投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月18日(土)21時56分16秒
四条房名と隆良の関係を検討する前に、女性名について補足しておきます。
私にとって二十年来の懸案だった四条隆親室「能子」と隆親女「近子」について、ある程度の解答を出せた時は、我ながらけっこう遠くまで来たものだな、と感慨に耽ったのですが、角田文衛氏が四十年前に書かれた『日本の女性名 歴史的展望(上)』(教育社新書、1980)を読むと、まだまだ角田文衛氏の手のひらの内側だったようです。
「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac
それにしても、四条家は女性の名前を考える上では面白い事例が多くて、『とはずがたり』に「今参り」として登場する四条隆親の晩年の娘は、いったん「隆子」と名付けられたのに、後にその名前を変えていますね。
この女性は『とはずがたり』では「女楽事件」に「今参り」という女房名で登場しますが、「今参り」(新参女房)とは何とも中途半端な名前です。
ただ、「今参り」は『たまきはる』の女房名寄せにも登場する名前で、別に二条が悪意を込めて工夫した軽蔑表現という訳ではありません。
念のため、『とはずがたり』での「今参り」の登場場面を確認しておくと、
-------
紫の上には東の御方、女三の宮の琴のかはりに、箏の琴を隆親の女の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらんむつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠の折にことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、明石の上にて琵琶を参るべしとてあり。
【私訳】
紫の上には東の御方、女三宮の琴(きん)の役の代わりに箏(しょう)の琴を、隆親の娘の「今参り」に弾かせようと隆親が特別に所望していると聞いたので、何となく面白くなくて、参加したくもなかったが、「最初の御鞠の折に、新院から格別のお言葉があったりして、そなたをお見知りであるから」ということで、私に明石の上になって琵琶を奉仕せよということであった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
ということで、『とはずがたり』に「今参り」が出てくるのは、この「女楽事件」の場面だけです。
さて、「女楽事件」は建治三年(1277)の出来事とされていますが、『天祚礼祀職掌録』によれば、その十一年後、弘安十一年(1288)三月十五日の伏見天皇の即位式に、褰帳として「右典侍藤原隆子。<故兵部卿隆親卿女。>」という女性が登場します。
褰帳は左右二人いて、左は神祇伯の関係者と定められており、伏見天皇即位式の場合は、
左典侍登子女王。<神祇伯資基王女>
右典侍藤原隆子。<故兵部卿隆親卿女。>
となっています。(『群書類従・第三輯 帝王部』、p333)
名前に「隆」という四条家の通字が入っていて、宮廷の重要行事に参加している訳ですから、これは『尊卑分脈』に記載された隆親の「女子」二人のうちの一人と考えるのが自然です。
そして、「従三位」とのみ記されている「女子」は「近子」であり、既に死去しているので、もう一人の「女子」が該当しそうですが、この「女子」には「従一位識子 号鷲尾一品 文保元年六月四日為申一品慶参内卿相雲客供奉」と付されていて「隆子」ではありません。
これをどう考えるかが問題となりますが、まあ、「隆子」が「識子」に変ったということでしょうね。
「隆子」は角田文衛氏の分類に従えば「偏諱型」であり、四条家の通字「隆」を用いているのでそれなりに重みはあるのしょうが、しかし、誰でも思いつく雑な名前ともいえます。
他方、「識子」は女性には珍しい字を用いているので、儒家に勘案させた「雅名型」でしょうね。
とすれば、弘安十一年(1288)に「隆子」と名づけられた女性は、二十九年後の文保元年(1317)、「従一位」に叙されるのにふさわしい高貴な女性として「識子」と改名することになったのだと思われます。
この改名の事情を知るために『続史愚抄』を見ると、文保元年六月四日、「従一位藤原朝臣議子<号鷲尾局。四条故大納言隆親女。>奏極位慶。上達部殿上人等連軒扈従云。<〇系図、教言卿記追>」(『国史大系』第十三巻、p439)とあります。
「議子」となっている点、ちょっとびっくりしますが、これは『続史愚抄』の単なる誤記でしょうね。
そして、この記事の次には、十九日「為新法皇御悩御祷被始行五壇法於持明院殿」とあり、更に九月三日には「今暁寅剋。新法皇崩於持明院殿。<御年五十三。>後日奉号伏見院」とあります。
つまり「議子<号鷲尾局。四条故大納言隆親女。>」は伏見院(1265-1317)と特別な縁故があって、最晩年の伏見院は、長年にわたる隆親女の奉仕に報いるために従一位という名誉ある地位を与えてあげた、ということなのだろうと思います。
なお、『とはずがたり』の「女楽事件」がどこまで事実を反映しているのか、あるいは全くの創作なのかは分かりませんが、建治三年頃、隆親の意向で「今参り」が後深草院の御所に入ったことは事実なのでしょうね。
そして「今参り」は春宮の熈仁親王にも仕えて、弘安十一年(1288)の伏見天皇即位式に「隆子」の名で褰帳役を勤め、文保元年(1317)に「識子」の名で従一位に叙され、「鷲尾一品」と号することになった、という訳ですね。
四条房名と隆良の関係を検討する前に、女性名について補足しておきます。
私にとって二十年来の懸案だった四条隆親室「能子」と隆親女「近子」について、ある程度の解答を出せた時は、我ながらけっこう遠くまで来たものだな、と感慨に耽ったのですが、角田文衛氏が四十年前に書かれた『日本の女性名 歴史的展望(上)』(教育社新書、1980)を読むと、まだまだ角田文衛氏の手のひらの内側だったようです。
「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac
それにしても、四条家は女性の名前を考える上では面白い事例が多くて、『とはずがたり』に「今参り」として登場する四条隆親の晩年の娘は、いったん「隆子」と名付けられたのに、後にその名前を変えていますね。
この女性は『とはずがたり』では「女楽事件」に「今参り」という女房名で登場しますが、「今参り」(新参女房)とは何とも中途半端な名前です。
ただ、「今参り」は『たまきはる』の女房名寄せにも登場する名前で、別に二条が悪意を込めて工夫した軽蔑表現という訳ではありません。
念のため、『とはずがたり』での「今参り」の登場場面を確認しておくと、
-------
紫の上には東の御方、女三の宮の琴のかはりに、箏の琴を隆親の女の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらんむつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠の折にことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、明石の上にて琵琶を参るべしとてあり。
【私訳】
紫の上には東の御方、女三宮の琴(きん)の役の代わりに箏(しょう)の琴を、隆親の娘の「今参り」に弾かせようと隆親が特別に所望していると聞いたので、何となく面白くなくて、参加したくもなかったが、「最初の御鞠の折に、新院から格別のお言葉があったりして、そなたをお見知りであるから」ということで、私に明石の上になって琵琶を奉仕せよということであった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
ということで、『とはずがたり』に「今参り」が出てくるのは、この「女楽事件」の場面だけです。
さて、「女楽事件」は建治三年(1277)の出来事とされていますが、『天祚礼祀職掌録』によれば、その十一年後、弘安十一年(1288)三月十五日の伏見天皇の即位式に、褰帳として「右典侍藤原隆子。<故兵部卿隆親卿女。>」という女性が登場します。
褰帳は左右二人いて、左は神祇伯の関係者と定められており、伏見天皇即位式の場合は、
左典侍登子女王。<神祇伯資基王女>
右典侍藤原隆子。<故兵部卿隆親卿女。>
となっています。(『群書類従・第三輯 帝王部』、p333)
名前に「隆」という四条家の通字が入っていて、宮廷の重要行事に参加している訳ですから、これは『尊卑分脈』に記載された隆親の「女子」二人のうちの一人と考えるのが自然です。
そして、「従三位」とのみ記されている「女子」は「近子」であり、既に死去しているので、もう一人の「女子」が該当しそうですが、この「女子」には「従一位識子 号鷲尾一品 文保元年六月四日為申一品慶参内卿相雲客供奉」と付されていて「隆子」ではありません。
これをどう考えるかが問題となりますが、まあ、「隆子」が「識子」に変ったということでしょうね。
「隆子」は角田文衛氏の分類に従えば「偏諱型」であり、四条家の通字「隆」を用いているのでそれなりに重みはあるのしょうが、しかし、誰でも思いつく雑な名前ともいえます。
他方、「識子」は女性には珍しい字を用いているので、儒家に勘案させた「雅名型」でしょうね。
とすれば、弘安十一年(1288)に「隆子」と名づけられた女性は、二十九年後の文保元年(1317)、「従一位」に叙されるのにふさわしい高貴な女性として「識子」と改名することになったのだと思われます。
この改名の事情を知るために『続史愚抄』を見ると、文保元年六月四日、「従一位藤原朝臣議子<号鷲尾局。四条故大納言隆親女。>奏極位慶。上達部殿上人等連軒扈従云。<〇系図、教言卿記追>」(『国史大系』第十三巻、p439)とあります。
「議子」となっている点、ちょっとびっくりしますが、これは『続史愚抄』の単なる誤記でしょうね。
そして、この記事の次には、十九日「為新法皇御悩御祷被始行五壇法於持明院殿」とあり、更に九月三日には「今暁寅剋。新法皇崩於持明院殿。<御年五十三。>後日奉号伏見院」とあります。
つまり「議子<号鷲尾局。四条故大納言隆親女。>」は伏見院(1265-1317)と特別な縁故があって、最晩年の伏見院は、長年にわたる隆親女の奉仕に報いるために従一位という名誉ある地位を与えてあげた、ということなのだろうと思います。
なお、『とはずがたり』の「女楽事件」がどこまで事実を反映しているのか、あるいは全くの創作なのかは分かりませんが、建治三年頃、隆親の意向で「今参り」が後深草院の御所に入ったことは事実なのでしょうね。
そして「今参り」は春宮の熈仁親王にも仕えて、弘安十一年(1288)の伏見天皇即位式に「隆子」の名で褰帳役を勤め、文保元年(1317)に「識子」の名で従一位に叙され、「鷲尾一品」と号することになった、という訳ですね。