投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)22時37分51秒
1904年7月13日の記事の続きです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p95以下)
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実際、もし最初の「建議書」が沢辺両神父の入れ知恵で出されたのであれば、その衰退した精神と無力には、絶望しそうになる。教会の運営、その運営の基礎となっている教会の典範について、二人の神父は学んでいないのか。そして得られるかぎりの知識を与えられていないのか。しかも、日本の高度の文明開化という流砂の上ではなに一つしっかりと立ってはいられない。すべては崩れて塵となる! 教会運営がたちまちのうちにプロテスタンティズムにすべってゆきはしないかという懸念を感じないで日本教会の運営をまかせられるような、そういう人材がいつになったら育ってくるのだろうか。わたしの後継者は、日本人のこの精神的能力不足をしっかりと頭に入れて、忍耐強くかれらを教育すべきである。しかし、おそらくわたしの後継者も、日本教会がしっかりと自分の足で立つようになるまで、まだ数世代かかるだろう。
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パウェル沢辺琢磨(1834-1913)は幕末にニコライが最初に洗礼を施した最古参の信者で、アレキセイ沢辺はその息子です。
『ニコライの見た幕末日本』(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88ed129f95780d03279dd85ffddcdf2
沢辺父子が背後にいそうな麹町教会の不穏な動きに関連して、三日後の7月16日には次のような記述があります。(p97)
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一九〇四年七月三日(一六日)、土曜。
統計的報告書、請願、手紙、提案等々、公会に宛てて送られてきたものや集められたものについて、司祭たちは事前の打ち合わせ会を続けている。もう四日目である。きっとたくさん知恵が溜まったことでしょう。拝見いたしましょう。どうぞ、神さま、司祭たちが考えてことがすべて賢いことでありますように! ほんとうに賢い共同立案者がいてほしいと心から思う!
麹町教会の信徒マトフェイ丹羽がやってきた。丹羽は長年伝教者として働いてきたが、妻と別れたことから教会の勤めもやめさせられてしまった。なんとも鼻もちならぬ性格である。あきらかにかれは、公会で提出された教会運営改変案の起草者の一人だ。
遠まわしに、やや媚びた調子で話を切り出し、だんだん核心に近づいてきた。
「日本中の人がわれわれの教会をニコライの教会と呼んでおりますが、これはよいことじゃありません」
わたしもそう思う、と言った。
「これは、あなたが他の者たちは加わらせないで一人で教会を取り仕切っておられるせいです」
「それは違う。教会の運営には常に司祭たちが加わっている。わたしは、いかなる教区においてもその教区を管轄している司祭とあらかじめ相談しないでは、なに一つ決めたことはない。そして重大な事柄はすべての教役者の加わった場で決定されている。そのためにわれわれは公会を開いている」
「しかし、司祭たちばかりでなく平信徒も加わった常設の会議が設けられるべきです」
「平信徒は、必要な場合には教会運営の仕事に加わることが認められている。たとえば、聖務執行者の選出に加わっている。さらにわれわれの公会において伝教者たちの任地の割り振りにも、また教会の資産の管理にも、必要なかぎりにおいて加わっている。あなたはそのことを知っているではないか……」
「日本は以前は天皇による統治がなされていました。しかし天皇は権限を国民に譲られた。われわれの教会でも同じようにする必要があります」
「教会の運営は不変の教会典範に基づいて行われている。われわれはそれから外れることは許されていない。もしそれを踏みはずせば、われわれは全世界正教会に属する者ではなくなってしまう」
「しかしですな……」とマトフェイは、堂々めぐりしながらもしゃべるわしゃべるわ。しばらく黙って聞いてやってから、司祭たちの集まりがあるから、そこで考えを述べるようにと言って立ち去らせた。
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マトフェイ丹羽の「日本は以前は天皇による統治がなされていました」以下の発言は面白いですね。
マトフェイ丹羽にとっては明治憲法の制定により「天皇は権限を国民に譲られた」ことは自明の歴史的事実なのでしょうが、明治憲法が「外見的立憲制」に過ぎないという、現在では些か賞味期限切れの感がある「戦後歴史学」の認識とはズレており、これ自体が興味深い発想です。
ま、それはともかく、マトフェイ丹羽は、現在の日本正教会ではニコライが統治権を掌握した「天皇」だが、帝国憲法の制定により天皇が権限を国民に譲ったように、「われわれの教会」でもニコライはその権限を信徒に譲るべきだ、と主張します。
世俗の動向をそのまま教会に反映させようとするこのような主張が「不変の教会典範」に基づく教会運営を行なってきたニコライに受け入れられるはずもありませんが、ニコライがこうした批判を頭から撥ね付けるのではなく、一応、マトフェイ丹羽にしゃべりたいだけしゃべらせ、司祭たちの集まりの場でも話すように仕向けているのはちょっと不思議ですね。
言いたいことは言わせてガスを抜く、というのがニコライの一貫した組織運営のコツなのか、それとも日露戦争が日本に有利に展開されている状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなっている」信徒をあまり刺激したくないという、この時期特有の事情の反映なのか。
さて、「内会」の準備の後、7月18・19日に「公会」が開かれますが、それが無事終了した翌20日の茶話会において、ニコライは、「わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない」云々という話をします。
ここまでの経緯を見ると、この話は決してニコライが唐突に持ち出したのではなく、「公会」の準備段階から多くの司祭が問題の所在を認識しており、沢辺父子などはともかくとして、おそらく司祭たちも多くはニコライの方針を受け入れていたのでしょうね。
そもそも経済的に「独立」しておらず、戦争中であっても運営資金を敵国ロシアに依存しているような状態で「独立した教会」を目指すなどというのはあまりに無理が多い話です。
ニコライの後継者にロシアから主教を招かなかったら、その時点でロシアからの資金援助がなくなり、教会組織は崩壊することになりますね。
1904年7月13日の記事の続きです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p95以下)
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実際、もし最初の「建議書」が沢辺両神父の入れ知恵で出されたのであれば、その衰退した精神と無力には、絶望しそうになる。教会の運営、その運営の基礎となっている教会の典範について、二人の神父は学んでいないのか。そして得られるかぎりの知識を与えられていないのか。しかも、日本の高度の文明開化という流砂の上ではなに一つしっかりと立ってはいられない。すべては崩れて塵となる! 教会運営がたちまちのうちにプロテスタンティズムにすべってゆきはしないかという懸念を感じないで日本教会の運営をまかせられるような、そういう人材がいつになったら育ってくるのだろうか。わたしの後継者は、日本人のこの精神的能力不足をしっかりと頭に入れて、忍耐強くかれらを教育すべきである。しかし、おそらくわたしの後継者も、日本教会がしっかりと自分の足で立つようになるまで、まだ数世代かかるだろう。
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パウェル沢辺琢磨(1834-1913)は幕末にニコライが最初に洗礼を施した最古参の信者で、アレキセイ沢辺はその息子です。
『ニコライの見た幕末日本』(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88ed129f95780d03279dd85ffddcdf2
沢辺父子が背後にいそうな麹町教会の不穏な動きに関連して、三日後の7月16日には次のような記述があります。(p97)
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一九〇四年七月三日(一六日)、土曜。
統計的報告書、請願、手紙、提案等々、公会に宛てて送られてきたものや集められたものについて、司祭たちは事前の打ち合わせ会を続けている。もう四日目である。きっとたくさん知恵が溜まったことでしょう。拝見いたしましょう。どうぞ、神さま、司祭たちが考えてことがすべて賢いことでありますように! ほんとうに賢い共同立案者がいてほしいと心から思う!
麹町教会の信徒マトフェイ丹羽がやってきた。丹羽は長年伝教者として働いてきたが、妻と別れたことから教会の勤めもやめさせられてしまった。なんとも鼻もちならぬ性格である。あきらかにかれは、公会で提出された教会運営改変案の起草者の一人だ。
遠まわしに、やや媚びた調子で話を切り出し、だんだん核心に近づいてきた。
「日本中の人がわれわれの教会をニコライの教会と呼んでおりますが、これはよいことじゃありません」
わたしもそう思う、と言った。
「これは、あなたが他の者たちは加わらせないで一人で教会を取り仕切っておられるせいです」
「それは違う。教会の運営には常に司祭たちが加わっている。わたしは、いかなる教区においてもその教区を管轄している司祭とあらかじめ相談しないでは、なに一つ決めたことはない。そして重大な事柄はすべての教役者の加わった場で決定されている。そのためにわれわれは公会を開いている」
「しかし、司祭たちばかりでなく平信徒も加わった常設の会議が設けられるべきです」
「平信徒は、必要な場合には教会運営の仕事に加わることが認められている。たとえば、聖務執行者の選出に加わっている。さらにわれわれの公会において伝教者たちの任地の割り振りにも、また教会の資産の管理にも、必要なかぎりにおいて加わっている。あなたはそのことを知っているではないか……」
「日本は以前は天皇による統治がなされていました。しかし天皇は権限を国民に譲られた。われわれの教会でも同じようにする必要があります」
「教会の運営は不変の教会典範に基づいて行われている。われわれはそれから外れることは許されていない。もしそれを踏みはずせば、われわれは全世界正教会に属する者ではなくなってしまう」
「しかしですな……」とマトフェイは、堂々めぐりしながらもしゃべるわしゃべるわ。しばらく黙って聞いてやってから、司祭たちの集まりがあるから、そこで考えを述べるようにと言って立ち去らせた。
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マトフェイ丹羽の「日本は以前は天皇による統治がなされていました」以下の発言は面白いですね。
マトフェイ丹羽にとっては明治憲法の制定により「天皇は権限を国民に譲られた」ことは自明の歴史的事実なのでしょうが、明治憲法が「外見的立憲制」に過ぎないという、現在では些か賞味期限切れの感がある「戦後歴史学」の認識とはズレており、これ自体が興味深い発想です。
ま、それはともかく、マトフェイ丹羽は、現在の日本正教会ではニコライが統治権を掌握した「天皇」だが、帝国憲法の制定により天皇が権限を国民に譲ったように、「われわれの教会」でもニコライはその権限を信徒に譲るべきだ、と主張します。
世俗の動向をそのまま教会に反映させようとするこのような主張が「不変の教会典範」に基づく教会運営を行なってきたニコライに受け入れられるはずもありませんが、ニコライがこうした批判を頭から撥ね付けるのではなく、一応、マトフェイ丹羽にしゃべりたいだけしゃべらせ、司祭たちの集まりの場でも話すように仕向けているのはちょっと不思議ですね。
言いたいことは言わせてガスを抜く、というのがニコライの一貫した組織運営のコツなのか、それとも日露戦争が日本に有利に展開されている状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなっている」信徒をあまり刺激したくないという、この時期特有の事情の反映なのか。
さて、「内会」の準備の後、7月18・19日に「公会」が開かれますが、それが無事終了した翌20日の茶話会において、ニコライは、「わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない」云々という話をします。
ここまでの経緯を見ると、この話は決してニコライが唐突に持ち出したのではなく、「公会」の準備段階から多くの司祭が問題の所在を認識しており、沢辺父子などはともかくとして、おそらく司祭たちも多くはニコライの方針を受け入れていたのでしょうね。
そもそも経済的に「独立」しておらず、戦争中であっても運営資金を敵国ロシアに依存しているような状態で「独立した教会」を目指すなどというのはあまりに無理が多い話です。
ニコライの後継者にロシアから主教を招かなかったら、その時点でロシアからの資金援助がなくなり、教会組織は崩壊することになりますね。