投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)21時01分47秒
保立道久氏の『歴史学をみつめ直す─封建制概念の放棄』(校倉書房、2004年)をパラパラ見たところ、内容面で変なのはともかく、石母田正氏への言及の仕方が気になりました。
例えばp141には「死去の前には『中世政治社会思想 上』(一九七二年)の解説を執筆して」とありますが、石母田氏が亡くなったのは1986年ですから「死去の前」は日本語として変ですね。
「最晩年の石母田は自己の社会構成論を組み直そうとしていました。それを示すのは、一九七三年の講演「歴史学と日本人論」です」(p142)、「晩年の石母田は、日中分岐の基礎にあったのは日本の未開性である、遅れて出発した日本は未開性を基礎として異なる方向へ進んだのだと切り返し」(p143)というのも、1973年の時点で61歳の石母田氏について「晩年」「最晩年」という表現が適当なのか。
結果的に病気で以降の執筆ができなくなったとはいえ、頭脳が研ぎ澄まされていた時期の石母田氏に「晩年」「最晩年」は変ですね。
気になったついでに「歴史学と『日本人論』」(岩波文化講演会、1973年6月28日、著作集第8巻)を読んでみたところ、
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それではこういう密通というものについて、光源氏はどのようにいったい意識していたかと言いますと、これまた今西さんという最近の人が指摘しておりますように、源氏は自分が密通して妻を奪ったわけですから、その被害者である桐壺の帝になりますね、これに対して「おほけなし」という言葉があるのですが、そういう言葉でもって桐壺に対する自分の感情を表現している。(p303)
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とありました。
注記はありませんが、「今西さんという最近の人」とは今西祐一郎氏みたいですね。
もともと「義満が光源氏幻想を生きた」騒動は今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」という論文が発端なので、妙なところでお会いしたな、という感じです。
「今西論文その1、『源氏物語』注釈史」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932e4aff20b0309968010e86fc8f1134
保立道久氏の『歴史学をみつめ直す─封建制概念の放棄』(校倉書房、2004年)をパラパラ見たところ、内容面で変なのはともかく、石母田正氏への言及の仕方が気になりました。
例えばp141には「死去の前には『中世政治社会思想 上』(一九七二年)の解説を執筆して」とありますが、石母田氏が亡くなったのは1986年ですから「死去の前」は日本語として変ですね。
「最晩年の石母田は自己の社会構成論を組み直そうとしていました。それを示すのは、一九七三年の講演「歴史学と日本人論」です」(p142)、「晩年の石母田は、日中分岐の基礎にあったのは日本の未開性である、遅れて出発した日本は未開性を基礎として異なる方向へ進んだのだと切り返し」(p143)というのも、1973年の時点で61歳の石母田氏について「晩年」「最晩年」という表現が適当なのか。
結果的に病気で以降の執筆ができなくなったとはいえ、頭脳が研ぎ澄まされていた時期の石母田氏に「晩年」「最晩年」は変ですね。
気になったついでに「歴史学と『日本人論』」(岩波文化講演会、1973年6月28日、著作集第8巻)を読んでみたところ、
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それではこういう密通というものについて、光源氏はどのようにいったい意識していたかと言いますと、これまた今西さんという最近の人が指摘しておりますように、源氏は自分が密通して妻を奪ったわけですから、その被害者である桐壺の帝になりますね、これに対して「おほけなし」という言葉があるのですが、そういう言葉でもって桐壺に対する自分の感情を表現している。(p303)
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とありました。
注記はありませんが、「今西さんという最近の人」とは今西祐一郎氏みたいですね。
もともと「義満が光源氏幻想を生きた」騒動は今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」という論文が発端なので、妙なところでお会いしたな、という感じです。
「今西論文その1、『源氏物語』注釈史」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932e4aff20b0309968010e86fc8f1134