投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月20日(日)12時50分10秒
私も別に学問的関心からではなく、純度100%の俗物根性に基づき歴博創設をめぐる色川騒動を眺めてみただけですが、ついでに網野善彦が「井上さんに恨みがあるような口調だった」事情についても少し紹介しておきます。
色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/484d5abca91f7d5de4b0f18623049cc9
網野善彦は色川と違って育ちと性格が良いので、あまり露骨に人の悪口は言わない人ですが、『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部、2002)所収の「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」は研究者仲間を相手とする講演の記録ということもあって、かなり率直に井上光貞を批判していますね。
この講演は1995年7月の日本常民文化研究所第五〇回研究会において行なわれたそうで、初出は『歴史と民俗』13(神奈川大学日本常民文化研究所編、平凡社、1996)ですが、引用は『網野善彦著作集第十八巻』(岩波書店、2009)から行います。
全体の構成は、
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はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
むすび
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となっていて、井上事件は第九節に出てきます。(p146以下)
背景事情は『古文書返却の旅』(中公新書、1999)あたりを参照してもらうとして、関係部分を引用します。(p146以下)
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九 研究所の大学への移行をめぐって
このころから私も、この文書の問題をなんとかしなくては、と考え始めました。しかも河岡さんが交通事故にあわれて、頭を打たれたということがあり、身体に自信を失われたということもあって、一九七七年から一九七八年頃、河岡さんから私に「どこか、大学で引き取ってくれるところがないだろうか」というご相談がありました。私も、この文書の整理・返却のために名古屋大学をいつかは辞めなければならないと思っておりましたので、その話にのって、まず、当時、慶応大学の経済学部にいて、学部長にもなるようになった速水融さんに話を持ち込んだのです。速水さんはたいへん乗り気で、さっそく事務局に話してくれました。事務局もこの話に興味をもって研究所の歴史や状況を調べたようでした。ただ、慶応には折口信夫さんの伝統があるし、のりこえなくてはならないハードルはたくさんあったと思いますが、これは理事長の有賀さんには内密に、河岡さんと私の二人で動いていました。
ところが、ここに国立歴史民俗博物館の設立にともなう人事問題が起こります。もう十五年以上たっていますし、当事者も亡くなっていますから申し上げてもよいと思いますが……。当時、館長に予定されていたのは井上光貞さんだったのですが、有賀喜左衛門さんに歴博の今後の構想について意見を聞く、とくに民俗学の立場からの考えを聞くということで、三度ほど有賀さんと井上さんは話をなさっているのです。ところが、その過程で、のちにこれは有賀さんの思い違いであることが判明するのですけれども、有賀さんは井上さんから歴博の民俗学系の人事のすべてを委ねられたと思い込まれたようです。そこで、有賀さんは河岡さんを当然、民俗部長として推薦しようとしておられたのです。
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いったん、ここで切ります。
「河岡さん」は河岡武春で、有賀喜左衛門理事長の下、日本常民文化研究所の運営の中心となっていた人ですが、専門は民具で、古文書にはあまり詳しくはなかったそうですね。(p143)
有賀喜左衛門(1897-1979)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
私も別に学問的関心からではなく、純度100%の俗物根性に基づき歴博創設をめぐる色川騒動を眺めてみただけですが、ついでに網野善彦が「井上さんに恨みがあるような口調だった」事情についても少し紹介しておきます。
色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/484d5abca91f7d5de4b0f18623049cc9
網野善彦は色川と違って育ちと性格が良いので、あまり露骨に人の悪口は言わない人ですが、『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部、2002)所収の「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」は研究者仲間を相手とする講演の記録ということもあって、かなり率直に井上光貞を批判していますね。
この講演は1995年7月の日本常民文化研究所第五〇回研究会において行なわれたそうで、初出は『歴史と民俗』13(神奈川大学日本常民文化研究所編、平凡社、1996)ですが、引用は『網野善彦著作集第十八巻』(岩波書店、2009)から行います。
全体の構成は、
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はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
むすび
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となっていて、井上事件は第九節に出てきます。(p146以下)
背景事情は『古文書返却の旅』(中公新書、1999)あたりを参照してもらうとして、関係部分を引用します。(p146以下)
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九 研究所の大学への移行をめぐって
このころから私も、この文書の問題をなんとかしなくては、と考え始めました。しかも河岡さんが交通事故にあわれて、頭を打たれたということがあり、身体に自信を失われたということもあって、一九七七年から一九七八年頃、河岡さんから私に「どこか、大学で引き取ってくれるところがないだろうか」というご相談がありました。私も、この文書の整理・返却のために名古屋大学をいつかは辞めなければならないと思っておりましたので、その話にのって、まず、当時、慶応大学の経済学部にいて、学部長にもなるようになった速水融さんに話を持ち込んだのです。速水さんはたいへん乗り気で、さっそく事務局に話してくれました。事務局もこの話に興味をもって研究所の歴史や状況を調べたようでした。ただ、慶応には折口信夫さんの伝統があるし、のりこえなくてはならないハードルはたくさんあったと思いますが、これは理事長の有賀さんには内密に、河岡さんと私の二人で動いていました。
ところが、ここに国立歴史民俗博物館の設立にともなう人事問題が起こります。もう十五年以上たっていますし、当事者も亡くなっていますから申し上げてもよいと思いますが……。当時、館長に予定されていたのは井上光貞さんだったのですが、有賀喜左衛門さんに歴博の今後の構想について意見を聞く、とくに民俗学の立場からの考えを聞くということで、三度ほど有賀さんと井上さんは話をなさっているのです。ところが、その過程で、のちにこれは有賀さんの思い違いであることが判明するのですけれども、有賀さんは井上さんから歴博の民俗学系の人事のすべてを委ねられたと思い込まれたようです。そこで、有賀さんは河岡さんを当然、民俗部長として推薦しようとしておられたのです。
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いったん、ここで切ります。
「河岡さん」は河岡武春で、有賀喜左衛門理事長の下、日本常民文化研究所の運営の中心となっていた人ですが、専門は民具で、古文書にはあまり詳しくはなかったそうですね。(p143)
有賀喜左衛門(1897-1979)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80