投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月11日(金)22時10分39秒
>筆綾丸さん
ウェーバーとニーチェについては牧野雅彦氏も『責任倫理の系譜学』(日本評論社、2000年)で相当詳しく書かれていますね。
この本を手には取ったのですが、今の私には高度に過ぎるかなと思って、ちょっと躊躇っています。
『責任倫理の系譜学 ウェーバーにおける政治と学問』
それと、今日、図書館で古尾谷知浩氏の『律令国家と天皇家産機構』(塙書房、2006年)を見かけ、ウェーバーの匂いを感じたので中身を見たら、ウェーバーのてんこ盛りでした。
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序章 家産制支配
はじめに─本書の課題
(中略)
第一節 学説史の中の家産制
一 石母田正における「支配の正当性」
石母田正がその著書『日本の古代国家』の冒頭で引用したのは、ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』の次の一節であった。
「最も強いものでも自分の強力を権利に、服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人であり得るほどに強いものでは決してない。」(『社会契約論』第一編第三章)
石母田がこの部分を引用した意図を考えるために、ここでしばらくルソー『社会契約論』における関係部分をみておこう。
「人間は自由なものとして生まれた。そしていたるところで鉄鎖につながれている。」
この一節は誤解されることが多いが、ルソーはここで「この鉄鎖を断ち切って生まれたままの自由な状態に戻れ」と主張しているのでは決してない。彼は「自然に帰れ」とは一言も記したことはないのである。同じパラグラフの最後の部分をみてみよう。「どのようにしてこの変化が生じたのか。私は知らない。何がこれを正当なものとすることができるか。私はこの問題は解くことができると信ずる。」つまりルソーは人々を規制する社会秩序をどのようにして正当な、あるべきものとしていったらよいかということを議論の出発点においているのである。
石母田が引用した部分も、この文脈の延長で理解すべきものである。すなわち、石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言しているのである。
(後略)
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この記述自体は分かりやすいのですが、古尾谷氏が2006年になってわざわざこんなことを書かねばならないのは、従来の歴史学者の大半が「石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言して」いない、と思っていたという事態の反映なのですかね。
この点、注(3)には次の記述があります。
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本書と同様に、ウェバーから石母田正『日本の古代国家』を読み解こうとするのが、東島誠「非人格的なるものの位相─石母田正『日本の古代国家』で再構成されたもの」(『歴史学研究』七八二、二〇〇三年)である。首肯すべき点の多い論考であり、筆者も同様に石母田を批判的に継承しようとするものであるが、二点だけ指摘しておきたい。
第一に、東島は、吉川真司が「律令官僚制の基本構造」(『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年、初発表一九八九年)で、石母田を批判したことに対し、「吉川は、・・・石母田の議論に貫通しているヴェーバリアン的な分析手法に無関心でありすぎるのではないか。」と批判する。しかし、むしろ吉川は石母田の分析手法及び分析結果について、ウェバー的な性格を見抜いた上で、正にその部分を否定しているように見える。
(後略)
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「ウェバー」と表記するのが古尾谷氏のこだわりみたいですね。
ま、それはともかく、この古尾谷氏の記述を素直に読むと、1971年に『日本の古代国家』が刊行されて以降、同書の「ウェバー的な性格を見抜いた」のは東島・古尾谷の二氏、または吉川・東島・古屋谷の三氏だけだった、ということになりそうですね。
ふーむ。
まあ、私としては、「ウェバー的な性格を見抜」けない人がいたとしたら、それは単なる間抜けだとしか思えないのですが。
『律令国家と天皇家産機構』
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「アポロン的とディオニュソス的」 2014/04/10(木) 20:12:20
小太郎さん
失礼しました。早とちりでした。
山之内靖氏の『マックス・ヴェーバー入門 』をパラパラ読んで、ニーチェとヴェーバーの親縁性ということを興味深く思いました。
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この『社会学の根本概念』は、文字どおり、ヴェーバーの死の直前に書かれたものなのですが、そうだとすればますます、この断片的な記録の意味は深刻だとしなければなりません。ヴェーバーは死の直前において、フロイトやニーチェの問題提起に合意し、彼の理解社会学によって解明できる範囲は限られたものでしかないことを公表していたのです。ヴェーバーはその直後の段階において、ニーチェに発するディオニュソス的な力の働きを容認したと見てよいでしょう。
人間の歴史をつき動かしてきた力には、マルクスが言うところの生産力とは質を異にし、さらにまた、ヴェーバーが生涯を通じて解明に取り組んできた宗教的救済に向かう観念の力とも異なるところの、いま一つの力が働いている。それは身体に源をもつ力である。このディオニュソス的な力は、しかし、あらゆる文化的意味の枠組みから外れた力であり、ニーチェの言葉を用いれば、「生成の無垢」と呼ばれるほかない力である。ヴェーバーは歴史において働く力の中に、この混沌たる無規定的なエネルギーの働きがあることを、最終段階において、はっきり確認したのでした。
『中間考察』において、近代文化のゆきつく果てに「死の無意味化」が現れてくると指摘されていることも、『社会学の根本概念』の以上の論点と重ね合わせて理解されるべきでしょう。近代以前の諸文化は、死そのものをも無意味とはせず、それに何らかの文化的含意を与えてきました。しかし、合理化のゆきついた果てにおいては、死は文字どおりに生物学的なレヴェルでの終焉というむきだしの姿をとって訪れることとなります。そしてそのことに、現代人は深い失望感を味わうことになるのです。(222頁~)
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これは半分冗談ですが、石母田氏の『中世的世界の形成』が多くの中世史研究者を魅了してやまないのは、東大寺に対する黒田庄のディオニュソス的な力(「混沌たる無規定的なエネルギー」)にあるのではないか、というような感じがしないでもないですね。
また、ヴェーバーがよくイタリア旅行をしたというのも、じつに面白いですね。
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私がここで、むしろ中心として取り上げたいのは、ヴェーバーがしばしばイタリア旅行を繰り返した点からもわかるように、アルプス以北のプロテスタント的文化圏と、アルプス以南の、南欧的ないし地中海的文化圏の差異のもつ、きわめて大きな意味です。この脈絡から浮かび上がる論点には二つの側面があります。
第一は、アルプス以北の厳格なプロテスタント的職業義務の精神に対して、それとは対照的な南欧的な現世主義的心情の葛藤という側面です。そして、第二の側面として、ヨーロッパ都市市民の系譜に立つキリスト教精神に対して、それとは対照的な、古代ポリスの戦士市民の系譜に由来する騎士的な精神の葛藤という、第一のそれとは異なったもう一つの側面が浮かび上がってきます。(110頁)
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小太郎さん
失礼しました。早とちりでした。
山之内靖氏の『マックス・ヴェーバー入門 』をパラパラ読んで、ニーチェとヴェーバーの親縁性ということを興味深く思いました。
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この『社会学の根本概念』は、文字どおり、ヴェーバーの死の直前に書かれたものなのですが、そうだとすればますます、この断片的な記録の意味は深刻だとしなければなりません。ヴェーバーは死の直前において、フロイトやニーチェの問題提起に合意し、彼の理解社会学によって解明できる範囲は限られたものでしかないことを公表していたのです。ヴェーバーはその直後の段階において、ニーチェに発するディオニュソス的な力の働きを容認したと見てよいでしょう。
人間の歴史をつき動かしてきた力には、マルクスが言うところの生産力とは質を異にし、さらにまた、ヴェーバーが生涯を通じて解明に取り組んできた宗教的救済に向かう観念の力とも異なるところの、いま一つの力が働いている。それは身体に源をもつ力である。このディオニュソス的な力は、しかし、あらゆる文化的意味の枠組みから外れた力であり、ニーチェの言葉を用いれば、「生成の無垢」と呼ばれるほかない力である。ヴェーバーは歴史において働く力の中に、この混沌たる無規定的なエネルギーの働きがあることを、最終段階において、はっきり確認したのでした。
『中間考察』において、近代文化のゆきつく果てに「死の無意味化」が現れてくると指摘されていることも、『社会学の根本概念』の以上の論点と重ね合わせて理解されるべきでしょう。近代以前の諸文化は、死そのものをも無意味とはせず、それに何らかの文化的含意を与えてきました。しかし、合理化のゆきついた果てにおいては、死は文字どおりに生物学的なレヴェルでの終焉というむきだしの姿をとって訪れることとなります。そしてそのことに、現代人は深い失望感を味わうことになるのです。(222頁~)
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これは半分冗談ですが、石母田氏の『中世的世界の形成』が多くの中世史研究者を魅了してやまないのは、東大寺に対する黒田庄のディオニュソス的な力(「混沌たる無規定的なエネルギー」)にあるのではないか、というような感じがしないでもないですね。
また、ヴェーバーがよくイタリア旅行をしたというのも、じつに面白いですね。
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私がここで、むしろ中心として取り上げたいのは、ヴェーバーがしばしばイタリア旅行を繰り返した点からもわかるように、アルプス以北のプロテスタント的文化圏と、アルプス以南の、南欧的ないし地中海的文化圏の差異のもつ、きわめて大きな意味です。この脈絡から浮かび上がる論点には二つの側面があります。
第一は、アルプス以北の厳格なプロテスタント的職業義務の精神に対して、それとは対照的な南欧的な現世主義的心情の葛藤という側面です。そして、第二の側面として、ヨーロッパ都市市民の系譜に立つキリスト教精神に対して、それとは対照的な、古代ポリスの戦士市民の系譜に由来する騎士的な精神の葛藤という、第一のそれとは異なったもう一つの側面が浮かび上がってきます。(110頁)
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