学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

自由法曹団と布施辰治

2014-05-12 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月12日(月)21時07分10秒

>筆綾丸さん
>『絶望の裁判所』
未読ですが、私はもともと内部告発タイプの人はあまり信用しないようにしており、またご紹介の部分だけでも若干の違和感を抱きました。
検索してみたら、水口洋介という青年法律家協会・自由法曹団(共産党系)に所属している弁護士さんのブログに瀬木比呂志氏の経歴が出ていましたが、最高裁調査官まではエリートコースを歩んでいても、その後の経歴は今ひとつパッとしない方ですね。


水口洋介弁護士も「著書の裁判員裁判が刑事裁判官の復権のための「陰謀」であるかのような位置づけは、??と思います」、「言っていることは正しいかもしれませんが、その自身の立場を謙虚に語ることなく、裁判官及び裁判所が絶望的だと決めつけるこの本は、私にとってさえ共感するのが困難です。裁判官たちは、いっそう鼻白むでしょう」と言われていますね。
この人が裁判所内で、ご自身が考えるところの不正に対して一度でも戦ったことがあれば別ですが、裁判所を定年退職してからブチブチ文句を言っているだけなら、何だかなあという感じがします。

ちなみに自由法曹団の創設者の一人で、戦前に米騒動事件や朴烈事件、戦後に三鷹事件・松川事件などを手がけた超大物弁護士の布施辰治(1180-1953)は宮城県石巻出身で、石巻市立図書館の郷土資料コーナーでは地元出身の有名人として非常に厚遇されていますね。
他方、石母田正氏は全く特別扱いを受けておらず、著作集全16巻も書庫にしまわれていて、いささか気の毒でした。

布施辰治
自由法曹団

以前、少し検討した佐野眞一の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社、2005年)には「男装の麗人」梅村淳に関する重要な情報提供者として日本評論社会長(当時)の大石進氏が登場しますが、大石氏の母親は布施辰治の娘だそうですね。
そして鎌倉で「男装の麗人」梅村淳と親しくしていたのだそうです。

〈朝鮮新報〉「布施辰治と朝鮮 孫の大石進・日本評論社会長に聞く①」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

佐藤説の応用 2014/05/12(月) 13:16:17
小太郎さん
http://en.wikipedia.org/wiki/Category:Wars_involving_the_Mongols
まだレクチュア(Lektüre の名残り)と言うんだな、と家永氏のシラバスを眺めていると、「モンゴル戦争」という表現に目がとまり、 Mongol invasions and conquests なんて(複数形である如く)腐るほどあるよなあ、ノモンハン事件は含まないだろうけれども、と思いました。

http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2882507
ゆうべは、瀬木比呂志氏の『絶望の裁判所』を読みながら寝ました。
----------------------
数少ないすぐれた中国映画の一つである『鬼が来た!』(チアン・ウェン監督、二〇〇〇年)に、村人たちと歓談している日本人たちが、その場の「空気」の流れに従って自然発生的に虐殺を始めるシーンがある。非常によくできているそのシーンは本当に恐ろしい。現在の日本人の間にも、そういう「空気」の支配に流されやすい性格は相変わらず残っているからだ。私が民事局にいたころ、司法行政を通じて裁判官支配、統制を徹底したといわれる矢口洪一最高裁判所長官体制下の事務総局には、もしもそこが戦場であったなら先のようなことが起こりかねないような一触即発の空気が、常に漂っていた。(20頁)
----------------------
著者は現在の日本の裁判所と旧ソ連の収容所群島の類似性について言及されていますが、引用文を読みながら、私はなんとなくナチスの親衛隊を思い浮かべました。「司法行政を通じて裁判官支配、統制を徹底した」というところでは、いわゆる主従制的支配権と統治権的支配権などを連想し、最高裁長官を得宗、事務総局を御内人とすれば、一般の裁判官はまあ御家人のようなものかな、と思いました。
裁判員制度の導入においては、市民の司法参加や冤罪の防止などという理念はどうでもよく、真意は民事系裁判官に対する刑事系裁判官の逆襲・復活にあった、という穿った指摘は(66頁)、長い間、裁判官をした人でないとわからないものなんでしょうね。まだ途中ですが、裁判所と検察庁の関係、裁判所と法務省の関係を、それぞれ章立てして論述してほしかったですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC2%E4%B8%96
砂川事件の関係で、田中耕太郎最高裁長官とマッカーサー駐日米大使の会談の話がありますが(24頁)、このマッカーサーは紛らわしいですね。
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堀米庸三・石母田正氏間の「封建国家論争」

2014-05-11 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月11日(日)08時44分2秒

堀米庸三氏の名前で検索していたら、たまたま学習院大学教授・家永遵嗣氏の「史学科1年生を対象とする授業」のシラバスが出てきました。

http://syllabus.gakushuin.ac.jp/kougi2000/syllabus/1532711001.html

堀米・石母田氏間の「封建国家論争」を扱うなんて、学部一年生相手にしてはずいぶん高度な内容ですね。
参考文献に出てくる鈴木正幸氏他『比較国制史研究序説』(柏書房)は、1991年に歴史科学協議会が行った「パネルディスカッション 比較国制論」の記録で、この会合では水林彪氏の報告が「全面否定に近い批判」(同書p38、「比較国制史・文明論史対話」)を受けたそうですね。
同書所収の諸論文における水林彪氏への批判は非常に厳しいものですが、それに対する水林氏のロジカルでシニカルな反論も面白くて、同書は実に味わい深い本です。
ただ、大学一年生に正確な読解を要求するのは少しきつい、というか些か無謀な感じがしないでもありません。
「封建国家論争」に関する家永氏ご自身の評価はどんなものなのかを知りたくて、国会図書館の検索で家永氏の論文を調べたのですが、直接に関係するものはないようですね。

『比較国制史研究序説』
http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?cmd=d&isbn=4-7601-0905-6&backlist=1

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塚本哲三とは何者か?

2014-05-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月10日(土)12時37分37秒

石母田氏が「宇津保物語についての覚書─貴族社会の叙事詩としての─」を書かれた時点では「宇津保物語」についてのきちんとした注釈書は存在していないので、石母田氏は一体何を読んでいたのだろう、というのがここ暫くの私のプチ疑問でした。
浦城二郎氏が昭和19年に読まれたのは有朋堂文庫本「宇津保物語」ですから、石母田氏もこれかなと思って法政大学図書館石母田正文庫の「蔵書リスト」を見たら、和書の5954・5955番に「宇津保物語 (上)(下) 塚本哲三 有朋堂 1926」とありますね。
他に適当な本は見当たらないので、おそらくこれでしょうね。

石母田正文庫
http://www.hosei.ac.jp/library/collection/kojinbunko/ichigaya.html

塚本哲三という人は知らなかったのですが、国会図書館サイトにて「塚本哲三」で検索すると、実に182件もヒットします。
それも「現代文解釋法」「漢文考え方解釋法」「通解竹取物語 -- 新訂 16版」「完修国文解釈法 -- 訂932版」といった具合で、学術書とは言いがたい微妙なタイトルの本が大半ですね。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/Y8GX2D1UVSSAI8F2A2UDJCYCEIB4EY63GEEJVREM4CG717MU7R-08261?func=find-b&request=%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E5%93%B2%E4%B8%89&find_code=WRD&adjacent=N&filter_code_4=WSL&filter_request_4=&x=97&y=15

「くうざん、本を見る」というブログによれば、塚本哲三は「受験国語の世界の人」で、「塚本哲三のことが載っている人名辞典は『民間学事典』ぐらいではないか」、だそうです。

http://d.hatena.ne.jp/kuzan/20050705/1120536403

石母田氏が論文のベースにしたのが受験参考書(?)だとしたら、いささか微妙な感じがしないでもありませんが、これは実物を見て、どの程度のレベルの本なのかを確認するまでは何ともいえないですね。
コメント (2)
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浦城二郎とは何者か?

2014-05-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月10日(土)11時33分39秒

ネット検索で『現代語訳 宇津保物語(一)~(四)』(講談社学術文庫、1978)の存在を知り、訳者の浦城二郎(うらき・じろう)氏の名前に心当たりがなかったので、いったい誰だろうと思って図書館で現物を取り寄せてみたら、この方は1906年生まれ、広島大学医学部教授の経歴を持つお医者さんなんですね。
「訳者のことば」には、訳出の経緯について、次のような説明があります。

-------
(前略)
 私は昭和十九年春、有朋堂文庫本「宇津保物語」を初めて読んで、そのはなはだしい錯簡に悩みながらも、そこに描写された数々の事件のおもしろさにひどく魅せられてしまったのである。物語の内容には現代の世相に通ずるものが少なくないのみならず、現今の演劇の題材として取り上げられても結構おもしろいだろうと思われるところがはなはだ多く、これが一千年の昔に書かれたわが国最初の長編小説だろうかと、ちょっと奇異の感に打たれるほどである。そこで私は、もしこの物語の錯簡を正し、更にこれを現代文に翻訳することができたならば、現代の多くの読者に、きっと喜んでいただけるに違いないと考えた。
 昭和二十三年八月、私の宇津保物語現代語訳は一応完了したのであるが、諸種の事情のため、その原稿は篋底に長い間眠ることになった。昭和四十五年四月、二十二年ぶりに私はその原稿を取り出し、次の三つの考えに従って、それをもう一度書き改めることにした。(後略)
--------

そして出来上がった現代語訳を1976年4月に株式会社ぎょうせいという古典とはあまり縁のなさそうな実務的な出版社から出し、更に1978年に講談社学術文庫に入れてもらったのだそうです。
この本には河野多麻氏の5ページにわたる「序」があり、更に井上靖氏の「推薦のことば」が載っています。

-------
 浦城二郎氏から「宇津保物語」の全訳の原稿の写しが送られて来たのは、昨年の春のことであったと思う。六百字原稿用紙で八百五十八枚、それが二十巻に分けられてあって、ずしりと手ごたえのある重さであった。
 氏が戦時中から、この難解をもって聞こえる王朝文学の雄篇の訳業に取りかかられていることは、氏自身の口からも、氏周辺の人々の口からも聞いていたが、それを眼の前に具体的な形で示されると、さすがにたじたじとならざるを得なかった。原稿は何回目かに浄書されたものに違いなかったが、なお推敲の跡生々しく、氏がこの仕事に注いでいる情熱の並々でないことを物語っていた。
(中略)
 浦城二郎氏が、学界とは異なる場所に位置して、この訳業を己に課したことはすこぶる興味あることである。更にこの訳業の最初の筆を執ったのが、軍務に服している戦時下の暗い時代であると聞いて、氏と「宇津保物語」の関係が、その出会いも、それに惹かれた秘密も、他に容喙を許さざるもので支えられているのを感ずる。換言すれば、氏は幸か不幸か、若き日に「宇津保物語」に出会ってしまったのであり、出会ってしまったことにおいて、それを一人でも多くの人に読ませずにはいられないほど「宇津保物語」の世界の擒(とりこ)になってしまったのである。そしてその仕事を己れに課して、専門の医学研究の余暇のすべてを、実に三十年に亙って、この仕事のために費やしてしまわれたのである。おそらく未開拓の分野における最初の仕事というものは、すべてこのようにして生み出されるものであろうと思う。(後略)
-------

1906年生まれの浦城二郎氏は1944年に初めて「宇津保物語」を読んだので、「若き日」と言えるかは若干微妙ですが、それでも運命的な出会いであることには間違いないですね。

国会図書館サイトで検索してみたら、浦城二郎氏のお名前で文献が60ヒットし、そのうちの54件は医学関係、5件は株式会社ぎょうせい版と講談社学術文庫版の「宇津保物語」ですね。
そして残りの1件、最新の著作は

The tale of the cavern : ; Utsuho monogatari.
Translated with an introd. by Ziro Uraki.
Tokyo, : Shinozaki Shorin, 1984.12.

というもので、浦城二郎氏は講談社学術文庫版を出した後、更に「宇津保物語」の英訳に挑まれて、1984年、篠崎書林から503ページの大著を出されているんですね。
このとき実に78歳。
ちょっと感動してしまいますね。

国会図書館
https://ndlopac.ndl.go.jp/F/QIYHDJT2BMUVKVFIUHT2GXXETXH5UJQMUFT83BDMQSUJ9EV145-34516?func=short-jump&jump=000001

1906年生まれの方ですから、さすがにご存命ではないだろうと思って更に検索してみたら、リンク先の「つぶやき」というブログに1999年に93歳で逝去された旨の記述がありました。
浦城氏が「宇津保物語」に魅せられた戦時下の心境も書かれていますね。

「ある先生のこと」
http://blog.livedoor.jp/abc234234/archives/51186578.html
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蕎麦的国家論

2014-05-09 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月 9日(金)08時13分25秒

このところ牧野雅彦氏の『国家学の再建』に出てきたドイツの国家学者の著作をパラパラと眺めているのですが、ユダヤ系の学者の多さには驚きますね。
その筆頭はゲオルグ・イェリネク(1851-1911)ですが、芦部信喜氏らによって翻訳されているイェリネクの代表作、『一般国家学』(学陽書房、 1974)は細かい活字の上下二段組で800ページ近くあり、この実物を前にしたときに生ずるであろう反応に注目して分類すると、内容は理解できなくても国家を理論化して体系づけようとするその執念に驚く人と、手頃な大きさの枕だな、と思う人の二つに大きく分けられると思われます。
私は一応前者ですが、31ページある目次を見るだけで御腹一杯になり、今すぐ全部を読もうという気にはなれません。
こういう大部の理論的著作と比較すると、日本の歴史学者による「国家論」のあっさり感は一層引き立ちますね。
例えば佐藤進一氏の『日本の中世国家』には国家とは何かという定義はそもそも存在せず、何となく国家を論じ始めて何となく国家を論じ終えたといった塩梅で、彼我の国家論の格差に愕然としてしまいます。
ドイツの国家論が巨大な肉の塊りだとすると、日本の歴史学者の国家論は蕎麦みたいなものですかね。
いつも以上にゴーマンな比喩で恐縮ですが、まあ、実際に比較してみると、多くの人がそんな感想を持つと思います。

>筆綾丸さん
>安廷苑氏
略歴を検索してみたら韓国出身で1970年生まれ、東大で学んで現在は慶応大学非常勤講師だそうですね。
浅見雅一氏との共著、『韓国とキリスト教』も面白そうですね。

----------
韓国とキリスト教
いかにして“国家的宗教”になりえたか

宗教人口の過半数を、キリスト教信者が占める韓国。教派間の拡大競争は、大統領選挙の動向や、北朝鮮支援事業に強い影響を及ぼす一方、しばしばカルトや他宗教との衝突といった社会問題を引き起こしている。本書は、一八世紀以降の朝鮮半島における受難の布教開始から、世界最大の教会を首都ソウルに置くにいたった現在までを追い、日本では報じられなかった韓国社会の実情と問題を解き明かす一冊である。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

REINE DE TANGO(丹後の王妃) 2014/05/08(木) 14:21:03
小太郎さん
『うつほ物語』は「俊蔭」の次の「藤原の君」に入りましたが、ぜんぜん面白くなく、『源氏物語』の「須磨帰り」のように、早くも挫折しそうです。神南備種松が登場する「吹上」までは行きたいのですが。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/04/102264.html
安廷苑氏の『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』で、細川ガラシャ(明智玉)の名がハプスブルク王朝にまで知れ渡っていたことを、はじめて知りました。ガラシャはラテン語のgratiaグラティア、スペイン語のグラシアで、恩寵=賜物=玉であることから、日本語に堪能であったオルガンティーノが付けたらしく、『細川家記』には「伽羅奢(舎)」とあるとのことです。(74頁)
----------------------
ヨーロッパでは、ガラシャの死後、彼女のことが信仰の模範として知れ渡り、戯曲にまでなった。その背景には、十七世紀のウィーンにおいて、ハプスブルク家が政治上の手段としてイエズス会を強力に後援し、宮廷内でイエズス会によって音楽付の劇が盛んに上演されたことがある。そのひとつとして、一六九八年に宮廷内のホールで皇帝レオポルド一世と皇室一族臨席のもと、「気丈な貴婦人グラティア」が上演された。その正式な題名は、「丹後の王の妃であった気丈な貴婦人グラティア、キリストのために贖った苦しみによってその名を高めた」というものであった。(中略)
当時、ウィーンでは皇妃エレオノーレがガラシャの美しさと気高さに匹敵すると評されていたので、日本のキリシタン迫害による殉教は馴染み深い題材であったようである。「気丈な貴婦人グラティア」は、新山(冨美子)氏によれば、総勢五六人によって上演されるオペラであり、プロリーグとエピローグを持つ三幕構成になっている。これはオーストリアで作成されたこともあって、ドイツ語圏を中心にヨーロッパ各地で公演されてきた。(中略)
ガラシャは、オーストリア・ハプスブルク王朝の女性たちの見習うべき手本として描かれている。(191頁~)
----------------------

http://www.bbc.com/news/world-asia-27292633
タイ王国の憲法には別に関心はありませんが、憲法裁判所の判決にこれほどの効力があるというのは驚きで、国際的には珍しい法制なんでしょうね。
A Thai court has ordered Prime Minister Yingluck Shinawatra and several cabinet ministers to step down.
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吉田晶氏「『権門体制論』のころ」

2014-05-07 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月 7日(水)22時20分56秒

黒田俊雄著作集第一巻月報(1994年10月)に吉田晶氏(岡山大学名誉教授)の「『権門体制論』のころ」というエッセイが載っていますが、その中でウェーバーへの若干の言及があります。

--------
(前略)
 周知のように権門体制論は、一九六三年に発刊された『岩波講座日本歴史』六(中世二)に収められた「中世の国家と天皇」(本著作集第一巻)で、初めて主張された。実はその講座には、戸田芳実氏が「中世の封建領主制」、私も「古代社会の構造」を執筆している。岩波書店主催の執筆者の打ち合わせ会が開かれた後、たまたま三人でコーヒーを飲む機会があった。当時は三人ともまだ三十歳台の中頃で、打ち合わせ会に出席された執筆者のなかでは、最も若い世代に属していた。話は当然、それぞれに与えられたテーマをめぐる問題になったが、いずれも「大変なテーマを引き受けた」ということが共通の感想であった。そのとき戸田芳実氏が「執筆論文の作成を目的にした三人の研究会を開きませんか」と提案された。二人とも異存はなく、その後、数回にわたって各人がその時までに煮つめることのできた内容を報告し、互いに意見を述べ合うことになる。
(中略)
 研究会は三人の自宅を持ち回りで行われた。何回目かの研究会が私の書斎で行われたときのことである。黒田氏はたまたま書架にあったウェーバーの『封建制と家産制』『権力と支配』(ともに浜島朗氏訳)、『古代社会経済史』(渡辺金一・弓削達氏訳)に目をとめられ、それを借りて帰られた。氏の論文にこれらは引用されておらず、私には氏の権門体制論とウェーバーの学説との関連を論じる能力はない。だが、ウェーバーが権力と支配について卓抜な議論を行っていることはいうまでもない。黒田氏が権門体制論を組み立てるにあたって、ウェーバーをも読み込んでいたことは、私には貴重なことのように思われる。史的唯物論に立つ国家論や権力論だけでなく、その創造的発展をはかろうとする氏自身の意気込みが感じられるからである。(後略)
--------

吉田晶氏は黒田俊雄氏が「ウェーバーをも読み込んでいたこと」にひどく感心していますが、戦後のウェーバーブームをよそに黒田氏が三十代半ばまで翻訳も読んでいなかったということは、黒田氏はあまりウェーバーに関心がなかったとも取れますね。

>筆綾丸さん
私は岩波の日本古典文学大系で俊蔭巻まで読んで、一時休止中です。
仏教説話のペルシア流離譚というのも妙なものですね。
校注の河野多麻氏(1895-1985)は名前しか知らなかったのですが、東北大学教授を経て岩波の顧問になった河野与一氏(1986-1984)の奥さんだそうですね。
非常に古風な文章で、一昔前の女流国文学者の雰囲気を知ることができます。

河野多麻

石母田氏が「宇津保物語についての覚書」を書かれた時点では『宇津保物語』の注釈書など全く存在せず、逆に石母田氏の見解が河野多摩氏の注釈書に引用されているのも妙な感じですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

遺産の行方 2014/05/06(火) 22:21:48
小太郎さん
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_4096580147
『うつほ物語』(小学館)ですが、妙な話が続くなあと思いながら、相変わらず俊蔭巻で足踏みしています。
------------------
わが領ずる荘々、はた多かれど、たれかはいひわく人あらむ。ありともたれかいひまつはし知らせむ。
(訳)わたしが領ずる荘園も数多くあるが、誰がそれをわたしの領地だとはっきりいってくれるのだろうか。たとえそういう人がいたとしても、一体誰がそれを管理し治めてくれるだろうか。(46頁)
------------------
父ぬしのいひしごと、所々の荘より持て来しも、使やりなどしてはたり持て来しときこそありしか、かくむげになりぬれば、ただ預りのもののよろこびにてやみぬ。
(訳)父が遺言したように、今まで所々の荘園から献納されていた物資も、わざわざ督促の使者をやって取り立ててきたときこそ納めもしたが、このようにみじめな状態になってしまうと、ただ管理していた者の余得になってしまっていた。(48頁)
------------------
相続者が娘一人の場合、遺産の行方は凡そかくの如きか、という感じではありますね。
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堀米庸三氏「歴史学とヴェーバー」

2014-05-04 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月 4日(日)20時47分41秒

牧野雅彦氏に代表される現在のマックス・ウェーバー研究の水準から1958年の佐藤進一氏の論文を批判するのはさすがにまずいので、比較のために佐藤氏と同時代の歴史学者の見解を探すと、一番参考になるのは、やはり堀米庸三氏の「歴史学とヴェーバー」ですね。
これは今からちょうど50年前、1964年に東大で行われた「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」での堀米氏の発表をまとめたもので、時期的には佐藤氏の論文より少し後ですが、堀米氏は終戦直後から同趣旨の文章をいくつか書かれています。

「マックス・ヴェーバー生誕150年 」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7281

この論文は次のように構成されていて、ここでは「五 ヴェーバーの方法の特色」を引用してみます。
---------
一 ヴェーバーとわが国の社会科学
二 歴史家としてのヴェーバー
三 ヴェーバーにおける根本問題1
四 ヴェーバーにおける根本問題2
五 ヴェーバーの方法の特色
六 ヴェーバーの有効性─古代
七 ヴェーバーの有効性─古代から中世へ
八 ヴェーバーの有効性─中世
----------

五 ヴェーバーの方法の特色
 今度は、ヴェーバーの歴史研究における方法の問題に少しく触れてみたいと思います。ヴェーバーは、かれが提出し、あるいは自分に課した問題の解決の方法といたしましては、きわめてひろい、またきわめて歴史的な方法をとっております。言ってみれば、比較史的方法というものが、ヴェーバーの研究方法の最も特徴的な点であると思います。かれの取り扱った対象は、世界史上のあらゆる時代、また地球上のあらゆる地域におよぶといってもさしつかえないほどに、その追及は広範なものでありました。なぜ、このような広範な検討が必要であったのか、と申しますと、そこにはだいたい二つの理由を考えることができます。その第一は、言うまでもなく、かれが属した一九世紀から二〇世紀にかけての西欧社会の特性を検証するためには、なによりこれとちがった社会との比較を必要としたということであります。
 しかしながら、より根本的な理由としましては、かれが社会科学的分析の基本的方法として確立した理念型的認識、しかもかれが客観的可能性の認識とよんだ方法と結びついた理念型的認識方法の必然的な帰結であったのだと言えるように思われるのであります。このような認識方法の歴史研究における特徴はどの点にあるかと言えば、それは、すでに過去となったところのものを、現在にひき直しまして、その場における事物の生起のあらゆる可能性を追求してみること。そしてつぎには、そのもろもろの可能性のなかで、歴史上実現いたしましたただ一つの可能性が、なぜ必然となったのか、その個性的な因果関連をたずねるということであります。この場合、比較は可能性考究の不可欠の手段であり、理念型は可能性のもつ意味連関を明らかにする方法といえます。
 こういったわけでありますから、ヴェーバーが一九世紀から二〇世紀のヨーロッパの問題をたずねまして、過去のあらゆる時代あらゆる領域の例を取り上げるということになりましたのは、当然の結果でなければなりません。いわば類型的な手段による、ないしは類型的な方法によるところの歴史的事物の個性検証ということが、かれの比較史的な方法の中心、根底にあった問題ではなかろうかと思うのであります。ヴェーバーはこのような方法をいろいろな研究において用いているのでありますが、さきにひきました『世界宗教の経済倫理』ないし『都市論』のなかにおいて、われわれはその一番みごとな適用を見ると言ってもよいのではないでしょうか。

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佐藤進一氏「歴史認識の方法についての覚え書」

2014-05-04 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月 4日(日)11時10分20秒

>筆綾丸さん
佐藤進一氏はウェーバーの影響は特に受けていませんね。
歴史学者としてのウェーバーの特徴は、第一に社会科学的分析の基本的方法としての理念型的認識であり、第二に比較史的方法です。
堀米庸三氏「歴史学とヴェーバー」(『マックス・ウェーバー研究』、東京大学出版会、1965年)の簡潔なまとめに従えば、「類型的な手段による、ないしは類型的な方法によるところの歴史的事物の個別検証」ですね。
ウェーバーが「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」を書いたのは1904年ですが、その54年後の1958年に佐藤進一氏が書いた「歴史認識の方法についての覚え書」という論文(?)は、佐藤氏がいかに素朴な「歴史認識の方法」論を抱いていたかを示しています。
冒頭を少し紹介してみます。(『日本中世史論集』、岩波書店、1990年、p253以下)

----------
 現代の歴史学には色々の学派や傾向が認められるわけであるが、これを歴史認識の方法─一般に歴史理論とよばれる─に注目して分類すると、歴史の中に法則を求め、歴史学を法則科学として体系づけようとする行き方と、歴史を個性的なもの、特殊具体的なものとして認識しようとする行き方との二つに大きく分けられる。今日における前者の代表はいうまでもなく唯物史観である。後者は、唯物史観の側からは観念論の立場として退けられるけれども、歴史学の伝統と歴史の中に深く根を下したものであり、また現在においても極めて多くの歴史家の依って立つところであることは疑いをいれない。以上二つの立場の対立は、しばしば言われるように、歴史家のもつ世界観の相違に立脚するものではあるけれども、歴史学が過去の事実を基礎として、それら事実の総合の上に歴史の実体を明らかにする学問である以上、そして実体は一にして二ならざる以上、上記の対立は結局、事実を明らかにし、それらの事実を総合して、その奥にひそむ実体を探り出す上に、どちらがより適合的であるか、という問題の上に争われなければならない。しかし、歴史の実体はもちろん、その素材をなす個々の事実すら、最初からわれわれに与えられていないのであるから、両者の争いの場は歴史事実と実体にあるといったところで、問題は少しも明らかにはならない。問題は、二つの立場の間に共通な方法論上の基礎がないかどうか、という形で設定しなければならない。もしそれがないとすると、歴史認識の素材である個々の事実の認識そのものが、立場によって違ってくることになり、立場の対立は最初から平行線上あってあい交わらぬもの、争いのための共通の場を最初からもち得ないものとなる。(後略)
-------

「歴史の中に法則を求め、歴史学を法則科学として体系づけようとする行き方と、歴史を個性的なもの、特殊具体的なものとして認識しようとする行き方との二つに大きく分けられる」とありますが、分類が大きすぎますね。
特に二番目は殆ど無内容なほど広大です。
佐藤氏はマルクス主義者による歴史学の政治利用への嫌悪感が昂じて、歴史理論を「輸入」すること自体にも嫌悪感を感じるようになり、結果として非常に素朴な実証主義の殻に閉じこもってしまった人ではないかと私は疑っています。
今はまだ結論を保留していますが、もしこれが正しければ、「主従制的支配権」・「統治権的支配権」という概念の由来を海外の学説に求めることも無意味になってしまいますね。
少なくとも佐藤氏の主観では、「主従制的支配権」・「統治権的支配権」という概念は、佐藤氏が数多くの古文書に虚心に取り組み、石母田氏の『日本の古代国家』における表現を借りれば、「問題に無概念、無前提に接近」した結果、自然に浮かび上がってきた概念だったのかもしれません。

東島誠氏「非人格的なるものの位相」

「マックス・ウェーバー年譜」(Zarathustra氏のサイトより)
社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

十六世紀文化革命 2014/05/02(金) 20:02:37
ザゲィムプレィアさん
http://www.msz.co.jp/book/detail/07286.html
http://www.msz.co.jp/book/detail/07287.html
宇田川武久氏『鉄砲と戦国合戦』や同氏編纂『鉄砲伝来の日本史』を通読してみましたが、青銅砲に関する技術的記述は特になく、山本義隆氏の『十六世紀文化革命』を開くと、「第四章 鉱山業・冶金術・試金法」とあり、十六世紀ヨーロッパの大砲製造の技術水準は相当なレベルだったようですね。さらに、「第六章 軍事革命と機械学・力学の勃興」とあり、タルターリアがガリレオより早く、すでに弾道計算をしていて、まことに恐るべき天才たちですね。錬金術のレベルを遥かに超えていました。

小太郎さん
主従制的支配権・統治権的支配権という概念はウェーバーの思想を換骨奪胎したもの、と何となく考えてきましたが、佐藤氏にウェーバーの痕跡は見出しにくい、ということになりますか。

http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1593552
とりあえず、上坂信男×神作光一『宇津保物語・俊蔭』を眺めてみました。
うつほ(空・虚・洞)はまるでバルトの空虚な中心のようで、澁澤龍彦の傑作『高丘親王航海記』は俊蔭の遍歴を踏まえたものだろうな、と思いました。
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緩募(ゆるぼ)-佐藤進一氏について

2014-05-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月 2日(金)09時36分49秒

佐藤進一氏の主従制的支配権・統治権的支配権という発想がどこから出てきたのかを知りたいと思っています。
佐藤氏が沢山の古文書を読み込んだ結果、自然とそのような概念が湧き出でてきたのであろうという素朴な自然主義を取れば悩みもありませんが、私にはどうも納得できず、あるいはテーオドル・マイヤーの「人的結合国家」「制度的領域国家」あたりかなとも思っています。
佐藤氏ご本人は自分語りをしないことをモットーとされているようで、何も書かれていませんが、何か参考になりそうな文献をご存知の方はご教示願います。

また、佐藤進一氏は新潟県新津市(合併により現在は新潟市秋葉区)出身で、旧制三条中学(現在の三条高校)の卒業生ですが、全国的にはあまり出回らない地元の書籍・雑誌、同窓会誌等で、佐藤進一氏に言及されている記事をご存知の方はご教示願います。
新津図書館に行ってみようかなとも思っているのですが、訪問前にある程度の情報が得られればありがたいです。

ちなみにウィキペディアで三条中学(高校)を見ると、卒業生に佐藤進一氏の名前すら載っていません。
三条中学・三条高校同窓会のサイトにも佐藤進一氏への言及は特にないようで、地元でも比較的地味な存在みたいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E4%B8%89%E6%9D%A1%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
同窓会
http://www.sanjo-dosokai.gr.jp/index.html

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石母田シェフの魅力

2014-05-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月 2日(金)07時49分56秒

>筆綾丸さん
「宇津保物語についての覚書─貴族社会の叙事詩としての─」の冒頭を少し紹介してみます。

---------
 宇津保物語の巻頭に置かれた「俊蔭」巻は、短編ながら物語全体の中で独立の世界をなしていて、最も浪漫的な世界と現実的な部分が奇妙な形で隣り合い、遣唐使俊蔭の波斯国への漂流と琴の秘伝の伝授という超自然的で異国的な物語の世界から、われわれは突然に平安時代の貴族生活の生々しい描写の中に惹きこまれる。この二つの世界のちょうど交替するところに俊蔭が朝廷の琴の師を辞し、その死後娘が零落してゆく一つの挿話がおかれている。作者は、収入がなくなり、屋敷は荒廃するに委せ、使用人は逃亡し、調度品も売りつくして衣食にさえこと欠く俊蔭女の窮迫の状態を描いているが、その筆致は源氏物語における末摘花の素晴しいリアルな描写ほどの生彩はないにしても、零落した貴族の日常生活のディテイルの丹念な描写によって綴られているこの挿話は、すでに宇津保物語全体の世界を予告するものとしてわれわれの注意を惹く。架空の世界における漂流や冒険やの事件の展開のみに追われた叙述が、ここで日常の平凡な茶飯事の描写の中に停滞してしまうのである。俊蔭の漂流譚を物語世界といえるならば、これは散文的世界といえるだろう。この場合、散文的とは何よりもまず日常性を意味する言葉である。
(中略)
かかる貴族の生活そのものを脅威していた最も現実的でありふれた生活の側面たる家計や財産の問題、その社会的背景は、日常的な茶飯事であるだけにかえって従来文学には全く閉ざされていた世界であった。それは詩歌の表現し得ない世界であり、感情の純粋な内面的世界を絶えず志向する詩歌の精神とはむしろ対立する精神、客観的な生活そのものを摑まえようとする精神によってのみ見出され得る生活の新しい側面である。この時代においても貴人の落魄が文学の中に取り入れられることがなかったのではないが、伊勢物語や枕草子の同様な場面の描写に特質的に見られる如く、そこでは落魄の事実が醸し出す哀感と人生のはかなさが感傷的な詠嘆の対象とされているのである。荒廃した宿の秋と哀れな運命の麗人を描く宇津保のこの場面もその点例外をなすものではないが、しかし宇津保がここに展開したような生活の最も粗野な面たる家計の細々した瑣事や、零落の経済的な原因まで直視しようとする作者の態度には、王朝の文学精神とは異質的な逞しい即物的な精神の閃きが認められるのである。
-------

この論文が(1)(2)の二部に分けられて最初に発表されたのは1942年11・12月の『歴史学研究』115・116号で、1912年9月生まれの石母田氏は若干30歳。
実に文学的な香気溢れる名文ですが、仮にこういう論文を今の『歴史学研究』編集委員会に送ったら、こんな気取った文章はダメ、書き直せ、と言われるかもしれないですね。
石母田氏の文章は一文が長く、それなりに複雑な構成なのですが、絶妙なバランスが取られている上に、音楽的とすら言える独特のリズムもあって、非常に読みやすいですね。
また、「かかる貴族の生活そのものを脅威していた」では「脅威」を動詞として用いていますが、このあたりはまるで翻訳を読むようです。
石母田氏が取り扱う素材は純和風ですが、石母田氏自身は日本国内で修業を積んだ板前さんというよりは、ヨーロッパの複数の有名レストランを渡り歩いて西洋料理の基礎を叩き込まれ、その修業の成果を純和風の素材で応用している個性的なレストランのオーナーシェフ、という感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

alchemy から chemistry へ 2014/05/01(木) 15:13:27
小太郎さん
「歴研幕府」の垸飯・八朔・放生会の儀礼なども、いろいろ形を変えて、秘かに行われているのかもしれませんね。
『宇津保物語』は、若い頃、『源氏物語』を読んだ後、何度か読もうとしましたが、いつも挫折しました。石母田氏の論考を読んでから、もう一度、挑戦してみようか、などと考えています。

ザゲィムプレィアさん
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784163900131
加藤廣氏の『水軍遙かなり』を読むと、家康と九鬼守隆の会話に以下のような記述があり、巻末の参考文献には、『続鉄の文化史』新日本製鉄広報室編 東洋経済新報社、とありました。
--------------------
「余も同じことを聞いている。まことに厄介な武器のようだ。今、国友に命じて、鋭意考究させてはいるが、砲身の口径と着弾距離の問題で、はかばかしい成果がでぬようだな」
砲身の口径を大きくしなければ大きな弾丸は得られない。が、大きくなると砲身が割れる。
この砲身の強度の研究が進まなかった。
ところが、ヨーロッパは、昔から錬金術が盛んで、これが合金技術の異常発達という副産物を生んでいた。
銅にスズを順次加えて加工すると、スズが三パーセントだと赤みが残る。そこからスズを少しずつ増やしていくと黄色くなり、やがて二十パーセントを越すと灰青色となる。
青銅という言葉の「青」はここからきたものだが、銅中に溶解するスズが十七~十八パーセントで強さが最高となる。
鉄筒の武器だけ造ってきた国友集団では、この辺りの比率研究が遅れていたのである。(465頁)
--------------------
カルバリン砲やセーカー砲の砲身が、怪しげな中世の錬金術の延長線上にありながらも、銅と錫の比率がすでに最適値に達していたのか、と考えると、アラビア語由来の alchemy から(何らかの化学反応により)定冠詞の al がとれて chemistry に化けた一例とも言うべきで、興味深いものがありますね。この大砲で亡くなった人々には、お気の毒さま、としか言いようがありませんが。

鉄と言えば、フランスでは大企業アルストムが米のGEか独のジーメンスに買収されることで揉めていますが、新日鉄住金クラスの大企業が外国企業に買収されるような感じなんでしょうね。フランス国内の地方選挙で、左派の大統領に対する失望から、右派(というより右翼)が躍進しましたが、この一派はもともとドイツ嫌いで、アメリカも癪に障るから、EUなんぞ鋳潰して曾ての栄えある大帝国フランスを取り戻さねばならん、と慨嘆しているのかもしれませんね。
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『マックス・ウェーバーの政治理論』

2014-04-24 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月24日(木)21時08分25秒

少し前に「石母田氏の戦前の論文をパラパラ見たところ、明らかにウェーバーの研究を前提にしているのにウェーバーに触れていないものがあり・・・」と書きましたが、これはもちろん剽窃とか無断引用といった話ではありません。
実際、ウェーバーの「古代文化没落の社会的諸原因」と石母田氏の「宇津保物語についての覚書」を読み比べても、普通は両者の間に特別の関係があるとは気づかないですね。
先に述べたことは、石母田氏がウェーバーの考え方を自己の発想のヒントとしたであろう程度のつもりだったのですが、いかにも書き方がまずかったですね。
小保方騒動の時節柄、妙な方向に誤解されても困るので、念のため書いておきます。

今日は牧野雅彦氏の『マックス・ウェーバーの政治理論』(日本評論社、1993)を読み始めたのですが、1955年生まれの牧野氏が論文を発表し始めてから10年間ほどのものをまとめた論文集で、どれも気合が入っていますね。
マックス・ウェーバー熱は当分冷めそうもありませんが、さすがに宗教社会学方面、特に『古代ユダヤ教』あたりに入り込むと数年間は戻って来れなくなりそうな予感がするので、何とか踏みとどまっています。

『マックス・ウェーバーの政治理論』

>筆綾丸さん
南川高志氏は京大教授ですか。
ローマ帝国も面白そうですが、当面は手が出せないですね。


>小谷野敦氏
小谷野氏は変人仲間の呉智英氏に対してはそれなりに敬意を持たれているはずですが、佐伯順子氏は宿敵?じゃないですかね。
本郷和人氏の位置づけは全然分かりませんが、三人だけ「さん」というのは妙な感じですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

感傷的なメロドラマ 2014/04/23(水) 13:34:16
小太郎さん
南川氏が紹介する学説に倣えば、鎌倉幕府の衰亡というようなことは(平家の滅亡同様)感傷的なメロドラマにすぎないから、歴史学の表舞台から引きずり下ろし(というより、歴史学の表舞台に立ったことのないテーマ、というべきか)、衰亡(Untergang・Verfall)ではなく変容(Metamorphose・Verwandlung)を語るという方法論もありうる、というようなことになるでしょうか。
-------------------------
十八世紀、啓蒙主義の時代に生きたイギリス人のギボンはその『ローマ帝国衰亡史』の中で、ローマ帝国を衰亡させ滅亡に至らしめた原因をゲルマン人とキリスト教に求めた。そして、ギボンと異なる衰亡原因論を述べる論者は多いものの、ローマ帝国の衰亡がすなわち古代の終わりに等しいと見られ、様々な議論の前提とされてきたことは間違いない。五世紀の西ローマ帝国の消滅と並行して、西ヨーロッパでは新しい中世世界の政治秩序が形成されたと考えられてきたものである。
ところが、一九七〇年代以降、歴史学界では新しい解釈の傾向が生じて、一九九〇年代にはそれが有力となった。古代の終焉期に関する新しい研究においては、ローマ帝国の「衰亡」や西ローマ帝国の「滅亡」を重視しないのである。「変化」よりも「継続」が、政治よりも社会や宗教が重視されるようになり、「ローマ帝国の衰亡」を語るのではなく、「「ローマ帝国の変容」が問題とされるようになった。そして、帝国の最盛期とされる二世紀に始まり、八世紀のフランク王国カール大帝の時代まで継続する、古代でも中世でもない独自の価値を持つ時代、「古代末期」が提唱されるようになって、この考えに沿った研究が盛んにおこなわれた。そこでは、ギリシア・ローマ文明を高く評価する伝統的な姿勢は希薄化し、また政治・軍事よりも宗教生活やその時代を生きた人々の「心のありよう」(心性)に研究の重心が置かれた。そのため、ローマ帝国の衰亡は感傷的なメロドラマとして歴史学の表舞台から引きずり下ろされたのである。
こうした新しい研究傾向と並行して、ゲルマン民族の大移動の破壊的な性格を低く見積もり、移動した人々の「順応」を強調する学説が提唱されるとともに、ギリシア人、ローマ人以外の古代世界住民の歴史と文化をより重視しようとする動きも見られた。研究の新傾向は特にアメリカやイギリスなど英語圏の学界に特徴的で、その背景には、二〇世紀後半の多文化主義的な傾向やポスト植民地主義の影響、そしてヨーロッパ連合(EU)の統合進展などがあると指摘されている。ローマ帝国の衰亡の理解、扱いもまた、時代の子なのである。(南川高志氏『新・ローマ帝国衰亡史』3頁~)
-------------------------
ローマ帝国は僅か三〇年で崩壊したとありますが(201頁)、鎌倉幕府などは僅か数日で、淡白すぎるというか、未練がなさすぎるというか・・・逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず、といったようなものですね。鎌倉幕府の研究者には、この見事な滅びっぷりがネコにマタタビのような aphrodisiac(媚薬)になっているのかもしれませんね。

閑話ー喜連瓜破駅 2014/04/24(木) 17:12:16
http://www.shinchosha.co.jp/book/610568/
小谷野敦氏『頭の悪い日本語』を読んで、自分も間違って使っていたものがあり(恥ずかしいので言わない)、とても勉強になりました。

①「ユナイテッド・ステーツ・オヴ・アメリカ」を、世間的には「アメリカ合衆国」という」(107頁)
昨日、羽田に着陸したエア・フォース・ワンに「PRESIDENT of the UNITED STATES」とあるように、「ジ(ザ)・ユナイテッド・・・」と定冠詞を入れないと間違いですね。the が落ちていると、大統領専用機は墜落するような気がします。

②「犀はライノセラスだが、京都の西院駅近くに「リノホテル」というビジネスホテルがあって、数回泊まったことがある。「さいいん」なので「リノ」犀とつけたのである」(198頁)
「西院」駅は、阪急京都線では「さいいん」、京福線では「さい」、「リノホテル京都」の西には佐井通と佐井東通があることからすれば、「さいいん」なので「リノ」犀としたのではなく、「さい」なので「リノ」犀とした、と解したほうがシャレになりますね。『洛中洛外図屏風(上杉本)』には、うろ覚えですが、「さゐ」という表記があったと思います。

③「なおフランスの南海岸の保養地コートダジュールは、「Côte d'Azur」で、青空海岸という意味である」(220頁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
この場合の Azur は、白鳥は哀しからずや空の青うみのあをにも染まらずただよふ、と牧水が詠いましたが、空の青ではなくおそらく海の青だから、青空海岸という訳では、小谷野氏の常套句のように、バカっぽい感じがしてしまいます。

④「そこから東京へ出る途中に我孫子があり、関西人はこれが読めず「がそんし」などと読むが、「あびこ」である」(221頁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82)
大阪市住吉区にも「我孫子」があり、「中世には鋳物師集団が居住していた」らしく、戦国期には、琵琶湖東岸の国友鉄砲と並んで、その名が出てきたように記憶しています。関西人は読めないとするのは早合点で、関東人の小谷野氏(水海道市出身)は関西には詳しくないということなんでしょうね。

⑤本書に登場する呉智英、佐伯順子、本郷和人の三氏は「さん」付けですが、他の人はおおかた敬称が省略されていて、これでは、この三氏は小谷野氏にとって理由は不明ながら特別の人で、他の連中はまあどうでもいいや、というようにも読めてしまうので、『頭の悪い日本語』と銘打つ以上、なぜ区別するのか、基準を明示したほうがいいですね。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120412/wlf12041211010007-n1.htm
大阪には「喜連瓜破」という駅があって「きれうりわり」と読むそうですが、はじめて知りました。
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ウェーバーのサバサバ感

2014-04-22 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月22日(火)21時35分38秒

>筆綾丸さん
ウェーバーの「古代文化没落の社会的諸原因」には、ギボンを明示しての言及は特にないですね。
最初の方を少し紹介してみます。

-------
 ローマ帝国の崩壊は、外的な事情、例えば、例えばその敵の数的優越とか或はその政治的指導者の無能とかによるものではなかった。その終末期においてすら、ローマはゲルマン的大胆さと洗練された外交技術を一身に兼ね併せた英傑スティリコの如き鉄腕の宰相を有っていた。何故彼等には、メロヴィンガー、カロリンガー及びザクセン族出身の、目に一丁字なき指導者が成就し且つサラセン人及びフン人に対して守りおうせた功業が許されなかったのか。──ローマ帝国が昔日の俤を失ったのは既に久しいことだったのである。崩壊は巨大な衝撃によって突如として起ったのではなかった。民族大移動はむしろ長期に亘ってつづけられた発展の結末をつけたものにすぎなかった。
-------

ここでローマ帝国没落に関するいくつかの説に触れた後の言い草が、いかにもウェーバーらしくて面白いですね。

-------
 俗説は以上で十分だ。──だが事態の検討に先立ってなお一言加えたい。
 語り手が聞き手に与える印象は、聞き手が自分こそ話中の人であると感じ、教訓に従わねばならぬと思うに至るを以て、よしとする。以下の説述はこのような好都合な状態にあるのでは決してない。今日、吾々が当面する社会問題にとって、古代の物語は殆んど或は全く関係するところがない。今日のプロレタリアートと古代の奴隷とは、恰もヨーロッパ人と中国人が互いに理解し合えないと同様に相互に諒解し合うことがないであろう。吾々の問題はこれとは全く種を異にするものである。吾々が観入る演劇を領するものは、ただ歴史的な興味にすぎない。だがそれは歴史の知る最も独特な興味、即ち古代文化の自己解体に関するものである。
 吾々が第一に解明しておかねばならないのは、かのいま指摘したばかりの、古代社会の社会構造の独自性である。古代文化の循環的発展は正にこの独自の社会構造の性格によって規定されていることは、やがて明らかとなるであろう。
-------

1896年、28歳のウェーバーが「吾々が当面する社会問題」と言っているのはウェーバーが『東エルベ農業労働者の状態』で検討した問題なのですが、それと「古代の物語は殆んど或は全く関係するところがない」と聴衆に向かって言い放つウェーバーのサバサバした姿勢は、1919年1月、第一次世界大戦の敗北後の混沌とした社会情勢の中で、54歳のウェーバーが行った有名な講演、「職業としての政治」の冒頭を思い起こさせます。(脇圭平訳、『マックス・ウェーバー政治論集2』、みすず書房、1982年所収)

-------
 諸君の希望でこの講演をすることになったが、私の話はいろんな意味で、きっと諸君をがっかりさせるだろうと思う。職業としての政治をテーマとした講演である以上、諸君の方ではどうしたって、今のアクチュアルな時事問題に対する態度の表明というものを期待なさるだろう。しかし、その点は講演の最後の方で、生活全体の営みの中で政治行為がもっている意味について、若干の問題を提起する際に、ごく形式的に申し述べるだけになると思う。一方、どういう政治をなすべきか、つまりどういう内容をわれわれの政治行為に盛るべきか、といった種類の問題となると、今日の講演では一切除外しなければならない。というのは、そんな問題は、職業としての政治とは何であり、またそれがどういう意味をもちうるのか、といった一般的な問題と、何の関係もないからである。──さっそく本論に入ろう。
-------

このサバサバした感覚がウェーバーの最大の魅力ですね。
「古代文化没落の社会的諸原因」に刺激されて石母田正氏が書かれた「宇津保物語についての覚書」も実に良い論文で、これが『中世的世界の形成』執筆前の時期に『歴史学研究』に発表されていたと知ったときは、いささか意外な感じがしました。
私も石母田氏との最初の出会いが『中世的世界の形成』ではなく「宇津保物語についての覚書」であったら、もっと前から石母田氏の熱心な読者になっていたのに、とついつい仮定法過去完了で考えてしまいます。

>『鎌倉幕府衰亡史』
呉座勇一氏は『戦争の日本中世史』で、

-------
鎌倉幕府滅亡の原因は何か。この難問に対する日本中世史学界の最新の回答をお教えしよう。
ズバリ「分からない」である。
-------

と言われ、この後に2007年の日本史研究会大会・中世史部会での熊谷隆之氏の報告に対する質疑応答を紹介したうえで「分からない」を強調していますが(p97・98)、私は細川重男氏の最近の著作にけっこう納得しています。
ただ、ウェーバーを読み進めて行く過程で、細川重男氏、というか佐藤進一氏の弟子・孫弟子の方たちへの疑問もフツフツと湧いてきているので、後で少し検討したいと思っています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ローマ帝国衰亡史 2014/04/21(月) 19:09:10
小太郎さん
http://de.wikipedia.org/wiki/The_History_of_the_Decline_and_Fall_of_the_Roman_Empire
ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の独訳は『Verfall und Untergang des Römischen Imperiums』のようなので、ウェーバーの『Die sozialen Gründe des Untergangs der antiken Kultur』における Untergangs は、ギボンを意識したものと考えてよいのでしょうね。ワーグナーの Götterdämmerung はウェーバーの脳裡に幽かなりとも鳴っていたのかどうか・・・。

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1305/sin_k709.html
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784560083543
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
2014年4月19日付の日経文化欄は「ローマ帝国滅亡に新解釈」と題して、南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』やブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊』やピーター・ブラウンの著作などを紹介しています。

『鎌倉幕府衰亡史』のような書を期待していますが、なかなか出版されないですね(永遠に無理かな)。

追記
http://de.wikipedia.org/wiki/Oswald_Spengler
この人の Untergang はどのような位置付けになるのか。
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若きヴェーバーの「通俗講演」

2014-04-21 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月21日(月)12時34分59秒

今日はマックス・ウェーバー生誕150周年記念日ですね。

石母田正氏が「宇津保物語についての覚書─貴族社会の叙事詩としての」を書くにあたって刺激を受けたというウェーバーの「古代文化没落の社会的諸原因」には邦訳、それも堀米庸三氏によるものがあるんですね。
ただ、タイトルが「古代文化没落論」と変更されていて、『世界大思想全集 社会・宗教・科学思想篇 第21巻』(河出書房、1954年)という古風な本に載っていたので、気づいていませんでした。
同書の訳注には、

--------
ここに古代文化没落論として訳出した論文の原名は、古代文化没落の社会的諸原因(Die sozialen Gründe des Untergangs der antiken Kultur.)といい、一八九六年フライブルク・イン・ブライスガウのアカデミー集会で行われた通俗講演に基いて書かれたもの。ヴェーバーは一九八四年以来同地の大学の経済学正教授であり、時に三十二歳であった。この講演の構想は彼のベルリン大学への就職論文、「ローマ農業史」(Die römische Agrargeschichte in ihrer Bedeutung für das Staats- und Privatrecht, 1891.)の第四章、「ローマの農業と皇帝時代のグルントヘルシャフト」(Die römische Landwirtschaft und die Grundherrschaften der Kaiserzeit.)によるものであり、古代文化の没落をローマ史に内在する契機から説明しようとするもの。数ある古代文化没落論の中にあって、今日においても、最も重要なものであり、若きヴェーバーの溌剌たる才気を最も良く示す業績である。
--------

とあります。
「通俗講演」とありますが、内容は非常に高度で、いったいどういう聴衆が相手なんじゃ、という感じがしますね。

石井先生、「果たしてそれだけでしょうか」(by 小太郎)
『古代文化没落の社会的諸原因』
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その3)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)13時36分16秒

更に続きます。

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 そのことを問題にする前に一言しておかなくてはならぬことがある。それは、私が父の日本主義者への変貌の内面的過程をはなはだ不十分にしか知らないということである。たしかに父は私をつかまえて、「惟神(かんながら)の道」を語ったことはしばしばであった。しかし、私が本当に批判的関心をもちえた頃には、父はすでに日本主義者だったのである。明治人として、恐らく父は最初から愛国者であったにちがいない。大正デモクラシーの時代、軍人が軍服で街を歩くのを好まなかったことについて、父は後年、これを異常なことと語っていたし、私のもの心ついた頃から、反社会主義的であったことも知っている。社会大衆党に好意をもっていなかったのも事実であるし、吉野作造氏らの民本主義にも疑念をもっていた。しかし普通選挙法の実施に対し、時期尚早論をとなえた人に対する批判をもっていたことも、他方における事実であった。
 昭和初年の大恐慌は、父の事業にも大きい影響があった。それだけに満州事変は一つの開放として映じたようである。この頃から父の日本主義は、きわめて明確な形をとってきた。前述の三井甲之氏との関係から『原理日本』を購読するようになり、戦争中には何がしかの資金援助も行ったらしい。
 私が神戸に去ったのちには、三井氏のみならず蓑田胸喜氏をはじめとする原理日本社の人々が来宅したことも何度かはあったようである。そうはいうものの、河合事件にさいしては、自由主義者としての河合栄治郎氏の主張を全面的に否定することはなかったし、一方では、柳宗悦氏、河井寛次郎氏、棟方志功氏などの民芸派の人々との交際も頻繁であった。とはいえ、父はれっきとした原理日本社の支持者であり、蓑田氏の狂熱よりは三井氏を最後まで買っていたにしても、熱烈な反共主義者であったことに変りはない。
 これは、一貫して父の人間と学問に尊敬を感じていた私にとって、苦痛の種であった。私はマルクシストになったことはかつてなかったが、私の学んだ東大西洋史学科は、いわばヒューマニスト社会主義者の集まりの観を呈しており、私は家庭と大学の間に立って苦しんだ。神戸商大予科から招きがあったとき、即座に承諾した私の心のなかには、左右両派の強い影響からのがれて、独自に自分の立場を定めたい気持が濃厚だったのである。(後略)
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この後、「日本文化の自閉性」のタイトルで、父親の思想的遍歴についての若干の分析が続くのですが、長くなりすぎたので一応終わりにします。
まあ、前半の話の流れからすると、歌人としてそれなりに著名であった三井甲之はまだしも、蓑田胸喜の登場はちょっとびっくりですね。
ちなみに蓑田胸喜は堀米康太郎氏より10歳下ですね。

蓑田胸喜(1894-1946)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その2)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)09時06分57秒

続きです。

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 父はまた書を能くし、和漢の詩文にも心得があったので、新聞や雑誌に投稿する一方、尊敬する学者に向っての文通にも、少なくとも若い時代、熱心であった。私が旧制中学の受験にさいし、不勉強から公市立の学校に失敗し、私立の芝中学(現在の芝学園)に入学したのは、父が郷里にいる時代から「新仏教会」に加入し、故高島米峯氏とよく知り合っていた関係からであった。悪名高い『原理日本』と後年関係ができたのも、その思想的指導者であり歌人でもあった故三井甲之氏を、若い頃からの和歌の師─もちろん文通による─と仰いでいたからであった。
 父は人一倍の正義漢で、また私たちをいましめるのに「自らの精神をけがすな」と説くのをつねとしていたが、決してストイックではなかった。ひどく子煩悩ではあったが、私が三男であったせいもあって、干渉がましいことはいわなかった。一口でいえばリベラルな教育者であった。
(中略)
 しかし西洋史への興味は、父の蔵書中にあった西洋文学によることなしには育たなかったであろう。ゲーテやトルストイは小学校時代の私には興味をそそらなかったが、ユゴーの『レ・ミゼラブル』は、これも何度か読んだものの一つであった。その頃の記憶にはまた石川戯庵訳のルソー『懺悔録』がある。私が読んだのではない。父はこれを毎年の正月の休みに読むのをつねとしていたのである。ゲーテの『イタリア紀行』も同じであった。ゲーテはわかるが、なぜ、父が正月にルソーを読むことにしていたのかは、いまもってわからない。
 このように書いてくれば、私が学者たるべくどんなに恵まれた家庭に育ったかを宣伝するに等しいが、実際に私が学問の道に入る決心をしたのは、大学入学直前のことだったといってよい。私は子供の頃から一貫して運動に熱中し、小学校から大学卒業後にいたるまで、選手ないしコーチ生活をつづけたのである。このスポーツ狂の私がなぜ学者の生活を選んだかは、やはり父の影響ぬきには考えられないが、それはいま私の語ろうとしていることではない。
 私が父を語ったのは、この教養にとみ、個人倫理に徹し、またリベラルな心情の持主でもあった父が、後年にどうして熱烈な日本主義者になったのか、その理由を考えてみたかったためである。それを考えることは恐らく、明治大正期の文化人の精神的遍歴の一理由を解明することに役立つであろう。
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高嶋米峰は9歳上ですが、「和歌の師」の三井甲之(こうし)は1歳上で、同年輩ですね。

高嶋米峰(1875-1949)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%8B%E7%B1%B3%E5%B3%B0
三井甲之(1883-1953)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E7%94%B2%E4%B9%8B
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