学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「宗教はそういう日常にひそむ狂気だからだよ」(by T)

2018-07-28 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月28日(土)23時17分30秒

>筆綾丸さん
>清水克行氏
今はちょっと頭を中世モードに切り替えられないので、ご紹介の『戦国大名と分国法』を読むのは暫く先になりそうです。

近所の図書館でなだいなだの『TN君の伝記』(福音館書店、1976)を借りました。
「児童書」に分類されていたので何が出てくるのだろうと不安に思ったのですが、381頁もの分量があるしっかりした本で、中学生でも読みこなすのは大変そうです。
松沢裕作氏が小学生のときに読んだというのは驚きですね。
ただ、中江兆民についてある程度の知識を持つ大人が読むには中途半端な本で、しばらく我慢して眺めてみたものの、通読はできませんでした。
また、タイトルに惹かれて同じ著者の『神、この人間的なもの─宗教をめぐる精神科医の対話─』(岩波新書、2002)も借り、こちらは一応最後まで読んでみました。

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大学時代の友人で精神科医となった2人が「人生を生きてきた末」に,かつて交わした議論を再開する.神は本当にいるのか? そして,現代を新しい形の宗教に呪縛された時代と見ながら,教義や信仰のあり方からではなく,「信じる」ことを求めてしまう人間の方から,宗教に光を当てる.信仰,精神医療から社会,歴史まで示唆に富む対話篇.


ネットでは好意的な書評をしている人が多いようですね。


著者が精神科医として経験した具体的エピソードには興味深いものもあったのですが、全体的には言葉の用い方が乱暴で、「独自研究」の色彩が強いですね。
例えば次のようなやりとりがあります。(p183以下)

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 ぼくはTに言った。
B「でも、なんでも宗教と考えるのは何のためだね。【中略】ところが、おまえは新宗教も新新宗教も当然宗教だと考えるし、それどころかイデオロギーも、国家も、会社も、職業も、みな宗教だといおうとしている。そうだろう」
T「そうだ。民族主義も宗教だし、社会主義も宗教だと考えているよ」
B「なぜ。そう考えるのだね」
T「宗教はそういう日常にひそむ狂気だからだよ」
B「日常的な狂気?」
T「そう、おれたちはその集団に属することで狂気に入ったり出たりしている。人間の歴史を振り返ると、破壊も創造も、みなその狂気が絡んでいる。だから、狂気をどう処遇するかが現代の重要な問題点だ」
B「狂気の処遇かい」
T「人間の歴史は、狂気と正気の戦いでも、正気と正気の戦いでもなく、狂気と狂気の戦いだ。集団の狂気ほど強い正気意識を持つものはない。それが宗教だ。その正気意識が狂暴な攻撃性を他の集団に向ける。だから平和主義者を始祖に持つ宗教同士が戦い合った。民主主義も社会主義も宗教だといったのは、そういうことで、自分たちの中にある宗教的狂気の危険を自覚させたいと思ったからだよ。おれたちは、隣り合う民族主義という宗教が、いかに狂暴に戦い合うかも見てきたろう」
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ここだけ引用するとずいぶん奇妙な議論ですが、まあ、最初の方からそれなりの段階を踏んでここまで持ってきているので、全然理解できない訳でもありません。
しかし、友人Tが最後に言い出したことは難解ですね。(p212以下)

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T「貧しくて弱い人間は、抑圧され、こころに傷を持つ。不満と不幸と不安と悲惨を重ね持つ。宗教に代わり、かれらを病人としてひき受けるものとして登場したのが、精神科医だ。その精神科医が、その人たちに対して、現代の医療のシステムにとらわれて、分別を守って、心理学で得た治療技術を、金で切り売りするだけにとどまっている。それでいいのかね」
B「そうだな。かれらがファシズムという宗教に走るのをじっと見ているだけでいいか」
T「イエスも、ムハンマドも、ブッダも、その不幸な大多数の人間の救済を考えた。そして人間に寛容と慈悲と愛という人格的な理想像を掲げて、集団の精神療法をしようとしていた。かれらの後継者たちには裏切られるが。おれたちは個々の病気の治療だけにとどまっていないで、心理学をあえて人間社会の理想を説く新新宗教にする必要があるとは思わないか。診療室を出て、治療的なコミュニティを作る形で」
 ぼくはしげしげとTの顔を見た。
B「おい、それがいいたくて、おれに会いにきたのか」
 ぼくがいうと、
T「結局そういうことになるかな。まだ、だれにも相手にされない。相手にされる前に、ボケ老人のたわごとといわれてしまう公算は大だ。その前に、おまえにだけは話しておきたかったのさ」
B「治療的コミュニティ? まさか、新宗教を作るつもりではあるまいな」
T「安心しろ。そういう意味ではない。精神科医が自分の周囲のコミュニティに積極的にかかわれということさ。反対をとなえるだけでなく、患者をとられたなどと嘆いていないで、新宗教の方に流れるものたちの、ほんとうに必要なものは何かを診察室の外でとらえろということさ」
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友人Bの見解という形を取りつつ、どうやらこのあたりが著者の思想の到達点らしいのですが、素直に読めば「ボケ老人のたわごと」どころか「狂気」に分類されてしまいかねない話ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

分国法というレクイエム 2018/07/26(木) 17:39:22
https://www.iwanami.co.jp/book/b371359.html
http://jinkaishu.webcrow.jp/translation/024.html
清水克行氏『戦国大名と分国法』を半分程、読みました。
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文中に出てくる「むて人」とは、「塵芥集」によく出てくる独特の言葉で「愚か者」といった意味である。原則的には敵討ちは禁止だが、すでに伊達家から処罰(この場合は追放刑だろう)をうけた加害者が、その処罰に従わず、再び領内に舞い戻ってきた場合は、「むて人」が仇を討つために襲いかかっても一向に構わない、というのだ。最初に原則的に敵討ちは禁止と述べているし、それでも敵討ちを強行する者のことを「むて人」と呼んでいるところから、稙宗が敵討ちを不当な行為であると位置づけていたことは明らかだろう。ところが、いったん処罰をうけた加害者が伊達家の処罰を無視するような行為に出た場合は、そのときに限って被害者遺族による復讐を認可する、というのが、この条文の後半の主旨なのである。復讐は基本的には認めないが、もし伊達家の処罰に従わないようなヤツなら、もう知らないから、そんなヤツは煮るなり焼くなり、どうぞご自由に、というわけである。(52頁~)
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『塵芥集』第24条に関して、氏は以上にように説明しますが、「むて人」を「愚か者」と解釈したのでは、意味が通らない。ここは、(伊達家による処罰という)事情を知らない人(被害者の親あるいは子)、つまり、「むて」は「無手」で、状況を知る手立てがない、というような意味ではあるまいか。猪突猛進の愚か者ということではあるまい。

読了しました。
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 分国法を定めた大名たちも、個々には滅亡の憂き目をみたが、社会と切り結び、民間の法慣習に公的な位置を与えるという彼らの志向性は、最終的には、その後の近世社会に継承されていくことになる。近世に入ると、各大名家では藩法と呼ばれる領国法を定めるようにゆくが、そこでは分国法の理念がより純度を高めて継承されている。また、彼らを討ち滅ぼした大名たちも、当然ながら対外膨張政策を推し進めるだけでは、早晩、その支配に行き詰まりを見せることになる。やがて彼らも、既存の法慣習と自分たちの支配とのあいだに折り合いをつける模索をはじめることになる。(205頁)
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分国法を持たぬ大名が戦国時代の覇者になったが、分国法の理念だけはしぶとく生き延びて最終的には覇者を支配した、ということは、そんな迂遠なものを有したが故に滅んでいった大名たちへの、なんというか、有難いような情けないような、鎮魂歌にはなりえますね。
分国法を抱いて滅んだ亡者たちよ、君たちは、歴史に偉大な足跡を残したのだ、だから RIP(requiescant in pace)、と。
コメント
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