投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 7月14日(土)11時39分49秒
昨日は『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)の「むすび」について非常に否定的に書いてしまいましたが、松沢氏が一昔前の西川長夫氏あたりを中心とする国民国家批判を冷静に評価している点は良いですね。
そもそも西川長夫説はどのようなものかというと、
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フランス史家の西川長夫氏は、この木畑氏の定義をうけて、国民国家は以下の五つの特徴を備えているという。
第一に、国民国家は国民主権と国家主権によって特徴づけられること。
第二に、国民国家には国家統合のためのさまざまな装置(議会、政府、軍隊、警察、等々といった支配・抑圧装置、家族、学校、ジャーナリズム、宗教、等々といったイデオロギー装置)、国民統合のための強力なイデオロギー装置を必要とすること。
第三に、国民国家は、他の国民国家との関連において存在するのであって、単独では存在しえないこと。
第四に、国民国家による解放は抑圧を、平等は格差を、統合は排除を、普遍的な原理(文明)は個別的な主張(文化)を伴うというように、国民国家は本来矛盾的な存在であること。
第五に、国民国家を形作るさまざまな要素は、他の国民国家から取り入れ可能であり、別の国民国家に移植可能な、「モジュール」としての性格を持っていること。たとえば明治の日本が、分野に応じて、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカといった諸外国をモデルとして、それぞれのシステムを輸入することが可能だったのは、こうしたモジュール性ゆえである。
こうした国民国家の特徴に注目する歴史研究は、日本では一九九〇年代に盛んにおこなわれた。とくに注目されたのは、西川氏の指摘する第二の特徴、国民国家の統合装置とイデオロギーの研究である。現在の人々は、つい、「日本」や「フランス」といったひとつのまとまりが、遠い昔から存在していたように考えがちであるが、それは近代国民国家が創り出した幻想である。人びとは、教育やメディアを通じてそのような意識を身につけさせられるのである。そのような意識を持つことによって、ナショナリズムというイデオロギーに人びとは熱狂し、ついにはそのために命を投げ出し、戦争にまで駆り立てられてゆく。研究者たちはそのように論じた。
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といった内容です。(p194以下)
松沢氏は、
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これらの研究は、国民国家の存在を自明視していた人びとに対して、それが人工物、それも近代になってから作り出された人工物なのであって、太古の昔から存在していたわけではない、ということを暴露した点において大きな意義を持つものであった。
しかし、それだけでは、本書の視角からすれば不十分である。国民国家は、単独で存在しているのではなく、国民国家を同心円のひとつとする、複数の同心円によって成り立つ世界の秩序に支えられて存在しているからだ。
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とした上で、ホブズボームに着目します。
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この点で興味深いのは、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームのナショナリズム論である。ホブズボームによれば、一九世紀のヨーロッパにおいて、ある集団が、国民国家を形成しうる「ネイション」であるかどうかという点について、人口や面積に「閾値」があると考えられていた。国民国家を形成しうるのはすべてのエスニックな集団ではなく、その集団がある一定の規模を持っていることが必要だった。したがって、ネイションの形成とは、より大きな国家から小さな国家が「独立」していく過程ではなく、逆に、いくつもの小さな集団がひとつの「ネイション」という大きな集団にまとまってゆく過程であり、つまり国民国家の形成とは、世界を分割する単位の拡大の過程であると考えられていた。そして、いつかは全世界の統一に帰着すべき単位の拡大の次善の策として複数の国民国家からなる世界が存在する、とされていたのである。ホブズボームはこれを「自由主義ナショナリズムの古典的時代」と呼び、二〇世紀のナショナリズムと区別する。
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ということで(p196以下)、いわれてみれば当たり前の「コロンブスの卵」ですが、国民国家批判の狂騒期には、こうした視座を確保するのもけっこう難しいことでしたね。
さて、松沢氏は、
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ホブズボームのナショナリズム論の教えることは、本来、国民国家の人工性は自明視されていたのであって、人びとはそれを知らずに国民国家のイデオロギーに熱狂していたわけではない、ということである。
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と纏めた後で、独自の「同心円」理論を展開するのですが、ここは私には理解しにくいので紹介も難しく、興味を持たれた方は松沢著を確認していただきたいと思います。
私には、
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問題は、そうした、便宜的単位にすぎず、ごく散文的で事務処理的なつまらない国民国家から、人がそれに命がけになってしまうような、あるいは人の命を奪ってしまうようななにか、つまり「境界的暴力」が生まれてしまうことだ。
虚偽のイデオロギーとしてのナショナリズムを指弾するだけではじゅうぶんではないのだ。ナショナリズムの虚偽性を暴いたとしても、ナショナリズムを支える秩序の本体を撃ちぬいたことにはならない。本来はごく散文的でつまらない、切実性を持たないはずの国民国家が、人びとに対して暴力をふるうのはなぜなのか。
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といった松沢氏の問いかけの仕方が(p198)、国民国家を論ずるにしてはずいぶん無邪気で、「笑顔を輝かす少年のよう」だなあという感じがします。
西川長夫(1934-2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E9%95%B7%E5%A4%AB
Eric Hobsbawm(1917-2012)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Hobsbawm
昨日は『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)の「むすび」について非常に否定的に書いてしまいましたが、松沢氏が一昔前の西川長夫氏あたりを中心とする国民国家批判を冷静に評価している点は良いですね。
そもそも西川長夫説はどのようなものかというと、
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フランス史家の西川長夫氏は、この木畑氏の定義をうけて、国民国家は以下の五つの特徴を備えているという。
第一に、国民国家は国民主権と国家主権によって特徴づけられること。
第二に、国民国家には国家統合のためのさまざまな装置(議会、政府、軍隊、警察、等々といった支配・抑圧装置、家族、学校、ジャーナリズム、宗教、等々といったイデオロギー装置)、国民統合のための強力なイデオロギー装置を必要とすること。
第三に、国民国家は、他の国民国家との関連において存在するのであって、単独では存在しえないこと。
第四に、国民国家による解放は抑圧を、平等は格差を、統合は排除を、普遍的な原理(文明)は個別的な主張(文化)を伴うというように、国民国家は本来矛盾的な存在であること。
第五に、国民国家を形作るさまざまな要素は、他の国民国家から取り入れ可能であり、別の国民国家に移植可能な、「モジュール」としての性格を持っていること。たとえば明治の日本が、分野に応じて、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカといった諸外国をモデルとして、それぞれのシステムを輸入することが可能だったのは、こうしたモジュール性ゆえである。
こうした国民国家の特徴に注目する歴史研究は、日本では一九九〇年代に盛んにおこなわれた。とくに注目されたのは、西川氏の指摘する第二の特徴、国民国家の統合装置とイデオロギーの研究である。現在の人々は、つい、「日本」や「フランス」といったひとつのまとまりが、遠い昔から存在していたように考えがちであるが、それは近代国民国家が創り出した幻想である。人びとは、教育やメディアを通じてそのような意識を身につけさせられるのである。そのような意識を持つことによって、ナショナリズムというイデオロギーに人びとは熱狂し、ついにはそのために命を投げ出し、戦争にまで駆り立てられてゆく。研究者たちはそのように論じた。
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といった内容です。(p194以下)
松沢氏は、
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これらの研究は、国民国家の存在を自明視していた人びとに対して、それが人工物、それも近代になってから作り出された人工物なのであって、太古の昔から存在していたわけではない、ということを暴露した点において大きな意義を持つものであった。
しかし、それだけでは、本書の視角からすれば不十分である。国民国家は、単独で存在しているのではなく、国民国家を同心円のひとつとする、複数の同心円によって成り立つ世界の秩序に支えられて存在しているからだ。
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とした上で、ホブズボームに着目します。
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この点で興味深いのは、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームのナショナリズム論である。ホブズボームによれば、一九世紀のヨーロッパにおいて、ある集団が、国民国家を形成しうる「ネイション」であるかどうかという点について、人口や面積に「閾値」があると考えられていた。国民国家を形成しうるのはすべてのエスニックな集団ではなく、その集団がある一定の規模を持っていることが必要だった。したがって、ネイションの形成とは、より大きな国家から小さな国家が「独立」していく過程ではなく、逆に、いくつもの小さな集団がひとつの「ネイション」という大きな集団にまとまってゆく過程であり、つまり国民国家の形成とは、世界を分割する単位の拡大の過程であると考えられていた。そして、いつかは全世界の統一に帰着すべき単位の拡大の次善の策として複数の国民国家からなる世界が存在する、とされていたのである。ホブズボームはこれを「自由主義ナショナリズムの古典的時代」と呼び、二〇世紀のナショナリズムと区別する。
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ということで(p196以下)、いわれてみれば当たり前の「コロンブスの卵」ですが、国民国家批判の狂騒期には、こうした視座を確保するのもけっこう難しいことでしたね。
さて、松沢氏は、
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ホブズボームのナショナリズム論の教えることは、本来、国民国家の人工性は自明視されていたのであって、人びとはそれを知らずに国民国家のイデオロギーに熱狂していたわけではない、ということである。
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と纏めた後で、独自の「同心円」理論を展開するのですが、ここは私には理解しにくいので紹介も難しく、興味を持たれた方は松沢著を確認していただきたいと思います。
私には、
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問題は、そうした、便宜的単位にすぎず、ごく散文的で事務処理的なつまらない国民国家から、人がそれに命がけになってしまうような、あるいは人の命を奪ってしまうようななにか、つまり「境界的暴力」が生まれてしまうことだ。
虚偽のイデオロギーとしてのナショナリズムを指弾するだけではじゅうぶんではないのだ。ナショナリズムの虚偽性を暴いたとしても、ナショナリズムを支える秩序の本体を撃ちぬいたことにはならない。本来はごく散文的でつまらない、切実性を持たないはずの国民国家が、人びとに対して暴力をふるうのはなぜなのか。
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といった松沢氏の問いかけの仕方が(p198)、国民国家を論ずるにしてはずいぶん無邪気で、「笑顔を輝かす少年のよう」だなあという感じがします。
西川長夫(1934-2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E9%95%B7%E5%A4%AB
Eric Hobsbawm(1917-2012)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Hobsbawm