投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)13時36分16秒
更に続きます。
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そのことを問題にする前に一言しておかなくてはならぬことがある。それは、私が父の日本主義者への変貌の内面的過程をはなはだ不十分にしか知らないということである。たしかに父は私をつかまえて、「惟神(かんながら)の道」を語ったことはしばしばであった。しかし、私が本当に批判的関心をもちえた頃には、父はすでに日本主義者だったのである。明治人として、恐らく父は最初から愛国者であったにちがいない。大正デモクラシーの時代、軍人が軍服で街を歩くのを好まなかったことについて、父は後年、これを異常なことと語っていたし、私のもの心ついた頃から、反社会主義的であったことも知っている。社会大衆党に好意をもっていなかったのも事実であるし、吉野作造氏らの民本主義にも疑念をもっていた。しかし普通選挙法の実施に対し、時期尚早論をとなえた人に対する批判をもっていたことも、他方における事実であった。
昭和初年の大恐慌は、父の事業にも大きい影響があった。それだけに満州事変は一つの開放として映じたようである。この頃から父の日本主義は、きわめて明確な形をとってきた。前述の三井甲之氏との関係から『原理日本』を購読するようになり、戦争中には何がしかの資金援助も行ったらしい。
私が神戸に去ったのちには、三井氏のみならず蓑田胸喜氏をはじめとする原理日本社の人々が来宅したことも何度かはあったようである。そうはいうものの、河合事件にさいしては、自由主義者としての河合栄治郎氏の主張を全面的に否定することはなかったし、一方では、柳宗悦氏、河井寛次郎氏、棟方志功氏などの民芸派の人々との交際も頻繁であった。とはいえ、父はれっきとした原理日本社の支持者であり、蓑田氏の狂熱よりは三井氏を最後まで買っていたにしても、熱烈な反共主義者であったことに変りはない。
これは、一貫して父の人間と学問に尊敬を感じていた私にとって、苦痛の種であった。私はマルクシストになったことはかつてなかったが、私の学んだ東大西洋史学科は、いわばヒューマニスト社会主義者の集まりの観を呈しており、私は家庭と大学の間に立って苦しんだ。神戸商大予科から招きがあったとき、即座に承諾した私の心のなかには、左右両派の強い影響からのがれて、独自に自分の立場を定めたい気持が濃厚だったのである。(後略)
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この後、「日本文化の自閉性」のタイトルで、父親の思想的遍歴についての若干の分析が続くのですが、長くなりすぎたので一応終わりにします。
まあ、前半の話の流れからすると、歌人としてそれなりに著名であった三井甲之はまだしも、蓑田胸喜の登場はちょっとびっくりですね。
ちなみに蓑田胸喜は堀米康太郎氏より10歳下ですね。
蓑田胸喜(1894-1946)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
更に続きます。
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そのことを問題にする前に一言しておかなくてはならぬことがある。それは、私が父の日本主義者への変貌の内面的過程をはなはだ不十分にしか知らないということである。たしかに父は私をつかまえて、「惟神(かんながら)の道」を語ったことはしばしばであった。しかし、私が本当に批判的関心をもちえた頃には、父はすでに日本主義者だったのである。明治人として、恐らく父は最初から愛国者であったにちがいない。大正デモクラシーの時代、軍人が軍服で街を歩くのを好まなかったことについて、父は後年、これを異常なことと語っていたし、私のもの心ついた頃から、反社会主義的であったことも知っている。社会大衆党に好意をもっていなかったのも事実であるし、吉野作造氏らの民本主義にも疑念をもっていた。しかし普通選挙法の実施に対し、時期尚早論をとなえた人に対する批判をもっていたことも、他方における事実であった。
昭和初年の大恐慌は、父の事業にも大きい影響があった。それだけに満州事変は一つの開放として映じたようである。この頃から父の日本主義は、きわめて明確な形をとってきた。前述の三井甲之氏との関係から『原理日本』を購読するようになり、戦争中には何がしかの資金援助も行ったらしい。
私が神戸に去ったのちには、三井氏のみならず蓑田胸喜氏をはじめとする原理日本社の人々が来宅したことも何度かはあったようである。そうはいうものの、河合事件にさいしては、自由主義者としての河合栄治郎氏の主張を全面的に否定することはなかったし、一方では、柳宗悦氏、河井寛次郎氏、棟方志功氏などの民芸派の人々との交際も頻繁であった。とはいえ、父はれっきとした原理日本社の支持者であり、蓑田氏の狂熱よりは三井氏を最後まで買っていたにしても、熱烈な反共主義者であったことに変りはない。
これは、一貫して父の人間と学問に尊敬を感じていた私にとって、苦痛の種であった。私はマルクシストになったことはかつてなかったが、私の学んだ東大西洋史学科は、いわばヒューマニスト社会主義者の集まりの観を呈しており、私は家庭と大学の間に立って苦しんだ。神戸商大予科から招きがあったとき、即座に承諾した私の心のなかには、左右両派の強い影響からのがれて、独自に自分の立場を定めたい気持が濃厚だったのである。(後略)
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この後、「日本文化の自閉性」のタイトルで、父親の思想的遍歴についての若干の分析が続くのですが、長くなりすぎたので一応終わりにします。
まあ、前半の話の流れからすると、歌人としてそれなりに著名であった三井甲之はまだしも、蓑田胸喜の登場はちょっとびっくりですね。
ちなみに蓑田胸喜は堀米康太郎氏より10歳下ですね。
蓑田胸喜(1894-1946)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C