学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

無名の町工場主・堀米康太郎氏(その3)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)13時36分16秒

更に続きます。

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 そのことを問題にする前に一言しておかなくてはならぬことがある。それは、私が父の日本主義者への変貌の内面的過程をはなはだ不十分にしか知らないということである。たしかに父は私をつかまえて、「惟神(かんながら)の道」を語ったことはしばしばであった。しかし、私が本当に批判的関心をもちえた頃には、父はすでに日本主義者だったのである。明治人として、恐らく父は最初から愛国者であったにちがいない。大正デモクラシーの時代、軍人が軍服で街を歩くのを好まなかったことについて、父は後年、これを異常なことと語っていたし、私のもの心ついた頃から、反社会主義的であったことも知っている。社会大衆党に好意をもっていなかったのも事実であるし、吉野作造氏らの民本主義にも疑念をもっていた。しかし普通選挙法の実施に対し、時期尚早論をとなえた人に対する批判をもっていたことも、他方における事実であった。
 昭和初年の大恐慌は、父の事業にも大きい影響があった。それだけに満州事変は一つの開放として映じたようである。この頃から父の日本主義は、きわめて明確な形をとってきた。前述の三井甲之氏との関係から『原理日本』を購読するようになり、戦争中には何がしかの資金援助も行ったらしい。
 私が神戸に去ったのちには、三井氏のみならず蓑田胸喜氏をはじめとする原理日本社の人々が来宅したことも何度かはあったようである。そうはいうものの、河合事件にさいしては、自由主義者としての河合栄治郎氏の主張を全面的に否定することはなかったし、一方では、柳宗悦氏、河井寛次郎氏、棟方志功氏などの民芸派の人々との交際も頻繁であった。とはいえ、父はれっきとした原理日本社の支持者であり、蓑田氏の狂熱よりは三井氏を最後まで買っていたにしても、熱烈な反共主義者であったことに変りはない。
 これは、一貫して父の人間と学問に尊敬を感じていた私にとって、苦痛の種であった。私はマルクシストになったことはかつてなかったが、私の学んだ東大西洋史学科は、いわばヒューマニスト社会主義者の集まりの観を呈しており、私は家庭と大学の間に立って苦しんだ。神戸商大予科から招きがあったとき、即座に承諾した私の心のなかには、左右両派の強い影響からのがれて、独自に自分の立場を定めたい気持が濃厚だったのである。(後略)
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この後、「日本文化の自閉性」のタイトルで、父親の思想的遍歴についての若干の分析が続くのですが、長くなりすぎたので一応終わりにします。
まあ、前半の話の流れからすると、歌人としてそれなりに著名であった三井甲之はまだしも、蓑田胸喜の登場はちょっとびっくりですね。
ちなみに蓑田胸喜は堀米康太郎氏より10歳下ですね。

蓑田胸喜(1894-1946)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その2)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)09時06分57秒

続きです。

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 父はまた書を能くし、和漢の詩文にも心得があったので、新聞や雑誌に投稿する一方、尊敬する学者に向っての文通にも、少なくとも若い時代、熱心であった。私が旧制中学の受験にさいし、不勉強から公市立の学校に失敗し、私立の芝中学(現在の芝学園)に入学したのは、父が郷里にいる時代から「新仏教会」に加入し、故高島米峯氏とよく知り合っていた関係からであった。悪名高い『原理日本』と後年関係ができたのも、その思想的指導者であり歌人でもあった故三井甲之氏を、若い頃からの和歌の師─もちろん文通による─と仰いでいたからであった。
 父は人一倍の正義漢で、また私たちをいましめるのに「自らの精神をけがすな」と説くのをつねとしていたが、決してストイックではなかった。ひどく子煩悩ではあったが、私が三男であったせいもあって、干渉がましいことはいわなかった。一口でいえばリベラルな教育者であった。
(中略)
 しかし西洋史への興味は、父の蔵書中にあった西洋文学によることなしには育たなかったであろう。ゲーテやトルストイは小学校時代の私には興味をそそらなかったが、ユゴーの『レ・ミゼラブル』は、これも何度か読んだものの一つであった。その頃の記憶にはまた石川戯庵訳のルソー『懺悔録』がある。私が読んだのではない。父はこれを毎年の正月の休みに読むのをつねとしていたのである。ゲーテの『イタリア紀行』も同じであった。ゲーテはわかるが、なぜ、父が正月にルソーを読むことにしていたのかは、いまもってわからない。
 このように書いてくれば、私が学者たるべくどんなに恵まれた家庭に育ったかを宣伝するに等しいが、実際に私が学問の道に入る決心をしたのは、大学入学直前のことだったといってよい。私は子供の頃から一貫して運動に熱中し、小学校から大学卒業後にいたるまで、選手ないしコーチ生活をつづけたのである。このスポーツ狂の私がなぜ学者の生活を選んだかは、やはり父の影響ぬきには考えられないが、それはいま私の語ろうとしていることではない。
 私が父を語ったのは、この教養にとみ、個人倫理に徹し、またリベラルな心情の持主でもあった父が、後年にどうして熱烈な日本主義者になったのか、その理由を考えてみたかったためである。それを考えることは恐らく、明治大正期の文化人の精神的遍歴の一理由を解明することに役立つであろう。
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高嶋米峰は9歳上ですが、「和歌の師」の三井甲之(こうし)は1歳上で、同年輩ですね。

高嶋米峰(1875-1949)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%8B%E7%B1%B3%E5%B3%B0
三井甲之(1883-1953)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E7%94%B2%E4%B9%8B
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無名の町工場主・堀米康太郎氏(その1)

2014-04-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月19日(土)07時13分59秒

石母田正とは何だったのかを問うことは、戦後歴史学とは何だったのか、歴史学研究会とは何だったのかを問うことと同じなので相当しつこくやってきましたが、堀米庸三氏は出身地・学歴や歴史学者としての活動時期、社会的活動への関心のあり方等々、石母田氏と比較対照するための参考的位置づけなので、この掲示板にはそれほど書くつもりはありません。
ただ、少し前に書いた堀米庸三氏の紹介だけだと、裕福な家庭に生まれたスポーツ好きの好青年、みたいな軽いイメージを持たれる方がいるかもしれないので、「大学紛争と日本の精神風土─ひとつの体験的思索─」(『わが心の歴史』、新潮社、1976年)から若干補足しておきます。
なお、東大紛争に巻き込まれて健康を損ねたことが堀米氏の62歳という若さでの死去の原因のひとつで、この文章はタイトル通り大学紛争をテーマとしているのですが、当面の関心とは離れますし、また私自身、堀米氏の大学紛争に関する見解に必ずしも賛成している訳ではないので、ここでは大学紛争に関係する部分を特に引用も言及もしません。
そのあたりに興味がある人は『わが心の歴史』を読んでみてください。
同書の「年譜」も、堀米氏の人柄を反映した非常に面白い読み物になっているので、お奨めです。

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 私の語りたい体験というのは、私事にわたることであるが、父親に関することである。私の人間形成に決定的な影響を与えた人間をただ一人あげよといわれれば、私としては父をあげるほかはない。
(中略)
 前置きが長くなったが、私の父は一生を無名の町工場主として終った。零細企業の一つにすぎない。亡くなってほぼ二十年を経ている。父との関係で述べなければならなぬ人々も大方はすでにこの世の人ではない。
 父は無名の町工場主であり、学歴も中学中退という貧しいものであったが、語の真実の意味で学者といえる人間であった。私の家系は元来、東北地方の地主であり、同時にかなり手広く東北諸藩を相手に大名貸しをやっていた。少し以前の学術用語を用いれば前期的高利貸資本のカテゴリーに入るであろう。しかし明治維新の動乱にさいし、家運は傾き、父の青年時代にいたるまで、何度かの破産にあい、いたずらに格式のみ高い家柄となっていた。
 父は明治十七年の生れであるが、山形中学を三年で中退したのは、この破産のためであった。いわゆる「改革」のため、かつて最大の取引先であった伊達藩の仙台に一時居を移したとき、父は十七歳頃であった。もともと哲学的傾向をもっていた父は、ここで綱島梁川の門をたたき、梁川ならびにその同門の人々に深い感化を受けた。その頃の父を語るエピソードとして、つぎのようなものがある。
 昭和十七年であったか、当時神戸商大予科の最年少の教師であった私は、たまたま故安倍能成氏にあう機会があった。氏は私の名前をきいた途端に、「ひょっとして君は堀米康太郎氏の関係ではないか」とたずねられた。能成氏のことは何度か父にきいていたので、私も多少の期待がないわけではなかった。しかし四十年以上も昔のことをとっさに想い出した能成氏の強記もさることながら、それほどの記憶を十七、八歳の少年として与えた父の異才におどろかないわけにはいかなかった。
 父は何事にも徹底せずにおれない性質だったので、哲学・文学・宗教のいずれの方面においても、驚くべき多量の読書をした。生涯外国語を修得しなかったが、読書は東西両面にわたって広く、私の中学時代の記憶では、いわゆる名著として今日も刊行されている古典で、父の蔵書に欠けていたものは少なかったように思う。中でも仏典は国訳大蔵経をはじめとして数多く、哲学関係もニーチェやベルグソン関係にいたるまで広く網羅されていた。おそるべき博覧強記の父は、またその博引旁証で私を驚かせた。勉強は若い時代に限らず、何ごとによらず第一級の書物を読まずにはいられなかったらしく、マルクシズム関係の書物もかなりあったし、雑誌の『思想』や『理想』は、町工場主として生涯を終るその晩年にいたるまで、定期の購読をつづけていた。

綱島梁川(1873-1907)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1%E5%B3%B6%E6%A2%81%E5%B7%9D
安倍能成(1883-1966)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90
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