学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「陽気でおしゃべりで気さくな長官」

2016-05-15 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 5月15日(日)10時25分14秒

>筆綾丸さん
最高裁判所裁判官、そして長官を決めるのはもちろん内閣ですが、実際には最高裁の判断を尊重していて、特に長官の場合は前任の長官の意向が大きく働くようですね。
私は今まで藤林益三に何の興味も持っていなかったのですが、著作リストを見て、何でこの程度の著書・論文しかない人が長官になれたのか本当に不思議に思い、大急ぎでいくつか参考になりそうなものを読んでみました。
その中のひとつ、毎日新聞の司法記者だった山本祐司氏(1936生)の『最高裁物語(下巻)』(日本評論社、1994)の「第16章 陽気な長官」には次のような記述があります。(p173以下)

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ショートリリーフ─藤林益三

 変わった風が吹いた。ロッキードの影はますます濃くなり、深刻さを増しているが、国会近くの最高裁では明るい笑い声がはずんだ、陽気でおしゃべりで気さくな長官が誕生したのだ、昭和五十一年五月二五日夕、皇居での親任式を終えたばかりの藤林益三は初の記者会見にのぞんだが、終始にこやかで脱線しがちなそのデビューぶりは、厳粛で言葉少ないこれまでの長官のそれとは大分様子が変わっていた。
 「愛ですよ」と藤林は言った。「愛といっても恋愛じゃないよ。だいたい日本語には愛という言葉が少ない。ギリシャ語には四通りもあるのに。エロスの愛ではなく、アガペー。つまり汝の敵を愛する"愛"じゃがな」
 藤林は気持ちよさそうだが、この時期に藤林をワン・ポイントのショートリリーフに選んだところに最高裁のしたたかさがある。初の弁護士出身の長官で、しかも任期が一年三ヵ月しかないが、そのあとには検察出身の岡原昌男が予定(任期一年七ヵ月)されているところをみると、保守の基盤が揺るぎもしないほど固まって、石田、村上色に染め上げられた最高裁に新風を吹きこんで組織を活性化しようとする意図がうかがえる。
 村上の強い推薦によるものだが、藤林は六年前の石田時代に最高裁判事になっており、壮烈なリベラル派対保守派の戦いを体験して、その時は石田、村上の保守派に属しその後も一貫して変わることがない。
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石田和外(1903-79)は徹底した青法協退治で有名な名物長官で、共産党関係者からは今でも蛇蝎のように嫌われている人ですね。


村上朝一(1906-87)は性格的には石田より温厚な人だったようですが、石田時代の厳しい対立の名残があったので、「陽気でおしゃべりで気さくな」藤林の登場が歓迎された、という事情のようですね。
藤林が関与した事件について若干の紹介をした後、山本記者は次のように続けます。

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「長官になったら大根づくりはできないな」と記者会見の続く藤林は、眼鏡越しに柔和な笑顔をみせた。
「いままでの裁判官公舎ではガラスやガレキの空地があったので、それを開墾して大根なんか食い切れないほどできて、裁判所に持っていって配ったんじゃ。長官公舎には立派な日本庭園もあるが、クワを入れたら叱られるだろうし、それに警護付きじゃ、日曜ごとに主宰している聖書の集まりもできなくなるかな。ま、定年まで一年三ヵ月の辛抱じゃから」─座談のうまさと飾らない人柄は最高裁内部では定評になっている。
─藤林は明治四〇年、京都府の生まれ、"素性もよくわからん山猿"と自ら笑うが、父に三歳で死別、郷里の篤志家の援助で三高─東大を出て弁護士生活。夫人は明治の文豪、巌谷小波の末娘。育ちのよさが、そのまま明るさにつながったような魅力に富んだ人で、クリスチャンの藤林とは似合いのカップルといわれた。藤林は協和銀行、日本興業銀行などの法律顧問をつとめる一方、破産法の権威で、倒産会社の会社更生の達人という評判が高かった。昭和三八年からは東京地方労働委員会の公益委員もつとめたが、藤林の庶民的な肌ざわりは四〇年にも及ぶ在野生活が培ったものといえる。
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藤林の文章は、率直に言ってあまり高度な知性を感じさせず、ここしばらくエマニュエル・トッドの著作をまとめて読んでいた私にとっては通読するのも若干の苦痛を感じるほどでしたが、「ショートリリーフ」とはいえ最高裁長官にまでなった人ですから、もちろん非常に頭は良い訳ですね。
しかし、その頭の良さは極めて実務的な頭の良さで、藤林の文章だけを読んでいても感じ取れない種類のものですね。

>あったとすれば、いわゆる瑕疵の治癒ということか。

津地鎮祭訴訟の場合、地方自治法第242条の2に基づく住民訴訟という特別な制度があるので、市長の出費についての違法性・違憲性を争うことができたのですが、国の行為にはそういう手段がありませんから、問題のある行為があっても誰も争えず、結果的に放置されることになりますね。
これは「瑕疵の治癒」とは違います。

総務省「住民監査請求・住民訴訟制度について」

ちなみに「裁判官藤林益三の追加反対意見」も、実際に矢内原忠雄の文章と読み比べてみたら著作権法上問題があるのは明らかですが、これも矢内原忠雄の遺族が同一性保持権の問題を争うかといったらそんなことは実際上なく、また、他の人は争う法的手段がないので、事実上放置されることになります。
問題の性質は異なりますが、結果的にちょっと似た状況ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

西洋の神と日本の神 2016/05/14(土) 12:36:56
小太郎さん
総理、東大総長と並び、日本国の公務員として最高の俸給を支給されているのに、多忙かどうかはさておき、半年間も心血を注いであの程度のパスティーシュしか書けなかったのか、というのは凄いことですね。
まあ、あいつなら、可もなく不可もなし、というくらいの軽い気持ちで長官に指名した三木内閣もちょっとビックリしたでしょうね。
藤林の追加反対意見は、西洋の神を奉ずる最高裁長官が日本古来の神を奉ずる一市長を高所から諄々と諭したつもりの、良くいえば間狂言、悪く言えば茶番劇、くらいの意味しかないのではあるまいか。
長官が拠って立つ無教会主義キリスト教も、元を辿れば、所詮は中世のドイツ人マルティン・ルターにしか行き着かないのに、なぜああも熱狂的になれるのか、不思議な心性ではあります。甚だ格調の低そうな「地面師の話」と、信仰面において、どう折り合いをつけているのか。


岡田新一設計の威圧的な最高裁判所はどのように建てられたのか、と興味を惹かれました。藤林が憲法違反とした起工式はあったのではないか。あったとすれば、いわゆる瑕疵の治癒ということか。この建物がいまだに健在なのは、ひとえに神道的な起工式の賜なのではあるまいか。起工式なかりせば夙に土崩瓦解していたやもしれぬ、と考えるは思考の訓練くらいにはなります。

付記
・最高裁庁舎新営審議会発足(1965年)
・岡田新一設計事務所設立(1969年)
・藤林の最高裁判事の任期(1970年7月31日-1976年5月25日)
・最高裁新庁舎竣工(1974年3月)
・藤林の裁判長の任期(1976年5月25日-1977年8月25日)
・津地鎮訴訟の最高裁判決(1977年7月13日)
最高裁新庁舎起工式の時期は不明ですが、判事の任期からすると、起工式に立ち会っていたかどうかはともかく、どのような起工式であったのか、ということくらいは知っていた可能性がありますね。
コメント
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