学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「今西さんという最近の人」

2014-04-09 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)21時01分47秒

保立道久氏の『歴史学をみつめ直す─封建制概念の放棄』(校倉書房、2004年)をパラパラ見たところ、内容面で変なのはともかく、石母田正氏への言及の仕方が気になりました。
例えばp141には「死去の前には『中世政治社会思想 上』(一九七二年)の解説を執筆して」とありますが、石母田氏が亡くなったのは1986年ですから「死去の前」は日本語として変ですね。
「最晩年の石母田は自己の社会構成論を組み直そうとしていました。それを示すのは、一九七三年の講演「歴史学と日本人論」です」(p142)、「晩年の石母田は、日中分岐の基礎にあったのは日本の未開性である、遅れて出発した日本は未開性を基礎として異なる方向へ進んだのだと切り返し」(p143)というのも、1973年の時点で61歳の石母田氏について「晩年」「最晩年」という表現が適当なのか。
結果的に病気で以降の執筆ができなくなったとはいえ、頭脳が研ぎ澄まされていた時期の石母田氏に「晩年」「最晩年」は変ですね。

気になったついでに「歴史学と『日本人論』」(岩波文化講演会、1973年6月28日、著作集第8巻)を読んでみたところ、

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 それではこういう密通というものについて、光源氏はどのようにいったい意識していたかと言いますと、これまた今西さんという最近の人が指摘しておりますように、源氏は自分が密通して妻を奪ったわけですから、その被害者である桐壺の帝になりますね、これに対して「おほけなし」という言葉があるのですが、そういう言葉でもって桐壺に対する自分の感情を表現している。(p303)
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とありました。
注記はありませんが、「今西さんという最近の人」とは今西祐一郎氏みたいですね。
もともと「義満が光源氏幻想を生きた」騒動は今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」という論文が発端なので、妙なところでお会いしたな、という感じです。

「今西論文その1、『源氏物語』注釈史」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932e4aff20b0309968010e86fc8f1134

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六波羅団地の悪夢

2014-04-09 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)19時23分43秒

>筆綾丸さん
「自戒をこめて」だと、「将来に向かって注意しましょう」みたいな感じで受け取る読者も多いでしょうね。
自説の撤回をするときは、きちんと過去の記述を特定し、これこれの理由で考え方を改めました、とはっきり書くのが一番良いと思いますが、小川剛生氏も偉くなりすぎてプライドが邪魔をしているのですかね。

高橋昌明氏は「推論が合理性の範囲を超えて暴走したかもしれない」と言われているので、自分が変なことを言っているとの自覚はあるのでしょうね。
「分かっちゃいるけどやめられない」という植木等の心境でしょうか。
昔はけっこう高橋氏の本を読んだのですが、「六波羅団地」で窒息死しそうになって以降、一冊も買っていません。

カテゴリー「高橋昌明『平家物語 福原の夢』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「ザムザのように」 2014/04/08(火) 15:46:16
小太郎さん
「物語を先例とするような悠長な雰囲気」という表現には、ザムザのように、ある朝、気がかりな夢から目覚めてみると、「丁寧な考証」をすっかり忘れていた、えーい、忌々しい、彼らはまだ、あの浪漫的な幻想に酔い痴れているのだろうか、といったような感情がよく出ていますね。

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よく知られているように、一一世紀末~十二世紀初頭以降『源氏物語』第一次受容の波が見られた。そしてここが肝心な点だが、『源氏物語』と海幸・山幸説話の重なりを念頭に置くと、後白河が後者を通して自らを光源氏、平清盛を明石入道、徳子を明石の君になぞらえていた可能性が高い。つまり、コインに喩えると、絵巻はあくまで表の意匠、裏面の図柄は『源氏物語』で、そこには実は表とは別の同時代政治へのアレゴリーが刻印されている、といいたいのである。
(中略)
吉森佳奈子氏は、南北朝期の『源氏物語』古注釈書である『河海抄』の注釈にあげる例が、『源氏物語』成立以前のものだけでなく以後の例に及んでいる事実に注目する。そして、『源氏物語』以前に例はないのに、物語に書かれたことがすぐ後の時代に実現しているとして、「『源氏物語』のありようが享受者を引きつけ、現実をうごかすことになった」「謂わば、物語の史実化、先例化」があったと、主張している。『源氏物語』という言述の世界の広がりが、先蹤や史実になって現実社会を創造する関係である。もし、光源氏のふるまいが、清盛にとっての先例や行動の準則になっていたとすれば、後白河はそれを冷たく見据えながら、清盛が光源氏などとはとんでもない、お前は所詮明石入道に過ぎないのだ、と手のこんだ手法で決めつけていることになるだろう。
推論が合理性の範囲を超えて暴走したかもしれない。だが清盛が自らを光源氏に擬した云々はともかく、平家にとって『源氏物語』が予想以上に大きな意味を持っていた面は否定できない。
(?橋昌明氏『平清盛と福原の夢』130頁~)
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(注)絵巻とは彦火々出見尊絵巻のこと。

高田信敬氏は、「『源氏物語』の例をどれほど集めてみても、それはそれで貴重な仕事ではあるにせよ」と穏やかに云われていますが、本音は、位相ということを知らんのか、そんなこと、ただの暇潰しさ、ということかもしれませんね。

追記
河添房江氏の「准母(女院)」ですが、以下によれば、准母から女院までには背後に政治的な駆引きがあったことになりますね。
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経嗣たちが想像した通り、夫妻とも准三后であるのは清盛夫妻に倣うことになり、不吉でけしからぬ、と不満を匂わせたのであろう。改めて義満は自身への尊号を求めたが、それは難しい。むしろ、女院の制は「太上天皇に准じた」一種の待遇を意味するのだから、どうせ異例であるならば、当初予定されていなかった女院号宣下が、急遽発議されて実現した、と知られる。荒暦の記事は三月五日の院号定へと続き、康子の住居の名を取って「北山院」の号に決したとある。(小川剛生氏『足利義満 公武に君臨した室町将軍』247頁)
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