学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

長縄光男『ニコライ堂遺聞』(その2)

2020-01-02 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 2日(木)20時20分56秒

続きです。(p8以下)
マトリョーシカは小田原発祥なりしか、というテーマにも心惹かれますが、これは後日の課題として、正教徒の信者数の問題に移ります。

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信者の数に関していえば、明治の中頃、キリスト教徒全体、約一三万人のうち正教会は約二〇数%にあたる約三万人の信徒を擁していた。この頃カトリック教会は約六万人、プロテスタント各派は合わせて約四万人であったことを思うと、正教会が擁していた信徒三万という数には並々ならぬ意味があったといわねばならないだろう。
 しかるに、今日カトリックの信徒は四〇万と言われ、プロテスタントは六〇万といわれている中で、正教会は何と数千、多く見積もっても一万人の信徒を擁するに過ぎない弱小教団になってしまった。これは一体どうしてなのか、この原因を考えるのがこの序論の趣旨である。
 一般に次のように考えられている。つまり、ニコライの生前には正教会は隆盛を誇っていたが、一九一七年のロシア革命によって財政的な基盤を失い、一九二三年の関東大震災によって布教活動の根拠を失い、さらに第二次世界大戦によって追い打ちをかけられ、また、戦後は米ソの冷戦の狭間にあってソ連の正教会とアメリカの正教会の板挟みにあって教勢は振るわなかったのだ、という理解である。私はこうした理解の仕方を否定するものではない。しかし、私にはこうした理解の仕方には不十分な側面があるようにも思われる。つまり、私は教会の衰退の原因はむしろ明治時代そのもの、近代日本そのものの中にこそあったのではないかと考えているのである。言い換えれば、日本の正教会は、たとえ革命や震災がなくとも、早晩衰退を余儀なくされていたのではないかと考えているのである(もちろん、今日のような規模での衰退ではないにしても)。
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このように「教会の衰退の原因はむしろ明治時代そのもの、近代日本そのものの中にこそあったのではないかと考え」る長縄氏は三つの原因を挙げます。
ただ、「第一に考えられる原因は明治期の日本が、特に中期以降は、ナショナリズムを主たる潮流とする時代であったということ」(p9)については、長縄氏が自ら認めるように「明治期のキリスト教が共通に持っていたマイナス要因」なので、理由付けとしては弱いですね。
ついで長縄氏の挙げる第二の原因は「ロシアという刻印」(p9)です。
即ち、ロシアは「日本の国民一般に対して西欧諸国とは一種特別の印象を与えて」おり、「平均的な日本人がロシアに対して抱いていた感情」として脅威感・憎悪感・侮蔑感があったとされ、それぞれについて縷々説明されます。
まあ、これは確かにロシア正教の布教を妨げる要因ですね。
そして三番目として、長縄氏は次のように述べます。(p13以下)

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 最後に私は正教会が担っていたマイナス要因として、一つの仮説を掲げたいと思う。それは正教そのものがもつ保守的な性格、反宗教改革(アンチ・リフォメーション)的な性格である。
 周知のように、プロテスタントは腐敗したカトリックの僧侶たちによって聖書解釈の正統性が独占されていることに異を唱え、自分たちの良心に照らして聖書を理解しようとしたが、その結果、彼らは自分たちの信仰の正しさを自分たち一人ひとりの良心によって証明するという、厳しい倫理的な要請を引き受けることになった。そして、ウェーバーが教えているように、こうした厳しい倫理的な要請こそが西欧人に自我の確立を促し、その主知主義の精神、合理主義の精神を鍛え、ひいては近代諸科学の振興をもたらし、そしてついには資本主義の成立を結果することになったのである。これに対して正教は、みずから「オーソドックス(正統派)」と名乗ることからも知られるように、一貫して教父時代以来の聖書理解を堅持してきた。それというのも正教には個人の英知よりも歴史の試練に堪えた伝来の衆知を尊ぶという、人間個人の知性の限界にたいする独自の考察が根底にあるからである。そのような正教からすれば、聖書理解の正当性を信仰者個人の良心に委ねるというプロテスタンチズムの行き方など、到底容認しうるところではなかったのである。
 近代合理主義がいたる所でその弊害を露呈しつつある今日、正教的な人間理解には学ぶべきものが多くあるとは思うが、しかし、近代の幕開けの時代において正教が近代化を促進するエートスとなりえなかったことは明らかであろう。しかるに明治時代の日本が目指していたのは正に西欧的な意味での「近代化」であった。つまり正教会は近代日本のめざす方向と、根本的にそぐわなかったということができるだろう。
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うーむ。
ここまで教科書的なウェーバー理解は、最近では些か珍しいような感じもしないではありませんが、それはひとまず措くとしても、この第三の要因についての長縄氏の「仮説」は、私にはずいぶん無理が多いように感じられます。
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長縄光男『ニコライ堂遺聞』(その1)

2020-01-02 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月 2日(木)13時32分2秒

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(葦書房、1998)の最後の方に中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)が引用されているのを見て、私もニコライ関係の本を少しずつ読むようになったのですが、ニコライは無限に興味深い存在ですね。

渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5

あまり中村健之介氏だけに頼るのもどうかと思って、年末に横浜国大名誉教授・長縄光男氏の『ニコライ堂の人びと─近代日本史のなかのロシア正教会』(現代企画室、1989)を読み、更に昨日から『ニコライ堂遺聞』(成文社、2007)を読み始めましたが、これも興味深い内容です。

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明治という新しい時代の息吹を胸に、その時代の形成に何ほどかの寄与をなさんとした人々。祖国を離れ新生日本の誕生に己の人生をかけたロシア人たちと、その姿に胸打たれ後を追った日本人たち。ニコライ堂に集った人々の栄光、挫折、そして再生が描かれる。

http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-915730-57-3.htm
書評 『異郷』24号(清水俊行氏)
http://www.seibunsha.net/review/57i.pdf

基本的な事実関係の確認を兼ねて、『ニコライ堂遺聞』の「序論1 明治の正教会」から少し引用してみます。(p7以下)

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 わが国で「キリスト教」といえば多くの場合カトリックとプロテスタントの諸派だけを指し、「ハリストス正教会」というもう一つのキリスト教会があることを知っている人は、さほど多くはないように見受けられる。だが、この教団は今でこそ往年の勢威を失ってはしまったが、明治時代にあっては並々ならぬ力量をもったキリスト教徒の一大集団だったのである。この教会が奉じているキリスト教は、ビザンツ(東ローマ)帝国の国教であった東方正教、後にロシアに根拠を移してロシア正教と呼ばれるようになったキリスト教で、教団名にある「ハリストス」というのは「キリスト」をロシア語読みで表記したものである。
 周知のように、キリスト教の各派は明治期の日本の近代化に大きな寄与をなした。ヨーロッパの文物はキリスト教を一つの、しかも重要な窓口として日本に流入してきたといってもよいだろう。例えば、カトリック教会を通じてフランスの文物が、聖公会を通じてイギリスやアメリカの文物が、プロテスタント各派を通じてアメリカやドイツなど新教各派の国ぐにの文物が、という具合である。これと同じことがロシアについても言える。
 明治において正教会を通じて日本にもたらされたものは、決して教義だけではなかった。ロシアの文学や思想についても、正教会の信徒たちの働きによって紹介された分野が少なくはない。さらに付け加えれば、いまだ研究されずに残されたままではあるが、おそらく民衆の日常生活にかかわる様々なもの、例えば「サモワール」〔湯沸かし器〕とか「クワス」〔清涼飲料水〕とか「ウォッカ」〔「火酒」とも訳される度の強い蒸留酒〕とか、その種の生活文化も、正教会を介して日本に入ってきたのではないだろうか。もちろんその逆のケースもあった。その一つにトルストイに老荘の思想を伝えたキエフ神学大学出の正教徒、小西増太郎の例がある。また、今日ロシア土産として有名な「マトリョーシカ」は小田原の入れ子人形「七福神」を元にしたものだというのが通説であるが、これをロシアにもたらしたのは正教会の関係者ではないかと推測されているのも、このケースの一つに数えることができるだろう。確かに明治時代の正教会はそうした多角的な働きをすることができるだけの力量を持っていたのである。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
マトリョーシカの起源が小田原の入れ子人形「七福神」だとの「通説」、私は初めて聞きましたが、本当なのでしょうか。
ウィキペディアを見たら、確かにそれなりの典拠に基づいていそうな記述がありますね。

マトリョーシカ人形
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%AB%E4%BA%BA%E5%BD%A2
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