学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「取り上げるに値するかどうかは、読者に考えてもらいたい」(by なだいなだ)

2018-07-30 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月30日(月)11時31分16秒

>筆綾丸さん
>「治療的なコミュニティ」

著者は「まえがき」において、

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 あらゆる宗教の勉強をして、それを比較検討するような宗教論ではない。そういうものは宗教学者に譲る。
 その代わり、ぼくは<信じる者の側>から論じることにした。

 これから書くことは、考えとしては未熟かもしれない。宗教学者から見れば、あやまりと思われる点も多いだろう。歴史的な事実関係の検討も不十分だろう。だが、これはあくまでも一つの見方である。取り上げるに値するかどうかは、読者に考えてもらいたい。

 どうしてあの能力ある医者が、オウムのような新新宗教に入ったのか。あの優秀な科学者が、なぜ教祖のいいなりになってしまったのか。どうも理解できないという人は多いだろう。
 ぼくにとって考えるヒントとなったのは、事件後、ようやく教団から離脱できた彼らの状態が、急性の精神病から回復したときの状態と、非常に似ていたことである。これはオウムという宗教の問題であるよりは、あの医者や、科学者の精神状態の問題だ。ぼくはそう考えるようになった。
 戦中派のぼくは、戦争中の日本の狂気と、オウムの狂気とを、同じ視野の中に見ることができた。二つは同心円を描いていた。一つの円には、ぼく自身が入っていた。戦争の最中、そして敗戦のその時、思い出せば狂っていたなと思う。オウムのかかっていた病気は、戦争の最中、日本のかかっていた病気そっくりだった。日本は、戦争中、オウム同様の宗教的狂気の中にあったし、集団的神がかりの状態にあった。ぼくはそう診断した。
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と書いています。
また、最終章でも、

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T「話を変えてすまんが、オウムに入っていた、おれたちの大学の後輩な」
B「例の医者Hかね」
T「そう、あの男だ。あいつも、オウムにいたとき、かつてのファシズム時代のおれたちと、似たような状態ではなかったかと思うよ」
B「規模の違いはあるがね。ファシズムについていったものも、オウムについていったものも、気持ちの上では似ているか」
T「オウムとファシズムは同心円を描いている」
B「そう、それだ。同心円。現代にはオウムの他にも無数の同心円があるということだね。その中にはファシズムのようなイデオロギーもあった」
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とあり(p203以下)、著者は慶応大学医学部の後輩である林郁夫を非常に意識していますね。
オウムその他の宗教団体に患者を奪われたような事例もいくつか挙げており、そうした経験が「治療的コミュニティ」といった発想のきっかけのようです。

林郁夫(1947生)

ま、そうした著者の事情は理解できないでもないのですが、著者自身が認めているように、著者には宗教学と歴史学の素養があまりに不足していますね。
そのため、結局は精神分析の職人による「あくまでも一つの見方」であって、宗教学・歴史学にとっては「取り上げるに値する」学問的水準には達していないようですね。
ファシズムとオウムが同じようなものだ、「同心円」だ、という見解は、著者以外にもある程度支持を得ているのかもしれませんが、重要なのはむしろその差異であり、あれも狂気、これも狂気という著者には、そうした差異を分析する繊細さが感じられません。
「戦中派」の経験も、むしろ繊細な分析を妨げる方向に役立っているようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2018/07/30(月) 07:44:35
小太郎さん
Nada y nada の著書は未読ですが、「集団の精神療法」とか「治療的なコミュニティ」とかの、気持ち悪い表現を見ると、某教団のマインド・コントロールを思い出しますね。

数日前に読んだ池井戸潤『民王』に、「泣いて馬刺しを切る」というパロディがあって、思わず吹き出してしまいました。

コメント
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