学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「今参り」と「藤原隆子」、そして「鷲尾一品 識子」について

2020-04-18 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月18日(土)21時56分16秒

四条房名と隆良の関係を検討する前に、女性名について補足しておきます。
私にとって二十年来の懸案だった四条隆親室「能子」と隆親女「近子」について、ある程度の解答を出せた時は、我ながらけっこう遠くまで来たものだな、と感慨に耽ったのですが、角田文衛氏が四十年前に書かれた『日本の女性名 歴史的展望(上)』(教育社新書、1980)を読むと、まだまだ角田文衛氏の手のひらの内側だったようです。

「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac

それにしても、四条家は女性の名前を考える上では面白い事例が多くて、『とはずがたり』に「今参り」として登場する四条隆親の晩年の娘は、いったん「隆子」と名付けられたのに、後にその名前を変えていますね。
この女性は『とはずがたり』では「女楽事件」に「今参り」という女房名で登場しますが、「今参り」(新参女房)とは何とも中途半端な名前です。
ただ、「今参り」は『たまきはる』の女房名寄せにも登場する名前で、別に二条が悪意を込めて工夫した軽蔑表現という訳ではありません。
念のため、『とはずがたり』での「今参り」の登場場面を確認しておくと、

-------
 紫の上には東の御方、女三の宮の琴のかはりに、箏の琴を隆親の女の今参りに弾かせんに、隆親ことさら所望ありと聞くより、などやらんむつかしくて、参りたくもなきに、「御鞠の折にことさら御言葉かかりなどして、御覧じ知りたるに」とて、明石の上にて琵琶を参るべしとてあり。
【私訳】
 紫の上には東の御方、女三宮の琴(きん)の役の代わりに箏(しょう)の琴を、隆親の娘の「今参り」に弾かせようと隆親が特別に所望していると聞いたので、何となく面白くなくて、参加したくもなかったが、「最初の御鞠の折に、新院から格別のお言葉があったりして、そなたをお見知りであるから」ということで、私に明石の上になって琵琶を奉仕せよということであった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f

ということで、『とはずがたり』に「今参り」が出てくるのは、この「女楽事件」の場面だけです。
さて、「女楽事件」は建治三年(1277)の出来事とされていますが、『天祚礼祀職掌録』によれば、その十一年後、弘安十一年(1288)三月十五日の伏見天皇の即位式に、褰帳として「右典侍藤原隆子。<故兵部卿隆親卿女。>」という女性が登場します。
褰帳は左右二人いて、左は神祇伯の関係者と定められており、伏見天皇即位式の場合は、

左典侍登子女王。<神祇伯資基王女>
右典侍藤原隆子。<故兵部卿隆親卿女。>

となっています。(『群書類従・第三輯 帝王部』、p333)
名前に「隆」という四条家の通字が入っていて、宮廷の重要行事に参加している訳ですから、これは『尊卑分脈』に記載された隆親の「女子」二人のうちの一人と考えるのが自然です。
そして、「従三位」とのみ記されている「女子」は「近子」であり、既に死去しているので、もう一人の「女子」が該当しそうですが、この「女子」には「従一位識子 号鷲尾一品 文保元年六月四日為申一品慶参内卿相雲客供奉」と付されていて「隆子」ではありません。
これをどう考えるかが問題となりますが、まあ、「隆子」が「識子」に変ったということでしょうね。
「隆子」は角田文衛氏の分類に従えば「偏諱型」であり、四条家の通字「隆」を用いているのでそれなりに重みはあるのしょうが、しかし、誰でも思いつく雑な名前ともいえます。
他方、「識子」は女性には珍しい字を用いているので、儒家に勘案させた「雅名型」でしょうね。
とすれば、弘安十一年(1288)に「隆子」と名づけられた女性は、二十九年後の文保元年(1317)、「従一位」に叙されるのにふさわしい高貴な女性として「識子」と改名することになったのだと思われます。
この改名の事情を知るために『続史愚抄』を見ると、文保元年六月四日、「従一位藤原朝臣議子<号鷲尾局。四条故大納言隆親女。>奏極位慶。上達部殿上人等連軒扈従云。<〇系図、教言卿記追>」(『国史大系』第十三巻、p439)とあります。
「議子」となっている点、ちょっとびっくりしますが、これは『続史愚抄』の単なる誤記でしょうね。
そして、この記事の次には、十九日「為新法皇御悩御祷被始行五壇法於持明院殿」とあり、更に九月三日には「今暁寅剋。新法皇崩於持明院殿。<御年五十三。>後日奉号伏見院」とあります。
つまり「議子<号鷲尾局。四条故大納言隆親女。>」は伏見院(1265-1317)と特別な縁故があって、最晩年の伏見院は、長年にわたる隆親女の奉仕に報いるために従一位という名誉ある地位を与えてあげた、ということなのだろうと思います。
なお、『とはずがたり』の「女楽事件」がどこまで事実を反映しているのか、あるいは全くの創作なのかは分かりませんが、建治三年頃、隆親の意向で「今参り」が後深草院の御所に入ったことは事実なのでしょうね。
そして「今参り」は春宮の熈仁親王にも仕えて、弘安十一年(1288)の伏見天皇即位式に「隆子」の名で褰帳役を勤め、文保元年(1317)に「識子」の名で従一位に叙され、「鷲尾一品」と号することになった、という訳ですね。
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二人の「近子」(その4)

2020-04-17 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月17日(金)15時41分42秒

前回投稿で「母方の祖母権大納言」が亡くなるまでのストーリーの流れを紹介してみましたが、十四歳で妊娠六か月の二条が「雪の曙」という愛人と新枕を交し、逢瀬を重ねるというのは、いささか奇妙な光景です。
「母方の祖母権大納言」の死去の後、十一月に二条はいったん御所に戻りますが、

-------
ただ、とくして世の常の身になりて、静かなる住まひをして、父母の後生をも弔ひ、六趣を出づる身ともがなとのみおぼえて、またこの月の末には出ではべりぬ。
【久保田訳】
ただ、早く出産して普通の体になって、静かな生活をして、父母の後生をも弔い、六道を解脱する身となりたいとばかり思われて、またこの月末には退出しました。
-------

とのことで(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』、p245)、同月末には御所を退出してしまいます。
そして十四歳の妊婦は、いよいよ初めての出産が近づいてきて、しかも季節は真冬であるにもかかわらず、「醍醐の勝倶胝院」のような辺鄙な場所に行きます。
そこに十二月二十日過ぎ、後深草院の御幸があり、続けて「年の残りも今三日ばかりやと思ふ夕つ方」(p247)、吹雪の中を「雪の曙」がやってきて、「今日は日暮し九献にて暮れぬ」(p250)と、二人は一日中酒を飲んで過ごしたりします。
出産は翌年二月十日頃なので、妊娠八か月の妊婦の行動としては大胆不敵ですね。
以前、「後深草院二条の愛人の中で「変態」ないしアブノーマルではない人は「雪の曙」くらいですね」と書いたことがありますが、出産直前の妊婦とあれこれやっているだけで「雪の曙」も充分に変態ですね。
ま、それはあくまで自伝風小説の登場人物である「雪の曙」の行動であって、西園寺実兼の実像ではないと私は考えますが。

『とはずがたり』の年立
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6079737ab58dac888693cb1fbe18e06d

さて、私は二条の「母方の祖母権大納言」は『尊卑分脈』に「右兵衛藤信家女」と記された四条房名(1229~88)の母と同一女性と考えますが、直接にこの女性を知る手がかりは乏しいので、四条房名の経歴をもう少し見てみます。
『公卿補任』を見ると、房名の経歴は建長年間までは極めて順調で、寛元四年(1246)正月二十九日、後深草天皇践祚の日に三河守に任ぜられ、同日「院年預別当」に補されている点は特に注目されます。

四条房名(1229~88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E6%88%BF%E5%90%8D
年預
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%A0%90

もちろん十七歳の房名に後嵯峨院の院庁の実務を担えるはずもなく、父・隆親が責任者だったのでしょうが、これは房名が隆親の嫡子としての扱いを受けていたことの現れですね。
ただ、康元二年(1257)九月、二十九歳で正二位に叙せられて以降、房名の昇進は止まり、非参議のまま実に二十二年が経過して、弘安元年(1278)にやっと参議に任ぜられます。
他方、康元二年(1257)十一月に参議(正四位下)となって『公卿補任』に登場した隆顕(1243~?)の昇進は目覚ましく、文応二年(1261)権中納言、文永六年(1269)権大納言となりますが、建治二年(1276)十二月、「依父隆親卿還任」を理由に権大納言を辞し、翌建治三年(1277)五月四日、「与父卿不和不調之所行等之故云々」との理由で出家します。
房名と隆顕の経歴を照らし合わせると、房名は十四歳下の異母弟・隆顕が僅か十五歳で参議となった康元二年(1257)の時点で、既に隆顕に嫡子の地位を奪われており、その状態が二十年続いた訳ですね。
そして、建治三年(1277)に隆顕が三十五歳で廃嫡された翌弘安元年(1278)、長年冷や飯を食っていた房名は、五十歳にしてやっと、晴れて参議となります。
ただ、これで房名が嫡子に戻れたのかというと、もう一人の弟、後に鷲尾家の祖とされる隆良との関係が問題となります。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その7)─「さしも思ふことなく太りたる人」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94ad4b4ff6bb7ee3aa12fd9c11b0297d
鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4d3b04b4367043c2ac1ba6f905d18f3c
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二人の「近子」(その3)

2020-04-15 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月15日(水)16時27分6秒

「近子」を調べるために『とはずがたり』の二条の母に関連する場面を全て当たってみたところ、今まで特に注意していなかった箇所で、少し気になる記述がありました。
それは巻一の「母方の祖母権大納言」が亡くなる場面です。(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』、p243)
二条の父・中院雅忠(1228-72)は文永九年八月三日に死去しますが、その前後の出来事を久保田氏作成の年表(p574)を参照しつつ整理すると、

五月十四日、父、黄病を病む。
六月、後深草院の御子懐妊の兆候あり。
七月十四日、父、六角櫛笥から河崎の家に移る。作者の懐妊を知り、延命の祈祷・供養をする。
七月二十日ごろ、作者出仕。
七月二十七日夜、父の危篤の報に河崎へ下る。院、父を見舞う。作者の庇護を約束する院に雅忠、伝来の琵琶と太刀を献上する。
八月二日、善勝寺隆顕の使いで着帯。父から遺戒を受ける。
八月三日、辰の刻初め、父雅忠死去。
八月五日、家司の藤原仲綱出家。九日、父の初七日に北の方ほか出家。三七日、五七日の供養に院からの弔問。亀山天皇の后〔京極院〕没。
九月十余日、弔問に訪れた「雪の曙」と語り明かす。
九月二十三日、四十九日の仏事の後、四条大宮の乳母宅に下る。
十月十余日、「雪の曙」と新枕を交し、逢瀬を重ねる。

といった具合で、なかなか目まぐるしい展開です。
二条は翌年二月十日に後深草院皇子を出産したことになっているので、「雪の曙」と新枕を交し、逢瀬を重ねたのは妊娠六か月くらいの時期ですね。
ま、それはともかく、

-------
 かくしつつ、あまた夜も重なれば、心にしむ節々もおぼえて、いとど思ひ立たれぬほどに、神無月二十日ごろより、母方の祖母〔うば〕権大納言、わづらふことありといへども、今しも露の消ゆべしとも、見る見る驚かではべるほどに、いくほどの日数も積もらで、「はや果てぬ」と告げたり。東山禅林寺、綾戸といふわたりに家居して、年頃になりぬるを、「今日なむ、今は」と聞き果てぬるも、夢のゆかりの枯れ果てぬるさまの心細き、うちつづきぬるなどおぼえて、
  秋の露冬のしぐれにうち添へてしぼり重ぬるわが袂かな
 このほどは御訪れのなきも、わが過ちの、空に知られぬるにやと案ぜらるるをりふし、「このほどの絶え間をいかにと」など、常よりもこまやかにて、この暮れに迎へに給ふべきよし見ゆれば、「一昨日にや、祖母〔うば〕にてはべりし老人〔おいびと〕、空しくなりぬと申すほどに、近き穢れも過ぐしてこそ」など申して、
  思ひやれ過ぎにし秋の露にまた涙しぐれて濡るる袂を
立ち返り、
  重ねける露のあはれもまだ知らで今こそよその袖もしをるれ
【久保田訳】
 そうこうして、あの方とともに過ごす夜も多くなったので、心に染みるようなことなどもあって、いよいよ院参は決心できないでいるうちに、十月二十日ごろから、母方の祖母に当る権大納言が、患っているということだったが、今にも露のように消えるだろうとは思わず、様子を見ていながら、あわてもしないでいると、何日もたたないうちに、「もはや亡くなりました」と知らせてきた。祖母は東山禅林寺の綾戸というあたりに住んで、長年になっていたのだが、「今日が、ご臨終でした」と最期の知らせを聞いたのも、夢のようにはかない草のゆかりがすっかり枯れてしまい、心細いことが打ち続いたなどと思われて、
  秋の露……(秋の露─父が亡くなった悲しみ─や、冬の時雨─祖母に死なれた悲しみ─と、悲しみの涙を流すことが重なって、わたしは改めて袂を絞ります)
 このごろは御所様のお手紙がないのも、わたしの犯した過ちが、それとなく知られたためであろうかと心配される折節、「このごろ逢わないが、どうしているか」などと、いつもよりもお心のこもったお手紙があって、この日暮れに迎えにお使いをくだされるということが記されてあったので、「一昨日でしたか、祖母に当ります老人が、亡くなったと申しますので、近親者としての服喪の期間も過ぎてから参上いたします」などご返事申し上げて、
  思ひやれ……(ご想像くださいませ、過ぎ去った今年の秋の露と消えた父の死を悲しんでおりますうえに、今また祖母を失って時雨のように降る涙に濡れている私の袂を)
 ただちに次のようなお歌を頂いた。
  重ねける……(そなたの袂が涙の露に濡れるような不幸が重なったとも知らず、今聞いて、身内でないわたしの袖もしおれるよ)
-------

ということで(p243)、十月二十日過ぎに「母方の祖母権大納言」が亡くなるのですが、この人について、久保田氏は、

-------
作者の母方の祖母。作者の母は四条隆親の女の大納言の典侍。大納言の典侍が善勝寺隆顕と同腹であれば、左馬頭源義氏(清和源氏、足利氏の祖)の女、房名と同腹であれば、右兵衛督藤原信家(藤原氏北家道隆流坊門)の女となる。義氏の女か。
-------

とされています。(p243、注15)
『尊卑分脈』を見ると、四条隆親(1203-79)の子供は、隆顕・房名・隆良・隆任・隆遍(興福寺別当)・女子(従三位)・女子(従一位識子、号鷲尾一品)の五男二女で、このうち母親が分かっているのは隆顕(1243-?)と房名(1229-?)の二人だけです。
年齢は房名の方が十四歳上ですね。
そして、房名の母は「右兵衛藤信家女」ですが、『公卿補任』の文永元年(1264)を見ると、この年、従三位に叙された信家の尻付に「入道正二位行権大納言忠信卿息(実入道侍従長信子)」とあります。
長信は忠信の子なので、信家は実際には坊門忠信の孫で、猶子となったようですね。
この後、信家は正三位になるものの散位が続き、文永十一年(1274)に死去となります。
坊門家は鎌倉初期には大変な権勢を誇ったものの、承久の乱に積極的に加担して、忠信も本来は処刑を免れなかったところ、妹の源実朝室(西八条禅尼、1193-1274)のおかげで助命され、出家した人ですから、猶子の信家も出世には恵まれなかったようですね。

坊門忠信(1187-?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%BF%A0%E4%BF%A1

ま、それはともかく、四条隆親の母は坊門信清の娘であり、従って坊門忠信の姉妹ですから、四条家と坊門家の結びつきは強く、房名の母も正室だったはずです。
そして、当初は房名が嫡子だったのでしょうが、坊門家に見切りをつけた隆親が足利義氏の娘(能子)と再婚して、能子が産んだ隆顕が嫡子となった、ということだろうと思います。
さて、『尊卑分脈』に「女子 従三位」とある女性が『天祚礼祀職掌録』に出てくる「近子」と思われますが、「近子」は寛元四年(1246)の後深草天皇即位式に褰帳ですから、少なくともこの時点で十代後半にはなっているでしょうね。
とすると、「近子」は房名と同腹と考えるのが自然です。
そして、房名と同腹であれば、「近子」の父はパッとしない経歴であっても、祖父(実は曽祖父)の忠信は権大納言ですから、「近子」の女房名が「権大納言」というのは極めて自然ですね。
他方、足利義氏の周辺には「権大納言」の官職を得た人がいるはずもありません。
ということで、久保田氏の見解とは異なり、隆親娘の「大納言典侍」=「近子」は坊門信家の娘と考えるべきですね。
なお、『とはずがたり』の注釈書をいくつか見ましたが、「母方の祖母権大納言」の人名比定をしているのは久保田氏くらいのようです。
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二人の「近子」(その2)

2020-04-14 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月14日(火)10時08分4秒

『天祚礼祀職掌録』に登場する寛元四年(1246)の「近子」と正元元年(1259)の「近子」が同一人物で、『尊卑分脈』に「女子 従三位」とだけ記されている女性であり、かつ後深草院二条の母の「大納言典侍」だとすると、『とはずがたり』の母の命日が「五月五日」だという記述との整合性が問題となります。
久保田氏は「母がこの年五月五日に亡くなり、亀山天皇の即位が十二月二十八日に行われたのであれば、近子はやはり二条の生母ではないのかもしれない」(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』、p545)という方向で解決を図った訳ですが、問題を単純化すれば、『天祚礼祀職掌録』と『とはずがたり』のどちらが信頼できるか、ということになりますね。
『天祚礼祀職掌録』は歴代天皇の即位式の関係者を、奉行・内弁・外弁・左侍従・右侍従・典儀・大将代・褰帳の順に淡々と事務的に記述した人名リストであり、私はもちろん『天祚礼祀職掌録』の方を信頼します。
「五月五日」が母の命日だという話は妙に細かくて、それなりのリアルさはありますが、そもそも二歳で母が死んだという、『とはずがたり』全体で五回も出てくる話が本当でなければ、「五月五日」という日付自体には意味はありません。
『とはずがたり』において、二歳で母が死んだという話が最初に出てくるのは、巻一の父・雅忠が死ぬ場面です。
雅忠の病気が重いことを知って、七月二十七日、わざわざ訪問してくれた後深草院に対し、雅忠は、

-------
 かかる御幸のうれしさも置き所なきに、この者が心苦しさなむ、思ひやる方なくはべる。母には二葉にておくれしに、我のみと思ひはぐくみはべりつるに、ただにさへはべらぬを見置きはべるなむ、あまたの愁へにまさりて、悲しさもあはれさも、言はむ方なくはべる」よし、泣く泣く奏せらるれば、……
【久保田訳】
このような御幸を拝するうれしさも身の置き所がないほどでございますが、この子の不憫さが妄執となって晴らしようもなく、どうしようもございません。母には幼少のころ先立たれましたので、世話する肉親はわたしだけと思い養育してまいりましたが、普通の体でさえございません有様を見ながら残しておきますことが、多くの愁いにまさって、悲しさも哀れさも、言いようもないほどでございます」ということを泣く泣く申し上げると、……
-------

云々と述べます。
普通の体でないというのは二条が妊娠中との意味です。
ここで出てくる「二葉にて」は「幼いころに」という意味ですが、死の前日の八月二日、雅忠は二条にずいぶん長い別れの言葉を述べます。
その中に、

-------
さても、二つにて母に別れしより、我のみ心苦しく、あまた子供ありといへども、おのれ一人に三千の寵愛もみな尽くしたる心地を思ふ。笑めるを見ては百の媚ありと思ふ。愁へたる気色を見ては、ともに嘆く心ありて、十五年の春秋を送り迎へて、今すでに別れなむとす。
【久保田訳】
それにしても、そなたは二つの時母に死別して以来、父親のわたしだけが不憫に思い、子供は大勢いたのに、ちょうどあの玄宗皇帝が後宮の三千人の麗人のなかで楊貴妃一人を寵愛したように、わたしもそなた一人をかわいがってきたように思う。そなたがほほえむのを見ると、笑うと百の媚を生じたという楊貴妃のように、本当に美しいと思う。愁いに沈んでいる様子を見る時は、一緒に嘆き悲しんで、十五年の春秋を送り迎えて、今はもう先立とうとしている。
-------

とあって(p226以下)、ここで初めて二歳という具体的な数字が出てきます。
ただ、それと同時に、二条は臨終の父の言葉を借りて、自分の美貌は楊貴妃並みなどと言っている訳で、厚かましい感じも否めないですね。
他人の口を借りて自分を誉めまくるのは二条の常套手段であって、後深草院はもちろん、亀山院や「近衛大殿」も二条を誉めまくっています。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00
『とはずがたり』に描かれた北山准后(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d72d63a852f8919b6442885021f9716d

『とはずがたり』の中では、二歳が五回(p226、230、396、445、478)、「二葉にて」が二回(p224、291)、「幼稚にて」(p260)が一回と、幼くして母が死んだという話が何度も繰り返されますが、それぞれの文脈を確認すると、この話はしみじみとした雰囲気を醸し出すための背景音楽的な機能を果たしているような感じがします。
母が二歳で死んだ、と聞いて、それがどうした、と思う読者もあまりいませんから、明るい話の後にこれを出すと、ガラッと舞台装置を変えるような効果も期待できますね。
まあ、私も二条の幼いころに母が死んだという話を全否定するつもりはありませんが、二歳云々はストーリーをリアルにするための細かな演出のひとつじゃないですかね。
ということで、私は二条の母が寛元四年(1246)三月十一日の後深草天皇即位式と正元元年(1259)十二月二十八日の亀山天皇即位式に参加した「近子」だと思いますが、「近子」は亀山天皇即位式の後に死去したのであって、『とはずがたり』の二歳云々にこだわる必要はないと思います。
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二人の「近子」(その1)

2020-04-13 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月13日(月)14時45分29秒

後高倉院皇女に利子内親王(式乾門院、1197-1251)、能子内親王(押小路宮、1200-45)、本子内親王(?-1229)、邦子内親王(安嘉門院、1209-83)、有子内親王(生没年不詳)とシンプルな名前の女性が多いのは、もともと後高倉院が即位することも院政を行うことも予定されていなかったのに、承久の乱の棚ボタで突如として治天の君になってしまった、という事情が反映されているのでしょうね。

守貞親王(1179-1223)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%B2%9E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

ま、それでも「能子内親王」という皇女がいたのですから、足利義氏の娘で四条隆親室の「能子」についても「雅名型」の可能性が皆無ではなさそうですが、しかし、四条隆親の娘の「近子」となると、あまりにチープな名前なので、さすがに「雅名型」ではないでしょうね。
もともと、この「近子」という名前は『天祚礼祀職掌録(てんそれいししょくしょうろく)』に出てきます。
久保田淳校注・訳『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』(小学館、1999)の「解説」には、

-------
 隆親の娘としては、『尊卑分脈』は二人の女子を掲げている。一人は従三位となった女子、もう一人は名を識子といい、従一位とされ、「鷲尾一品」と号した女性である。作者二条の母は従三位とされた女子であろうか。『群書類従』帝王部に収められている『天祚礼祀職掌録』は、歴代帝王の即位の大礼に奉仕した役人の名を記した書物である。この書の「後深草院」の条を見ると、「褰帳〔けんちょう〕」(儀式の際、高御座の帳をあげる女官)の右典侍は「近子。<中宮大夫隆親卿女。>」と記されている。ところが、亀山院の褰帳も「右典侍藤原近子。<入道大納言隆衡卿女。>」とある。これによれば、姪と伯母(叔母)との関係にある二人の女性がともに近子という同名で、しかも姪の方が十三年も早く褰帳の典侍を勤めていることになるが、それは不自然であろう。とすると、二人の近子は同一人で、亀山院の即位の際は、祖父の猶子という形でこの役を務めたのではないだろうか。亀山天皇の即位の礼は正元元年(一二五九)十二月二十八日に行われた。この時隆衡はすでに故人であるが、それはとくにさしつかえなかったのであろう。二条も祖父久我通光亡き後に、その娘という形で後深草院の女房とされたのである。
-------

とあります。(p545)
念のため関係者の年齢を見ておくと、後深草天皇の即位は寛元四年(1246)で、四条隆親(1203-79)は四十四歳、その父の隆衡(1172-1254)は七十五歳です。
そして十三年後の亀山天皇即位時には隆親は五十七歳ですが、隆衡は五年前に八十三歳で没しています。
隆衡・隆親父子は三十一歳離れており、確かに「姪と伯母(叔母)との関係にある二人の女性がともに近子という同名で、しかも姪の方が十三年も早く褰帳の典侍を勤めている」のは不自然ですね。
さて、続きです。

-------
 あるいは、この近子が二条の母ではなかったかと想像されるのだが、二条はしばしば二歳の時母に死別したと述べている。また、母の命日は五月五日であるという。そして二条の生年が最初に考えたように正嘉二年であるならば、二歳なのは正元元年で、近子が亀山天皇の即位に際して褰帳を勤めた年である。母がこの年五月五日に亡くなり、亀山天皇の即位が十二月二十八日に行われたのであれば、近子はやはり二条の生母ではないのかもしれない。
 なお、伏見天皇の即位の際も、隆子という隆親の女子が褰帳の右典侍を勤めている。四条家は隆親の姉貞子が産んだ姞子(大宮院)や公子(東二条院)が皇室に入って以来、皇室との結び付きが強くなっていくのである。
-------

『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』は巻末の「とはずがたり 人名・地名索引」が非常に充実していて、これを頼りに二条が「しばしば二歳の時母に死別したと述べている」箇所を数えたら、全部で五箇所ありますね。
そして、母が五月五日に亡くなったという話は、巻二にただ一箇所、出てきます。
久保田氏は建治三年(1277)の出来事としていますが、このあたり、ストーリーの展開が目まぐるしくて、まず、三月十三日に女楽事件があり、「今参り」を依怙贔屓する祖父・隆親に席次を下げられた二条は激怒して御所を出奔、行方不明になります。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その1)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8797cb0c18b28115d6de1f3e2ddc0a7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ffd2d11e2bc080d6e41548fd343d5d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e60ac8d996034d4f856ce01740b32b8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94ad4b4ff6bb7ee3aa12fd9c11b0297d

そして乳母の母親で、宣陽門院に「伊予殿」という名で仕えた老女が、宣陽門院の墓のある伏見の即成院の近く、小林というところに住んでいたので、そこに隠れた後、醍醐勝倶胝院の真願房の庵室に籠ります。
ちょうどその頃、父・隆親と不和になった隆顕に同情した二条が隆顕に手紙を書いたところ、隆顕は二条を訪れ、それを知った「雪の曙」も醍醐を訪問します。
そして、隆顕の手配で伏見の小林に戻った二条のところに後深草院の突然の御幸があり、二条は御所に戻ることになります。
ついで、二条は「雪の曙」との間に生まれていた女子が病気だと聞かされます。(p337)

-------
 さても、「夢の面影の人、わづらひなほ所せし」とて、思ひがけぬ人の宿所へ呼びて、見せらる。「五月五日は、たらちめの跡弔ひにまかるべきついでに」と申ししを、「五月ははばかるうへ、苔の跡弔はむ便りもいまいまし」としひて言はれしかば、卯月のつごもりの火、しるべある所へまかりたりしかば、
【久保田訳】
 さて、「夢のようにちらりと面影を見たあの子の病気は、やはりはかばかしくない」というので、思いもかけない人の家へ呼んで、見せられる。「五月五日は、母の命日に弔いに出かけなければならないので、そのついでに」と申したところ、「五月ははばかるうえ、お墓参りをするついでも演技が悪い」と強く言われたので、四月の月末の日、案内された所へ出かけたところ、
-------

ということで、五月五日の話はここだけに出てきます。
まあ、肉親の死に関することなので、普通は信用できる話ですが、後深草院二条の場合、『公卿補任』では四十五歳で死去したとされる父について、「文永九年八月三日辰の初めに、年五十にて隠れたまひぬ」(p229)と五歳もサバを読んでいます。
また、祖父隆親は『公卿補任』では弘安二年(1279)九月六日、七十七歳で死去したとされているのですが、『とはずがたり』の時間の流れは混乱を極めており、久保田氏作成の年表では、隆親は弘安六年(1183)七月ごろに二条を御所から退出させていて、史実との間に四年のずれがあります。
更に、『とはずがたり』では隆親の前に死んだことになっている隆顕は、その後もけっこう長生きしていそうです。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb7aa8e0d799f8d99bd2b7bf1a7f17a3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb
『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5064aea36de872d899518e542010599f

ということで、『とはずがたり』は自伝風の小説であるから、母が死去したという五月五日もストーリー上の都合で適当に設定した日付であり、あまりこだわる必要はない、というのが私の考え方です。
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「偏諱型」と「雅名型」

2020-04-12 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月12日(日)14時09分19秒

前回投稿、自分では大発見をしたつもりで興奮して書いてしまったのですが、女性名の研究史の中での位置づけが弱かったですね。
研究史といっても、女性名については角田文衛氏の『日本の女性名 歴史的展望(上・中・下)』(教育社新書)が圧倒的な存在感を示しているので、角田氏の見解に即して、基礎的なところから確認しておきます。
まず、平安時代後期の状況について、『日本の女性名 歴史的展望(上)』(教育社新書、1980)から少し引用します。(p232以下)

-------
 これまで煩をいとわずに平安時代後期における宮廷関係の女性たちの名を列挙した。以上を通観して明瞭・確実にいえるのは、宮廷関係の女性たち(后妃、皇女、女房)の名が、一字二音の子型に完全に統一されたことである。実にこれは見事な統一であって、爾来、鞏固な伝統となって継続し、現代にすら相当な影響をおよぼしているのである。
 むろん、后妃や女房とならなくても、貴族社会の女性名は、ほとんど一字二音の子型に帰一したと推定される。つぎに若干の例を挙げてみよう。
【中略】
 これらの一字二音子型の女性名についてきわめて特徴的なのは、偏諱〔かたいみな〕型が非常に多いこと、少数ながら雅名型がまじっていることである。いま、順序不同で偏諱の女性名の例をかかげよう。つぎの表を一覧するならば、女性名の音読がいかに愚劣であるかが判明するであろう。たとえば、女御・基子は、侍従宰相・源基平〔もとひら〕の娘であり、その偏諱をとって命名されたもので、絶対にモトコと訓まねばならぬのである。
 右の命名法によると、中納言・藤原成範(一一三五~一一八七)の娘の小督─高倉天皇の内裏女房─の名は、成子ないし範子であったであろう。ところが、高倉天皇の寵をこうむって彼女が産んだ皇女が、範子内親王と命名されている点から帰納すると、小督の実名は、藤原成子であったとする可能性が多いのである。
-------

「小督の実名は、藤原成子であったとする可能性が多いのである」に付された注20には「角田「小督の局」(前掲『王朝の映像』所収)参照」とありますが、『王朝の映像』(東京堂出版、1970)を確認すると、

-------
 後述するように、小督は治承三年において二十三歳であったから、保元二年(一一五七)の出生であった。時に父の成範は、二十二歳であったが、この年齢のときに生まれた女子であってみれば、彼女は長女か次女であるに相違なく、従ってその本名は、成〔しげ〕子か範〔のり〕子であったと推定される。ところが、小督が産んだ皇女は、範子内親王であった。彼女は、実範流藤原氏の伝統に従って、また父の名に因んで、生まれた皇女を『範子』と名づけることを要請ないし奏請したに相違なく、それはまた彼女の名が範子でなく、成子であったことを示唆するものである。
-------

とのことで(p575)、要するに選択肢が二つで、親子が同じ名前では変だから、成子が範子を産んだのだろう、ということですね。

小督(1157-?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%9D%A3

この小督の例からも明らかなように、「一字二音の子型」が確立された慣習となっていた状況で、更に「偏諱型」に固執すれば、名前の候補は著しく限定されてしまいます。
父の名前だけだったら娘二人で満杯ですね。
そこで、皇女など高貴な女性を中心に、少数ですが「雅名型」も存在します。
これは儒家にいくつかの候補を挙げさせ、その中から選択するというパターンで、字が難しく、読み方が分かりにくいタイプですね。
さて、以上のような状況が鎌倉時代に入るとどうなったかというと、それほど変化はありません。
角田氏は「第二部 混成古代」「1 鎌倉時代」で、次のように述べます。(p273以下)

-------
 ところで、鎌倉時代の宮廷貴族の間では、伝統的な一字二音型の女性名が広く行われていた。まず皇族についてみると、たとえば、
 土御門天皇皇女 【三名略】
 順徳天皇 【二名略】
 後高倉院皇女 利子内親王 邦子内親王 能子内親王 本子内親王 有子内親王
 後堀河天皇皇女 【三名略】
 後深草天皇皇女 【五名略】
 伏見天皇皇女 【三名略】
 後二条天皇皇女 【四名略】
のようであって、学者に勘進させたむずかしい、そして今となっては訓みの不明な名が少なくないのである。
-------

名前を大幅に省略したのは字が難しいからですが、例えば後深草天皇皇女の筆頭は姈子内親王(遊義門院)で、角田氏は「姈」を「さと」と読んでいます。
この後、角田氏は藤原兼実の娘が「任子」に決まるまでの複雑な手続きを紹介した上で、

-------
 摂関家、西園寺家など、最高級の貴族の娘たちには、明らかに学者を煩わしたと思われる名が少なくない。いま、順序不同でそうした名を『尊卑分脈』から拾ってみよう。
-------

として、十七名を列挙し、その中の八名を訓読みしていますが、例えば洞院実雄の娘で亀山天皇皇后、後宇多天皇生母の藤原佶子を「さねこ」と読むなど、ホントかな、と思わせるものもありますね。

洞院佶子(1945-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E4%BD%B6%E5%AD%90

ま、それはともかく、この後、角田氏は「一見、平凡に思われても、学者の撰進によった可能性が多い」事例を七名を紹介し、更に「この時代には、父の偏諱をとる伝統的な女性名も少なくなかった」として十二名を列挙しています。
この「偏諱型」は字の候補が限られてしまうので、僅か十二名の中でも「平棟子」が二人、「源親子」が二人いますね。
前者の一人は「勘解由次官・棟基の娘。従一位。後嵯峨天皇後宮。宗尊親王母」、そして後者の一人は「内大臣・通親の娘。後嵯峨天皇乳母。従二位。大納言典侍」です。
さて、この後、角田氏は次のように述べます。(p277)

-------
 しかし博士の勘申にもよらず、また父の偏諱もとらぬ女性名が多数存したことも、疑いがない。「北山の准后」の名で朝野の尊崇を一身にあつめ、長寿を全うした藤原貞子(一一九六~一三〇二)は、権大納言・藤原隆衡(一一七二~一二五四)の娘で、太政大臣・平清盛の曽孫であった。また北白川院・藤原陳子は、権中納言・藤原基家の娘、権大納言・平頼盛の孫であった。おそらく適宜につけられたこうした実名も、相当数あったのであろう。
-------

ということで、「北山の准后」について尋常ならざる執念で調べ上げた角田氏をもってしても、「貞子」の由来は見出せなかったようですね。
ま、私が前回投稿で書いた足利義氏の娘で、四条隆親室となった「能子」、そして四条隆親の娘で後深草院二条の母らしい「近子」は、学者に撰進してもらったほどの「雅名型」とも思えず、「偏諱型」のバリエーションということですかね。
なお、前回投稿では上杉氏についても少し書きましたが、これは余分だったので撤回したいと思います。
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四条家歴代、そして隆親室「能子」と隆親女「近子」について

2020-04-10 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月10日(金)10時33分42秒

少し脱線します。
去年、櫻井陽子・鈴木裕子・渡邉裕美子著『平家公達草紙 『平家物語』読者が創った美しき貴公子たちの物語』(笠間書院、2017)をきっかけに四条隆房(1148-1209)について色々考えてみたので、隆房はこの掲示板ではお馴染みの存在です。

「自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6703ff7fe27f91124f8f3212ecd5e21c
「なぜ、これほどまで、隆房が陰に陽に登場するのでしょう」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbcfa49a126ba3923496a500b44ee277
「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37bc204a27979ec252726d8e427d1e56
「久我の内大臣まさみちといひし人のむすめ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ab76a839eb0083d28c8781849db4898
)「胸騒ぐといへば、おろかなり」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/12c8d7121f8fe6bc28919ae9f1812a75
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9055fa232ce98cac82a671abc0a39a0
「『平家公達草紙』は「耳無し芳一の話」と違って、創作ではない」(by 角田文衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dbef8e305c0f78513076d29540bfd65
「晩年において貞子は、『平家公達草紙』の絵巻化を考え、これを実施……」(by 角田文衛)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71c30024fe4fd062474564bac25a00a1

さて、『古今著聞集』が載せる盗賊団の女首領「大納言」の事件は、首都の治安の責任者、いわば現在の警視総監のような存在であった検非違使別当の邸宅が盗賊団の隠れ家になっていた点に面白みがありますが、これが事実だとして、いったい何時の出来事かというと、隆房が検非違使別当であった時期ですね。
『公卿補任』を見ると、隆房は寿永二年(1183)、三十六歳で参議となって『公卿補任』に初登場し、文治三年(1187)九月二十四日に検非違使別当に就任、文治六年(建久元年。1190)七月十八日、別当を辞して右衛門督に転じていますから、この約三年間、隆房が四十歳から四十三歳までの間の話です。
検非違使別当を辞した時点で隆房は権中納言・正三位ですが、建久六年(1195)従二位、建久十年(正治元、1199)中納言・正二位、翌年散位となり、建仁四年(元久元、1204)に権大納言で、これが極官です。
この時、隆房は五十七歳ですが、翌年これを辞し、元久三年(建永元、1206)に五十九歳で出家ですから、富裕で鳴らした四条家といえども官位官職は、まあ、こんなものなのかな、という感じですね。
ちなみに嫡子の隆衡(1172-1255)は建仁二年(1202)、三十一歳で参議となり、承久元年(1219)、四十八歳で極官の権大納言ですから、父・隆房よりは少し早いですね。
隆衡の嫡子である隆親(1203-79)となると、元仁二年(1225)に二十三歳で参議、嘉禎四年(1238)に三十六歳で権大納言ですから、隆房・隆衡より相当早く、更に建長二年(1250)には四十八歳で大納言となります。
そして隆親の嫡子の隆顕(1243~?)の場合、康元二年(正嘉元、1257)に十五歳で参議、正嘉三年(1259)検非違使別当、文応二年(弘長元、1261)権中納言、文永六年(1269)に二十七歳で権大納言ですから、隆親よりも相当早い昇進で、ちょっとびっくりですね。
『とはずがたり』には小太りの軽妙洒脱な叔父さんとして登場する隆顕ですが、隆親の権勢、そして母が足利義氏の娘という特別な出自を背景に、出世街道を驀進した人でもあります。
ところで、隆親室で隆顕の母となった足利義氏の娘は諸記録に「能子」とありますが、足利家の系図を見ても祖先や周囲に「能」の字の人がいません。
これは私にとって二十年来の謎で、後の時代の上杉氏に重能・能憲といった「能」の人たちが出てくるから何か関係があるのかな、などと妄想を逞しくしていたのですが、素直に考えれば「義」と「能」は「よし」という読み方は共通ですね。
角田文衛氏が女性名の訓読みに執拗にこだわった点については、女性名は正式な書類に名前を記す必要が生じたときに父親の名前等から一字を取ってつけたものであって、実際にその名で呼ばれることなどないのだから読み方など気にする必要はない、という批判が有力であり、私もそれは正しいと思います。
しかし、実際に名前をつける必要が生じた場合、父の二字だけでは選択肢が限られ、娘が何人もいるような場合には不便ですから、読み方が同じの他の字をつける、ということも考えられるように思います。
四条隆親の周辺では、後深草院二条の母となった「大納言典侍」が「近子」とされており、私にとってはこの「近子」も二十年来の謎でした。
というのは、この「近」という字が四条家系図に全く見当たらないからなのですが、「親」と「近」は「ちか」という訓読みで共通ですから、「親子」の代わりに「近子」とした可能性も十分考えられそうです。
後嵯峨天皇の周辺には、源通親の娘で「大納言二位」と呼ばれていた「親子」という女性もいたようで、この人と名前が重なることを憚ったのかもしれません。

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27

というようなことを、先ほど思いついたのですが、どんなものでしょうか。
これが正しいとすれば、上杉氏に「能」の字の人が出てくるのは、鎌倉時代において足利家の全盛期を築いた義氏にあやかって、「よし」の読み方をもらった、という見方もできそうです。
以上、通字に詳しい方のご意見をいただければ幸いです。
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『たまきはる』の女房名寄せ(その2)

2020-04-08 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 8日(水)12時29分14秒

予備知識の追加として、角田文衛氏の『日本の女性名(上)』(教育社歴史新書、1980)から少し引用します。
まずは「第一部 古代」「8 平安時代後期」から。(p241以下)

-------
女房たちの候名

 宮廷や院宮、大臣家などに仕える女房たちの候名は、中期とほとんど変わらなかった。やはり候名は、父の官職によるのを原則とした。たとえば、馨子内親王の乳母典侍〔めのとのすけ〕で、候名を中納言と称した藤原忠子は、権中納言・忠輔の娘であった。伊予内侍こと掌侍・高階秀子の父は、伊予守・盛章であった。『讃岐典侍日記』の著者としてあまりにも有名な讃岐典侍こと藤原長子の父は、讃岐守・顕綱であった。肥後内侍の名で知られる掌侍・高階基子は、肥後守・基実を父としていた。この種の例は、ほとんど際限なく挙げられる。しかし一方、候名のよってきたるところの不明な女房もまた少なくない。建礼門院右京大夫の候名の由来なども、確認できぬ例の一つである。
 周知のとおり、後鳥羽天皇の生母(後の七条院)の藤原殖子(一一五七~一二二八)は、修理大夫・信隆(一一二六~一一七九)の娘であって、初め中宮・平徳子に仕え、候名を「兵衛督」と称したが、この名の由来も明らかでない。しかし、たとえその由来が今日不詳であるにしても、女房の候名は、祖父、外祖父、養父など親族にひろく名祖を求めたものらしく、全く任意に、またはよい加減に命名されたとは考えにくい。
 それに建春門院の女房の一覧表を通覧しても明白なように、平安時代後期には、元来の身分に応じて女房の間に上臈、中臈、下臈の区別が固定し、下臈の女房が「大納言」などと称することは聴〔ゆる〕されなくなった。
 平安時代後期になると、大納言はおろか、大臣の娘や妻すらが宮仕えに参仕した。右大臣・藤原兼実は、関白・基房(一一四五~一二三〇)の正妻の藤原忠子が言仁親王(安徳天皇)の乳母に参仕したことに触れ、非難の意をこめて、
  執政の室、乳母と為るの例、古今いまだあらず、時宜に随って例を起始さるる歟。
と記している。
 これら最高級の公卿の娘や妻は、御所における局の位置によって、「東の御方」、「西の御方」、「廊の御方」といった尊称で呼ばれたし、また、以上をふくめた上臈の女房たちは、里第に因んだ候名、すなわち「堀川殿」、「三条殿」、「冷泉殿」などの名をおびることが多かった。
-------

p242~243に「建春門院の女房の一覧表」が出ていますが、定番の女房(「近く候ひし人」)二十五名(上臈八名、中臈七名、下臈十名)だけのリストで、他に一箇月交替で勤務する「番(の)女房たち」三十五名がいます。
さて、次に「第二部 混成古代」の「1 鎌倉時代」から引用します。(p283以下)

-------
 わが国では、古くから実名を呼ぶことは回避されていたから、とくに宮廷貴族の間においては、字〔あざな〕に「御前」をつけ、あるいは官名、候名、居所名に因んで相手の女性を呼んだのである。
 「れいぜい(冷泉)殿」「一条殿」(藤原実氏の娘)「禅林寺殿御方(掄子女王)」 「押小路女房」(藤原俊成の娘。大納言・源通具の妻)
  「山井殿」(修理大夫・藤原頼輔の娘。従三位。皇嘉門院女房。太政大臣・良平の母)「愛寿御前」(藤原俊成の娘)
等々は、その例である。
【中略】
 なお、藤原定家は、古今集歌人の藤原因香〔よるか〕の名がひどく気に入っており、長女に因子(民部卿典侍)、次女に香子という名をつけたのであった。
 藤原因子は、「民部卿」という候名で出仕した。これは、父・定家の官職名とは無関係に勅定されたのであり、定家が民部卿に任ぜられたのは、それより一二年も後の建保六年(一二一八)七月のことであった。
 鎌倉時代における内裏や院宮の女房たちの候名は、平安時代後期とあまりかわらなかった。ただ父兄や夫の官職名とほとんど関係なく候名が定められたこと、「新」字、ときには「権」字を接頭語とする候名の急増したことが注意にのぼるのである。
  新大納言 権大納言典侍 新中納言 新典侍〔しんすけ〕 新按察典侍〔しんあぜちのすけ〕 新宰相 新少将 新左衛門督〔しんさゑもんのかみ〕

 女房の候名には、一定の型ができていた。大臣やこれに準ずる最高級貴族の娘たちはほとんど女房に参仕せず、稀に上がったさいには、「西の御方」、「廊の御方」といった敬称が与えられた。しかしこの「呼び名」は、家柄のよくない婦人が天皇の寵をこうむったようなときにも用いられた。
 一般に内裏では、天皇の乳母たちが典侍〔すけ〕に任じ、三位に叙され、女房としては最上位を占めていた。大納言典侍、権中納言典侍、別当典侍、按察典侍〔あぜちのすけ〕、督典侍〔かうのすけ〕など、候名は若干の種類はあったけれども、従三位、ときには従二位典侍であることにはかわりがなかった。つぎに鎌倉時代における主な内乳母〔うちのめのと〕の歴名をかかげてみよう。これらの女房の実名を一瞥してみると、父の偏諱〔かたいみな〕をもらった女性の少なくないことが気づかれる。
 乳母典侍〔めのとのすけ〕は、むろん、上臈女房に属していた。といって大納言典侍が最も格式が高いというわけではなかった。大納言典侍は、大典侍〔だいすけ〕、典侍大〔すけだい〕など略称された。大納言という女房名は、内裏ばかりでなく、院宮や公卿の邸宅にも存在した。たとえば、御子左家の権大納言・藤原為世(一二五〇~一三三八、『新後撰集』の撰者)の孫で、二条関白家に仕えていた女性の候名は、大納言であった。最も皮肉なのは、権中納言兼左兵衛督・検非違使別当の藤原隆房(一一四八~一二〇九)家の上臈女房の大納言が盗賊団の首魁であったことである。
-------

角田文衛氏は「第一部 古代」の「8 平安時代後期」と、「第二部 混成古代」の「1 鎌倉時代」で分けて書かれていますが、『たまきはる』はこの二つの時代にまたがっており、また、後鳥羽院宮内卿も鎌倉初期なので、時期的に微妙ですね。
鎌倉時代に入ったとたん、「ただ父兄や夫の官職名とほとんど関係なく候名が定められた」とは思えないですし、かといって、「藤原因子は、「民部卿」という候名で出仕した。これは、父・定家の官職名とは無関係に勅定されたのであり、定家が民部卿に任ぜられたのは、それより一二年も後の建保六年(一二一八)七月のことであった」という事例も気になります。
なお、典侍大(すけだい)は、『とはずがたり』の読者には後深草院二条の母の愛称としておなじみですね。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a
『とはずがたり』に描かれた北山准后(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c23745e8b7b9e537a58e693b0f60024

また、四条隆房の上臈女房の「大納言」が盗賊団の首魁であった話は『古今著聞集』巻第十二「検非違使別当隆房家の女房大納言殿、強盗の事露見して禁獄の事」に出てきます。

「首領の正体」(『座敷浪人の壺蔵』サイト内)
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten2/1272shuryo.htm
菊池寛「女強盗」(『青空文庫』)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/50449_36751.html
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『たまきはる』の女房名寄せ(その1)

2020-04-06 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 6日(月)12時44分11秒

『たまきはる』の最後には、

-------
乾元二季二月廿九日、書写校合畢。此草子者、建春門院中納言書之。
俊成卿女云々。
                     貞顕
-------

と記されていて(p316)、現代人が『たまきはる』を読めるのは、乾元二年(嘉元元、1303)、二十六歳だった六波羅探題南方・金沢貞顕が丁寧に書写してくれたおかげですね。

金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95

貞顕は前年七月、六波羅探題南方に就任したばかりなので、『たまきはる』みたいな本を書写しているのを見ると、暇なのかな、という感想を持つ人がいるかもしれません。
永井晋氏の『金沢貞顕』(吉川弘文館・人物叢書、2003)や森幸夫氏の「十二代連署・十五代執権 金沢貞顕」(『鎌倉将軍執権連署列伝』、吉川弘文館、2015)などを見ても、貞顕が『たまきはる』を書写したことについての特段の分析はありません。
ただ、貞顕は生真面目な人ですから、政務もそれなりに熱心にやっていたはずで、多忙の中にも『たまきはる』のような典籍への学問的・芸術的関心が尽きることはなかった、ということなのでしょうね。
『たまきはる』はかなりレベルの高い作品で、初心者がいきなり読むのはちょっと無理ですから、貞顕が鎌倉で相当熱心に古典を研究していて、並々ならぬ教養の持ち主だったことが伺われます。

『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d029423852e8b92de744047155fb6762

ま、それはともかく、宮内卿の名前の由来にとって重要なのは六十人に及ぶ女房名寄せの箇所ですが、その検討に入る前に、もう少し予備知識を追加しておきます。
保元二年(1157)に生まれた健御前は、十二歳の仁安三年(1168)から建春門院御所に宮仕えし、これが安元二年(1176)の女院崩御まで続きます。
その後、以仁王の姫宮の養育などを経て、二十七歳の寿永二年(1183)から八条院のもとに再び宮仕えすることになります。
『たまきはる』の女房名寄せが八条院の時代ならば、後鳥羽院宮内卿の問題を考える上でベストなのですが、残念ながら建春門院に仕えた時期の話です。
ただ、六十名にも及ぶ解説付きのリストなので、当時の貴族社会における女房名の命名に関する感覚については、大変参考になります。
さて、予備知識として確認しておきたいのは女房の序列の問題です。
三角氏の「『たまきはる』解説」から少し引用します。(P435以下)

-------
 建春門院御所には、[5]女房の名寄せに見えるとおり、総勢約六十名もの女房が交替で仕えていた。女房のほかにも、下仕えや雑仕・半者などがいたわけであるが、女房には大きく分けて、「近く候ひし人」すなわち四六時中近侍する定番と、一箇月交替で勤務する「番(の)女房たち」とがあり、それぞれに上臈・小上臈・中臈・下臈という階層の別があって、召し名によってその身分も明らかになっていたようである。上臈はおおむね禁色が聴されていて、小上臈は織物の唐衣を聴され、中臈以下は流紋を着たらしい。建春門院の腹心としては女院の近親のほか、上西門院のもとから移ってきた女房がいて上臈・小上臈の地位を占めており、定番の下臈すなわち近習はほぼ女院の乳母の一族が固めている。近習には略装の二つ衣を聴されているが、女院の御座所の引き物の内に入ることはないという。
 男たちへの応対には応接役の女房が決まっていて、そのこと自体は『更級日記』から知られていたのであるが、男の身分によって、大臣・大将には定番の上臈が、上達部には定番の小上臈が、殿上人には近習と番の中臈があたるということも分かった。女房の序列はやかましかったようで、[21]萱の御所の火における車による避難の折や〔24〕出車の条でも、席次がいかに厳しく守られていたかが知られるし、[26]安元の御賀の装束における女房たちの三日間の装束についての見聞を述べるところでも、定番と番の区別や階層の内部での前後はともかく、上臈から下臈にいたる序列に乱れはないようである。
-------

ということで、女房の世界は厳しい階層社会であり、女房名も階層に関係していたことを確認しておきたいと思います。
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『たまきはる』の作者・健御前

2020-04-05 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 5日(日)11時18分56秒

『たまきはる』の女房名寄せは非常に重要なので丁寧に紹介したいと思いますが、作者は藤原俊成(1114-1204)の娘・健御前で、藤原定家(1162-1241)の五歳上の同母姉です。
三角洋一校注『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)の「『たまきはる』解説」から少し引用します。(P427以下)

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 一 書名と作者

 『たまきはる』は、藤原俊成女で実名を健御前、女房名を建春門院中納言、また八条院中納言といった女性の手になる日記文学作品である。【中略】
 作者の健御前は歌人藤原俊成の女子で、母は藤原親忠女(美福門院加賀)である。『明月記』元久元年(一二〇四)十二月二日条に四十八と見えるところから逆算すると、保元二年(一一五七)の誕生となる。成家は同母兄、定家は同母弟である。俊成は早く孤児となり、諸大夫の家である葉室(藤原)顕頼の養子となっていた関係からであろうか、女子を宮仕えに出しており、健御前の異母姉に後白河院京極、八条院坊門、前斎院(式子内親王家)女別当、八条院権中納言、同母姉に八条院三条(五条尼上)、高松院新大納言、上西門院五条(安井尼上)、八条院按察使、同母妹に前斎院大納言、承明門院中納言などがいた。
 日記によると、仁安三年(一一六八)春、高倉天皇の践祚にともない、母女御平滋子が皇太后にすすめられるにあたって、作者は十二歳で宮仕えに出ることになった。滋子は兵部権大輔時信女で、上西門院小弁という女房であったが、後白河上皇の寵を得て皇子を生み、立后の日を迎えたのである。滋子は時に二十七歳、翌嘉応元年に建春門院の院号を賜っている。作者は若人ながらに、「あな美し。世にはさは、かかる人のおはしましけるかと、ふと見つけまゐらせしより、何となく心の思ひつきまゐらせにしなり」(二六五頁)と女あるじの君を慕い、忠節を尽くすようになるが、女院もまた日ごろ若い女房に訓戒して、「女はただ心からともかくもなるべき物なり……我が心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ」(二五五頁)と語って励ましている。
 作者は女房名を中納言といい、番の女房の上臈であった。姉の京極が後見してくれたようである。時代は平清盛政権のもと、王朝文化の最後の輝きをはなっており、華美を競う風があったからか、若人の女房ということで、内出〔うちいで〕や出車〔いだしぐるま〕の人数に入ることが重要な任務の一つであったからか、日記には服装や車にまつわる挿話が少なくない。この宮仕えは足掛け九年つづくが、安元二年(一一七六)七月八日、早すぎる女院の崩御によって終わってしまう。
 その後、鹿ケ谷事件に始まり、治承・寿永(一一七七-一一八四)の源平の兵乱の時代へと世は移っていくが、そのころ作者は後白河院皇女、前斎宮亮子内親王(殷富門院)のもとに参り、同母弟以仁王の姫宮の養育にあたっていたことが、『明月記』治承四年(一一八〇)五月一日条以下の記述によって知られる。『たまきはる』の読みにかかわり、明解を得ないが、後見は作者の養母であった姉の坊門であろうか。京極のようにも解されなくはない。ところがその直後、以仁王の挙兵が発覚し、若い作者だけは身の安全のため、実家に帰されたらしい。
-------

いったん、ここで切ります。
藤原俊成は大変な子沢山で、村山修一『人物叢書 藤原定家』(吉川弘文館、1962)の「藤原定家関係系図」(p373以下)で数えると、男子が十人、女子が十三人の合計二十三人、更に猶子が男子二人、女子二人で、総合計は二十七人ですね。
女子には「高松院大納言」「八条院権大納言」「八条院中納言」(健御前)、「前斎院大納言」「承明門院中納言」というように女房名に大納言・権大納言・中納言を含む人が五人いますが、俊成自身は中納言には進んでいません。
ただ、俊成の父・俊忠(1073-1113)は権中納言となっているので、中納言までは一応説明できそうですが、大納言・権大納言は何故なのか。
個別に誰かの猶子等の関係があるのかもしれませんが、後の課題とします。

藤原俊成(1114-1204)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90

さて、続きです。(P429以下)

-------
 寿永二年(一一八三)二十七歳の年、家人の多くが仕える八条院のもとに再び宮仕えすることになった。八条院は時に四十七歳、鳥羽院鍾愛の皇女で、寵妃美福門院を母としており、待賢門院腹の上西門院・後白河院姉弟とは異母妹ということになる。保元二年(一一五七)落飾、応保元年(一一六一)女院号を賜っており、莫大な荘園を伝領したことで知られる。作者は今度は大人の女房として宮仕えに励み、建久六年(一一九五)以後は、この年誕生した後鳥羽天皇皇女、八条院猶子の昇子内親王(春華門院)の養育にもあたったが、『明月記』建久十年(正治元)正月十一日条ほかによると、乳母の民部卿の局と衝突して養育の任からはずされている。しかし、その後も八条院に仕えただけでなく、女院の信任を得て、蔭ながら内親王の守り役もつとめたようである。
 日記において尼を自称しているとおり、建永元年(一二〇六)五十歳の年に出家をとげ(『明月記』)、その後も宮仕えをつづけていたが、建暦元年(一二一一)にはまず八条院の崩御を看取り、つづいて春華門院の崩御に遭うという悲運に見舞われる。最晩年のこととしては『たまきはる』の執筆があげられるが、序に「六十路の夢」とあるので、いちおう建保四年(一二一六)前後に書き始められたと考えられる。たとえば、建保五年は両女院の七回忌にあたっており、追慕の涙を深くして、回想の筆を執ることにしたというのかもしれない。擱筆は奥書に「建保七年三月三日書了」とあるとおりであろう。没年月日は未詳であるが、承久年中(一二一九-一二二二)と見られる。
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ということで、健御前は建春門院(1142-76)、八条院(1137-1211)に仕え、春華門院(1195-1211)の養育にもあたり、宮廷社会を熟知した女性ですね。

八条院(1137-1211)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B2%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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八条院女房の「宮内卿の局」

2020-04-04 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 4日(土)11時54分21秒

近世の四条家から後鳥羽院宮内卿に戻ります。
後鳥羽院宮内卿の母が後白河院女房「安芸」だという説の出典を辿ったところ、これは17世紀後半、狩野永納(1634-1700)の『本朝画史』に何の根拠もなく突如として登場した話であって、「安芸」の家系と官職としての宮内卿のつながりが考えにくく、要するに信頼性に欠けることが分かりました。
ところで、私は「安芸」の関係と並行して、八条院女房の「宮内卿の局」についても少し調べていました。
後鳥羽院宮内卿に関する基本的な文献として、石田吉貞の「宮内卿歿年考」(東京大学国語国文学会編『国語と国文学』32巻8号、1955)という論文があり、『新古今世界と中世文学(下)』(北沢図書出版、1972)に収録されているようですが、私は国会図書館に遠隔複写を依頼中で、現時点では未読です。

石田吉貞(1890-1987)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E5%90%89%E8%B2%9E

ただ、石田論文の概要はリンク先の「花鳥風月」というブログの「うすくこき 宮内卿歿年再検討」というシリーズ記事で知ることができます。
このブログはどなたが運営されているのかも分かりませんが、国文学に相当詳しい方ですね。
さて、「うすくこき 宮内卿歿年再検討」シリーズの2019年12月22日付「最終版」に、

-------
6 宮内卿の明月記の呼称
宮内卿に関して、藤原の定家はその日記である明月記の中でどのように記載しているかと言うと、以下の通りで有る(5)。そして問題の条は、承元元年五月十日である。
・正治二年三月十二日 八条殿女房を尋ぬる所(宮内)
・正治二年十一月七日 師光が娘一首(持)
・建仁元年三月十六日 女房に於ては、宮内卿
・建仁元年三月二十八日 宮内卿三
・建仁三年正月十五日 宮内卿
・建仁三年八月十四日 宮内卿
・元久二年十一月二十六日 八条院宮内卿の局
・建永二年五月十日 宮内卿の局、昨日逝去。常に馴るゝ人なり。甚だ悲し。近習の奏事容易く達す。心操甚だ柔和。
建永二年(1207年)五月十日の条に「宮内卿の局」とあって、「昨日逝去」と有る。逝去と記載されているのに、宮内卿の歿年が不詳とされているのは何故だろうか?

https://jikan.at.webry.info/201912/article_2.html

とあります。
私はこのブログ記事で八条院女房に「宮内卿の局」という女性がいることを初めて知ったのですが、かつては建永二年(1207年)五月十日に亡くなった「宮内卿の局」が歌人である宮内卿と同一人物だと考えられていたところ、石田吉貞が、この人物は八条院に仕えていた女房であって、歌人の宮内卿とは別人であることを論証したようですね。
そして、この「宮内卿の局」は源家俊の妻なのだそうです。

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 当時、宮内卿とする者が三人いる。
 一人目は、後鳥羽院宮内卿で、歌合の次第には「師光が娘」と最初は記していたが、女房名の宮内卿と新古今和歌集の表記と同じくなっている。歌会の出席者女房は当然宮内卿である。
 ややこしいのは、八条院にも宮内卿と称する女房(源家俊室)がいる。定家は、姉の八条院三条(俊成女の母)、八条院権中納言(延寿御前)、八条院按察、たまきはるの作者と目されている建春門院中納言(健御前)が八条院に仕えていて、八条院の家司をしており、八条院にはほぼ毎日出仕している。正治二年三月十二日と元久二年十一月二十六日はこの八条院の宮内卿を訪ねているとなる。
 又、藤原家隆は、元久三年に宮内卿となっており、明月記も建永元年八月十五日の条に宮内卿と記載されている。
------

源家俊が文治五年(1189)十一月十三日に宮内卿に就任して元久三年(1206)正月十三日に辞し、代わって同日、藤原家隆が就任し、承久二年(1220)三月二十二日に辞したことは既に検討しました。

ミスター宮内卿を探して
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d226c24b2af0c6b9dac3e9af550da63
後鳥羽院宮内卿の母は誰なのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8c29a1adf5a4be4d8e21ac6db6da902

八条院に仕えていた源家俊室である「宮内卿の局」は、家俊が宮内卿を辞した元久三年(1206)の翌年、建永二年(1207年)五月十日に亡くなった訳ですね。
この「宮内卿の局」についてもう少し知りたいと思い、私は藤原定家の姉、建春門院中納言(健御前)が書いた『たまきはる』の女房名寄せの箇所を見たのですが、何故かそこには登場していませんでした。
『たまきはる』の女房名寄せについて語り始めると長くなるので、次の投稿で書きます。

『たまきはる』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%81%AF%E3%82%8B

※追記(2020.4.6)
『たまきはる』の女房名寄せは健御前が建春門院に仕えていた時代の話なので、「宮内卿の局」が登場していないのは当たり前でした。
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「笙(しょう)を家職とする四条家がなぜ「庖丁の家」となったのか」(by 吉川弘文館)

2020-04-03 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 3日(金)09時36分52秒

今やっていることとあまり関係ありませんが、西村慎太郎氏の『宮中のシェフ、鶴をさばく 江戸時代の朝廷と包丁道』(吉川弘文館、2012)が面白いというツイートを見かけて、四条家のことが出ているだろうなと思って吉川弘文館サイトを覗いたら、

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江戸時代、朝廷における食事の調理法や献立、配膳には、「庖丁道(ほうちょうどう)」と呼ばれる厳密な作法があり、それを家職(かしょく)とする公家たちがいた。天皇に献上する鶴をさばくために庖丁を握った人々に光を当て、鶴庖丁という儀式や秘伝書から、笙(しょう)を家職とする四条家がなぜ「庖丁の家」となったのか、その謎を解く。庖丁道から見える江戸時代の天皇・朝廷にも迫る。


とありました。
しかし、私は四条家が笙を家職としたという話を聞いたことがなかったので、ちょっと妙な感じがしました。
まあ、いささか傲慢な言い方になりますが、日本有数の四条家マニアと、他人はともかく自分では認めている私が知らない四条家情報があったのか、と思って同書を確認してみたところ、該当部分は以下の通りです。(p148以下)

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四条家の家職

 次に四条家の家職について触れてみよう。家職についてはすでに述べているが四条家の家職は本書の中心であるので、重複を厭わず詳細に論じてみたい。公家家職が国家のなかで定められたのは豊臣政権の文禄二年(一五九三)、関白豊臣秀次の上奏によって後陽成天皇が下した「文禄年中諸家々業以下御沙汰事」というものである。では、この資料において四条家はどのように家職を定められているか。紐解いてみると、【中略】包丁道はもちろん、他の家職の項目にも四条家の名は記されていない。
 四条隆昌が朝廷に復帰し、その後の子孫の早世などを乗り越えようとしている時期の四条家の家職について見てみよう。これも前の章で述べたが、寛文八年(一六六八)刊行の『諸家家業』のうち、「羽林家」と「笙」の項目に四条家が記されている。【中略】
 一方、四条家は笙を家職とした。他に、笙を家職とした家は花山院・清水谷・松木・山科家で、笙とは雅楽器のひとつである。では、なぜ、四条家も含むこの五家が笙を家職にすることになったのか。江戸時代以降、堂上公家に対する家業や学問の奨励が盛んとなっていった〔橋本政宣─二〇〇二年〕。それらの奨励策が契機となったことは疑いないものの、「なぜ笙か」「なぜこの五家か」という疑問に答える史料は管見の限り見つかっていない。なお、「文禄年中諸家々業以下御沙汰事」では、笙を家職としていたのは松木家のみ。花山院家は「有職」であり(これは清華家の家格であったためであろう)、清水谷家は記されていない(江戸時代に再興されたため)。山科家に至っては、琴と神楽に記されているが、『諸家家業』には笙と装束であった。これらのことを踏まえると、江戸時代以降の家職奨励を契機としつつも、その選択は随分と場当たり的であったのではなかろうか(この点、中世・戦国時代以来、和歌を家職としている冷泉家などとは異なるものと思われる)。四条家の場合もそのような状況のなかで、たまたま笙を選択したのであろう。
-------

うーむ。
まず、四条家の家職が笙だという話は「寛文八年(一六六八)刊行の『諸家家業』」で初めて出てきたもので、その実態も皆目分からないようですね。
家職といっても俊成以来の伝統を誇る和歌の御子左家(冷泉家を含む)などとは全く異なり、音楽に関してであれば琵琶の西園寺家などとも異質な、多分に形式的・名目的な話のような感じがします。
ま、もともと私の四条家情報は中世に偏っており、近世については無知だったのですが、それでも四条家と包丁道の関係についてはある程度知っていました。
笙との関係がここまで貧弱だと知ってから、吉川弘文館の宣伝文句、「笙(しょう)を家職とする四条家がなぜ「庖丁の家」となったのか」を読み直すと、嘘ではないにしても大袈裟な感じは否めないですね。

>筆綾丸さん
>2㍍以上離れる social distancing
ツイッターで見かけた情報ですが、アメリカでは教会の合唱団が健康に少しでも懸念のある団員をはずして、半分の人数で充分に距離をおいて合唱の練習をしたところ、やっぱり感染して死亡者が出た事例があったそうですね。
単純な距離よりマスクの方が効き目がありそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話ー二条河原落書 2020/04/02(木) 15:18:25
此比都ニハヤル3密回避に関して、欧米では2?以上離れる social distancing が半ば強制されていますが、密教で三密といえば身口意のことであって、また、台密・東密以外に何かあったかな、と云ったような今日此頃ですね。
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『本朝画史』の記述

2020-04-02 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 2日(木)08時01分12秒

コロナ騒動の影響で図書館が利用できなくて、本当に困ります。
満員電車や映画館、そして意外にもパチンコ店あたりでクラスターが発生していないのだから、図書館でも閉鎖空間で会話をしないような状態を作れば十分のような感じがします。
せめて書籍の出し入れだけでもやってほしいのですが、群馬県では県立図書館は2月29日から全面閉鎖の延長を二度繰り返し、国文学関係の書籍が割と充実している群馬大学の図書館は学外者の利用禁止が無期限に続いています。
ま、愚痴を言っていても仕方ないので、とりあえず岡村満里子氏の見解を探るためにネットで検索してみたところ、小林賢太氏の「亮子内親王家の女房たち─殷富門院大輔の周辺─」(『国文学研究』162号、早稲田大学国文学会、2010)という論文を見つけました。

https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5431&item_no=1&page_id=13&block_id=21

この論文で、小林氏は注10で岡村論文を引用した上で、

-------
 この他、森本元子、岡村満理子は、新中納言が後に宰相と名を変え、後鳥羽天皇中宮任子に出仕していたこと、その母安芸は後に源師光の妻となり宮内卿を生んだことを指摘する。つまり新中納言と後鳥羽院宮内卿とは、異父姉妹となる。
-------

と書かれています。(p15)
従って、田渕句美子氏の「しかし実は、母が安芸であることは江戸時代の『本朝画史』にみえるだけで、確実ではない(岡村満里子)」という記述にもかかわらず、岡村氏は後鳥羽院宮内卿の母は安芸だと考えておられるようですね。
田渕氏の書き方は非常に紛らわしいのですが、岡村氏は「母が安芸であることは江戸時代の『本朝画史』にみえる」と指摘しただけで、「確実でない」は田渕氏の感想のようです。
ま、それはともかく、『本朝画史』とは何かというと、リンク先で各種百科事典の解説が読めますが、一番詳しい『日本大百科全書(ニッポニカ)』によれば、

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江戸前期に著されたわが国最初の本格的画論・画史書。全六冊。狩野山雪(かのうさんせつ)の遺稿をもとに、その子永納(えいのう)(1634―1700)が黒川道祐(どうゆう)の援助を得て、増補を加えて完成させた。初めに画原、画官、画考、画運、画式、画題について概説し、次に405人に及ぶ古代から当代に至る画家の小伝を記し、最後に諸家の印影を集めた「本朝画印」を付す。1678年(延宝6)の林鵞峰(はやしがほう)の序文を載せ、91年(元禄4)『本朝画伝』の書名で刊行したが、翌々年に『本朝画史』と改めた。1819年(文政2)には江戸の鑑定家檜山坦斎(ひやまたんさい)によって『続本朝画史』が出版されている。編纂(へんさん)の基本姿勢として狩野派の正統性を強く主張しながら総合的な画家伝となっている。また本書は、数少ない体系的な日本美術史の著述として貴重であり、その多岐にわたる内容は、近世初期以前の絵画を研究するうえで、今日においても重要な文献である。[玉蟲玲子]

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E7%94%BB%E5%8F%B2-135154

というものだそうです。
では、『本朝画史』に宮内卿の母について何と書いてあるかというと、これは「国会図書館デジタルコレクション」で読めますね。
リンク先で「コマ番号」に16と入れると出てきます。

狩野永納著『本朝画史.上巻』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851679

まあ、正直、あまり期待はしていなかったのですが、その結果は、

-------
巨勢宗義<義一作茂。>任出羽権守亦称為画師其女為後白川院宮女
名安芸弾箏宮内卿其女也蓋世其家得任官也
-------

というもので、何の根拠もなく宮内卿が安芸の娘だと言っているだけですね。
そして、これだけでは「宮内卿」の命名の由来はさっぱり分かりません。
そもそも官職としての宮内卿、即ち宮内省の長官は正四位下相当であって、画師の巨勢程度の家系では絶対に就任は無理です。

宮内省
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E7%9C%81

結局のところ、後鳥羽院宮内卿の母が後白河院女房安芸であるとの説は17世紀の後半、『本朝画史』に突如として出現したもので、全く根拠はないということですね。
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宮内卿の母は後白河院女房安芸なのか?

2020-04-01 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 1日(水)13時49分7秒

宮内卿について、笠間書院「コレクション日本歌人選」シリーズの一冊、『俊成卿女と宮内卿』(近藤香著、2012)に基づき、基礎知識を確認しておきます。

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新古今時代の女流のうち、後鳥羽院に見出されて才を誇った二人の女性歌人。伊勢や和泉式部などの女歌の伝統とは異なる題詠の世界に、新たな才能を開花させた歌人。俊成卿女は俊成の子八条院三条の娘だが俊成の養女に入り、歌人としてのデビューは遅かったものの纏綿たる恋の情緒を定家風の巧緻優艶な風にうたい、源師光の娘宮内卿は、若くして没する四年余ではあったが清新な自然詠や恋歌を切れのあるタッチでうたった。新古今和歌を彩る対立的な二人の個性を見比べたい。
https://kasamashoin.jp/2012/11/post_2473.html

同書の「歌人略伝」には、

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宮内卿。生没年不詳。二十歳余りで夭折したので家集は残さなかった。父は村上源氏の源師光、母は後白河院女房安芸〔あき〕、異父兄に泰光や具親がいる。十代の後半、歌才によって後鳥羽院の女房として出仕、正治二年(一二〇〇)以降、「正治後度百首」「老若五十首和歌合」「千五百番歌合」等に出詠。元久元年(一二〇四)の「春日社歌合」を最後に名前が見えないので、この後間もなく二十歳前後で若死にしたとされる。長明の『無名抄』に「昔に恥ぢぬ上手」とあり、「あまり歌を深く案じて」病になったが、父の諫めをも聞かずに歌に打ち込んだため、早世したとある。約三百首が現存し、『新古今集』の十五首以下、勅撰集に四十三首が採られた。「若草の」の歌によって「若草の宮内卿」という異名で呼ばれた。
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とあります。(p103)
近藤氏は「母は後白河院女房安芸」と断定されていますが、その根拠は特に示されていません。
また、同書の「解説 新古今集の二人の才媛」には、

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 宮内卿はほぼ十七歳という若さでさっそうと歌壇に登場し、多くの歌合や歌会に幾多の秀歌を立て続けに発表したが、わずか三年あまりであの世へ旅立った天才少女だった。室町時代の『正徹物語』は「二十より内に」亡くなったという伝説を伝えている。
 長明の『無名抄』は先の引用部分にすぐ続け、「この人は、余り歌を深く案じて病になりて、一度は死に外〔はず〕れしたりき。父の禅門(源師光)「何事も身のありての上の事にこそ。かくしも病になるまではいかに案じ給ふぞ」と諫められけれども用ゐず、終〔つひ〕に命もなくて止みにしは、その積もりにやありけん」というエピソードを載せている。つまり歌と命を取りかえたようなものだった。例の「小便色変はる」と言った寂蓮は、宮内卿が若死にしたことを残念がって、彼女の兄の具親が歌に心を入れず、大事の会があるときにも弓などに現〔うつつ〕を抜かしているのを見てひどく残念がったという。
 とにかく宮内卿について分かっているのは歌の上のことだけで、私生活の詳しいことなどはほとんど分かっていない。歌が残ったことだけが彼女の生きた証しのようなものだった。
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とあって(p108以下)、「私生活の詳しいことなどはほとんど分かっていない」のだそうです。
では、「母は後白河院女房安芸」は何が根拠なのか。
この点、田渕句美子氏の『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』(角川選書、2014)には僅かなヒントがあります。

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類い希な才能で時代を切り開いた女性歌人の躍動を描く!
https://www.kadokawa.co.jp/product/321307000116/

同書第三章の「三 宮内卿─上皇の期待を受けて─」の冒頭を少し引用します。(p149以下)

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若き少女の誕生

 宮内卿は女房名であり、源師光の娘である。当時、女性の「〇子」という類の正式な名は、現在のように日常使われるものではなく、文書の書かれるものであり、式子のような内親王や、位をもつ女房などは、文書に名が記されるのでその名がわかる。位をもらう時につける場合もある。けれども宮内卿や、次に述べる俊成卿女は、位をもらうような女房・女官ではないので、名は残っていない。「健御前」のような名は家内の名であり、公的な名とは別である。
 父師光の家は名門で、祖父は堀河左大臣俊房、父は小野宮大納言師頼である。しかし師光は藤原頼長の猶子で、頼長との関係が災いしてか官人として不遇で、右京権大夫という閑職で終わり、建久六年(一一九五)以前に出家して生蓮となっていた。和歌では代々勅撰歌人の家柄で、師光も歌人であり、歌道家の六条家に近く、たびたび歌合に出詠、『千載集』以降の勅撰集に入集し、自らも私撰集を編纂するなどしている。最晩年、七十歳位で後鳥羽院歌壇に迎えられ、『正治初度百首』の作者となり、『千五百番歌合』祝・恋一の判者をつとめ、院歌壇で活躍する栄誉を得た。師光は元久元年(一二〇四)終わり頃の没かと考えられる(井上宗雄)。
 宮内卿の母は、絵師の巨勢宗茂の娘である後白河院安芸〔あき〕とされ、それゆえに宮内卿の歌は絵画的であるとも言われる。しかし実は、母が安芸であることは江戸時代の『本朝画史』にみえるだけで、確実ではない(岡村満里子)。
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「主要参考文献」を見ると、この岡田満里子氏の論文は「後鳥羽院宮内卿周辺」(『国文』58、1983)のようなので、国会図書館に複写を申し込もうと思ったのですが、「図書館送信参加館内公開」ということで複写はできず、かといってコロナ騒動の影響で近隣の図書館から閲覧することもできません。
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後鳥羽院宮内卿の母は誰なのか?

2020-04-01 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 1日(水)10時53分35秒

吉良潤氏の「親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆」、ちょっと対応に困ってしまう「論文」ですね。
最初の方は普通に読めたのですが、「親鸞先妻玉日実在説」が出てきてから、これは警戒しないとまずいな、という雰囲気が漂ってきて、その後は論理の展開が理解できませんでした。
「親鸞先妻玉日実在説」への批判は、吉良氏自身が平雅行氏の『歴史のなかに見る親鸞』(法蔵館、2011)から引用されている箇所に尽くされていて、実在説論者が有効な反論をしているようには思えません。
「玉日姫」については、ずいぶん前に松尾剛次氏が実在説を唱えたことが話題になって、この掲示板でもほんの少し取り上げたことがありますが、松尾さんも変わった人だな、というのが大半の歴史研究者の感想ではないですかね。
(慎重に言葉を選びました。)

「ヴェイユ兄妹」(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5402
『正明伝』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/654fbd31a43e5e695f99f05005576ed3
「系図の偽造? 」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2557084f1e6dedf111a0eb6d16a8dd4
「玉日姫の骨?」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed1b6be7aa4012eac378431328968e9a
松尾教授「玉日姫の存在がほぼ確実になった」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3a124cd0d587bf0f286b63c545c54ee

ま、「親鸞先妻玉日実在説」はともかくとして、源家俊と藤原家隆の宮内卿就任期間について、多くの人が参照している国史大系『公卿補任』には整合性が取れない記述があり、藤原定家自筆の『公卿補任』と比較すると齟齬の事情が分かる、という話は非常に面白いですね。
私にとって重要と思われたのは、源家俊が文治五年(1189)十一月十三日に宮内卿に就任して元久三年(1206)正月十三日に辞し、代わって同日、藤原家隆が就任し、承久二年(1220)三月二十二日に辞した、ということですが、この結論自体は、『源家長日記』の記述から、既に石田吉貞氏等が論じておられたようです。
さて、寿永三年(1184)から『公卿補任』を眺めてみた私は、民部卿とか大蔵卿といった「卿」の付く官職に任ぜられた人は、ずいぶん長期間、その地位を維持しているな、という印象を持ったのですが、宮内卿の場合は文治五年(1189)から承久二年(1220)までの三十一年間、たった二人しか就任していない訳ですね。
とすると、善鸞の「公名」である「宮内卿」、そして後鳥羽院宮内卿の「女房名」である「宮内卿」が、それぞれに近い誰かの官職に由来しているのではないか、という私の想定が正しいとすれば、少なくとも後鳥羽院宮内卿の場合、その候補者は実際上、源家俊一人に絞られてしまいます。
善鸞の方は、出生の時期について様々な説があるので、一応候補者は二人ですね。
そこで、先ず、後鳥羽院宮内卿について考えてみると、その父親は源師光ですが、師光の他の子と同様、母親は『尊卑分脈』には記されていません。
仮に、源家俊と後鳥羽院宮内卿に何らかの関係があるとすれば、一番の可能性は源家俊の娘が師光の妻で、後鳥羽院宮内卿の母ということになりそうです。
従来、後鳥羽院宮内卿の母は後白河院の女房安芸という説が有力だったようで、ウィキペディアあたりにもその旨の記述がありますが、安芸説が最初に登場したのは江戸時代に入ってからだそうで、かなり怪しい話です。
この点、次の投稿でもう少し検討します。

後鳥羽院宮内卿(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF
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