投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月15日(火)21時52分33秒
>筆綾丸さん
ありがとうございます。
そうですか。
新たな展望が開けたというより、「そして誰もいなくなった」という感じみたいですね。
吉田兼倶(1435~1511)については井上智勝氏の『近世の神社と朝廷権威』あたりしか読んでいませんが、「神祇管領長上」にしろ「宗源宣旨」にしろ偽造・捏造だらけなので、偽系図くらいで驚いてはいけないんでしょうね。
変わった人、というか一種の化け物ですが、知識は豊富だから意図的に捏造されたら同時代の人だって見抜くのは大変だったでしょうし、まして時代を経たら捏造の結果自体が伝統になってしまいますからねー。
吉田神社の大元宮、一度行ったことがありますが、いかにも胡散臭い感じがして、あまりきちんとお参りしませんでした。
吉田神社公式サイト
大元宮(個人サイト「神社参拝記」内)
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
『唯一神道の魔手』( von Weber 作曲) 2014/04/15(火) 11:38:14
小太郎さん
小川剛生氏の『卜部兼好伝批判』(熊本大学「国語国文学研究第49号」)を読んでみました。
「個人的には堀川家との新たな接点が出てきてくれれば、という虫のよい期待」という小太郎さんの御期待は残念ながら外れて、「兼好の伝記研究は、吉田家の魔手の及んでいない」正徹物語(74段)の「記述に立ち返り、再び一歩を踏み出さなければならないのである」(127頁)で終わっています。
結論は(結論のみ列挙しても無意味ながら)、以下の五点でした。主眼は、風巻説は兼倶の捏造(否、STAP 細胞は存在します!)にまんまと騙されたものだ、ということになりますか。
--------------------
一、兼好の父とされる卜部兼顕、兄の卜部兼雄、兄の慈遍、すべて血縁者ではなく、室町後期に兼直の弟兼名の子孫として吉田家の家譜に書き込まれたこと。
一、「卜部兼好」と名乗る人物は、鎌倉後期、金沢貞顕の被官として実在していたが、その世系は不明であること。
一、兼好の青年期の経歴とされた、六位蔵人・叙爵・左兵衛佐は、同時代史料では一切確認できず、兼倶以後の吉田家の史料にのみ記載されること。六位蔵人・左兵衛佐の任官慣例から、室町期以前卜部氏出身者がこの官職に就いた可能性はない。
一、以上の虚偽を構えたのは吉田兼倶で、家格の上昇を企て、兼倶が嫡子兼致に、それまで家に例のなかった六位蔵人、ついで左兵衛佐を経歴させるべく、先祖の家系履歴を捏造したこと。以後、吉田家の家譜には兼好が庶流として記述され、その官歴も載せられて、広く信じられ、尊卑分脉も採用したこと。
一、兼好が南朝(後醍醐天皇)の愛顧を受けたと信じられていたこと。これは近世の兼好伝でも同じで、その源流をなすかも知れないこと。
--------------------
では、出家前、兼好はどのような経歴を送ったのか。あくまで推測にすぎないが、以下のようであったかもしれない、とされています。
大臣・公卿に(既に殿上人の待遇を受けていた北条氏一門にも)「諸大夫」ではなく「侍」として仕え、六位に叙され、六位相当官(馬允・式部丞・民部丞・近衛将監・兵衛尉・諸司助など)に任じられ、その間、滝口、上北面、検非違使、女院蔵人などを兼ねたのではないか。
小太郎さん
小川剛生氏の『卜部兼好伝批判』(熊本大学「国語国文学研究第49号」)を読んでみました。
「個人的には堀川家との新たな接点が出てきてくれれば、という虫のよい期待」という小太郎さんの御期待は残念ながら外れて、「兼好の伝記研究は、吉田家の魔手の及んでいない」正徹物語(74段)の「記述に立ち返り、再び一歩を踏み出さなければならないのである」(127頁)で終わっています。
結論は(結論のみ列挙しても無意味ながら)、以下の五点でした。主眼は、風巻説は兼倶の捏造(否、STAP 細胞は存在します!)にまんまと騙されたものだ、ということになりますか。
--------------------
一、兼好の父とされる卜部兼顕、兄の卜部兼雄、兄の慈遍、すべて血縁者ではなく、室町後期に兼直の弟兼名の子孫として吉田家の家譜に書き込まれたこと。
一、「卜部兼好」と名乗る人物は、鎌倉後期、金沢貞顕の被官として実在していたが、その世系は不明であること。
一、兼好の青年期の経歴とされた、六位蔵人・叙爵・左兵衛佐は、同時代史料では一切確認できず、兼倶以後の吉田家の史料にのみ記載されること。六位蔵人・左兵衛佐の任官慣例から、室町期以前卜部氏出身者がこの官職に就いた可能性はない。
一、以上の虚偽を構えたのは吉田兼倶で、家格の上昇を企て、兼倶が嫡子兼致に、それまで家に例のなかった六位蔵人、ついで左兵衛佐を経歴させるべく、先祖の家系履歴を捏造したこと。以後、吉田家の家譜には兼好が庶流として記述され、その官歴も載せられて、広く信じられ、尊卑分脉も採用したこと。
一、兼好が南朝(後醍醐天皇)の愛顧を受けたと信じられていたこと。これは近世の兼好伝でも同じで、その源流をなすかも知れないこと。
--------------------
では、出家前、兼好はどのような経歴を送ったのか。あくまで推測にすぎないが、以下のようであったかもしれない、とされています。
大臣・公卿に(既に殿上人の待遇を受けていた北条氏一門にも)「諸大夫」ではなく「侍」として仕え、六位に叙され、六位相当官(馬允・式部丞・民部丞・近衛将監・兵衛尉・諸司助など)に任じられ、その間、滝口、上北面、検非違使、女院蔵人などを兼ねたのではないか。