投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月28日(火)11時57分30秒
2020年の小川氏は「この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない」と言われていますが、「擱筆の年記である可能性」を論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか。
「転写を示すとする意見」は「大勢」ではなく「いまの小川」氏以外の全員のような感じもしますが、ま、それはともかく、続きです。(p2)
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通常(歴史)物語は過去時制を採るが、小西甚一氏の「物語である『増鏡』が現在時制〔テンス〕の語りかたになっている」という指摘を受け、伊藤敬氏が「増鏡中の「今」は、副詞の用法などを除くと、話題の人物・事件の現在時点を指示する」と述べられている。「このころ」「ちかころ」などの語も同様である。
従って、宮内三二郎氏が『続後拾遺集』奏覧の記事の、
兵衛督為定、故中納言のあとをうけてゑらひつる選集の事、
正中二年十二月のころ、まつ四季を奏するよしきこえしの
こり、この程世にひろまれる、いとおもしろし。(春の別れ)
より、この集が「世によろま」りはじめたのは、「嘉暦二~三年から元徳年間(一三二九~三一)へかけてのころ」であるから、そのことを「この程」と記した増鏡第十四の記事も、この嘉暦・元徳のころか、またはそれにごく近い時期に書かれたことになろう」との推測が誤りであったことは、氏自身後に気づかれて撤回された如くである。こうした徴証を、氏は他にも多く挙げられているのだが、殆どは証拠能力を失う。
『増鏡』が、現在時制で記された物語であるとすれば、このような方法そのものが無効となるが、それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められるのである。証拠能力に欠ける記述を除外していった結果、最も有力な徴証が、「くめのさら山」における「ついのまうけの君」と、「月草の花」における「いまの尊氏」という、二つの表現である。そこで、これを再検討してみたいと思う。
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鹿児島大学教授だった宮内三二郎氏(1918~75)は、なかなか強烈な個性の人だったようですね。
宮内氏は東京帝大文学部国文学科に入学したものの、美学美術史学科へ転科し卒業したのだそうで、論文も美学と国文学の両方にわたっています。
宮内氏の没後まもなく関係者によって編まれたのが約八百ページの大著『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』(明治書院、1977)で、数多くの非常に鋭い着想と、『増鏡』の作者が兼好法師だ、といった奇妙な結論が混在する不思議な書物です。
『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』
http://web.archive.org/web/20150918011455/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miyauchi-shinken-jo-sonota.htm
小川氏は『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』を否定的に引用されていますが、『増鏡』の成立年代に関する宮内三二郎氏の次のような基本認識は現在でも重要と思われるので、少し引用しておきます。(p713以下)
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【前略】しかし、この通説には、一つの根本的な疑問がある。それは、承久の変に幕府討滅・王政復古を企てた後鳥羽上皇の治世の記事にはじまり、元弘の変に後鳥羽院の素志を承け継ぎ、これを実現した後醍醐天皇の、隠岐からの還幸と新政開始の記事で完結する増鏡が、なぜ、元弘から三〇年も経た時期、しかも建武の新政が約三年で破綻し、つづいて起った南北両統の分裂と抗争の動乱期を経て、ようやく北朝・足利幕府の支配権が確立した時期に、着想され、起筆されたのか、という点である。
その点をしばらく措くとしても、私の見るところでは、通説の諸論拠(それは意外にもわずか三箇しか挙げられておらず、しかもそれらはいずれもきわめて不確実な、薄弱なものにすぎない)は、実はさらに一つの不確実な推測を前提としているようである。つまり、増鏡の作者は二条良基であろう、という古くから行われている推測を、暗黙の、または公然の前提とし、それにもとづいて良基の年齢(元応二年~嘉慶二年<一三二〇~八八>。元弘三年には一四歳、応安元年四六歳)を顧慮して、彼が増鏡を著わし得るほどの年齢になったころ、また彼が増鏡と種々の点で類縁性を持つ宮廷儀礼・行事関係の諸小著作を著わしはじめたころ、に目星をつけ、これを裏づける徴証を増鏡の記事の内外に物色して論拠としたのが、応安・永和期成立説であると思われる。【中略】
以上みてきたように、応永末・永和初年成立説は、その論拠はいずれもきわめて薄弱であり、またいずれも二条良基作者説を確定的とみなし、これを前提として主張されているものである。そして、<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし、また、そのために、別の時期に成立したことを示唆する徴証を黙殺して、わずか一、二の、しかも説得力に乏しい推測材料を見出したことで満足する、という結果となったようである。
そこで私はまず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする。
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2020年の小川氏は「この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない」と言われていますが、「擱筆の年記である可能性」を論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか。
「転写を示すとする意見」は「大勢」ではなく「いまの小川」氏以外の全員のような感じもしますが、ま、それはともかく、続きです。(p2)
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通常(歴史)物語は過去時制を採るが、小西甚一氏の「物語である『増鏡』が現在時制〔テンス〕の語りかたになっている」という指摘を受け、伊藤敬氏が「増鏡中の「今」は、副詞の用法などを除くと、話題の人物・事件の現在時点を指示する」と述べられている。「このころ」「ちかころ」などの語も同様である。
従って、宮内三二郎氏が『続後拾遺集』奏覧の記事の、
兵衛督為定、故中納言のあとをうけてゑらひつる選集の事、
正中二年十二月のころ、まつ四季を奏するよしきこえしの
こり、この程世にひろまれる、いとおもしろし。(春の別れ)
より、この集が「世によろま」りはじめたのは、「嘉暦二~三年から元徳年間(一三二九~三一)へかけてのころ」であるから、そのことを「この程」と記した増鏡第十四の記事も、この嘉暦・元徳のころか、またはそれにごく近い時期に書かれたことになろう」との推測が誤りであったことは、氏自身後に気づかれて撤回された如くである。こうした徴証を、氏は他にも多く挙げられているのだが、殆どは証拠能力を失う。
『増鏡』が、現在時制で記された物語であるとすれば、このような方法そのものが無効となるが、それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められるのである。証拠能力に欠ける記述を除外していった結果、最も有力な徴証が、「くめのさら山」における「ついのまうけの君」と、「月草の花」における「いまの尊氏」という、二つの表現である。そこで、これを再検討してみたいと思う。
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鹿児島大学教授だった宮内三二郎氏(1918~75)は、なかなか強烈な個性の人だったようですね。
宮内氏は東京帝大文学部国文学科に入学したものの、美学美術史学科へ転科し卒業したのだそうで、論文も美学と国文学の両方にわたっています。
宮内氏の没後まもなく関係者によって編まれたのが約八百ページの大著『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』(明治書院、1977)で、数多くの非常に鋭い着想と、『増鏡』の作者が兼好法師だ、といった奇妙な結論が混在する不思議な書物です。
『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』
http://web.archive.org/web/20150918011455/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miyauchi-shinken-jo-sonota.htm
小川氏は『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』を否定的に引用されていますが、『増鏡』の成立年代に関する宮内三二郎氏の次のような基本認識は現在でも重要と思われるので、少し引用しておきます。(p713以下)
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【前略】しかし、この通説には、一つの根本的な疑問がある。それは、承久の変に幕府討滅・王政復古を企てた後鳥羽上皇の治世の記事にはじまり、元弘の変に後鳥羽院の素志を承け継ぎ、これを実現した後醍醐天皇の、隠岐からの還幸と新政開始の記事で完結する増鏡が、なぜ、元弘から三〇年も経た時期、しかも建武の新政が約三年で破綻し、つづいて起った南北両統の分裂と抗争の動乱期を経て、ようやく北朝・足利幕府の支配権が確立した時期に、着想され、起筆されたのか、という点である。
その点をしばらく措くとしても、私の見るところでは、通説の諸論拠(それは意外にもわずか三箇しか挙げられておらず、しかもそれらはいずれもきわめて不確実な、薄弱なものにすぎない)は、実はさらに一つの不確実な推測を前提としているようである。つまり、増鏡の作者は二条良基であろう、という古くから行われている推測を、暗黙の、または公然の前提とし、それにもとづいて良基の年齢(元応二年~嘉慶二年<一三二〇~八八>。元弘三年には一四歳、応安元年四六歳)を顧慮して、彼が増鏡を著わし得るほどの年齢になったころ、また彼が増鏡と種々の点で類縁性を持つ宮廷儀礼・行事関係の諸小著作を著わしはじめたころ、に目星をつけ、これを裏づける徴証を増鏡の記事の内外に物色して論拠としたのが、応安・永和期成立説であると思われる。【中略】
以上みてきたように、応永末・永和初年成立説は、その論拠はいずれもきわめて薄弱であり、またいずれも二条良基作者説を確定的とみなし、これを前提として主張されているものである。そして、<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし、また、そのために、別の時期に成立したことを示唆する徴証を黙殺して、わずか一、二の、しかも説得力に乏しい推測材料を見出したことで満足する、という結果となったようである。
そこで私はまず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする。
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