投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月13日(木)12時06分39秒
『石母田正著作集』(岩波書店)の「月報」をパラパラ見ているのですが、林基氏の「最初の出会い─石母田史学の胎生期─」(第2巻、1988)には、石母田氏の青春時代が描かれていますね。
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石母田正君とはじめて会ったのは、一九三一年春のことであるから、かれが東京帝大文学部国史学科へ入学して、はっきり歴史学の道に立つのは、それから三年後のことである。それ以後の石母田君のあゆみはかなりよく知られているが、歴史家石母田正を準備した、それ以前の数年については、ほとんど知られていない。一昨年四月に作られた「略年譜」に、
一九二八年四月(一五歳)石巻中学四年終了で、第二高
等学校文科甲類に入学
一九三〇年一〇月(一八歳)「ニ高生の思想の解剖─より
生きんとするニ高生に─」を二高尚志会雑誌『尚志』第一
四五号に発表、マルクス主義の立場に立つことを表明、加
えて社会科学研究会での活動によって検挙され、無期停学
処分を受ける
一九三一年三月 第二高等学校を卒業。四月 東京帝国
大学文学部西洋哲学科入学。在学中非合法の全協(日本労
働組合全国協議会)の活動に参加。『通信労働者』の発行・
配布に関与し、逮捕二回。
というのが、これまで知られているすべてであろう。前半の三年間については、さいきん同窓の扇谷正造氏の回想が発表されて、いくらか詳しくわかってきたが、後半の三年間については、新しく追加されたところはまったくないようである。
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とありますが、この扇谷正造氏の回想はどこに出ているのか。
調べてみるつもりですが、ご存知の方はご教示ください。
ちなみに、この後は、林基氏の入った『無産者政治教程』をテキストとする勉強会の第一回会合に「ひとりの帝大生がチューターとして来てくれていた。それが石母田正君であることは、あとで知るのであるが、石巻中学で松田〔清太郎〕君の二年先輩だった縁故によったのであろう」といった思い出が続きます。
そして、
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石母田正の歴史学の最大の課題は「天皇制の問題」「天皇制に呪縛された多数の日本人民との対決の問題であり、同時に自己との対決でもあった」とかれ自身が語っているが、そのような歴史学をかれが生涯の仕事にえらんだのは、国史学科入学に先だつ一九三三年だったことが、さいきん明らかになってきた。マルクス主義歴史学への関心自体は、おそらく二高入学直後からきざしていて、そのころから現われる野呂、羽仁、服部などの著作はただちに読んでいたにちがいない。
(中略)
ニ高社研での活動がすでに一九二八年四月の大学社研の解散以来の天皇制権力による禁止に抗する運動であり、それ故に三〇年一〇月の検挙、停学処分となったのであるが、まだ主として思想の自由のためのたたかいであった。しかし三一年四月以後の全協での活動は、広く勤労諸階級の生活と権利をまもるためのたたかいとなっており、さらに九月一八日の柳条湖事件による満洲侵略戦争の開始以後、天皇制日本の戦争から日本やアジアの諸民族をまもるたたかいにも参加することになるのであって、このようなたたかいのなかで、天皇制の害毒から日本人民を解放するための歴史学研究への道が準備されていったのであり、われわれの出会いは、まさにこの方向への転換期にあたったのであろう。そしてまた、だからこそ、何も知らぬわたしにも前述のような大きな影響を与えることになったのではなかったろうか。
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という具合に終わります。
まあ、内容とは関係ありませんが、「まもる」「たたかい」くらいは漢字にしてもらわないと、ちょっと読みづらいですね。
この古典芸能的な文章を書かれている林基(はやし・もとい)氏は1914生まれで、慶応大学史学科卒。
『歴史評論』の編集長等を経て専修大学教授を長く務め、1988年の執筆時点では74歳ですね。
まことに元気溢れる革命老人ですが、正直、単に頭が固いだけのような印象も受けます。
ただ、ウィキペディアによれば「中高生時代既に英・独・仏各語に通暁していたが、通交史研究に当たってはオランダ語やポルトガル語、スペイン語も学んだ」そうで、語学力はすごいですね。
石母田氏と同世代の人々は語学も革命のためですから、気合が全く違う感じがします。
石母田氏は第二高等学校の「文科甲類」なので、専攻は英語ですが、それ以外に何ヶ国語できたのですかね。
独仏は当たり前でしょうけど、ロシア語あたりも読めたのでしょうか。
扇谷正造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E9%80%A0
林基
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%9F%BA
『石母田正著作集』(岩波書店)の「月報」をパラパラ見ているのですが、林基氏の「最初の出会い─石母田史学の胎生期─」(第2巻、1988)には、石母田氏の青春時代が描かれていますね。
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石母田正君とはじめて会ったのは、一九三一年春のことであるから、かれが東京帝大文学部国史学科へ入学して、はっきり歴史学の道に立つのは、それから三年後のことである。それ以後の石母田君のあゆみはかなりよく知られているが、歴史家石母田正を準備した、それ以前の数年については、ほとんど知られていない。一昨年四月に作られた「略年譜」に、
一九二八年四月(一五歳)石巻中学四年終了で、第二高
等学校文科甲類に入学
一九三〇年一〇月(一八歳)「ニ高生の思想の解剖─より
生きんとするニ高生に─」を二高尚志会雑誌『尚志』第一
四五号に発表、マルクス主義の立場に立つことを表明、加
えて社会科学研究会での活動によって検挙され、無期停学
処分を受ける
一九三一年三月 第二高等学校を卒業。四月 東京帝国
大学文学部西洋哲学科入学。在学中非合法の全協(日本労
働組合全国協議会)の活動に参加。『通信労働者』の発行・
配布に関与し、逮捕二回。
というのが、これまで知られているすべてであろう。前半の三年間については、さいきん同窓の扇谷正造氏の回想が発表されて、いくらか詳しくわかってきたが、後半の三年間については、新しく追加されたところはまったくないようである。
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とありますが、この扇谷正造氏の回想はどこに出ているのか。
調べてみるつもりですが、ご存知の方はご教示ください。
ちなみに、この後は、林基氏の入った『無産者政治教程』をテキストとする勉強会の第一回会合に「ひとりの帝大生がチューターとして来てくれていた。それが石母田正君であることは、あとで知るのであるが、石巻中学で松田〔清太郎〕君の二年先輩だった縁故によったのであろう」といった思い出が続きます。
そして、
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石母田正の歴史学の最大の課題は「天皇制の問題」「天皇制に呪縛された多数の日本人民との対決の問題であり、同時に自己との対決でもあった」とかれ自身が語っているが、そのような歴史学をかれが生涯の仕事にえらんだのは、国史学科入学に先だつ一九三三年だったことが、さいきん明らかになってきた。マルクス主義歴史学への関心自体は、おそらく二高入学直後からきざしていて、そのころから現われる野呂、羽仁、服部などの著作はただちに読んでいたにちがいない。
(中略)
ニ高社研での活動がすでに一九二八年四月の大学社研の解散以来の天皇制権力による禁止に抗する運動であり、それ故に三〇年一〇月の検挙、停学処分となったのであるが、まだ主として思想の自由のためのたたかいであった。しかし三一年四月以後の全協での活動は、広く勤労諸階級の生活と権利をまもるためのたたかいとなっており、さらに九月一八日の柳条湖事件による満洲侵略戦争の開始以後、天皇制日本の戦争から日本やアジアの諸民族をまもるたたかいにも参加することになるのであって、このようなたたかいのなかで、天皇制の害毒から日本人民を解放するための歴史学研究への道が準備されていったのであり、われわれの出会いは、まさにこの方向への転換期にあたったのであろう。そしてまた、だからこそ、何も知らぬわたしにも前述のような大きな影響を与えることになったのではなかったろうか。
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という具合に終わります。
まあ、内容とは関係ありませんが、「まもる」「たたかい」くらいは漢字にしてもらわないと、ちょっと読みづらいですね。
この古典芸能的な文章を書かれている林基(はやし・もとい)氏は1914生まれで、慶応大学史学科卒。
『歴史評論』の編集長等を経て専修大学教授を長く務め、1988年の執筆時点では74歳ですね。
まことに元気溢れる革命老人ですが、正直、単に頭が固いだけのような印象も受けます。
ただ、ウィキペディアによれば「中高生時代既に英・独・仏各語に通暁していたが、通交史研究に当たってはオランダ語やポルトガル語、スペイン語も学んだ」そうで、語学力はすごいですね。
石母田氏と同世代の人々は語学も革命のためですから、気合が全く違う感じがします。
石母田氏は第二高等学校の「文科甲類」なので、専攻は英語ですが、それ以外に何ヶ国語できたのですかね。
独仏は当たり前でしょうけど、ロシア語あたりも読めたのでしょうか。
扇谷正造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E9%80%A0
林基
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%9F%BA