学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)

2016-05-26 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 5月26日(木)11時45分29秒

群馬県には「上毛かるた」というものがあって、群馬県下の小学生は全員、これを丸暗記させられます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%AF%9B%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F

そこで、群馬県出身者に「心の燈台」と呼びかければ、必ずや「内村鑑三」と返ってきます。
これは決して冗談ではありません。
疑う人は身近な群馬出身者で実験してみると良いと思います。
何の躊躇いもなく瞬時に「内村鑑三」と答えられなければ、それはニセ群馬人です。
さて、群馬県出身者にとって内村鑑三が偉い人であることは、「おどるポンポコリン」を聞いて育った「ちびまる子ちゃん」ファンにとってエジソンが偉い人であるのと同様に自明なのですが、しかし、内村鑑三が何故偉い人なのかはそれほど自明ではありません。
また、小学校でも何故内村鑑三が偉い人なのかについて詳しい説明はしていないはずで、そもそもそうした説明ができる教職員は皆無に近いと思います。
まあ、私も何となく内村鑑三は偉い人と思って育ったのですが、キリスト教の歴史に興味を抱くようになってから内村鑑三関係の本を読むと、内村鑑三って結構恐ろしい人だなと考えるようになりました。
本当に内村鑑三を「心の燈台」として生きてしまったら、よほど精神の強靭な人はともかく、普通の人は通常人としての人生を踏み外し、茨の道を歩むことになりかねないんじゃないですかね。
量義治氏の『無教会の展開─塚本虎二・三谷隆正・矢内原忠雄・関根正雄の歴史的考察他』は、私にとって内村鑑三の恐ろしさを改めて思い起こさせてくれる、ある意味キョーフの書でした。
同書から塚本虎二と共に「内村鑑三記念キリスト教講演会」に登壇した藤井武(1888-1930)に関する部分を少し紹介してみます。(p19以下)

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 最後の第七講演者藤井の演題は「近代の戦士内村先生」であった。藤井はこのように語り始めた。「本年三月下旬に、わが東京におきまして数日間うち続いて賑やかなる復興祭が行はれました。かの震災によつて一度び倒れました大なるバビロンは、又しても灰燼の中から華々しく起上つて来たのであります。……全市は三四日の間ぶつ通しに鳴り物と萬歳の叫びとに沸き返つたのであります」。ちょうどそのころ「帝都の片ほとり」の「柏木の里」で、「この騒ぎを余所にして」、「一人の預言者」が世を去った。
 詩人藤井はヨハネ黙示録にある世の終わりにおけるハルマゲドンの戦いの表象をもって師内村の生と死の意義を語り、その講演を次のように結んだ。

 今や遂に彼は斃れました。あゝハルマゲドンの勇将は斃れました。而もバビロンの復興祭の最中に。すなわち彼は敵の本陣から起る凱歌を耳にしながら、その石垣の下に屍を曝したのであります。
 然らば彼の戦は敗北でありましたか。断じて否! 見よ、彼の剱はすでに敵将の胸を貫きました。彼の唱へた徹底十字架本位の福音のまへには、マルクシズムもアメリカニズムも最早や立つことが出来ません。十字架の血に罪の赦しを見出した者にとつて、唯物史観が何ですか。共産社会が何ですか。キリストと共に十字架に釘けられ、彼と共に永遠の国に生れ更つた者にとつて、此世の幸福が何ですか。事業の成功が何ですか。肉の慾、眼の慾の満足が何ですか。十字架の立つ所に社会主義は倒れ享楽主義は亡びざるを得ません。内村先生五十年の奮闘によつて、近代の世界的怪物どもは既に致命傷を負うたのであります。さればこそまさに斃れんとする先生の口から、悲壮なる凱歌が迸り出たのであります、曰く福音萬歳! と。
 先生は斃れました。その戦は勝利でありました。併しながら現代のハルマゲドンの大戦争は未だ終つたのではありません。穢れた霊は致命の傷を受けながらも、今なお活躍を続けてゐます。マルクスは叫びます。アメリカは働きます。学者は囚はれ、青年は迷はされ、教会は堕落します。私どもは起たざるを得ません。私どもも亦真理のために、十字架の義のために、先生の遺しました剱を取上げ、先生の屍を乗り超えて、更に前進を続けなければなりません。我らの戦は是からであります。すなはちこゝに先生の記念会に当つて、私どもはすべての真理の敵に向かつて、新に宣戦を布告します。
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藤井武はこの講演の二か月後、内村鑑三を追うように病死してしまうのですが、それを知ってこの文章を読むと、いささか鬼気迫るものを感じます。

藤井武と矢内原忠雄の夫人は姉妹で、藤井の五人の遺児は矢内原が育てたそうですね。
『矢内原忠雄全集』の月報等をまとめた『矢内原忠雄─信仰・学問・生涯─』(岩波書店、1968)には藤井立氏の「叔父の思い出」、藤井偕子氏の「叔父の面影」というエッセイが載っており、偕子氏は別に「『藤井武全集』再刊のころ」という文章も寄せています。
藤井武に関するウィキペディアの記述は簡単ですが、検索してみたところ、「Report from Kamakura」というサイトに「矢内原忠雄が心血をそそいで編集=藤井武全集」という記事がありました。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/
http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/yanaiha.htm
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演出家・石川健治の仏壇マクベス

2016-05-26 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 5月26日(木)09時15分10秒

>筆綾丸さん
>「I cannot be saved by a worship I disbelieve & abhor」

筆綾丸さんが指摘された"a worship"の点が気になりますが、原文が現代英語から見れば相当クセのある文章なので、予備知識のないまま細かい分析をするとかえって間違いかねないのかもしれないですね。
探せば注釈書(?)もあるでしょうし、シャフツベリーの思想とかも面白そうな感じがしますが、当面はそこまで手を伸ばす余裕がありません。

>石川氏個人の宗教は何なのか

矢内原の文章を「写経」すると表現する方ですから、キリスト教を信仰している訳でもなく、仏教徒でもないんでしょうね。
何となく荘重な雰囲気を醸し出すために「写経」「結界」などの仏教用語を濫発する石川氏を見ていると、蜷川幸雄演出の仏壇マクベスを連想してしまいます。

>「神さまが食わせてくれる」

学生相手の気楽な講演とはいえ、矢内原忠雄の講演録などと比較すると格調の低さは否めませんね。
貧しい出自から這い上がって法曹としての世俗的栄達を極めた藤林は、もちろん実務家としては極めて有能ですが、「知識人」とは言い難い人ですね。
司法界の田中角栄みたいなものでしょうか。
また、藤林の「本当の個人主義」への異様な執着は、「生涯の師と仰いだ塚本虎二先生」が内村鑑三の死後に行った記念講演を連想させます。
内村鑑三は1930年3月28日に死去したのですが、その二か月後、東京・青山会館で行われた「内村鑑三記念キリスト教講演会」で、矢内原忠雄に次いで講壇に立った塚本虎二は「独立人内村先生」との題で次のように述べたそうです。(量義治『無教会の展開─塚本虎二・三谷隆正・矢内原忠雄・関根正雄の歴史的考察他』、新地書房、1989、p12)

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 まことに、先生が教会人に蛇蝎の如く忌み嫌われたのも、要するにこの独立の故であつた。神と人との前に信仰の独立、独立の信仰を保持すること─これが先生の生涯であつた。而してパウロの

キリストは自由を得させん為に我らを釈き放ちたまへり、然れば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がるな

との信仰の自由がまた先生の信仰の自由であつた。而してこの信仰の自由─十字架の信仰のみを以て救はるとの信仰の自由は、凡ての人より、また凡ての物より独立することによりてのみ保たれ得る、といふのが先生の信念であつた。
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この塚本虎二の発言を紹介した後、量(はかり)氏は、

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 「信仰の自由」は「独立」によって「保たれ得る」と言う。それでは「独立」はなにによって「保たれ得る」のであろうか。「信仰の自由」によってであろう。これでは循環ではないか。しかり、循環である。これはなにを意味するのであろうか。神にのみ依り頼む信仰の自由は神以外の一切のものからの独立と相即するのである。両者は同一の事態の二つの異なる局面にすぎないのである。
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と纏めるのですが、これは藤林の信念・良心・信仰の要約にもなっていますね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

神を崇める 2016/05/25(水) 16:08:40
小太郎さん
United States v. Seegerという文脈で読むと、 「I cannot be saved by a worship I disbelieve & abhor」は、abhor が訳されていないものの、「自分の信じていない神を崇拝することによって私が救われようはずがないのである」でよいのでしょうね。

矢内原と藤林の無教会主義キリスト教への石川氏の言説から、では、石川氏個人の宗教は何なのか、と余計なことながらも知りたくもなりますね。

言葉の綾とはいえ、「神さまが食わせてくれる」とはなかなか強烈ですね。なんだ、藤林の信ずる神とは、その程度のものなのか、彼の信仰はあまり大したものではなかったろうな、という感じがします。
中東のダーイッシュ(IS)に飛び込む若者は、どんな神かはともかく、「神さまが食わせてくれる」と本気で信じているかもしれませんね。
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