投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月12日(木)11時29分2秒
『分断社会・日本─なぜ私たちは引き裂かれるのか』のような陰気な本を読んでしまった後の毒消しという訳ではありませんが、ピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』(田中裕介訳、岩波書店、2004)もパラパラ眺めてみました。
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19世紀ウィーンの小説家・劇作家の日記の解読を通して,ブルジョア文化のさまざまな側面を分析.厳格で堅苦しい19世紀という神話化された西欧文化史の通念を大胆な手法で覆し,新しい時代像を描き出す刺激的力作.
■著者からのメッセージ
私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた.歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは,1970年代はじめのことである.その結実が,『ブルジョワの経験 ヴィクトリアからフロイト』(1984―98)の総題のもとにまとめた五巻に及ぶ嵩高い研究であり,セクシュアリティ,愛,攻撃感情,内面生活,中流階級の趣味といった異例な主題に的を絞っている.この主題の選択は私がフロイトの衝撃を受けたことをあからさまに物語っていようが,私は自分の過去への見方を,歴史家共通の土俵である「実在の」世界へと結びつけるように細心の注意を払った.結論とは裏腹に分量はつつましやかなこの書物は,先立つ大作の単なる『リーダーズ・ダイジェスト』風の要約ではない.大量の新しい史料と主題を投入しているうえに,既出のいくつかの主題もさらなる考察に値すると思われたものである.新しい小振りの瓶に詰め直した古いワインというわけではない.私はそれを再考し,相当に深く追究しえたと思うのである.(本書「序」より:圧縮のうえ転載)
https://www.iwanami.co.jp/book/b261537.html
<本書「序」より>とありますが、実際には「序文」なので、ずいぶん細かいところまで「圧縮」していますね。
「序文」冒頭を「圧縮」しないで紹介すると、
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この書物は、あるひとつの階級、すなわち一八一五年から一九一四年までの十九世紀の中流階級の伝記である。私が案内役として用いたのは、アルトゥア・シュニッツラー、その同時代でもっとも興味深いオーストリアの劇作家にして主に中篇と短篇を書いた小説家である。なぜシュニッツラーなのか。彼はおよそブルジョワの典型ではない。財産、才能、表現力─そして鋭敏な神経─の点で彼に劣る、つまり彼よりもよくこの階級を体現する十九世紀生れの人間は無数に存在する。「平均的なブルジョワ」という意味で「ブルジョワを体現する存在」を求める限り、「凡庸」とはまったく縁のないシュニッツラーは、私の目的とは合致しないであろう。しかし、私が研究の過程で気づいたように、かれはその才質によってこの書物で私が記述する中流階級の世界について信用のおける情報をおびただしくもたらす目撃者となっている。彼は以下に続く各章で、時に広範な研究への案内役として、また時に登場人物として現れるだろう。私はこの男がたいへん興味深い(つねに好ましいわけではないが)と思うのだが、それだけのために、私が探求を重ね、理解しようと努めてきた壮大なドラマの一種の進行役に任じたのではない。さらに私には好都合な、より説得力のある理由がある。
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とあり、そもそもシュニッツラーの小説自体を読んだことのない私でも理解できるのだろうかと不安に思って読み始めたところ、本文はシュニッツラーに関する詳細なエピソードに溢れているので、十分に理解可能ですね。
Arthur Schnitzler(1862-1931)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%A9%E3%83%BC
さて、ピーター・ゲイは自身の歴史研究の方法に関して、同じく「序文」で次のように述べています。
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私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた。歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは、一九七〇年代はじめのことである。もちろん十九世紀の中流階級について教えてくれる書物はいくつか存在していたが、この主題は歴史家の大多数の興味を惹いてはおらず、確かに食指が動く主題ではなかった。興味をそそる研究分野は他にあった。女性史、労働者階級の歴史、黒人の歴史、そしてやや羊頭の気味があるが「新しい」文化史と自ら名乗るものである。哲学者が歴史の因果律を世俗に引きずり下ろした十八世紀以降たっぷり二百年以上にわたって、専門の歴史家は不満を募らせる時期を周期的に経験してきた。誰もが了解する歴史研究の領域が狭苦しく思える時期である。
こうした不満の多くが豊かな実りに結びついた、つまりかつては問われなかった問いと抱かれなかった疑問を産み出したのである。しかし同時に事態が泥沼化したのは、とりわけ主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈するようになって以降のことである。彼らは、歴史家の地平を押し拡げるのではなく、これまで長いあいだ多くの歴史家が携わってきた過去をめぐる真実の探求へときわめて不当な疑念を投げかけた。このような騒然とした雰囲気のなかで、私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史─支えられている、のであって、押し潰されている、のではない─が、私には正しい導きの糸に思われたのであり、誰ひとり見向きもしなかった十九世紀のブルジョワが豊かな可能性を秘めた主題であるように思われたのである。私の仕事が修正主義的な性格を帯びようとは、当時気づかず、またその後何年も気づかなかった。私がそうした性格を当初より織り込み済みではなかったことは確かだ。証拠の導きに従って、わが道を進んでいっただけなのである。
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「主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈」云々は辛辣で笑えますね。
ピーター・ゲイは訳書も多く、「私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史」は日本においてもそれなりに好意的に受け止められているのではないかと思いますが、肝心の歴史研究者の世界において、ピーター・ゲイはどのような存在なのですかね。
ピーター・ゲイの方法を正面から受け止め、この方法で歴史叙述を行なっている日本の研究者は誰かいるのでしょうか。
『分断社会・日本─なぜ私たちは引き裂かれるのか』のような陰気な本を読んでしまった後の毒消しという訳ではありませんが、ピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』(田中裕介訳、岩波書店、2004)もパラパラ眺めてみました。
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19世紀ウィーンの小説家・劇作家の日記の解読を通して,ブルジョア文化のさまざまな側面を分析.厳格で堅苦しい19世紀という神話化された西欧文化史の通念を大胆な手法で覆し,新しい時代像を描き出す刺激的力作.
■著者からのメッセージ
私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた.歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは,1970年代はじめのことである.その結実が,『ブルジョワの経験 ヴィクトリアからフロイト』(1984―98)の総題のもとにまとめた五巻に及ぶ嵩高い研究であり,セクシュアリティ,愛,攻撃感情,内面生活,中流階級の趣味といった異例な主題に的を絞っている.この主題の選択は私がフロイトの衝撃を受けたことをあからさまに物語っていようが,私は自分の過去への見方を,歴史家共通の土俵である「実在の」世界へと結びつけるように細心の注意を払った.結論とは裏腹に分量はつつましやかなこの書物は,先立つ大作の単なる『リーダーズ・ダイジェスト』風の要約ではない.大量の新しい史料と主題を投入しているうえに,既出のいくつかの主題もさらなる考察に値すると思われたものである.新しい小振りの瓶に詰め直した古いワインというわけではない.私はそれを再考し,相当に深く追究しえたと思うのである.(本書「序」より:圧縮のうえ転載)
https://www.iwanami.co.jp/book/b261537.html
<本書「序」より>とありますが、実際には「序文」なので、ずいぶん細かいところまで「圧縮」していますね。
「序文」冒頭を「圧縮」しないで紹介すると、
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この書物は、あるひとつの階級、すなわち一八一五年から一九一四年までの十九世紀の中流階級の伝記である。私が案内役として用いたのは、アルトゥア・シュニッツラー、その同時代でもっとも興味深いオーストリアの劇作家にして主に中篇と短篇を書いた小説家である。なぜシュニッツラーなのか。彼はおよそブルジョワの典型ではない。財産、才能、表現力─そして鋭敏な神経─の点で彼に劣る、つまり彼よりもよくこの階級を体現する十九世紀生れの人間は無数に存在する。「平均的なブルジョワ」という意味で「ブルジョワを体現する存在」を求める限り、「凡庸」とはまったく縁のないシュニッツラーは、私の目的とは合致しないであろう。しかし、私が研究の過程で気づいたように、かれはその才質によってこの書物で私が記述する中流階級の世界について信用のおける情報をおびただしくもたらす目撃者となっている。彼は以下に続く各章で、時に広範な研究への案内役として、また時に登場人物として現れるだろう。私はこの男がたいへん興味深い(つねに好ましいわけではないが)と思うのだが、それだけのために、私が探求を重ね、理解しようと努めてきた壮大なドラマの一種の進行役に任じたのではない。さらに私には好都合な、より説得力のある理由がある。
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とあり、そもそもシュニッツラーの小説自体を読んだことのない私でも理解できるのだろうかと不安に思って読み始めたところ、本文はシュニッツラーに関する詳細なエピソードに溢れているので、十分に理解可能ですね。
Arthur Schnitzler(1862-1931)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%A9%E3%83%BC
さて、ピーター・ゲイは自身の歴史研究の方法に関して、同じく「序文」で次のように述べています。
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私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた。歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは、一九七〇年代はじめのことである。もちろん十九世紀の中流階級について教えてくれる書物はいくつか存在していたが、この主題は歴史家の大多数の興味を惹いてはおらず、確かに食指が動く主題ではなかった。興味をそそる研究分野は他にあった。女性史、労働者階級の歴史、黒人の歴史、そしてやや羊頭の気味があるが「新しい」文化史と自ら名乗るものである。哲学者が歴史の因果律を世俗に引きずり下ろした十八世紀以降たっぷり二百年以上にわたって、専門の歴史家は不満を募らせる時期を周期的に経験してきた。誰もが了解する歴史研究の領域が狭苦しく思える時期である。
こうした不満の多くが豊かな実りに結びついた、つまりかつては問われなかった問いと抱かれなかった疑問を産み出したのである。しかし同時に事態が泥沼化したのは、とりわけ主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈するようになって以降のことである。彼らは、歴史家の地平を押し拡げるのではなく、これまで長いあいだ多くの歴史家が携わってきた過去をめぐる真実の探求へときわめて不当な疑念を投げかけた。このような騒然とした雰囲気のなかで、私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史─支えられている、のであって、押し潰されている、のではない─が、私には正しい導きの糸に思われたのであり、誰ひとり見向きもしなかった十九世紀のブルジョワが豊かな可能性を秘めた主題であるように思われたのである。私の仕事が修正主義的な性格を帯びようとは、当時気づかず、またその後何年も気づかなかった。私がそうした性格を当初より織り込み済みではなかったことは確かだ。証拠の導きに従って、わが道を進んでいっただけなのである。
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「主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈」云々は辛辣で笑えますね。
ピーター・ゲイは訳書も多く、「私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史」は日本においてもそれなりに好意的に受け止められているのではないかと思いますが、肝心の歴史研究者の世界において、ピーター・ゲイはどのような存在なのですかね。
ピーター・ゲイの方法を正面から受け止め、この方法で歴史叙述を行なっている日本の研究者は誰かいるのでしょうか。