学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

ピーター・ゲイ『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』

2018-07-12 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月12日(木)11時29分2秒

『分断社会・日本─なぜ私たちは引き裂かれるのか』のような陰気な本を読んでしまった後の毒消しという訳ではありませんが、ピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』(田中裕介訳、岩波書店、2004)もパラパラ眺めてみました。

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19世紀ウィーンの小説家・劇作家の日記の解読を通して,ブルジョア文化のさまざまな側面を分析.厳格で堅苦しい19世紀という神話化された西欧文化史の通念を大胆な手法で覆し,新しい時代像を描き出す刺激的力作.

■著者からのメッセージ

私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた.歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは,1970年代はじめのことである.その結実が,『ブルジョワの経験 ヴィクトリアからフロイト』(1984―98)の総題のもとにまとめた五巻に及ぶ嵩高い研究であり,セクシュアリティ,愛,攻撃感情,内面生活,中流階級の趣味といった異例な主題に的を絞っている.この主題の選択は私がフロイトの衝撃を受けたことをあからさまに物語っていようが,私は自分の過去への見方を,歴史家共通の土俵である「実在の」世界へと結びつけるように細心の注意を払った.結論とは裏腹に分量はつつましやかなこの書物は,先立つ大作の単なる『リーダーズ・ダイジェスト』風の要約ではない.大量の新しい史料と主題を投入しているうえに,既出のいくつかの主題もさらなる考察に値すると思われたものである.新しい小振りの瓶に詰め直した古いワインというわけではない.私はそれを再考し,相当に深く追究しえたと思うのである.(本書「序」より:圧縮のうえ転載)

https://www.iwanami.co.jp/book/b261537.html

<本書「序」より>とありますが、実際には「序文」なので、ずいぶん細かいところまで「圧縮」していますね。
「序文」冒頭を「圧縮」しないで紹介すると、

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 この書物は、あるひとつの階級、すなわち一八一五年から一九一四年までの十九世紀の中流階級の伝記である。私が案内役として用いたのは、アルトゥア・シュニッツラー、その同時代でもっとも興味深いオーストリアの劇作家にして主に中篇と短篇を書いた小説家である。なぜシュニッツラーなのか。彼はおよそブルジョワの典型ではない。財産、才能、表現力─そして鋭敏な神経─の点で彼に劣る、つまり彼よりもよくこの階級を体現する十九世紀生れの人間は無数に存在する。「平均的なブルジョワ」という意味で「ブルジョワを体現する存在」を求める限り、「凡庸」とはまったく縁のないシュニッツラーは、私の目的とは合致しないであろう。しかし、私が研究の過程で気づいたように、かれはその才質によってこの書物で私が記述する中流階級の世界について信用のおける情報をおびただしくもたらす目撃者となっている。彼は以下に続く各章で、時に広範な研究への案内役として、また時に登場人物として現れるだろう。私はこの男がたいへん興味深い(つねに好ましいわけではないが)と思うのだが、それだけのために、私が探求を重ね、理解しようと努めてきた壮大なドラマの一種の進行役に任じたのではない。さらに私には好都合な、より説得力のある理由がある。
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とあり、そもそもシュニッツラーの小説自体を読んだことのない私でも理解できるのだろうかと不安に思って読み始めたところ、本文はシュニッツラーに関する詳細なエピソードに溢れているので、十分に理解可能ですね。

Arthur Schnitzler(1862-1931)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%A9%E3%83%BC

さて、ピーター・ゲイは自身の歴史研究の方法に関して、同じく「序文」で次のように述べています。

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 私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた。歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは、一九七〇年代はじめのことである。もちろん十九世紀の中流階級について教えてくれる書物はいくつか存在していたが、この主題は歴史家の大多数の興味を惹いてはおらず、確かに食指が動く主題ではなかった。興味をそそる研究分野は他にあった。女性史、労働者階級の歴史、黒人の歴史、そしてやや羊頭の気味があるが「新しい」文化史と自ら名乗るものである。哲学者が歴史の因果律を世俗に引きずり下ろした十八世紀以降たっぷり二百年以上にわたって、専門の歴史家は不満を募らせる時期を周期的に経験してきた。誰もが了解する歴史研究の領域が狭苦しく思える時期である。
 こうした不満の多くが豊かな実りに結びついた、つまりかつては問われなかった問いと抱かれなかった疑問を産み出したのである。しかし同時に事態が泥沼化したのは、とりわけ主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈するようになって以降のことである。彼らは、歴史家の地平を押し拡げるのではなく、これまで長いあいだ多くの歴史家が携わってきた過去をめぐる真実の探求へときわめて不当な疑念を投げかけた。このような騒然とした雰囲気のなかで、私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史─支えられている、のであって、押し潰されている、のではない─が、私には正しい導きの糸に思われたのであり、誰ひとり見向きもしなかった十九世紀のブルジョワが豊かな可能性を秘めた主題であるように思われたのである。私の仕事が修正主義的な性格を帯びようとは、当時気づかず、またその後何年も気づかなかった。私がそうした性格を当初より織り込み済みではなかったことは確かだ。証拠の導きに従って、わが道を進んでいっただけなのである。
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「主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈」云々は辛辣で笑えますね。
ピーター・ゲイは訳書も多く、「私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史」は日本においてもそれなりに好意的に受け止められているのではないかと思いますが、肝心の歴史研究者の世界において、ピーター・ゲイはどのような存在なのですかね。
ピーター・ゲイの方法を正面から受け止め、この方法で歴史叙述を行なっている日本の研究者は誰かいるのでしょうか。
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井出英策・松沢裕作編『分断社会・日本―なぜ私たちは引き裂かれるのか』

2018-07-12 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月12日(木)10時20分0秒

私は松沢裕作氏の著書を全然読んだことがなかったのですが、何故か奇妙に懐かしい名前のような感じがしていたところ、昨日、某図書館で演劇関係の本を眺めている時に、俳優の松田優作に似ていることに気づきました。

松田優作(1949-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%84%AA%E4%BD%9C

ま、だから何なのだ、と言われればそれまでなのですが、ふとそんなことを思いついたので、その図書館で松沢氏の著書を検索してみたところ、

『明治地方自治体制の起源─近世社会の危機と制度変容』(東京大学出版会、2009)
『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)
『分断社会・日本―なぜ私たちは引き裂かれるのか』(岩波ブックレット、2016)

の三冊が出てきました。
最初の本は本格的に固い学術書みたいだったのでちょっと手が出ず、二番目の選書メチエをパラパラ眺めてみたところ、「あとがき」によれば、この本は松沢氏が史料編纂所にいたときに、本郷和人氏が講談社の編集者を紹介してくれたので出せたそうですね。
また、最後の岩波ブックレットは井出英策氏(慶応大学経済学部教授)と松沢氏の共編で、『世界』の特集記事をまとめたものでした。

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 いまや、メディアを覆い尽くすのは、自分よりも弱いものを叩きのめす「袋叩きの政治」であり、強者への嫉妬、「ルサンチマン」である。そして、社会的な価値の共有の難しさが連帯の危機を生み、地方誘導型の利益分配も機能不全に陥るなか、不可避的に強められるしかない租税抵抗が、財政危機からの脱出を難しくしている。「獣の世」としての明治社会は、まさに今日の「分断社会の原風景」だったのである。
 近代化が進められたプロセスにあって、わたしたちは、既存の秩序が綻ほころびを見せるたびに、繰り返しこの原風景へと立ち返ってきた。世界史的な人口縮減期に入り、持続的な経済成長が前提とできない時代、いわば近代自体が終焉へと向かう時代がわたしたちの目の前に広がっている。
 わたしたちは、新しい秩序や価値を創造し、痛みや喜びを共有することを促すような仕組みを作り出すことができるだろうか。あるいは、経済的失敗が道徳的失敗と直結する社会を維持し、叶かなわぬ成長を追いもとめては、失敗者を断罪する社会をふたたび強化するのだろうか。明治維新から約一五〇年。これからの一五〇年のあり方がいま問われている。

https://www.iwanami.co.jp/book/b243803.html

この本は、

Ⅰ 分断社会の原風景─「獣の世」としての日本
Ⅱ 分断線の諸相
Ⅲ 想像力を取り戻すための再定義を

の三部構成になっていて、Ⅰ・Ⅲは井出氏と松沢氏の共同執筆、Ⅱは禿あや美(跡見学園女子大学マネジメント学部准教授)、祐成保志(東京大学文学部准教授)、吉田徹(北海道大学法学研究科教授)、古賀光生(中央大学法学部准教授)、津田大介(ジャーナリスト)の諸氏が執筆しています。
「獣の世」は大本教の出口なおの、

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外国は獣類の世、強いもの勝ちの悪魔ばかりの国であるぞを。日本も獣の世になりて居るぞよ……是では国は立ちて行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。
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という不気味な予言に出てくる表現です。(p3)
まあ、パラパラ眺めただけですが、私の関心とはあまり重ならないテーマの生真面目で陰鬱な文章が続いて、ちょっとしんどかったですね。
「Ⅲ 想像力を取り戻すための再定義を」には、

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 今回、私たちは、解決のための処方箋ではなく、問題の所在を明らかにすることを目的とした。おそらくは、いまの日本社会で頻繁に目に留まる議論、耳にする主張が、どのように私たちの社会の分断を強めているかを確認できたと思う。
 分断が問題なのは、社会のいたるところに境界線が引かれ、他者に対する想像力が次第にうしなわれていくことで、私たちは「日本社会」の一員であること、「日本国民」の一員であることの実感をなくしてしまう、ということである。それは、肯定するにせよ、批判するにせよ、私たちが無意識のうちに前提としてきた社会や国民という概念そのものに疑問を投げかけるものである。
 だが、それだけではなく、その時どきの支配者は、社会の凝集力を維持するために、もっともらしい装いをした偏ったイデオロギーでもって、なかば「一君万民」的に人びとを理念で結合し、社会や国民を力ずくで「建設」しようとするかもしれない。各層への分解と国家的・理念的結合、それが全体主義の時代を生むメカニズムである。
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とあり(p84以下)、「その時どきの支配者は」以下は随分古風な感じがするので、これを書いている井出英策氏が1972年生まれ、松沢裕作氏が1976年生まれと私よりかなり若い世代であることを考えると、ちょっとびっくりです。
私が高校・大学生のころの岩波新書などには、こんな雰囲気の本がけっこうあったような感じがするのですが、その後、山口昌男らの『へるめす』を契機に岩波の雰囲気も相当変わった後、再び時代が一回りしたのかな、とも思います。
ま、私も『世界』などを時々読んでいたのは殆どラベンダーの香りが漂ってくるほどの昔のことで、岩波の動向に詳しい訳ではないのですが、何だか妙な気分ですね。

井手英策(1972-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%89%8B%E8%8B%B1%E7%AD%96
松澤裕作(1976-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%BE%A4%E8%A3%95%E4%BD%9C
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