔵守だった事実と、義朝の軍需物資(矢羽や馬など)の仕入れ先だった陸奥が信頼の知行国だった事実だけだ。大倉合戦は国司が指揮した戦ではないし、まして信頼の知行国から軍需物資を仕入れただけで義朝が信頼にとって「自在に操縦できる武力」になってしまうというのは、論理的にも苦しすぎる。
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p134以下
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 では、怨恨説も元木説も成り立たないなら、平治の乱の動機問題はどう片づけるべきか。
 私は長らく、平治の乱の動機問題にこの疑問を抱いていた。『愚管抄』や『今鏡』や通説の説明には、どう見ても納得しがたい欠点があった。それは、原因と結果の間にある、飛躍と食い違いだ。史書や通説は、<信頼・義朝は信西一家を滅ぼしたかった。だから上皇の御所を襲った>という。しかし、<信西一家を滅ぼしたい>という課題と、<上皇の御所を襲った>という結果が、「だから」という接続詞でつながるものか。それは、あまりに飛躍しすぎだ。
 虚心坦懐に考えよう。信西一家を滅ぼしたいなら、信西の家を襲うのが自然で、攻撃目標を上皇御所としたのは不自然極まりない。その不自然さを、『愚管抄』は「信西一家が常に上皇御所に勤務しているから」だと説明する。こんな馬鹿な話はない。信西一家が常に上皇御所に張りついているなら、まずは両者を引き剝がすのが順当だ。なぜ、彼らはその努力を払わずに、<上皇御所を襲おう>という短絡的で異常な結論を下したのか。
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p145以下
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 最大の問題は、平治の乱の全体にわたって、成人であるはずの二条天皇に主体性がかけらもない、という前提で話が進むことだ。古澤氏は、三条殿襲撃の後の「二条天皇は普通にみえる生活をしていても、まったく自由ではなく、広い意味で蜂起貴族のコントロール下にあり……」と断定する。しかし、「まったく自由ではな」い証拠は、示されなかった。
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p185以下
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 二条はこの頃、強い自我によって強引な政治を始めていた。その証拠が藤原多子の入内である〔『今鏡』六─ふじなみの下─宮木野〕。多子は徳大寺公能の娘で、教養高く筆跡・絵・音楽に優れ、下々の者にまで気配りを尽くす「なさけ多くおはします」性格に二条が惚れたらしい。多子はかつて近衛天皇の皇后となり、その後は統子内親王・姝子内親王・徳大寺忻子(多子の義理の姉妹)の相次ぐ入内によって玉突きで昇進し、平治の乱の日には皇太后【ママ】となっていた。
 別の天皇の配偶者だった過去を持ち、すでに皇太后【ママ】の地位にある女性を、二条が改めて配偶者にするのはおかしい。しかし、『今鏡』に「二条御門の御時あながちに御消息ありければ」とあるように、二条は強引な御消息〔ラブレター〕で彼女を口説いた。この非常識な行動を朝廷の世論は懸念し、入内の栄誉を喜ぶべき実父の公能さえ、何度も二条に翻意を迫った。しかし、二条は聞かず、「しのびたるさま(人目を忍ぶ形)」で多子を内裏に呼び入れ、配偶者にしてしまった。二度目の入内の時、多子はまだ二一歳の若さだったが、一人の女性が二人の天皇に嫁ぐのは前代未聞で、『平家物語』は「二代の后」と呼んで珍しがった。
 この多子の入内は、永暦元年(一一六〇)正月二六日に果たされた。それは京都合戦の一ヵ月ほど後、つまり、平治の乱における戦闘の直後であり、戦後処理が完了する前である。平治の乱の段階で、すでに二条は、世論の反発を顧みずに我意を強引に押し通す君主となっていたのだ。その二条の親政で、彼が傀儡だった可能性はない。経宗・惟方は、二条の意思決定や、決定事項の執行を近臣筆頭として全面的に支えることで「世をなびかせ」る権勢を誇ったが、二条親政は文字通り、主導権を握る二条の親政だったと推断してよい。
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0231 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その1)

2024-12-21 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第231回配信です。


一、『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』の評判

桃崎有一郎(1978生、武蔵大学人文学部教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B4%8E%E6%9C%89%E4%B8%80%E9%83%8E

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『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』(文春新書、2023)

源頼朝が「真犯人」を暴いていた!
貴族の世から武士の世へ、大きなターニングポイントとなった平治の乱。後白河上皇の最側近で天才的な政治家だった信西が死に、源氏が敗れ、少年頼朝が流罪になったことは知られているが、「だれがこの乱を起こしたか」という最大の謎には、実はまだ定説がない。気鋭の歴史学者である著者は、この乱の実体を暴く言葉を、将軍となった源頼朝が残していたことを発見する――。「真犯人」、そして関係者たちがおこなった壮大な隠蔽とは? 歴史はミステリより面白い!
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614059

坂口太郎氏が酷評。

坂口太郎(1982生、高野山大学文学部准教授)
https://www.koyasan-u.ac.jp/info/teacher/tarou_sakaguchi/

資料:坂口太郎氏「源義朝の「逆罪」と「王命」─ 平治の乱、二条天皇黒幕説の誤謬─」〔2024-12-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9a7890c2d03f55dfdf51c8641d3fd1fc

野口実氏
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近年にありがちな、学術的な検討を怠って奇を論ずることをよしとするような風潮に対する警告を述べたもの。
https://x.com/rokuhara12212/status/1779758107218080193

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坂口太郎氏の論。「源義朝の『逆罪』と『王命』」(『古代文化』75巻3号、2023年12月)
 学問の世界にも遠慮と忖度の横行する、いまの時代に、このような正面切った批判は爽快です。
 以下は、自戒している亡き畏友の言葉。
「学問は、浅慮に委ねて奇をてらうものであってはならない。」
https://x.com/rokuhara12212/status/1815883567525945659

細川重男氏
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狩野亨吉氏言うところの「生命を取るには一箇の致命傷にて足る」(同氏「天津教古文書の批判」)を地で行く一撃必殺の見事な論証。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/entry-12853474792.html


二、私見(暫定的感想)

もともと私は桃崎有一郎氏による新書の粗製乱造に決して良い印象を持っていない。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その1)〔2021-05-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21d75b2da4e94b9dacc148da9fc0837a
【中略】
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その14)〔2021-05-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93c597f63f25670e5df7a33e61a963eb

「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯」(by 桃崎有一郎氏)〔2021-08-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb38fc71a10e139957300e67b1c54746
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-12-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-12-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e
「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-12-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3beb01268e2e2003427f19077e25c35a
「劇場都市」再び〔2020-09-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f89effd31476e4b3cad9d7416c401cc
桃崎有一郎氏に捧げる詩と歌〔2020-08-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d04d8965316be42c890858fa8eaf572c
「東京出身の若手研究者が京都の大学に就職するのに、かなり似ている」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-08-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03aca1d14f09d2480c211382ce26db93
「一方、後宇多は、日々の政治をこなせる精神状態ではなかった」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-08-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d7102f23aedbcf6426543e10df9da5ce
「私は中世朝廷の専門家として断言できる」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-08-20〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35df3dbd078743758f5a7ba8950fe37a
「それは、しばしば鎌倉幕府を倒すための戦争だと思われているが、そうではない」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-08-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a651001f9e50d6a277caced29d7a8622
「儀礼という演劇の劇場として使われることを最重要の目的の一つとする都市」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-08-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c165ceed344f7cecf05ad0e07f9650d9
「承久の乱で後鳥羽院上皇は幕府に敗れ、佐渡に流された」(by 桃崎有一郎氏)〔2020-08-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/506f445fdd921517566fedf523892c6d
後宇多天皇の追号〔2014-06-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/528ce15258a832c6d2ddc3e8dedd4bdb

以上のように、私は桃崎有一郎氏に対して決して好意的ではないので、『平治の乱の謎を解く』についても警戒しており、実際に読む前は坂口太郎・野口実氏の評価が正しいのだろうなと漠然と思っていた。
しかし、古澤直人氏の『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019)を読んで、平治の乱にも若干の興味を感じ、桃崎著を読んでみたところ、意外に良い本なのではないかと感じた。

0227 紅茶評論家の弁明(その1)〔2024-12-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c18b72e0849a6f9ae807e1fea7ea9290
私の感想
https://x.com/IichiroJingu/status/1867419758800646446
https://x.com/IichiroJingu/status/1868941640582443329
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資料:坂口太郎氏「源義朝の「逆罪」と「王命」─ 平治の乱、二条天皇黒幕説の誤謬─」

2024-12-21 | 鈴木小太郎チャンネル2024
「源義朝の「逆罪」と「王命」─ 平治の乱、二条天皇黒幕説の誤謬─」(『古代文化』75巻3号(通号634) 、2023年12月)
https://x.com/rokuhara12212/status/1746794805563408773

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はじめに
Ⅰ 頼朝と兼実の対面
Ⅱ 桃崎氏による二条天皇黒幕説の提起
Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?
Ⅳ 義朝の「逆罪」と頼朝
おわりに
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p84
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   はじめに

 このほど、桃崎有一郎氏が上梓した『平治の乱の謎を解く─頼朝が暴いた「完全犯罪」─』は、平治の乱について抜本的な新解釈を加えた問題作として、多くの読書人の注目を集めている。筆者の場合、最初に注意を引かれたのは、その副題であった。かの源頼朝が、平治の乱の舞台裏を暴いたという事実が、一体いかなる史料に見いだせるのか、また氏がいかにしてそれを解明しえたのか、「気鋭の学者が860年の封印を破る!」という帯のうたい文句も相まって、おおいに興味をそそられたのである。
 そこで、早速に該書を一読したところ、桃崎氏は従来の諸説に痛烈な批判を加えるばかりか、平治の乱の黒幕を二条天皇と論断するような、学界の意表を衝く斬新な新説を提起しており、まさに奔馬のごとき勢いである。【中略】まさに歴史探偵の真打ちを以て自認する、桃崎氏渾身の一作というわけである。
 しかし、率直なところ、管見に従えば、桃崎氏の論証には深刻な問題点が認められ、異論を差し挟む余地は大きいと判断された。また、何らかの牽制を加えておかねば、桃崎氏の所論はいつしか無批判に受容され、万が一にも学説として市民権を得ることになりかねない。筆者が菲才を省みず成稿を急いだのは、ひとえにこの緊迫した危機感によるものである。
 以下、桃崎氏が提起した二条天皇黒幕説について、その拠り所となる証明の心臓部に焦点を据えて、いささか批判を加えてみたい。幸いにして、桃崎氏が平治の乱の理解に加えた歪みを矯正できるならば、筆者の欣快とするところである。

   Ⅰ 頼朝と兼実の対面

 『平治の乱の謎を解く』のプロローグでは、頼朝が暴いたという「完全犯罪」なるものが取り上げられる。ここで、桃崎氏は、「源頼朝の告白─天皇の完全犯罪」という小見出しを設け、九条兼実の日記である『玉葉』建久元年(1190)11月9日条の一節を示す。そして、ここに平治の乱の謎を解く突破口を得たというのである。
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p85以下
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 すなわち、桃崎氏によれば、平治の乱の黒幕が天皇であったという衝撃の事実を、建久元年の頼朝が政治的な「カード」として利用できたという。その天皇が、乱の当時に在位していた二条天皇であることは、該書の第8章・第9章で詳論されるが、証拠とする直接史料は、後年における頼朝の発言ただ一つである。桃崎氏は、これを以て「平治の乱の真相究明を可能にする決定的な史料」(166頁)と見込み、立論の根底に据えたのである。
 また、桃崎氏は、頼朝が<「朝の大将軍」たる今の私は、平治の乱の「王命」の結末だ>という自覚を、兼実に(そして恐らく後白河院にも)語り、何ら反論を受けなかった時、"鎌倉幕府の社会的定位"が達成されたと述べる。そして、「それは、平治の乱で「王命」に使い捨てられた義朝の無念の清算であり、源氏の朝廷に対する"貸し"の清算だった」(333頁)と論じるのである。
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p86
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   Ⅲ 源義朝の「逆罪」は平治の乱の挙兵を指すか?

 まず、桃崎氏の理解に疑問を抱くのは、頼朝から平治の乱の真相を打ち明けられた九条兼実が、『玉葉』に一片の感想すら記さないことである。仮に、頼朝の発言内容が「天皇の犯罪という大スキャンダルである、それを暴けば朝廷の現体制を崩壊させることも可能だ」(10頁)とすると、突然このような物騒な秘事を打ち明けられた兼実の筆致も、何かしら驚愕をにじませるはずである。それが見えないのは何故か。
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p89
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   おわりに

 本稿では、建久元年(1190)の源頼朝が九条兼実に語った、「義朝の逆罪、是れ王命を恐〔かしこま〕るに依てなり」という発言について、その意味を明らかにした。頼朝のいう亡父義朝の「逆罪」とは、保元の乱後に、義朝が祖父為義を斬った事実を指すものに他ならず、その原因をなした「王命」は、斬罪の執行を命じた後白河天皇の勅命と考えなければならない。
 かくして、桃崎有一郎氏が、頼朝の発言を以て「平治の乱の真相究明を可能にする決定的な史料」(166頁)と論じたのは、史料の初歩的誤読による失考に過ぎなかったことが明らかとなる。ましてや、ミステリー小説もどきの「頼朝が暴いた「完全犯罪」」という見立てに至っては、一片の学問的価値すら認められず、二条天皇黒幕説も根底から動揺を余儀なくされるのである。事件の痕跡をかくも見事に見誤るようでは、哀しいかな探偵失格というべきであろう。
 さても、歴史書氾濫の昨今、世人の耳目を驚かす奇矯な説が、勢いよく飛び出す傾きがある。心ある読書人としては、剣呑な奇説の類にうかと乗せられ、物笑いの種になることは避けたいものであるし、学に忠たるべき史家にあっても、拙速を避けて深案熟慮の上に筆を進める、自重の態度が求められよう。奔馬は、たとえ千里を走るも、危うきを知らねば、ついに名馬たりえぬのである。
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0230 「逆輿」再論(二年後の反省)

2024-12-20 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第230回配信です。


昨日、鎌倉遺文研究会例会に参加。

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日時:2024年12月19日(木) 18:00~
会場:早稲田大学 戸山キャンパス 39号館 6階 第7会議室
報告者:重村 つき 氏
題目:流刑と中世夷島(仮)
報告者の一言:本報告では、建久二年(1191)に開始された夷島への罪人の配流を取り上げ、流刑と追放との違いや、当該期における幕府の支配領域について考えてみたいと思います。

https://x.com/ibunken/status/1850179719918125481

もともと私が流刑に興味を抱いたのは大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の最終回がきっかけ。
ドラマでは後鳥羽院が「逆輿」で配流されていたが、これは慈光寺本『承久記』に基づくストーリー。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その63)─「四方ノ逆輿ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

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 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。
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私は「輿」に拘ってしまったので「逆輿」の先例を見つけることができなかった。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)~(その5)〔2022-12-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67ff8f511d6b4aedc9e71cb36bc4a6da
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d80f970b573162ce8be9edfabe51b90
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その65)─後鳥羽院は「流罪」に処せられたのか〔2023-06-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1e4d8f0bf9457827eb230860c538aa
市川猿之助と「逆輿」の場面について(雑感)〔2023-06-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b74f73b579012c492ad4ce5cedd7fade
目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その11)─「院の乗物は「逆輿」である」〔2023-09-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd

しかし、重村氏に、藤原成親の流刑では「逆」の作法がある旨を教えてもらった。
乗り物の種類に拘らず、素直に流刑における「逆」の様式に着目すれば、法制史の先行研究に気づけたはずだった。

資料:上杉和彦氏「流刑の作法」〔2024-12-20〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ff283bfda72a4832b7eba8176d2738a

『平家物語』延慶本
-------
成親卿ヲバ、夜漸アクル程ニ、公卿座ニ出シ奉テ、物マヒラセタリケレドモ、胸モセキ喉モフサガリテ、聊モメサレズ、ヤガテ追立ノ官人参テ車指寄、「トク/\」ト申ケレバ、心ナラズ乗給ヌ、御車ノ簾ヲ逆ニ懸テ、後サマニ乗奉テ、門外ヘ追出ス、先ヅ火丁一人ツトヨリテ、車ヨリ引落シ奉テ、祝ノシモト〔笞〕ヲ三度アテ奉ル、次ニ看ノ督長一人ヨリテ、殺害ノ刀トテ、二刀突マネヲシ奉ル、次ニ山城判官季助、宣命ヲ含奉ル、カゝル事ハ人ノ上ニテモ未御覧ジ給ハジ、増テ御身ノ上ニハイツカハ習給ベキト、御心ノ内、押ハカラレテ哀也、門外ヨリハ軍兵数百騎、車ノ前後ニ打カコミテ、我方サマノ者ハ一人モナシ、イカナル所ヘ行ヤランモ、知スル人モナシ(一末、成親卿流罪事)
-------
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資料:上杉和彦氏「流刑の作法」

2024-12-20 | 鈴木小太郎チャンネル2024
上杉和彦氏『日本中世法体系成立史論』(校倉書房、1996)
https://ci.nii.ac.jp/naid/500002091920
下向井龍彦氏「書評 上杉和彦氏『日本中世法体系成立史論』歴史科学叢書」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/108/8/108_KJ00003648819/_article/-char/ja/

-------
第十章 中世成立期刑罰論ノート─身体拘束を中心に─

はじめに
第一節 流刑の作法
第二節 肉刑と身体拘束
第三節 身体拘束用具としての縄
第四節 刑罰構造の転換
-------

p284以下
-------
    はじめに
 平氏政権打倒の密議が発覚し、後白河院の近臣多数が処断されたいわゆる鹿ケ谷事件は、平安末期の政治動乱の本格的幕開けをもたらす出来事として、『平家物語』の叙述の格好の対象とされているのは周知のとおりである。特に首謀者の一人として断罪された藤原成親に関しては、現任の大納言というその高位故、その運命には強い関心がはらわれ、叙述に多くの紙幅が費やされている。たとえば、延慶本『平家物語』(以下延慶本と表記)は、治承元年(一一七七)四月二日における、藤原成親に対する流刑執行の様子を、次のように描写している。

【以下、二字下げ】
成親卿ヲバ、夜漸アクル程ニ、公卿座ニ出シ奉テ、物マヒラセタリケレドモ、胸モセキ喉モフサガリテ、聊モメサレズ、ヤガテ追立ノ官人参テ車指寄、「トク/\」ト申ケレバ、心ナラズ乗給ヌ、御車ノ簾ヲ逆ニ懸テ、後サマニ乗奉テ、門外ヘ追出ス、先ヅ火丁一人ツトヨリテ、車ヨリ引落シ奉テ、祝ノシモト〔笞〕ヲ三度アテ奉ル、次ニ看ノ督長一人ヨリテ、殺害ノ刀トテ、二刀突マネヲシ奉ル、次ニ山城判官季助、宣命ヲ含奉ル、カゝル事ハ人ノ上ニテモ未御覧ジ給ハジ、増テ御身ノ上ニハイツカハ習給ベキト、御心ノ内、押ハカラレテ哀也、門外ヨリハ軍兵数百騎、車ノ前後ニ打カコミテ、我方サマノ者ハ一人モナシ、イカナル所ヘ行ヤランモ、知スル人モナシ(一末、成親卿流罪事)

 貴人流罪の描写としては極めて詳細なこの叙述は、平家諸本においては、延慶本等いわゆる読み本系に共通して見られるもので、語り本系においては簡略化されている。この相違に関して、日本文学の立場からの注釈では、「こうした不気味で激烈な作法の事実を語り物系では省略し、ひたすら哀れな旅路の人として成親を描くのである」のような説明が加えられているが、日本史学、とりわけ古代から中世にかけての刑罰のあり方の変容に注目する立場から見る時、先の叙述は、極めて興味深い問題をはらんでいるように思われる。以下は、成親のこうむった運命に、歴史的位置づけを与えようとする一つの試みである。

     第一節 流刑の作法

 あらためて前述の延慶本記事における成親流罪の手順をまとめれば、次のようになる。

 ①公卿座で、配流される成親に食事が与えられる。
 ②「追立の官人」が、成親をせき立てて、後ろ向きに車に乗せ、簾を逆さに懸けて門外に出す。
 ③火丁(火長)が成親を車から下ろし、「祝〔はふり〕の笞〔しもと〕」を三度あてる。
 ④看督長が、「殺害の刀」として、成親の体に二度、刀をあてる動作を行う。
 ⑤山城判官季助が、配流の旨を伝える宣命を成親に読み聞かせた後、配流地へ出立する。

 この中で、②の所作に関しては、『伴大納言絵詞』や『とはずがたり』に類例が見え、比較的良く知られているであろうが、それ以外は必ずしも周知のことではなかろう。特に、③④に見える所作は、少なくとも管見によれば、他に完全な同一例を知らない。
 平安末期の検非違使の活動をまとめた『清獬眼抄』にも、罪人配流の手順が記されているが、それは、(A)使庁官人等が、流人の家に行き、流人を車もしくは馬に後ろ向きに乗せ(車の場合、前の簾を下げ、後の簾を上げる)、(B)看督長・流人・使庁官人・火長・隋兵の順になる行列が、京の内外を分かつ地点まで進み、(C)そこで、配流の旨を伝える太上官符が流人に読み聞かせられ、流人と官符が領送使に引き渡され、配流地に向かう、という手順にまとめられるものであった。
 『清獬眼抄』には、このような手順を述べた後に、「抑近代配流之様、人敢以不知、然而為知故事注載之」と記しており、罪人配流の手順というものが、必ずしも周知の事柄ではなかったことがうかがえるが、延慶本中の②③の所作は、『清獬眼抄』のような史料にも見えず、もしそれが何らかの歴史的事実の反映であるなら、正に知られざる刑罰慣習が存在していたことになる。
-------
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0229 紅茶評論家の弁明(その3)

2024-12-19 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第229回配信です。


一、前回配信の補足

東島誠氏の中世史研究者間の評判(ただし、調査対象は私が率直に質問できる狭い範囲)

「日本中世史学界では目立っていると言うより、むしろ全然存在感のない人」
「なんか全然わからない小難しいことばかり言う人だなあという印象しかない」
「私とは別世界の無縁の人」
「2003年に「非人格的なるものの位相─石母田正『日本の古代国家』で再構成されたもの」(『歴史学研究』782号)という論文で、京大古代史の吉川真司先生を口汚く罵っていますが、京大古代史では吉川先生は神のように崇められており、しかもみんな好戦的なので、あんな論文が『歴史学研究』に載れば、普通は彼らは激怒して反論なり何なりしそうなものですが、まったく話題にものぼってませんでしたね」
「(東島氏との共著もある)與那覇潤氏が『中国化する日本』を出したときのような反響は昔も今も一切ありません」

そのような東島氏について、私は今年八月、暑い盛りにずいぶん時間を割いて論じてしまった。
しかし、決して無駄だったとは思っていない。
東島氏は「他山の石」としては偉大な人。

ガーシークイズ(その1)【問題編】〔2024-08-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/caf8d474ca7fd0d8f5dccd3b62d2c4da
0136 ガーシークイズ(その1)【解答編】〔2024-08-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15d2a35bfe016475bad35878a3fc3cdc
ガーシークイズ(その2)【問題編】〔2024-08-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74cdb63e6a24287308cca0d079bcce83
0137 ガーシークイズ(その2)【解答編】〔2024-08-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fb44ee0730b7efbe32e5d5570fec098e
0138 ガーシーの亀田俊和氏批判は正当か。(その1)~(その3)〔2024-08-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d28572ed92f591b52ae28c055541149
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec83931fcbae40827bcb28c6f90fdd12
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e1e9781546f66d54e2625c2270d78ff
0141 亀田俊和氏「足利尊氏・直義の「二頭政治論」を再検討する」(その1)~(その5)〔2024-08-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da74d2af45bf2e3cddaa5a6c9b3b2292
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65ac4519876570884d3d8466e5959db1
0146 亀田俊和氏「佐藤進一の将軍権力二元論再論」を読む。(その1)(その2)〔2024-08-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/320cb0023edefce3696a6ae3e9172d44
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cd76d0f7d4fd72a16ec6417f2300d32
0148 東島誠「基礎概念序説」論文前半の問題点(その1)~(その3)〔2024-08-21〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae467d48607b5218e13c81d663165be0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfc12278c620b55f7477003a2ad5ec9d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f766579e4977eef74315e073b38058a


二、「謀反から謀叛へ」問題と大江広元

東島氏の旧著では「謀反から謀叛へ」問題は「皇帝の花嫁」であったが、二十三年後の新著では「ティー・ブレイク」の話題に縮小再生産され、もはや「抜け殻」と化している。
しかし、1186年に拘る東島氏にとっては「抜け殻」であっても、1221年、承久の乱の戦後処理に拘る私にとっては、「賢者の紅茶」のような素晴らしい着想と思われる。
ただ、承久の乱の戦後処理については、現在再考中。
承久の乱までは「一つの国家」で、承久の乱は後鳥羽院による「上からのクーデター」、そして今上帝廃位、三上皇配流という戦後処理によって「二つの国家」となったと考えるべきではないか。
「二つの国家」を構想したのは大江広元と考えるが、この点も再度、広元の生涯を詳しく検討してから論じてみたい。

承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」〔2021-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c
後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)(その2)〔2021-11-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/937832affdcc2232ad806f192bc2e150
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4837f768720130d24accfbac8b27bfd
「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)〔2021-11-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd8e2c752fc97439861694a8f43c1eb3
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上毛新聞「みんなのひろば」にて

2024-12-18 | 鈴木小太郎チャンネル2024
12月17日(火)、群馬県の地方紙・上毛新聞の「みんなのひろば」で、私の下記投稿が掲載されました。

-------
『増鏡』を読む会

 東京で会社員生活を送っていた頃から中世史の勉強を始め、約30年たちました。歴史好きの方でも、中世となれば多くの人が関心を抱くのは戦国大名で、それに次ぐのは鎌倉幕府草創期、そして南北朝動乱期あたりかと思います。私は鎌倉時代の公家社会という本当にマイナーな領域を研究しています。
 鎌倉幕府成立後も、朝廷は決して衰退期に入ったわけではなく、荘園公領制の下でなお相当な経済力を維持しており、150年間に十もの勅撰集が編まれるなど、文化的活動も活発です。
 私はこの時代の面白さを伝えるために、今月から「『増鏡』を読む会」なるものを始めてみました。『増鏡』は『大鏡』以下の「四鏡」の掉尾を飾る歴史物語で、激動の鎌倉時代を『源氏物語』並みの優美な文体で描いた作品であり、公武の協調と対立を俯瞰するには絶好の書物です。
 毎週1回、土曜日の午後3時から5時まで、甘楽町公民館で開催しています。興味を持たれた方はネットで「『増鏡』を読む会」を検索してみてください。無償です。
-------

12月21日(土)の第3回については下記内容で案内済みですが、新規の参加者が来られた場合には若干変更し、改めて『増鏡』の概要等の入門的なお話をしたいと思っています。

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『増鏡』を読む会(第3回)

毎週土曜日に開催しています。
『増鏡』を基軸として、『吾妻鏡』『承久記』『六代勝事記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『太平記』『梅松論』等にも随時言及し、中世史と中世文学の中間領域を探求して行きます。
第3回は「第一 おどろのした」を振り返り、第1・2回の補足を行うとともに、四鏡との関係、特に『今鏡』冒頭との類似性について少し検討したいと思っています。
テキストは、

井上宗雄『増鏡(上)全訳注』(講談社学術文庫、1979)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150062
河北騰『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305707741/

としますが、両書とも品切れなので、当方でコピーを用意します。

日時:12月21日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/gakusyuu/map/01.html

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターにて。
https://x.com/IichiroJingu
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0228 紅茶評論家の弁明(その2)

2024-12-17 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第228回配信です。


一、前回配信の補足

0227 紅茶評論家の弁明(その1)〔2024-12-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c18b72e0849a6f9ae807e1fea7ea9290

資料:東島誠氏「都市王権と中世国家─畿外と自己像」〔2024-12-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c19f61f149488f3cc6f6fd18adf0b8f

「さて、以上の原理的な相違点を確認したところで、課題はより鮮明なものとなった。日本において「謀反」「謀叛」が混同されるという、その一般的趨勢のなかで、源頼朝が敢えて厳密に「謀反」概念を用いたことは、決して看過されるべきではないということ。そして伊勢国事件の「没官」と連動する形で採られたこの「謀反」概念の厳密な使用が、どの段階まで続けられ、いかにして放棄されるのか。これは約言すれば、鎌倉幕府を朝廷とは別なるもう一つの国家と看做しうるのかどうか、単一国家か複数国家か、という国制史上の最重要課題へと繋がっているのである」
 
資料:東島誠氏「義経の結婚─一一八六年、鎌倉幕府誕生の前提②」〔2024-12-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f65f30e38064c0d2357b7ef04e82af5f

(文治二年六月二十一日付頼朝奏状は)「朝廷への屈服どころか、頼朝の自信の表れであって、事実上の頼朝自立宣言、すなわち鎌倉幕府誕生の瞬間なのである」


二、「謀反」・「謀叛」問題は「皇帝の花嫁」か、それとも「番茶も出花」か?

古澤直人氏
「東島誠氏は鎌倉幕府成立期に、頼朝はこの両者を意識的に厳格に使い分けていると指摘された」(『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』p285)

「東島氏の議論は、鎌倉幕府国家化の契機をこの用語の使い分けによって導き出すという、実に壮大で魅力的な議論なのである」(p286)

「以上、東島氏の魅力的な立論に対して疑義を提示した。本章の考察にもかかわらず、氏の立論はありうる仮説の一つとして成立可能の範囲にあると思われるが、確認された結論としては受け入れがたいものである。個々の史料をつなぎ合わせる論理の巧みさはかけねなしに感心するのだが、個別の事例の意味づけにやや無理を感じるのである」(同p297)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/801712640135e0b84a85e3319b132f9a

東島誠氏
「じつを言えば、現在の私も、この論文のうち、「謀反から謀叛へ」の議論にかんしては、「個別の事例の意味づけにやや無理を感じる」点では同感である。だからこそ、この議論は本題から切り離してティー・ブレイクの話題としたのである」(『「幕府」とは何か』p117)

「そこで以下、古澤のフェアな批判を受け容れつつも、現時点でなお有意と思われる事柄を、述べておくこととしよう。
(1) まず重要な点は、寿永二年閏十月宣旨以前には、頼朝は「謀反」であれ「謀叛」であれ、その文書中に用いたことがなかった、という点である。これは閏十月宣旨によって、頼朝が伊豆国の流人という立場を完全に脱したことと、時期がぴったりあう。
(2) つぎに重要な点は、写真2-3に掲げた、もっとも確実な頼朝下文において、伊勢国の事件が「謀反」と書かれていることである。そもそも検非違使義経に執行が委ねられた「没官」とは、「謀反」「謀大逆」の付加刑(本人に対する本刑に付加される刑)ではあっても、「謀叛」には付加されないのが、律の規定である。このような厳格な用語法は、当時において少しも一般的ではなく、むしろ京下りの実務官僚でなければ出来ない発想である。
(3) その実務官僚とは、疑いもなく(のちに明法博士となる)中原(大江)広元であり、この「謀反」の用例は、寿永三年に中原広元という、京下りの官人をブレーンに迎えたことで実現した。
(4) 文治二年六月の言上状による自立宣言以降は、「謀反」「謀叛」の区別にあえて意を払う必要もなくなるため、「謀叛」の表記が主流となる。
(5) ただし幕府の法典『御成敗式目』が編纂されるに当たっては、法曹官僚が「謀反」「没官」をうっかり使用することなどありえず、注意深く差異化して、「謀叛」「没収」の語が用いられている
(6)「謀反」から「謀叛」へ、は、あくまで法曹官僚の入れ知恵による鎌倉幕府の自他認識の発露とその変化、というべきもので、そもそも当時の人びとの共通認識ではないし、また幕府がその用語法の使用を対外的に標榜したり、使い分けを命じたわけでもない」」(p120以下)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/995d994982fc80f4baed2b86a3743ab2

「謀反」「謀叛」の区別は幕府開創の英雄・源頼朝が脳裏に描いていた「壮大で魅力的な」ビジョンの反映ではなく、「京下りの実務官僚」である大江広元が、鎌倉に下ってきた当初の極めて短い期間に留意していた「法曹官僚の入れ知恵」に過ぎないことを東島氏が認めた。

→その結果、幕府の1186年誕生説を支える巨大な支柱であった「謀反」・「謀叛」問題が「ティー・ブレイク」の話題に。
 「皇帝の花嫁」というよりは「番茶も出花」か。
しかし、私にとっては「賢者の紅茶」のように思われる。

p83
-------
 ティー・ブレイク~頼朝将軍任命をめぐる最新説

 さてここからがいよいよ本題だ、というところなのだが、長丁場となるので、ここでいったんティー・ブレイクとしよう。フィンランド・ノルトクヴィスト社の「ティー・ヘブンシリーズから、その名も「賢者の紅茶」ではいかがだろうか。
 で、薫り高いその紅茶を飲みながら、何の話をしようか、と言えば……
-------

後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)(その2)〔2021-11-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/937832affdcc2232ad806f192bc2e150
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4837f768720130d24accfbac8b27bfd
「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)〔2021-11-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd8e2c752fc97439861694a8f43c1eb3
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資料:東島誠氏「義経の結婚─一一八六年、鎌倉幕府誕生の前提②」

2024-12-17 | 鈴木小太郎チャンネル2024
東島誠『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』(NHK出版、2023)
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912772023.html

-------
第二章 鎌倉幕府、正しくは東関幕府─正統性なき北条氏の正当性

第1節 <都市王権>と武力─一一八六年、鎌倉幕府誕生の前提①
【中略】
第2節 義経の結婚─一一八六年、鎌倉幕府誕生の前提②
 日本列島の三分割─道州制的構想
 義経の結婚
 一一八五年─義経というジレンマの克服
 「義経沙汰」没官領としての多田行綱所領
 一一八六年─鎌倉幕府の自立宣言
 一九八七年度東京大学「日本史」入試問題第二問
 ティー・ブレイク~謀反から謀叛へ
 批判と応答
 <オオヤケ>の多元化
 奥州幕府構想と<いくつもの幕府>
-------

p103以下
-------
 一一八五年─義経というジレンマの克服

 義経を検非違使に任じさせて信兼謀反の戦後警衛を委ね、労をねぎらう婚姻の儀を執り行った時点で、頼朝・義経兄弟の関係に翳りはない。【中略】
 ところが翌元暦二年(一一八五)三月に壇ノ浦で平家が滅亡するや、両者の蜜月関係は終わることになる。両者の関係が冷え込むのはこの時点からであり、くどいようだが、義経が検非違使になったから、などではない。
 ではなぜ関係が冷めたのか。平家滅亡が成就して義経が不要になったからだろうか。そう考えてもおおむね間違いではないとはいえ、問題の核心にはまだ遠い。問題の核心に迫るには、平家滅亡後のの頼朝の構想において、義経がなぜ邪魔なのか、を説明できなければならない。
 頼朝の構想は次の二点である。
(一)反乱の起きた伊勢国を手掛かりに、全国の荘園・公領に、謀反防止を名目に恒常的に地頭を設置したい。
(二)荘園・公領に武士を配備する名目を、朝廷への反逆から頼朝への反逆と解釈変更したい。
-------

p110以下
-------
 一一八六年─鎌倉幕府の自立宣言

 とはいえ読者には、なお一つの疑問が残るかもしれない。それは、頼朝の構想(二)が朝廷権威からの離脱だとすれば、地頭設置に勅許を得ようというのは矛盾ではないのか、と。
 そう、いいところに気が付かれた、とまずは申し上げたい。じつはそこにこそ、義経というジレンマを克服するための第二ステップがあり、それが乗り越えられた時点を私は、<鎌倉幕府の誕生>、自立宣言と捉えているのだ。そのタイミングこそ、文治二年(一一八六)、いわゆるイイヤロウである。
 まずは、文治二年六月二十一日付頼朝奏状を吉川本『吾妻鏡』によって引いてみよう。なお誤写と思われる用字は修正して掲出する。

【以下、二字下げ】
天下を澄清〔ちょうせい〕せんがため、院宣を下され、非道を糾弾し、また武士の濫行〔らんぎょう〕を停止〔ちょうじ〕すべき国々の事。
 山城国(以下三十六ヵ国略)
右、件〔くだん〕の三十七ヶ国は、院宣を下され、武士の濫行、方々の僻事〔ひがごと〕を糺〔ただ〕し定め、非道を正理〔しょうり〕に直さるべきなり。ただし、鎮西九ヶ国は帥〔そちの〕中納言殿御沙汰なり。しかれば件の御進止〔しんじ〕として濫行を鎮められ、僻事を直さるべきなり。また、伊勢国においては、住人梟悪の心を挟〔さしはさ〕み、すでに謀反〔むへん〕を発〔おこ〕しわんぬ。件の余党、なおもって逆心を直さず候なり。よってその輩〔ともがら〕を警〔いまし〕めんがため、その替の地頭を補〔ぶ〕せしめ候なり。そもそもまた国の守護の武士、神社仏寺以下諸人領、頼朝の下文〔くだしぶみ〕を帯せず、由緒なく自由に任せこれを押領す。もっとも驚き思し給い候ところなり。今においては院宣をかの国々下され、武士の濫行・方々の僻事を停止せられ、天下を澄清せらるべきなり。およそ伊勢国に限らず、謀叛〔むほん〕人居住の国々、凶徒の所帯跡には地頭を補せしめ候ところなり。しかれば庄園は本家・領家所役〔しょやく〕、国衙は国役〔くにやく〕・雑事〔ぞうじ〕、先例に任せ勤仕〔ごんし〕せしむべきの由、下知せしめ候ところなり。おのおのこの状を悉〔つく〕し、公事〔くじ〕を先として、その職を執行〔しぎょう〕せしめ候わんは、何事かこれに如〔し〕かんと候いおわんぬ。もしその中に、本家の事を用いず、国衙の役を勤めず、ひとえにもって不当ならしめ候わん輩をば、下され候に随い、その誡〔いましめ〕を仰せ加えしむべく候なり。なかんずく武士等の中には頼朝も給わず候えば知り及ばず候の所を、あるいは人々寄附と号し、あるいは由緒無きの事をもって押領せしむる所々、その数多く候の由、承り候。もっとも院宣を下され、まずかくのごときの僻事を直さるべく候なり。また、たとい謀叛人の所帯として地頭を補せしむるの条、由緒有りといえども、停止すべきの由、仰せ下され候所々においては、仰せに随い停止せしむべく候なり。院宣いかでか違背し候わんや。この趣をもって、奏達せしめ給うべきの由、帥中納言殿に申さしむべきなり。
 文治二年六月二十一日  御判

 右の傍線部分に着目するなら、その論理構成は、次のとおりである。
 ① 伊勢国では、
 ② 「梟悪者」の反逆がいまなお絶えず、
 ③ よってそれに対しその都度武士(たとえば河越重頼)を送り込む仕方に替えて地頭(たとえば大井実春)を補任することで対処してきたが、
 ④ そもそも武士たちが、頼朝に無断で自由横領を働くことなど、驚きでございましょう。
 ⑤ それなら院宣によって武士たちの非法を取り締まって下さい。
 ⑥ もちろん伊勢国以外に設置した地頭たちの非法についても、同様に院宣で取り締まって下さい。
 読者はこれをどう読まれるだろうか。これを頼朝の朝廷、後白河院側への譲歩、屈服と見做してきたのが通説である。
 たしかに一見すると朝廷側に全面降伏しているように見えるが、これを字面だけで捉えていては、歴史像はいまだ奥行きあるものとしては見えてこない。例えば⑤の語調を変えると、どのようなニュアンスになるか、ちょっと考えてみていただきたい。
 そう、「それなら院宣によって武士たちの非法を取り締まって下さい」とは、言外に「……やれるものならね」が含意されているのである。この頼朝の言葉を、額面通り受け取るとするなら、それは相当間の抜けた話であろう。
 つまりこれは、朝廷への屈服どころか、頼朝の自信の表れであって、事実上の頼朝自立宣言、すなわち鎌倉幕府誕生の瞬間なのである。
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参考:『吾妻鏡』文治二年(1186)六月小(歴散加藤塾サイト内)
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma06-06.htm
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『増鏡』を読む会(第3回)

2024-12-16 | 鈴木小太郎チャンネル2024
毎週土曜日に開催しています。
『増鏡』を基軸として、『吾妻鏡』『承久記』『六代勝事記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『太平記』『梅松論』等にも随時言及し、中世史と中世文学の中間領域を探求して行きます。
第3回は「第一 おどろのした」を振り返り、第1・2回の補足を行うとともに、四鏡との関係、特に『今鏡』冒頭との類似性について少し検討したいと思っています。
テキストは、

井上宗雄『増鏡(上)全訳注』(講談社学術文庫、1979)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150062
河北騰『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305707741/

としますが、両書とも品切れなので、当方でコピーを用意します。

日時:12月21日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/gakusyuu/map/01.html

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターにて。
https://x.com/IichiroJingu
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