学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「有賀さんは井上さんから歴博の民俗学系の人事のすべてを委ねられたと思い込まれた」(by 網野善彦)

2019-10-20 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月20日(日)12時50分10秒

私も別に学問的関心からではなく、純度100%の俗物根性に基づき歴博創設をめぐる色川騒動を眺めてみただけですが、ついでに網野善彦が「井上さんに恨みがあるような口調だった」事情についても少し紹介しておきます。

色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/484d5abca91f7d5de4b0f18623049cc9

網野善彦は色川と違って育ちと性格が良いので、あまり露骨に人の悪口は言わない人ですが、『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部、2002)所収の「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」は研究者仲間を相手とする講演の記録ということもあって、かなり率直に井上光貞を批判していますね。
この講演は1995年7月の日本常民文化研究所第五〇回研究会において行なわれたそうで、初出は『歴史と民俗』13(神奈川大学日本常民文化研究所編、平凡社、1996)ですが、引用は『網野善彦著作集第十八巻』(岩波書店、2009)から行います。
全体の構成は、

-------
 はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
 むすび
-------

となっていて、井上事件は第九節に出てきます。(p146以下)
背景事情は『古文書返却の旅』(中公新書、1999)あたりを参照してもらうとして、関係部分を引用します。(p146以下)

-------
九 研究所の大学への移行をめぐって

 このころから私も、この文書の問題をなんとかしなくては、と考え始めました。しかも河岡さんが交通事故にあわれて、頭を打たれたということがあり、身体に自信を失われたということもあって、一九七七年から一九七八年頃、河岡さんから私に「どこか、大学で引き取ってくれるところがないだろうか」というご相談がありました。私も、この文書の整理・返却のために名古屋大学をいつかは辞めなければならないと思っておりましたので、その話にのって、まず、当時、慶応大学の経済学部にいて、学部長にもなるようになった速水融さんに話を持ち込んだのです。速水さんはたいへん乗り気で、さっそく事務局に話してくれました。事務局もこの話に興味をもって研究所の歴史や状況を調べたようでした。ただ、慶応には折口信夫さんの伝統があるし、のりこえなくてはならないハードルはたくさんあったと思いますが、これは理事長の有賀さんには内密に、河岡さんと私の二人で動いていました。
 ところが、ここに国立歴史民俗博物館の設立にともなう人事問題が起こります。もう十五年以上たっていますし、当事者も亡くなっていますから申し上げてもよいと思いますが……。当時、館長に予定されていたのは井上光貞さんだったのですが、有賀喜左衛門さんに歴博の今後の構想について意見を聞く、とくに民俗学の立場からの考えを聞くということで、三度ほど有賀さんと井上さんは話をなさっているのです。ところが、その過程で、のちにこれは有賀さんの思い違いであることが判明するのですけれども、有賀さんは井上さんから歴博の民俗学系の人事のすべてを委ねられたと思い込まれたようです。そこで、有賀さんは河岡さんを当然、民俗部長として推薦しようとしておられたのです。
-------

いったん、ここで切ります。
「河岡さん」は河岡武春で、有賀喜左衛門理事長の下、日本常民文化研究所の運営の中心となっていた人ですが、専門は民具で、古文書にはあまり詳しくはなかったそうですね。(p143)

有賀喜左衛門(1897-1979)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E5%96%9C%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
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色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その6)

2019-10-20 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月20日(日)10時07分18秒

『昭和へのレクイエム 自分史最終篇』(岩波書店、2010)では中田管理部長と対立していた色川を他の研究者の館員がみんな応援していたように描かれていますが、『戦後七〇年史』(講談社、2015)を見ると、

-------
 井上さんは、ことあるごとに「展示は色川君にまかせている。信頼している」と後援してくれたが、文部省から来た専任の館員(後の教授、助教授たち)の中には快く思っていない人もいることや、煙たがっている事務官僚がいることは承知していた。私も謙虚にこれらの人から協力を求めればよかったのだが、組織が未確立な時期で(しかも開館を急がされていたので)、それを怠っているうち、かれらから疎まれ、陰湿な抵抗を受けることになった。
-------

とか(p102)、

-------
 一九九三年、開館から十年後、歴博近代展示室オープンの折、テープカットの一員に指名され、驚いた。嫌われものの私のような者になぜと怪しんだ。だが、この間に何代も館長が代わり、意地悪い歴史部門の教授たちや文部省からの出向官僚らも辞め、新時代になっていたのだ。このとき、はじめて石井進新館長からねぎらわれ、接待された。振りかえれば一九七八年から十五年、感慨無量であった。
-------

などとあります。(p105)
「文部省から来た専任の館員(後の教授、助教授たち)」や「意地悪い歴史部門の教授たち」が誰なのかの詮索はしませんが、前者には考古系の人が多いはずで、考古・歴史の区別なく、色川はけっこう「嫌われもの」だったような感じがしないでもありません。
それと、人間の感情は変化しますから、管理部門の干渉に嫌気がさして色川を応援した人たちの中にも、開館直前の大変な時期に政治活動に熱中する色川が起こす余計なトラブルにうんざりして、色川と敵対する側に変わった人も多いでしょうね。
ま、色々考えると、結局は井上光貞の指導力、組織運営能力の欠如ということになるのかなと思います。
反体制運動の活動家で、政治家や官僚を毛嫌いし、全てを敵味方に二分して、頻繁に感情を爆発させる色川のようなトラブルメーカーに国立博物館の創設という国家的事業の核心部分を任せるのは最初から無理があり、いくら何でも人を見る目がなさすぎます。
国際日本文化研究センターを創設した梅原猛と比較するのは気の毒ですが、度量の違いは否めないですね。

井上光貞(1917-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%89%E8%B2%9E
梅原猛(1925-2019)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B
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色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その5)

2019-10-19 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月19日(土)10時49分28秒

「日本弘道会事務局長」の中田和夫氏が参加している「創立百三十周年記念座談会 日本近代化における西村茂樹の役割とその現代的意義」、中田氏の人柄を伺わせるような記述がないかなと思ってパラパラ眺めてみましたが、奇妙なことに中田氏の発言が全く記録されていないですね。

https://www.nihon-k.or.jp/data_files/view/401/mode:inline/koudou1046

中田氏がずっと沈黙していたのか、それとも編集でカットされてしまったのかは分かりませんが、こういうところも中田氏があくまで組織の裏方で動く存在であることを示しているのかもしれません。
やはり中田氏は「キャリア官僚」ではなく、ノンキャリアでそつなく働き、安定した再就職先を確保した人、みたいな印象を受けますね。
ま、色川とはおよそ水と油、全く相容れない人生観を持った人であることは間違いないようです。
さて、色川の回想を読んで一番分かりにくいのは、色川の立場と権限ですね。
色川自身は「井上さんとの口約束だけで始めて、ここまで来たのだから、黒子として扱われ」(p125)ても仕方ないということで納得したのかもしれませんが、組織上の立場がはっきりしない人が頻繁に会議に出席し、会議の大半で座長を務める、というのは関係者にはずいぶん迷惑な話です。
だいたい議事録をどう書いたらいいのか。
みんなで議論して結論を出しても、議長の立場がはっきりしなければ、それはあくまで非公式の、あるいは予備的会合の暫定的結論であるとして、簡単にひっくり返されてしまう可能性があります。
「十億もの大赤字を出した管理部」の責任者として中田氏を辞めさせると決めた会議にしても、「さすがに苦渋の色をうかべていた井上さんも、ようやく納得した様子だった」(p122)という書き方ですから、おそらく議事録などはなく、結局は決めた決めない、中田批判を言った言わないのうやむやな話になってしまったのではないかと思います。
人事ならまだしも、色川を信頼してビジネスを進めた関係者は、決定済みと聞かされたことを後から次々とひっくりかえされて、大変な経済的損失を蒙ったのではないかと思われます。
色川は、自身の政治的活動が「歴博に影響を与えるだろうなと案じ、井上さんに電話したら、「重い反応があったよ」といわれた」(p122)と書いた後で、

-------
 それはともあれ、芦原建築設計研究所と剣持デザイン研究所から、歴博から設計費を受領したので、私あてにこれまでの指導、助力への謝礼として何がしかの金を送りたいと言ってきた。私は提示された金額を聞き、そんな大金は受け取れないと辞退した。すると、こんどは芦原義信先生から直接、お礼の手紙と小切手が送られてきた。剣持研と芦原研が半分ずつだして一〇〇に減らした由。額面九〇万円。ここ三年間の指導協力への謝礼だから断らないで、ぜひ受け取ってほしいという。その気持はありがたいので素直にうけとることにして、芦原さんに礼状を送った。
 ことわっておくが、これは中田が管理していたという六〇〇万円の謝礼とかいうものとはまったく関係ない。国立歴史民俗博物館から私は設計料とか展示協力謝礼など一円ももらってない。それどころか取材経費すら請求していない。私のためにプールされていたというその公金は、その後どうなったか聞いていない。それを知る立場にあった井上さんが開館前に亡くなったので、虚空に消えたのだろう。
-------

などと述べていますが、これも読みようによってはずいぶん危ない話です。
井上が色川の立場を明確にしておけば、例えば嘱託職員の給与とかコンサルタント契約の報酬とかの形で、歴博から色川にきちんと金を払うことができます。
それがあれば、関係業者から色川への「指導、助力への謝礼」など一切払う必要がなく、極めてすっきりした会計処理が可能だったはずです。
まあ、90万円という少額ですから実際には問題にならなかったとしても、細かい事情を知らない第三者から見れば、この90万円は「裏金」であり、もっと言えばワイロを疑われかねない不透明な金ですね。

芦原義信(1918-2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E5%8E%9F%E7%BE%A9%E4%BF%A1
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色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その4)

2019-10-18 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月18日(金)18時11分2秒

「中田は私と顔をあわせても、しゃーしゃーとしていた。」の続きです。(p124)

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さらに一一月には井上さんから『総合案内』の原稿の全部に目を通してくれと電話がきた。「なんで私が、そこまで」とおもったが、井上さんの必死の気迫に押された。そのころ、かれは順天堂病院に入退院をくり返していた。心細いような声であった。私はなんども見舞いにゆき、なぐさめ、励ましていたが、まさか二、三ヶ月の命に終わるとは夢にも思わなかった。
 そのころであろう、御茶ノ水辺の電車のなかで、ばったり網野善彦君に会った。網野はいきなりこういった。「色川さん、なんで井上光貞なんかに協力しているのです。あなたはお人好しだよ。利用されているだけなのに。」
 井上さんに恨みがあるような口調だった。敗戦後すぐの大学の研究室で網野は一年生、私は三年生だった。そのときの助手が井上さん。「でも、かれは君のことをすごく褒めていたぞ。」「それがあの人のやりかたですよ。」網野とは苦笑を交わして別れた。
-------

網野善彦が「井上さんに恨みがあるような口調だった」理由は『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部、2002)所収の「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」に出てきますね。
歴博の民俗学系の人事をめぐり井上が有賀喜左衛門に不用意な発言をしたために有賀が網野に激怒、厳しい叱責の手紙を送ってきたので、とばっちりを蒙った網野は吃驚仰天。
そして井上と絶交し、歴博からは一切手を引いたそうですね。
ま、それはともかく、1983年の「二月二七日、井上光貞は順天堂病院で急性肺炎により死去した。三月一日に通夜、二日に葬儀、そして三月一六日が歴博の開館祝賀会だった」(p125)とのことで、本当に開館の直前の出来事です。

-------
 開館当日、私は祝賀会場に入れず、外の廊下に立って、芦原義信さんたちが表彰されるのを聞いていた。【中略】私はこの開館祝賀会に正式に招待されなかった。井上さんとの口約束だけで始めて、ここまで来たのだから、黒子として扱われた。歴博に注いだこの五年間の尽力は、井上光貞の信頼にたいする友情であって、国家のためでも文部省のためでもまったくない。
 私を敵視しつづけた管理部長の中田和夫は、開館を見届けると、その月の末に、さっさと歴博を去り、文部省の古巣に帰っていった。一つの大仕事を成功裡に果たしたキャリア官僚の「勲功」を胸に飾って。【後略】
-------

「国家のためでも文部省のためでもまったくない」の「まったく」には傍点が振ってあります。
ということで、色川大吉 VS.中田和夫管理部長の仁義なき戦いは中田管理部長の勝ち逃げで終ってしまったようなのですが、やはり色川側の説明だけでは何とも理解し難い点が残りますね。
そもそも中田管理部長とは何者だろうかと思って国会図書館サイトで「中田和夫」を検索したところ、同姓同名らしき人の技術系の論文等、沢山ヒットするのですが、その中で『弘道』という雑誌の1046号(2007)に掲載されている「創立百三十周年記念座談会 日本近代化における西村茂樹の役割とその現代的意義」という記事が気になりました。
そこでネットで検索してみたところ、この座談会記録はPDFで読めますね。
そして、日本弘道会会長・鈴木勲氏(元文化庁長官)の冒頭の発言の中に、

-------
中田君はご承知のとおり本会の事務局長です。以前に国立大学の事務局長などをやりまして、また、明日ハリム先生をご案内する国立歴史民俗博物館の創設のときの運営部長などをやったベテランです。

https://www.nihon-k.or.jp/data_files/view/401/mode:inline/koudou1046

とあり(p46)、写真も載っています。
「運営部長」と「管理部長」の違いはありますが、この人で間違いないですね。
ただ、この経歴で本当に「キャリア官僚」なのかも些か疑問です。
私も文部科学省の人事など全く疎いのですが、例えば鈴木勲氏は、

-------
昭和28年東京大学卒業。文部省初等中等教育局教科書管理課長、千葉県教育長、文部省初等中等教育局地方課長、大臣官房総務課長、初等中等教育局審議官、大臣官房審議官、大臣官房長、初等中等教育局長、文化庁長官、国立教育研究所長、日本育英会理事長を歴任。現在、(社)日本弘道会会長。

http://www.gakuyo.co.jp/author/a75900.html

ということで、間違いなく「キャリア官僚」ですね。
その鈴木氏から「中田君」と呼ばれている日本弘道会事務局長(2007年当時)の中田和夫氏は、キャリア組というよりはノンキャリア組のような感じがしないでもありません。
ま、別に色川も中田和夫氏の経歴を詳しく知っている訳ではなく、キャリア・ノンキャリアの区別などに興味すらなくて、適当に「キャリア官僚」と言っているだけなのかも知れないですが。

キャリア (国家公務員)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1)
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色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その3)

2019-10-18 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月18日(金)10時30分35秒

続きです。(p122)

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 「井上さん、ほとんどの館員が、そして全研究部長が中田を辞めさせることを願っている。こうなってはあなた一人だけで彼をかばい切れません。泣いて馬謖を斬ってください」と私は迫った。さすがに苦渋の色をうかべていた井上さんも、ようやく納得した様子だった。
 さいごに展示方針の変更を協議し、残念ではあるが、近世展示を半年繰り延べすることで一決し、八時に解散した。終わってレストランでビールをのむ。先ほどまで遠慮していた諸君が、みんなで、これまで犯してきた中田部長の越権行為や愚行をあげて酒のサカナにしていた。不満が堆積していたのだ。中田和夫も悪人じゃなかろう。少々縄張り意識と権力欲の強い官僚にすぎないのだ。だが、責任はとってもらわなくてはならない。
-------

ということで、この後、諸葛孔明に擬せられた井上光貞館長が「泣いて馬謖を斬っ」たかというと、そういう展開にはならず、逆に馬謖=中田管理部長を斬るように迫った色川の方が井上から疎んじられるようになってしまいます。
ただ、それは歴博とは関係のない色川の市民運動での活動が原因です。
引用はしませんでしたが、色川は歴博に関わっていた時期に自分がいかに多忙であったかを繰り返し強調しています。
ま、確かに東京国際大学教授としての教育活動、そして論文・著書の執筆という学者としての活動の他、色川は水俣病関係等の複数の住民運動や「自由民権百年全国集会」の準備などに関わっていて、極めて多忙な身であったことは間違いありません。
更に色川は1980年12月に小田実・吉川勇一等と「日本はこれでいいのか市民連合」を旗揚げして代表世話人となり、活発な反政府運動を繰り広げます。

小田実(1932-2007)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%AE%9F
吉川勇一(1931-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%8B%87%E4%B8%80

その様子は「第4章 「日本はこれでいいのか」を問いつづけて」に詳しいのですが、とりわけ歴博のトラブルが深刻化した1982年は「反核運動が世界的に高揚した年」(p209)で、色川はデモ・集会に大活躍し、その名前は新聞・テレビに頻繁に登場します。

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 この六月七日、ニューヨークでは第二回国連軍縮特別総会が開催され、世界の反核運動が頂点に達していた。日本からは二七五四万人の反核署名簿が国連事務総長に提出された。「日本はこれでいいのか市民連合」もこれに尽力した。さらに七月六日、中国政府が日本の教科書で中国侵略を「進出」に書き改めさせたことに抗議してきた。韓国政府も日本の植民地支配の記述に抗議し、是正を要求してきた。教科書問題は外交問題に発展し、文部省が内外から糾弾されることになった。
 「日市連」はこれをとりあげ、文部省に抗議のデモをかけた。じつはこの春から似たような問題で私の旺文社から出る予定の著作が重役たちに検閲され、刊行中止に追い込まれようとしていた。「日市連」のデモは新聞やテレビに大きく報道され、私の名も知らされた。これは歴博に影響をあたえるだろうなと案じ、井上さんに電話したら、「重い反応があったよ」といわれた。
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そして、色川が市民運動に没頭している間に歴博の状況も変化します。(p123以下)

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 一一月、中曽根康弘内閣が発足した。私はその右翼的体質に危険を感じ、新聞紙上などでなんどもきびしく批判した。こうした一連の私の反政府的な言動が中田たちに絶好の口実を与えたのであろう。夏以降、歴博からの連絡が途切れ、私は疎外され干されたと感じるようになった。
 井上さんは開館を目前に控え、実験を握っている中田に譲歩し、かれの力を活用してとりあえず「歴博」をオープンさせるという妥協路線に転じたのであろう。私には頼みにくい口調であった。それでも八二年九月の展示代表者会議にはいつものように議長役をつとめたし、展示具の最後の点検のため歴博や凸版印刷になんども足を運んだ。中田は私と顔をあわせても、しゃーしゃーとしていた。
-------

段落の途中ですが、ここでいったん切ります。
まあ、色川は好きで市民運動に没頭していた訳ですから仕方ないとしても、色川に同調して中田部長に責任を取らせるように井上に迫った人たちはかなり微妙な立場に置かれてしまったでしょうね。
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色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その2)

2019-10-17 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月17日(木)09時27分17秒

前回投稿で引用したp116とp118の部分は「私が管理部の強い抵抗にあって疎外されてゆく年」(p115)である1982年、開館前年の出来事です。
同年五月になると、ますます状況は緊迫します。(p120)

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  十億もの大赤字を出した管理部

 井上氏の緊急な要請で五月二六日、霞会館にゆく。驚いたことに予定通り開館するには十億も予算が足りなくなったというのである。約束の四時にゆくが管理部の奴はだれも来ていない。田辺さん(新展示委員長)と二人で一時間も話し合う。事態は危機的で、これを解決するには館長に政治決断してもらうしかあるまいとの意見で一致する。五時半すぎに中田管理部長、島津展示課長と草壁会計課長が来る。会議は井上館長の質問で始まる。
「なぜ、十億もの差が出たのか。食い違いにしても大きすぎる。」
 会計課長はしゃらっとして説明する。九億ほどは資料購入費で出た誤差ですと。その誤差がなぜ出たのかと追及されて、課長はあっけらかんな調子で言う。「松本さんと教官の責任ですね」と。すると、中田管理部長が急に早口の強い口調で、「松本さんの見積もりが低すぎたためだ。あんな素人のような無能な設計者を頼んだというところに原因がある。そう文部省に説明するしかありませんね」と言い放った。
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「松本さん」は1978年6月に色川が井上館長に推薦し、ずっと一緒に仕事をしてきた「アートデザイナーとしてこの世界の名門、剣持デザイン設計事務所の所長松本哲夫氏」(p91)のことです。

剣持デザイン研究所
http://kenmochi-design.jp/
松本哲夫(日本建築家協会サイト内)
http://www.jcarb.com/Portfolio00001389.html

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 松本哲夫さんを推薦し、協働している私を前にしての放言(侮辱)である。個人的な私への仕返しでもあろう。私たちはすっかり見くびられているなと思った。中田も会計課長も十億もの誤差をだして、少しも管理責任を感じていない。呆れ返ってしばらくものが言えなかった。田辺さんは黙っている。井上さんは混乱させられていたが、それでも「次官らと逢って、十億の交渉をする」と言ったら、中田らは口を尖らせて反対した。「館長の責任問題になります」と。(じつは自分らの管理責任問題になる。)そして、近世部門を秋まで延ばせばよいと公言した。私は腹にすえかねて怒り出した。とくに島津展示課長が調子に乗って近世の展示内容についてボロクソに言ったので、感情を爆発させた。井上さんは泣きそうな顔をして黙った。【中略】管理部の役人たちは十億かゼロかという詭弁を弄して、井上さんが政治折衝するのを必死に阻止しようとした。
「中田君らは傷のつくまえに逃げることを考えているな」と、めずらしく井上さんがつぶやいた。中田部長への信頼がゆらいでいるようだった。
-------

そして六月二日に再協議となります。(p121以下)

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 歴博の年間予算三十億にたいして三分の一にあたる十億もの欠損をだした管理部長をどうするのか、という責任追及問題を避けて、井上さんは、すぐ近世の展示公開を来年度に延ばすか、それとも古代、中世の全副室部分を切るかという問題を提起した。
 私はそのまえに、やはり予算の問題や管理部体制の刷新が先だと主張して居並ぶ諸君の意中をただした。考古研究部長の岡田君が先鋭なかたちで正論をズバリと直言した。予算の狂いの責任を十分に取ってもらわない限り、展示方針の変更に応じることは絶対にできない、と。「研究部と管理部が対立しているのではありません。管理部の一人と対立しているのです」と。
 白石君も温容ながら部長に責任をとってもらいたいと発言した。歴史研究部長の田中稔氏は前から中田の交替を井上さんに進言していた人だ。情報史料研究部長で展示委員長でもある田辺氏はわたしに問われて中田を退陣させたいという腹をうちあけた。
-------

いったんここで切ります。

田辺三郎助(1923-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%8A%A9
田中稔(1928-91)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%A8%94_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
白石太一郎(1938-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E5%A4%AA%E4%B8%80%E9%83%8E

岡田茂弘氏はウィキペディアには立項されていませんが、上皇陛下の学習院中等科以来の同級生だそうですね。

岡田名誉教授「陛下が導いてくれた」=考古学者への道-皇位継承(時事ドットコムニュース、2019.4.27)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019042600833&g=soc
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色川大吉 VS.中田和夫管理部長、「歴博」創設をめぐる仁義なき戦い(その1)

2019-10-16 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月16日(水)11時23分49秒

台風19号の影響で少し休んでしまいましたが、またボチボチと投稿して行くつもりです。
1930年代の共産党と宗教の関係、みたいな浮世離れした問題を扱っているのに、台風の影響も何もあったものではないのですが、それでもニュースを見ていると気持ちが落ち着かないですね。
水害被災地の中でも宮城県丸森町は何度か訪問したことがあり、地名や地形もある程度詳しく分かるので、特に気になります。

「獣面武装菩薩像」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/978082aff74a09a8e1df48999c7d7558
これが大日如来?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdae392094839dee2996dad762239d1a
『丸森の猫神さま』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4381e53eb2b32ec208136e3e15fa2ce
『丸森の猫神さま』その2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d131ce621ccc858a608686754f28a2a

さて、私は色川大吉の思想的影響は全く受けてなくて、その著書も遥か昔の学生時代に『新編 明治精神史』(中央公論社、1973)を購入して読んだことがあるくらいであり、市民運動での活躍ぶりも、騒々しいおじさん、みたいな感じで眺めていました。
しかし、『カチューシャの青春 昭和自分史』(小学館、2005)はけっこう面白かったので、ついでに色川の「自分史」シリーズをいくつか眺めてみました。
その中の一つ、『昭和へのレクイエム 自分史最終篇』(岩波書店、2010)の「第2章 「歴博」を創るたたかい」には、佐倉の国立歴史民俗博物館の初代館長・井上光貞氏が開館直前に亡くなってしまった頃の経緯が(あくまで色川の立場から)非常に詳しく描かれていて、それなりに事情は把握できたのですが、それでも訳が分からない話ですね。
第2章の冒頭で、

-------
 国立の歴史民俗博物館をつくるという国家的な事業に私が関係するなど、まったく考えたことも望んだこともなかった。しかも、その展示における中心的な役割をまる五年間にわたって(開館後も五年余りつづいた)引き受けるなど、反文部省、反国家的な人間であった私には、今から考えるとまったく不本意なこと、不可解なことであった。
-------

と述べる(p88)色川が、そもそもどういう立場で歴博に関与していたのかが今一つ理解できません。
1978年3月、「突然の井上さんの訪問」(p88)を受けた色川は、「あれよあれよという間に渦の中へ」(p91)巻き込まれたそうですが、当初はそれなりに円滑に進行していたものの、

-------
 一九八一年に佐倉の歴博の殿堂が完成し、井上さんが初代の館長となり、文部省からの官僚たちが実務担当者として続々と入り込んでくると、情況が大きく変わってきた。とくにおおきな権限をもつ管理部長にキャリア官僚の中田和夫が赴任してきてから、私たち外部の協力者や研究部の教授・助教授・助手などに対するしめつけ(人事面と財政面からの管理)がじわじわと強化されてくるのが感じられた。
-------

のだそうです。(p102)
そして、読み進めて行くと、

-------
【前略】研究部のある部長が言った。中田こそ「歴博の諸悪の根源の根源」だと。
 私にはげしい言葉を投げつけられた男。私はかれを個人的に怨んでなどいないが、小心なかれは、私を排除しようと陰に陽に井上さんを動かしている。中田君よ、心配するな。来年開館したら、しずかに音もなく消えていってやるから。それにしても井上さんを内部で助ける副館長並の人材や組織が必要なのに、それがないのだ。かれは孤独そうで、可哀そうだ。
-------

とか(p116)、

-------
 いま井上館長にズケズケ直言できるのは私ひとりしかいない。研究部の教官など館内の諸君には遠慮があって、直言しないし、直言できない。腹心の中田和夫は綱吉に仕える出羽の守よろしく、情報の一部しか伝えないやりかたで館長をあやつる。そして館長にだけは甘言を弄している。井上さんと話していて、このときはじめて私にたいする設計謝礼なるものが存在することを知った。その額を井上さんは知らなかったらしい。それを尋ねたら、中田は「色川氏にたいしては六〇〇万円とってあります」と、はじめて答えたという。
 私も聞いて驚いた。六〇〇万円とは正教授ひとりの年間の給与分ではないか。私を嫌悪しているかれが、そんな金を出すわけがない。井上さんは仕事が終わったら私にまとめて謝礼をしたいと考えていたらしいが、甘い。中田という男は公金を意のままに仕えるようにみせかけて、人を動かす典型的な官僚体質の持主である。基本設計をしたのに基本構想の策定にすぎないといって、剣持と芦原事務所の設計料の請求額を半分に値切ろうとした男である。
-------

といった具合に(p118)、中田管理部長への悪口が延々と続きます。
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「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士」(by 色川大吉)

2019-10-12 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月12日(土)10時43分46秒

昆野伸幸氏の「村上重良「国家神道」論再考」(『史学会シンポジウム叢書 戦後史のなかの「国家神道」』、山川出版社、2018)に、

-------
 もともと宗教学を専攻した村上が歴史学に触れる契機は、服部之総(一九〇一~五六)が代表を務める日本近代史研究会(以下「近研」と略記)の活動に求められる。近研は、一九五〇年暮れに『画報近代百年史』の編集・刊行が企画されたことを機に、服部を代表者として、遠山茂樹(一九一四~二〇一一)・松島栄一(一九一七~二〇〇二)・小西四郎(一九一二~九六)・吉田常吉(一九一〇~九三)ら東京大学史料編纂所所員が集まり、さらに編集の実務担当として藤井松一(一九二一~八〇)・青村眞明(一九二四~五三)・川村善二郎(一九二八~)らが同人に加えられるかたちで一九五一年一月に結成された。その近研の実態は、国際文化情報社と契約して月刊で画報を刊行し、その委託編集費から同人たちの生活費を捻出するという事業体であった。【中略】
 村上が近研の活動に関わるのは、『画報近代百年史』の続編となる『画報近世三百年史』全十六集(一九五三年一月~五四年四月)からである。【中略】村上は、一九五二年五月、日本近世史の専門家である東京都立大学助教授・北島正元(一九一二~八三)とともに近研の同人となっている。
 当時の村上は、同年三月に東京大学文学部宗教学宗教史学科を卒業した直後である。彼の卒業論文の題目は「古代バビロニアにおける神観念の展開」であり、そのテーマからすると、彼は大学で古代ユダヤ教・ヘブライ史を専門とする大畠清(一九〇四~八三)に師事したようである。「日本史について、全く疎遠であった」当時の村上が、いかなる経緯で近研の同人に迎えられたかは不明であるが、彼には日本のことよりも前近代の世界史的な知見が期待されたのかもしれない。ちなみに、村上は研究生として大畠の講義を聴講していた三笠宮崇仁(一九一五~二〇一六)と親しく、一九五四年頃まで三笠宮のガレージの部屋を間借りして暮らすとともに、三笠宮を「服部之総先生のグループ」(近研のことであろう)に紹介もしている。
-------

とあります。(p68以下)
「一九五四年頃まで三笠宮のガレージの部屋を間借りして暮らす」が気になって、出典の色川大吉『カチューシャの青春 昭和自分史』(小学館、2005)を見たところ、

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 『画報現代史』の編集をはじめたころ、三木は『画報三百年史』をやり終えた村上重良とよく共同通信社の地下倉庫に通っていた。ある日、偶然あけた一九五一年の写真ケースの中に、渋谷駅前の反戦集会の写真が入っていた。ハッと思って見てゆくと自分が写されているのがあるではないか。【中略】
 かれは悪いと思ったが、瞬間的にその二枚をネガごと抜き取った。【中略】帰り際、罪悪感から村上にそのことを打ち明けた。すると、かれは気にするなと笑って言った。
「ここを管理している社員の子には、十分手当てはしてありますよ。銀座にさそって一緒にめしを食べたりね。編集費で」
 この宗教学者はわるびれず、また笑った。細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士は、キャリアガールにもてるだろう。そういえば最近までかれは三笠宮のガレージの部屋を間借りしていたという。「あの給料じゃ、まともなアパートも借りられないから」と。
-------

となっています。(p251)
「三木」というのは色川大吉が演劇活動をしていたときの芸名(三木順一)で、「これを使えば一応自分とは別人になり、視野もずっとひろがる」(p273)ので「自分史の新しい試み」として用いたのだそうですが、小説なのかと戸惑った読者も多いようですね。
また、「あの給料じゃ、まともなアパートも借りられないから」云々は、近研は服部之総が大ヒットした画報シリーズの印税を独り占めして鎌倉に豪邸を建てながら、同人には微々たる給料しか払っていなかった、という事情を反映している訳ですが、この一連のやり取りをみると、村上重良は生真面目タイプではなく、けっこう世慣れた人のようですね。
ちょっと意外でした。
ところで『色川大吉人物論集 めぐりあったひとびと』(日本経済評論社、2013)の「青村真明 惜しまれる近代史の偉才、二〇代で死す」の項には、青村真明・村上重良・川村善二郎と国際文化情報社の女性社員三人がボート遊びをしている写真が載っていますが(p68)、青村真明が二十代でありながら禿頭の年寄り臭い風貌であるのに対し、海水パンツ一枚の村上は細面の華奢な体格で、確かに「学習院出の紳士」という雰囲気を醸し出しています。
「学習院出の紳士」である都会的な村上青年が何故に泥臭い新興宗教の世界に深入りするようになったのか、ということも私のかねてからの疑問のひとつです。

色川大吉(1925-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%90%89
青村真明(1924-53)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9D%91%E7%9C%9F%E6%98%8E

引き続き村上重良情報を求めています。
何かご存じの方はご教示願いたく。

緩募(ゆるぼ):村上重良について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9392b5c49948ed1ea15a270c153c89d1
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田中真人「日本戦闘的無神論者同盟の活動」を読む。(その5)

2019-10-11 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月11日(金)11時29分49秒

続きです。(p216以下)

-------
 この見地はまた、社会民主主義者との反宗教運動の基本的な相異点と考えられた。つまり、「宗教を私事として取り扱う社会民主主義者と異なり、マルクス=レーニン主義者は宗教をプロレタリアートの×(党)の仕事として取りあげる」(準備会編『反宗教闘争の旗の下に』はしがき)もの、つまり階級闘争の一翼として、プロレタリア党の一般的戦略の線に沿って運動が位置づけられている点が、社会民主主義的反宗教運動との決定的相違とされた。このような政治闘争への従属、という運動の特質は、以降もしばしばみることができる。
 反宗教闘争同盟の組織は、広汎な大衆組織とならねばならぬことが強調された。そして「同盟を構成する組織単位は原則として他の種類の大衆組織の内部に設けられなければならぬ」(②、九ページ)。「労働組合、農民組合、水平社、消費組合、無産婦人団体、進歩的な青年団、プロレタリア・エスペランチスト同盟等とは、きん密なる提携がなされなければならない」(①、一四五ページ)。そしてメンバーは少なくとも無神論の立場に立っていることが条件であるが、同時に唯物史観、マルクス=レーニン主義世界観を身につけるための不断の組織的とりくみが強調されることとなった。
-------

「プロレタリアートの×」とありますが、反宗教闘争同盟準備会編『反宗教闘争の旗の下に』(共生閣、1931)はもちろん出版法に基づく内務省の検閲の対象であって、検閲の結果、「党」が伏字にさせられた、ということですね。
また、「進歩的な青年団」とありますが、「進歩的な」は「共産主義に同調的な」という意味であって、半世紀後の佐木秋夫の「日本戦闘的無神論者同盟(戦無)」は「進歩的文化団体」という表現に通じるものがあります。

「日本戦闘的無神論者同盟(戦無)」は「進歩的文化団体」なのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ff075c4d1d9249600123a9090be077a

さて、「反宗教闘争同盟準備会」のまとめです。

-------
 以上にみたように、反宗教闘争同盟準備会は、反宗教闘争を、たんなる宗教の腐敗暴露や、その「民主化」のための闘争ではなく、宗教を絶滅し、プロレタリア世界観をうちたてる闘争、資本主義を打倒する階級闘争の一翼としての闘争、そのための大衆的組織の行う運動として、自らを位置づけたわけである。前年の論争においてみられた、社会運動上における宗教家との一時的提携の可能性を論ずるという姿勢は全くなく、ましてや三木清のような、プロレタリア運動との結合による宗教の再生の展望などを語るのは、もはや「修正主義」以外の何ものでもなかった。
-------

ということで、「反宗教闘争同盟準備会」、そして「日本戦闘的無神論者同盟」は「階級支配の道具たる宗教」を「絶滅」するのが目的ですから理論的には非常にすっきりしている訳ですが、実践的活動となると些か喜劇的な様相を呈することになります。
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田中真人「日本戦闘的無神論者同盟の活動」を読む。(その4)

2019-10-10 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月10日(木)11時02分22秒

続きです。(p215以下)

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 さらに「階級闘争の激化と既成教団の無力、反動化」とともに、一部の宗教家による改革運動が起きあがってきたが、これも十把ひとからげの次のような把え方による一括否定であり、社民の反宗教運動も一括否定の対象に加える。

  「彼等は既成宗教に反対して、新興宗教をかかげて進出を試みようとしている。しかしこれも要するに看板の塗りかえ、進歩的な
  仮面で当面をゴマかそうとする企図に外ならない。賀川豊彦の『神の国』の運動、妹尾義郎の新興仏教青年同盟、得体の知れぬ
  『合理的宗教』、自然科学者の宗教擁護運動等々皆それだ。その他の雑多の仏教社会主義、キリスト教社会主義など、資本主義に
  反対するものである如く見せかけても、結局はファシスト的な役割りを演ずるものでなくて何であろう。尚また社会民主主義者の
  『反宗教運動』なるものも存在する。彼等は一応マルクス主義的宗教観に立脚するの如く扮装するが、運動をプロレタリアートの
  真の基本的方向より意識的に外らすことにおいて、従ってまた結局において階級支配の道具たる宗教の存在を永遠ならしめんとす
  る点において、われわれの運動の妨害物である。」(①一四四ページ)
-------

キリスト教社会主義者の賀川豊彦は労働運動・農民運動にも積極的に関わりますが、運動の中での左右対立に嫌気がさして1920年代後半から宗教に活動の重点を移します。
その賀川が提唱したのが「神の国」運動ですね。
賀川豊彦の仏教版ともいうべき存在が妹尾義郎ですが、妹尾が組織した新興仏教青年同盟は反資本主義の色彩が濃厚で、後に治安維持法違反で特高に弾圧されます。
賀川豊彦と妹尾義郎は生没年がほぼ重なりますね。

賀川豊彦(1888-1960)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%BD%A6
神の国運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%81%8B%E5%8B%95
妹尾義郎(1889-1961)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B9%E5%B0%BE%E7%BE%A9%E9%83%8E

-------
 反宗教運動の目的は、宗教的彼岸主義にとらわれている「遅れた層」を「一刻も早く宗教並びに文化反動の束縛より切りはなして階級闘争の能動的な分子に転化させることを目的とする」(②四ページ)のであり、さらに文化反動からきりはなすということは「同時にマルクス=レーニン主義社会観の注入を意味する」(同前)こととなる。つまり反宗教闘争は宗教を根絶する闘争であるが、このためには社会主義社会を建設しなければならぬ、つまり資本主義社会を打倒しなければならない。「反宗教闘争は階級闘争の一翼とならねばならぬということ、反宗教闘争は政治闘争に従属されねばならぬということ、これがこの運動にとって第一に考慮されねばならぬ点である」(②五ページ)。そして準備会規約第二条「目的」は、この見地を次のように明文化した。

  「反宗教闘争は階級闘争の一翼であると云ふ見地に立ち、総ての勤労大衆をあらゆる形態の宗教的観念より解放し以てマルクス=
  レーニン主義的世界観を獲得せしむる為の組織として『反宗教闘争同盟』結成の準備活動を以て目的とす。」
-------

宗教は民衆の阿片だ、と言ったのはマルクスですが、マルクス・エンゲルスの場合、革命によって社会主義社会を実現すれば宗教は自然死するものであって、宗教自体を敵にしても意味はない、というあっさりした立場ですね。
他方、レーニンは極めて苛烈で、「宗教を根絶する闘争」が絶対に必要だという立場です。
これはロシアの場合、ロシア正教の社会的影響力が極めて強く残存しているので、宗教と反革命勢力との結びつきを何が何でも遮断しなければならない、というボルシェヴィキの危機感の反映でもあります。
「反宗教闘争同盟」はマルクス・エンゲルスの宗教自然死論ではなく、レーニンの「宗教を根絶する闘争」を選択した訳ですね。
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田中真人「日本戦闘的無神論者同盟の活動」を読む。(その3)

2019-10-09 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月 9日(水)11時20分37秒

続きです。(p213以下)

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   反宗教闘争同盟準備会の成立

 反宗教闘争同盟準備会は、一九三一年三月の数回の予備懇談会ののち、同四月七日に発足した。その事務所は東京都神田区今川小路の江戸ビルにあったプロレタリア科学研究所におかれた。準備委員のメンバーをみると、代表格の真溪蒼空朗のほかは、秋田雨雀、川内唯彦、秋沢修二、佐野袈裟美、松岡松平ら、そのほとんどがプロ科員で占められている。つまり反宗教闘争同盟は、プロレタリア科学研究所の一分枝として意図せられ、またプロレタリア科学運動の大衆化をめざす組織形態の模索のなかから生みだされてきたと思われるふしがある。準備会機関誌『反宗教闘争』が発刊される前の一九三一年五月号の『プロレタリア科学』には、準備会員山本彦一の「反宗教運動に就いて」という基調的論文をふくむ「反宗教運動の頁」が特設されている。この山本論文(①とする)、および『反宗教闘争』創刊号(一九三一年六月)巻頭の「運動方針大綱(草案)」(②とする)をもとに、あゆみ出された反宗教運動の基本的なとらえ方を整理してみる。
-------

いったんここで切ります。
「代表格の真溪蒼空朗」とありますが、真溪蒼空朗は宗教専門紙『中外日報』を創刊した真渓涙骨(またに・るいこつ、1869-1956)の息子で、「マルクス主義と宗教」論争の舞台を設定した人ですね。

「真渓涙骨と中外日報」(中外日報公式サイト内)
https://www.chugainippoh.co.jp/info/ruikotu.html

また、「準備会員山本彦一」とありますが、『近代日本社会運動史人物大事典』によれば、川内唯彦には「徳山正志、山本彦一、岩村伍一郎、山本賢太郎、村岡有司」の別名があったそうで、「山本彦一」はその一つですね。

-------
 資本主義体制の「第三期」、その没落の過程のなかで、ますます激化する帝国主義間の矛盾、ソ連社会主義の進展と帝国主義諸国の干渉戦争の準備、このなかでの社会民主主義者の裏切り、というステロタイプ化した一般情勢をまず述べたあと、①論文は階級社会、資本主義社会において、階級支配の道具として宗教が使われてきた一般的原則を述べる。

  「宗教はイデオロギー一般と同じく、社会的存在によって、根本的には物質的生産関係によって決定されたものであって、近代的
宗教は、資本主義的生産関係にこそ、その物質的根拠がある」(①一四二頁)

資本の圧迫に対して、不安、絶望、孤立無援の民衆が、その幻想的幸福の追及として宗教を見いだすのである。「さればこそ、宗教は抑圧されたる人間の嘆息である。それは、未来の幸福の約束に慰められて、現世の苦痛を隠忍せしめんとするに他ならない」(同前)
 つまり宗教の最大の犯罪的な役割は、その彼岸主義であり、この点で現実社会の変革をめざす階級闘争に敵対し、その目ざめを妨害するものと位置づけられる。そしてこの点においては、神・仏・基をはじめ他の雑多な新興宗教も含めて「その多様な外面的区別があるにかかわらず、資本主義社会の中にあって、果たしつつある社会的役割は同じ」(①)であるとし、それぞれの宗教の性格と機能の相違についての関心はうすい。
-------

1931年時点での山本彦一(=川内唯彦)の「宗教は抑圧されたる人間の嘆息」「未来の幸福の約束に慰められて、現世の苦痛を隠忍」といった認識は、戦後の佐木秋夫の新興宗教は「現実のたたかい」を回避する「小市民の苦難と不安にこたえる夢」といった認識と殆ど同じですね。

佐木秋夫『新興宗教の系譜─天皇制の落とし子─』を読む。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2c16560109d82eec7c27f2450ea310f
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田中真人「日本戦闘的無神論者同盟の活動」を読む。(その2)

2019-10-08 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月 8日(火)11時22分53秒

続きです。(p211以下)

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   プロレタリア無神論者インターナショナル

 日本におけるプロレタリア反宗教運動は、他のさまざまなプロレタリア運動と同様に、国際的な運動への強いインパクトを受けている。事実、日本戦闘的無神論者同盟は、プロレタリア無神論者インター(IPF)日本支部であることを標榜している。
 IPFは一九二五年、チェコのチェプリッツで創立大会を開いた。同年一二月にライプチッヒで開催された第二回大会においては、ブルジョワ自由主義者に、第二インター系の一部社会民主主義者を加えて構成されていた国際無神論者インターナショナル(本部ブラッセル)の排撃を決議している。しかしこのことは、IPFがコミンテルンに直結する国際組織であることを証明するものではなく、各国の加盟団体の構成、成り立ちは多様である。六〇万人のメンバーを持ち、すでに四半世紀の歴史をへているドイツの団体は、オーストリア、チェコと並んで、社会民主主義者がその指導部を構成していた。一九二八年一月の第三回大会の時点では、この三国のほか、ソ同盟・デンマーク・ベルギー・フランス・ポーランド・アメリカの団体が加盟している。
 この第三回大会のころより、コミンテルンの政策を反映し、各国の団体のうちに共産主義者と社会民主主義者の反目は激化し、第三回大会で議長に選ばれていたハルトウィヒらを「反宗教闘争は超党派的なものであることを主張しながら、その実は社会民主党の政策を持ち込んだ」(川内唯彦「反宗教闘争の現段階的意義」、『反宗教闘争の旗の下に』二六二ページ)として、共産派は批判した。ハルトウィヒらは、ドイツ、チェコの反対派を除名し、またスイス・フランスの加盟団体を除名処分とすることで応えた。この間、ドイツのシーウェルスらにより、ブラッセルの国際無神論者インターとIPF社民派との合同の話し合いが進められていた。
 一九三〇年一一月にチェコのボーデンバッハで開かれたIPF第四回大会は、オーストリア・ドイツ・ポーランド・ベルギー・チェコの代議員のほか、スイス・フランスなどハルトウィッヒに除名された左翼反対派の代表が参加した。ドイツに典型的に表れているように、この大会には左翼反対派のみが出席し、このためドイツの代議員はドイツの団体の決定権を持って大会に出席したことを確認するよう求めて、拒否されていた。
 この大会ではハルトウィッヒ、シーウェルス、ロンツァル、レーベンハルトらの社民幹部を除名処分に付し、共産派として純化され、国際反宗教組織は二分された。これ以後のIPFのなかでソ連邦の「戦闘的無神論者同盟」の比重は大きく増大した。一九二五年四月に創立されたこの団体は、一九三〇年において三五〇万人の同盟員を有していると発表されている。
 日本における反宗教運動が展開されはじめるころのIPFはこうしてソ連を中心とするコミンテルン影響下の共産主義者が、その指導権を確立していたわけである。
-------

整理すると、「日本戦闘的無神論者同盟」が日本支部だと称していた「プロレタリア無神論者インター(IPF)」は、1925年の創立時から1928年1月の第三回大会の頃まではコミンテルンの直接の影響を受けておらず、社会民主主義者と共産主義者が混在し、社会民主主義者の方が比較的優勢だった訳ですね。
しかし、1930年11月の第四回大会において、社民が排除され、ソ連=コミンテルンに指導された共産主義者の団体として「純化」され、そして、これに「日本戦闘的無神論者同盟」が参加した、ということですね。
「反宗教闘争の現段階的意義」の執筆者である川内唯彦(1899-1988)は佐木秋夫より七歳上で、この人が「日本戦闘的無神論者同盟」の中心です。
ウィキペディアの川内の記事はずいぶんあっさりしていますが、『近代日本社会運動史人物大事典』によると、1931年11月、プラハで開催予定のIPFの大会に日本から代表者を送るように要請があったのを受けて、川内は単独で入露を計画、満州にわたって満州里のソ連領事館に通っていたところ、スパイの通報で日本領事館警察部に検挙され、満州里から東京へ護送されるも、途中の「京都駅で一瞬の隙をみて脱走」し、その後、1934年5月に逮捕されるまで獅子奮迅の活躍をしていたのだそうで、殆ど冒険小説の登場人物のようですね。

川内唯彦(1899-1988)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%94%AF%E5%BD%A6
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田中真人「日本戦闘的無神論者同盟の活動」を読む。(その1)

2019-10-07 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月 7日(月)09時43分56秒

それでは田中真人氏(同志社大学教授、1943-2007)の「日本戦闘的無神論者同盟の活動」(同志社大学人文科学研究所『社会科学』27号、1981)に即して、佐木秋夫が所属していた「日本戦闘的無神論者同盟(戦無)」について少し検討します。

田中真人(1943-2007)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%9C%9F%E4%BA%BA

この論文の構成は、

-------
はじめに
プロレタリア無神論者インターナショナル
反宗教闘争同盟準備会の成立
準備会期の活動(一九三一年四月~九月)
日本戦闘的無神論者同盟創立大会
高津正道らの全日本反宗教同盟
第二回大会(一九三三年一月)にいたる活動
三二テーゼと第二回大会
おわりに
-------

となっていて、全35頁と結構な分量があります。
冒頭を少し引用します。

-------
   はじめに

 日本戦闘的無神論者同盟は、一九三一年九月に正式に結成され、一九三四年五月に弾圧によりほぼその活動を終えた。一九三一年春からの反宗教闘争同盟準備会の活動をふくめて、その存在期間はおよそ三年であり、一九三一年一一月に結成されたコップ(日本プロレタリア文化連盟)の加盟団体であり続けた。
 コップ加盟の団体であったということは、特高用語でいえば「日本共産党の外郭団体」というわけだが、コミンテルンと日本共産党の影響と指導下にあったことは、まぎれもない事実である。事実、この同盟の文書からは、三一テーゼ草案、さらに三二テーゼの情勢分析の引きうつし、政治闘争への従属をみることは容易である。しかしながら、この三〇年代のプロレタリア反宗教運動の展開にさき立って、一九三〇年前後における「マルクス主義と宗教」論争では、より多様な立場の表明がなされていた。
 たとえば高津正道の如く、僧籍(真宗本願寺派)の家に生まれ、仏教界の改革へのこころざしと、その限界の自覚から宗教否定へといたる社会民主主義者。あるいはプロレタリアの運動との結合による宗教再生の展望という独自の見解を表明したマルクス主義者三木清。三木を批判しつつも宗教の改革運動は肯定し、プロレタリアと宗教家との一時的提携を認めた服部之総。この類型は、マルクス主義の立場に立ちつつも、ソ連型マルクス主義の機械的引き写し、「宗教の阿片性」一本やりの「戦無」の思想とはニュアンスを異にする。
 「マルクス主義と宗教」論争で登場した第二の類型は、宗教の改革、宗教社会運動を主張する宗教家たちである。宗教改革をスローガンとする反宗教運動を展開した浅野研真。新興仏教青年同盟を結成する妹尾義郎。平和運動と社会運動犠牲者救援に宗教家の使命を説いた越智道順。マルクス主義と仏教徒とのあり方をめぐる著作で知られる三浦参玄洞。さらに「社会的基督教」を説いた中島重やSCM(学生キリスト教運動)の流れ。この類型は、既成教団の腐敗と体制化を認める点で左翼戦線と同一地平に立つ宗教家たちである。
 しかるに、反宗教闘争同盟準備会から日本戦闘的無神論者同盟にいたる流れは、以上の類型のいずれをも否定するところから出発した。おりからソ連では、ミーチンの「哲学のレーニン的段階」の提唱が行なわれ、戦闘的無神論者同盟による反宗教宣伝の急務が説かれていた。日本のプロレタリア反宗教運動も、一九三〇年前後の「マルクス主義と宗教」論争を「レーニン的段階」の無神論闘争をしてやりなおすところからはじまった。
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ということで、要するに「日本戦闘的無神論者同盟」はレーニン万歳のかなり単純な運動体ですね。
その登場前、一九三〇年前後には、宗教紙『中外日報』を舞台に「マルクス主義と宗教」論争が華々しく展開されていて、マルクス主義を標榜する立場からもそれなりに複雑な議論がなされていたのですが、「日本戦闘的無神論者同盟」はソ連からの輸入理論を振りかざすだけの存在です。
1981年の佐木秋夫は「天皇崇拝に反すると宗教まで目の敵に」と、「日本戦闘的無神論者同盟」があたかも特高に弾圧された宗教団体と同種であるかのように回想していますが、実際にはあらゆる宗教を「目の敵」にしていたのが「日本戦闘的無神論者同盟」ですね。

日本プロレタリア文化連盟(コップ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%96%87%E5%8C%96%E9%80%A3%E7%9B%9F
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緩募(ゆるぼ):村上重良について

2019-10-06 | 村上重良と「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年10月 6日(日)10時58分8秒

当初は佐木秋夫を詳しく扱うつもりはなかったのですが、村上重良に関する情報が余りに乏しいので、村上の特徴を明確にするための比較対象として佐木について少し調べているところです。
村上重良(1928-91)は津地鎮祭訴訟控訴審判決(1971年5月14日)と同事件最高裁大法廷判決(1977年7月13日)の少数意見に影響を与えたばかりか、愛媛玉串料訴訟最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は「国家神道」に関する歴史認識の点では村上重良説そのもので、最高裁判決に直接の影響を与えた宗教学者・歴史学者は村上以外には存在しません。
そのような稀有な学者でありながら、村上は生涯、大学で専任の職についていませんが、そのためもあってか、没後も友人・知人・門下生による追悼集のような書物は出されていません。
村上は「創共協定」をめぐって共産党の宮本顕治委員長(当時)を批判し、共産党を離党したので、これも追悼集が出されなかった一因かと思われます。
しかし、村上は共産党離党後も岩波書店等の有力出版社から多数の著書を出し、また『世界』等の雑誌にも活発に寄稿しているので、せめて雑誌の追悼特集くらいあってもよさそうなのに、それも見当たりません。
国会図書館サイトで検索したところ、村上没後に出された追悼文は島薗進の「村上重良先生をしのぶ」(東京大学文学部宗教学研究室『東京大学宗教学年報』9号、1992)だけのようです。
また、膨大な著書・論文を執筆していながら、村上は自分自身については語ることを好まなかったようで、なぜ宗教学を選んだのか、学生時代はどのような活動をしていたのか等、村上の人柄をうかがわせるような情報は今のところ全く得られていません。
村上が自分語りを好まず、関係者から見た村上の人物像に関する記事も乏しいので些か手詰まり状態なのですが、何か参考になりそうな文献を御存知の方はご教示ください。
学者から見た村上重良像はある程度想像できるので、「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」などの政教分離関係の市民運動の中で村上と接した人から見た村上重良像、みたいなものを特に希望します。

村上について現在最も信頼できる情報を提供してくれるのは林淳氏(愛知学院大学教授)の「村上重良の近代宗教史研究」(安丸良夫・喜安朗編『戦後知の可能性』、山川出版社、2010)と「国家神道と民衆宗教─村上重良論序説」(愛知学院大学『人間文化』25号、2010)で、後者はPDFで読めます。
ご参考まで。

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__25F/02__25_33.pdf

なお、林淳氏は「マルクス主義と宗教起源論」(磯前他編『マルクス主義という経験』青木書店、2008)において、「今から三十年近くも前のこと」として「国家神道研究で著名な宗教学者の村上重良氏が、なかなか大学の専任の職につかないのは、マルキストだからという噂を耳にしたのも同じ頃であった」(p157)と書かれています。
しかし、東大名誉教授・日本宗教学会会長の小口偉一(1910-86)などは佐木秋夫と複数の共著を出したりして、ずいぶん「左翼」的であり、林氏の「噂」がどこまで正確だったのか、他に原因もあったのでは、などと思わないでもないのですが、人事の機微に関わることですから、このあたりは詮索しても仕方なさそうですね。
あまり参考にはなりませんが、ウィキペディアにも一応リンクを張っておきます。

村上重良(1928-91)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%87%8D%E8%89%AF
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