学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その14)

2020-01-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)22時37分51秒

1904年7月13日の記事の続きです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p95以下)

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 実際、もし最初の「建議書」が沢辺両神父の入れ知恵で出されたのであれば、その衰退した精神と無力には、絶望しそうになる。教会の運営、その運営の基礎となっている教会の典範について、二人の神父は学んでいないのか。そして得られるかぎりの知識を与えられていないのか。しかも、日本の高度の文明開化という流砂の上ではなに一つしっかりと立ってはいられない。すべては崩れて塵となる! 教会運営がたちまちのうちにプロテスタンティズムにすべってゆきはしないかという懸念を感じないで日本教会の運営をまかせられるような、そういう人材がいつになったら育ってくるのだろうか。わたしの後継者は、日本人のこの精神的能力不足をしっかりと頭に入れて、忍耐強くかれらを教育すべきである。しかし、おそらくわたしの後継者も、日本教会がしっかりと自分の足で立つようになるまで、まだ数世代かかるだろう。
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パウェル沢辺琢磨(1834-1913)は幕末にニコライが最初に洗礼を施した最古参の信者で、アレキセイ沢辺はその息子です。

『ニコライの見た幕末日本』(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88ed129f95780d03279dd85ffddcdf2

沢辺父子が背後にいそうな麹町教会の不穏な動きに関連して、三日後の7月16日には次のような記述があります。(p97)

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一九〇四年七月三日(一六日)、土曜。

 統計的報告書、請願、手紙、提案等々、公会に宛てて送られてきたものや集められたものについて、司祭たちは事前の打ち合わせ会を続けている。もう四日目である。きっとたくさん知恵が溜まったことでしょう。拝見いたしましょう。どうぞ、神さま、司祭たちが考えてことがすべて賢いことでありますように! ほんとうに賢い共同立案者がいてほしいと心から思う!
 麹町教会の信徒マトフェイ丹羽がやってきた。丹羽は長年伝教者として働いてきたが、妻と別れたことから教会の勤めもやめさせられてしまった。なんとも鼻もちならぬ性格である。あきらかにかれは、公会で提出された教会運営改変案の起草者の一人だ。
 遠まわしに、やや媚びた調子で話を切り出し、だんだん核心に近づいてきた。
「日本中の人がわれわれの教会をニコライの教会と呼んでおりますが、これはよいことじゃありません」
 わたしもそう思う、と言った。
「これは、あなたが他の者たちは加わらせないで一人で教会を取り仕切っておられるせいです」
「それは違う。教会の運営には常に司祭たちが加わっている。わたしは、いかなる教区においてもその教区を管轄している司祭とあらかじめ相談しないでは、なに一つ決めたことはない。そして重大な事柄はすべての教役者の加わった場で決定されている。そのためにわれわれは公会を開いている」
「しかし、司祭たちばかりでなく平信徒も加わった常設の会議が設けられるべきです」
「平信徒は、必要な場合には教会運営の仕事に加わることが認められている。たとえば、聖務執行者の選出に加わっている。さらにわれわれの公会において伝教者たちの任地の割り振りにも、また教会の資産の管理にも、必要なかぎりにおいて加わっている。あなたはそのことを知っているではないか……」
「日本は以前は天皇による統治がなされていました。しかし天皇は権限を国民に譲られた。われわれの教会でも同じようにする必要があります」
「教会の運営は不変の教会典範に基づいて行われている。われわれはそれから外れることは許されていない。もしそれを踏みはずせば、われわれは全世界正教会に属する者ではなくなってしまう」
「しかしですな……」とマトフェイは、堂々めぐりしながらもしゃべるわしゃべるわ。しばらく黙って聞いてやってから、司祭たちの集まりがあるから、そこで考えを述べるようにと言って立ち去らせた。
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マトフェイ丹羽の「日本は以前は天皇による統治がなされていました」以下の発言は面白いですね。
マトフェイ丹羽にとっては明治憲法の制定により「天皇は権限を国民に譲られた」ことは自明の歴史的事実なのでしょうが、明治憲法が「外見的立憲制」に過ぎないという、現在では些か賞味期限切れの感がある「戦後歴史学」の認識とはズレており、これ自体が興味深い発想です。
ま、それはともかく、マトフェイ丹羽は、現在の日本正教会ではニコライが統治権を掌握した「天皇」だが、帝国憲法の制定により天皇が権限を国民に譲ったように、「われわれの教会」でもニコライはその権限を信徒に譲るべきだ、と主張します。
世俗の動向をそのまま教会に反映させようとするこのような主張が「不変の教会典範」に基づく教会運営を行なってきたニコライに受け入れられるはずもありませんが、ニコライがこうした批判を頭から撥ね付けるのではなく、一応、マトフェイ丹羽にしゃべりたいだけしゃべらせ、司祭たちの集まりの場でも話すように仕向けているのはちょっと不思議ですね。
言いたいことは言わせてガスを抜く、というのがニコライの一貫した組織運営のコツなのか、それとも日露戦争が日本に有利に展開されている状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなっている」信徒をあまり刺激したくないという、この時期特有の事情の反映なのか。
さて、「内会」の準備の後、7月18・19日に「公会」が開かれますが、それが無事終了した翌20日の茶話会において、ニコライは、「わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない」云々という話をします。
ここまでの経緯を見ると、この話は決してニコライが唐突に持ち出したのではなく、「公会」の準備段階から多くの司祭が問題の所在を認識しており、沢辺父子などはともかくとして、おそらく司祭たちも多くはニコライの方針を受け入れていたのでしょうね。
そもそも経済的に「独立」しておらず、戦争中であっても運営資金を敵国ロシアに依存しているような状態で「独立した教会」を目指すなどというのはあまりに無理が多い話です。
ニコライの後継者にロシアから主教を招かなかったら、その時点でロシアからの資金援助がなくなり、教会組織は崩壊することになりますね。
コメント
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その13)

2020-01-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)11時21分57秒

(その10)で引用した、

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 ニコライが、日本人伝教者こそ教会の柱だと認めていながら、自分の後の日本正教会の教育を日本人にゆだねたくなかった理由はそこにあった。かれは、公会に集まった教役者たちに「正しい伝統」が築かれるまでは百年はロシアから主教を招くようにと教えた。日本人に任せておいたならば「プロテスタントの教会と同じようになってしまう」と予感していたのである(一九〇四年七月二〇日)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

という部分ですが、『宣教師ニコライの全日記 第8巻』を見ると、これは日露戦争中の記事ですね。(p99以下)

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一九〇四年七月七日(二〇日)、水曜。

 朝から午後四時まで、松山の捕虜たちに送る本のリストを作った。すべて予備としてあった本である。返却不要ということで、今回、一四〇点の書籍と一〇〇〇冊のパンフレットを送った。書籍のうちの多くは複数部数である。たとえば新約聖書七冊、ロシア語の福音経二五冊、等々。全部で三五三冊。すべての書籍とパンフレットは、宗教道徳あるいは教理関係の内容のものである。例外として、数冊の文法、数学などの教科書がある。
 それらを、セルギイ鈴木神父とニコライ・イワーノヴィチ・メルチャンスキー〔ハルチャンスキーと同一人物か?〕大佐宛に送った。セルギイ神父には手紙を添えた。メルチャンスキー大佐には、セルギイ神父を助けて、本を将校たちと兵隊たちに分配してもらいたいと頼んだ。
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松山はロシア兵捕虜収容所が最初に設けられた土地ですね。
リンク先の論文にはロシア兵捕虜に対する正教会の活動が詳しく出ています。

平岩貴比古「日露戦争期・国内収容所におけるロシア兵捕虜への識字教育問題」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia13-4.html

さて、この後に主教後継者に関するニコライの発言が出てきます。

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 四時から、司祭全員、神学大学を卒業した神学校教師たち、そして翻訳局員たちと茶話会。かれらがわたしを招いてくれたのである。この機会を利用して、かれらに次のような話をした。すなわち、わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない。日本教会は一〇〇年以上は宗務院の監督下に留まり、ロシアから主教を迎えて、それらの主教たちの厳格な指導に従順に無条件に従わなければならない。そうしてこそ日本教会は成長して、「使徒以来の唯一の共同体なる教会」の一本の枝になってゆくのだ、と話した。
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ずいぶん傲岸で硬直的な考えのように見えるかもしれませんが、ニコライがこうした話をする必要を感じた背景としては、教会運営をめぐる内部の不満の存在があります。
この記事の一週間前、7月13日には、

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 きょうは「内会」である。司祭たちは公会前の事前の打ち合わせをしている。そのために「景況表」、公会に宛てた手紙と請願書、その他さまざまな提案(建議書や議案)を持っていった。提案はかなりたくさん集まっている。ありとあらゆることが提案されている!
 パウェル沢辺とアレキセイ沢辺が管轄する麹町教会の信徒たちから「教会運営の仕方を改善し、今日〔こんにち〕の文明開化された日本の状況に合ったものにすべきである」という要求書がだされた。これが両沢辺神父のすすめによって書かれたものであるなら、ご立派な指導者ですなと言ってやりたい。とりわけ最長老のお方〔パウェル沢辺琢磨〕は問題だ。
 柏崎から、教役者の教育のための機関を設けるべきだ、なぜなら現在の教役者は全員教養が足りず、今日の日本人の教育のたかさにぜんぜん応えていないからだ、という要求がなされた(あきらかに、いまの日本軍のロシア軍に対するうち続く勝利と、日本および外国の新聞にあふれるロシア人に対するどぎつい罵倒のために、日本人はうぬぼれで頭がおかしくなっているのだ)。
 パウェル新妻から次のような要求が出ている。
 一、日本教会の独立。
 二、宗務院と諸総主教に「勝利」ではなく「和解」を祈るよう提案する。なぜなら、ロシア人も日本人も勝利を与えたまえと祈ったら、主神はどちらの祈りを聴いたらよいのか。
 三、公会は日本人兵士の自殺を食い止める手段を講ぜよ。
 四、司祭たちの公会に輔祭の出席も認めよ。
 モイセイ葛西〔原衛。福島方面の伝教者〕が、宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた。その間に、現在信徒一人がひと月一銭出している寄付が何百万円にもなるから、そうなれば日本教会は自らの力で自らを支えられるようになる、という。
 ニコライ高木〔久吉。米子、松江の伝教者。作曲家高木東六の父〕は、「教役者たちは筆紙に尽くし難い貧困のなかにある。ゆえにその妻と娘が産婆、付添看護婦、教師などになることを許可せよ」という要請を出してきた。
 ほかにもこの類の提案や要請が出ている。そのほとんどすべてはくだらないたわごとだ。しかし遠慮なく提案し論議するがよい。だめなものは実現しない。こうした「建議書」の意義は、それらが診断と警告になるということだ。現在出ているたくさんの「建議書」からわかるのは、日本教会は、物質的に無力だからもあるが、それ以上に内的状態がまだ「ドクリツ」(自立)からは遠いということだ。
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とありますが(p95)、日本の正教会は経済的に自立できていないどころか、現に戦争している敵国から運営資金を得ているという奇妙な存在です。
それにもかかわらず、日露戦争が自国優位に進展している状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなってる」信徒も多数いて、日本教会の「独立」を要求するパウェル新妻もその一人のようです。
「宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた」というモイセイ葛西も同様ですね。
それに比べると高木東六の父、ニコライ高木の要請は伝教者の自立を促すものと思われるので、ニコライがこれについても否定的な書き方をしている理由がよく分かりません。
ウィキペディアを見ると高木東六は1904年7月7日生まれだそうですから、ニコライがこの記事を記した僅か六日前に誕生したのですね。

高木東六(1904-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%9D%B1%E5%85%AD
コメント
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