学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「門前の小僧」としての石母田正氏

2014-02-07 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月 7日(金)16時29分38秒

>筆綾丸さん
昨夜の投稿、直前に筆綾丸さんが投稿されていたのに気づかず、自分の書きたいことだけ書いて寝てしまい、失礼しました。
丸島和洋氏からは「研究史は勉強していない/する気がないのに、研究史を踏まえて議論したつもりになっている」「門前の小僧」と言われて、では、国家論に関して丸島氏がどのくらいまで研究史を遡っているのかを確認したら、石母田正氏どまりだったことは最初の驚きでした。


さすがにアリストテレスまで遡れ、とは言いませんが、法学・政治学の分野では、マルクス主義者の石母田氏のような、まあ失礼ながら傍流的な知識人・思想家とは異なった立場の研究者が大勢いて、古くから国家について議論しています。
例えば東大を中心に1887(明治20)年に設立された「国家学会」があって、「国家学会雑誌」という古風な名前の学会誌を延々出し続けていますね。

国家学会の沿革

私は石母田氏の粗野な文体が好きではないので、今まで同氏の著書・論文をあまり読んでいなかったのですが、今回、同氏の論文を確認してみたら、そもそも丸島氏が依拠しているところの石母田氏自身が、法律の面では「門前の小僧」であることが分かったのは、我ながら意外な展開でした。
石母田氏は1912年生まれ、東大文学部西洋哲学科に入学し、後に国史学科へ転じた人ですから、法律の基礎的教育は全く受けていません。
また、旧制第二高等学校時代に左翼運動で逮捕され、東大に入ってもやっぱり左翼運動で何回か逮捕された気性の激しい人ですから、性格的にも冷静に法律の議論をするのには向いていないですね。
石母田氏自身は緻密で論理的な法律・法制史の議論をしているつもりであっても、<「ことば」として専門用語を知っているだけであって、理解はしていない。そのことを自覚できていないから、話は延々と空転し続け>ており、<「門前の小僧」という表現がぴったりくる。ただ、その自覚がないところがある種の喜劇>状態なんですね。
そして、丸島氏自身が特に自覚なしに、「ある種の喜劇」に基づいて、自己の国家論・外交論を展開しているという、「一種のフラクタル構造」になっていますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

慶應のゼミ 2014/02/06(木) 22:45:27
小太郎さん
石母田氏の定義をみると、うーん、大雑把だなあ、という印象を受けますね。

http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784215539
丸島和洋氏『戦国大名武田氏の権力構造』の序章には、『中世政治社会思想』を引用して、桃崎氏とほぼ同じ記述がありますが、慶應で同じゼミ出身ということなのか、仲良く石母田氏の所説に敬服しているようですね。
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戦国法を、中世法全体の中で位置づけられたのが石母田正氏である。石母田氏は戦国法の制定権が戦国大名にあり、その認証をもって完結すること、数郡~数ヶ国にわたる各大名の支配領域において一般法としての地位を占めていること、大名権力が家産官僚制を組織していることなどを指摘された。そして各大名がキリスト教宣教師といった国外勢力から「国王」と見なされていたことなどをあわせて考察され、戦国期を国家主権が戦国諸大名に分裂した時代、戦国大名領国を「主権的な国家」と評価されたのである。(4頁)
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『戦国大名武田氏の権力構造』のカバー図版には何の説明もなく、各章末の注記と同じような注釈がほしいところですね。
この図版の書状は、文末に「小山田可申候恐々謹言」とあり、宛所は「上杦殿」、取次は「小山田」で、【表一】(38頁~)の41が該当するとすれば、年次は天正7年12月23日になるようです。文頭は「為嫁娶之祝儀以秋山伊賀守」で、この「嫁娶」が「天正7年9月17日に勝頼の妹(菊姫)が景勝に輿入れ」(44頁)したことを指しているとすれば、輿入れから祝儀の披露(贈与)まで約3ヶ月も要したことになり、甲越同盟の根幹をなした重要な婚姻というわりは、随分のんびりしているなあ、西からの織田勢の脅威があるのだから、急がないとまずいのではないか、という感じがしますね。
この書状は、『戦国大名武田氏の権力構造』を代表するものと考えたからカラー図版に使ったと思うのですが、何の説明もないというのは、不親切というか、怠慢ですね。

http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/sennennki/10tenjihin/tenjihin.html
『中世京都の空間構造と礼節体系』のカバー図版で使用している「源氏物語車争図屏風」(17世紀 京都市歴史資料館蔵)は、あくまでも平安末期における架空の「鞘当て」(葵の上と六条御息所との)がモチーフだから、中世京都の礼節体系とは本質的には無関係ですね。
コメント
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