投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月 9日(木)10時38分27秒
就実大学教授・苅米一志(かりこめ・ひとし)氏は1968年生まれとのことなので、「東山太子堂の開山は忍性か」を書かれたのは二十三歳くらいの時であり、ちょっと吃驚ですね。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a86010.html
【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問
https://www.shujitsu.ac.jp/news/detail/1791
【WEB体験授業】古文漢文から日本史へ 総合歴史学科
https://www.youtube.com/watch?v=2iHIfqbzgE8
この論文を実際に読むまで、私は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)が出て来るのではないかと期待していたのですが、その名前はありませんでした。
ただ、「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕された永仁六年(1298)正月は東山太子堂にとってもなかなか微妙な時期だったようで、その構成メンバーが叡尊系から忍性系に移行する端境期だったように思えます。
そこで、その推移を細かく見て行きたいと思います。(p12)
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一、叡尊と太子堂速成就院
「応永頃ノ古図写」(『京都の歴史』三、一四九頁)において太子堂が「白毫院」と呼ばれたことから、林幹弥は「金剛仏子叡尊感身学生記」弘安二年(一二七九)の項に見える「白毫寺」を太子堂速成就院の初見としているが、大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる。また、林は「速成就院」なる語の史料上の初見を同記・弘安七年(一二八四)正月としているが、筆者としては、次の史料をもって、その初見としたい。
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いったん、ここで切ります。
「大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる」とありますが、同年九月十八日に奈良西大寺で「右馬権頭為衡入道観證」に一切経の入手について相談した叡尊は、二十一日に「西園寺に古い写本があるので、確認に来てください」との返事をもらって二十六日に京都・浄住寺に移動し、
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十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
とのことなので、この白毫寺が京都の方の白毫寺(東山太子堂、速成就院)であることは明らかですね。
なお、「応永頃ノ古図写」はリンク先で見ることができますが、文字が小さくて読めないですね。
福原成雄氏「京都市指定名勝 知恩院方丈庭園の成立について」
https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/617
さて、続きです。(p12以下)
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すなわち、金沢文庫の「結界唱相」(『金沢文庫資料全書』第五巻)には、「山城国愛宕郡速成就院結界唱相」が記載されており、その初度の年月日が文永三年(一二六六)十一月三十日となっているのである。その結界参加者は、次の通りである。
成円戒律房 善厳尊戒房
證円戒学房 禅恵本性房
賢栄円寂房 実禅尊願房
行忍禅行房 定円忍蓮房
頼禅阿忍房<比丘布薩役者>
正恵信戒房<比丘布薩并結界師>
円定房<答法> 了敏尊覚房<比丘布薩役者>
順乗理賢房<比丘布薩維那唱相>
禅信春円房<比丘布薩役者梵網維那>
信海円證房<比丘布薩役者> 已上比丘
行空円観房 隆慶寂印房<梵網役者>
已上法同沙弥
覚秀空證房<五徳梵網役者> 顕禅房<梵網役者>
已上形同
文永三年<丙寅>十一月卅日巳時初結同
十二月一日巳時解結畢
当院住持善厳
このうち、叡尊の授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)に名の見えるのは、成円戒律房・実禅尊願房・順乗理賢房であり、彼らは全て「大和国人」と言われている。つまり、彼らは叡尊の弟子であった。またこの他、善厳尊戒房は、宝治二年(一二四八)将来律三大部配分状(同前)によると、宋より将来した律部経典のうち「羯磨経疏記称一部廿一巻」を配分されており、光明真言結縁過去帳(前掲)にも「尊戒房 大谷寺」とある。大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう。彼も叡尊の弟子であって、史料に「当院住持善厳」とあることから、のちにこの寺院に住するようになった人間であると思われる。
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「大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう」に付された注(6)を見ると、
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(6)前掲結界唱相には、速成就院に続いて山城国愛宕郡白毫院、山城国愛宕郡乗台院の結界が記されている。
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とあり、東山太子堂にやたらと別名が多い理由の説明となっていますね。
就実大学教授・苅米一志(かりこめ・ひとし)氏は1968年生まれとのことなので、「東山太子堂の開山は忍性か」を書かれたのは二十三歳くらいの時であり、ちょっと吃驚ですね。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a86010.html
【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問
https://www.shujitsu.ac.jp/news/detail/1791
【WEB体験授業】古文漢文から日本史へ 総合歴史学科
https://www.youtube.com/watch?v=2iHIfqbzgE8
この論文を実際に読むまで、私は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)が出て来るのではないかと期待していたのですが、その名前はありませんでした。
ただ、「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕された永仁六年(1298)正月は東山太子堂にとってもなかなか微妙な時期だったようで、その構成メンバーが叡尊系から忍性系に移行する端境期だったように思えます。
そこで、その推移を細かく見て行きたいと思います。(p12)
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一、叡尊と太子堂速成就院
「応永頃ノ古図写」(『京都の歴史』三、一四九頁)において太子堂が「白毫院」と呼ばれたことから、林幹弥は「金剛仏子叡尊感身学生記」弘安二年(一二七九)の項に見える「白毫寺」を太子堂速成就院の初見としているが、大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる。また、林は「速成就院」なる語の史料上の初見を同記・弘安七年(一二八四)正月としているが、筆者としては、次の史料をもって、その初見としたい。
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いったん、ここで切ります。
「大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる」とありますが、同年九月十八日に奈良西大寺で「右馬権頭為衡入道観證」に一切経の入手について相談した叡尊は、二十一日に「西園寺に古い写本があるので、確認に来てください」との返事をもらって二十六日に京都・浄住寺に移動し、
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十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
とのことなので、この白毫寺が京都の方の白毫寺(東山太子堂、速成就院)であることは明らかですね。
なお、「応永頃ノ古図写」はリンク先で見ることができますが、文字が小さくて読めないですね。
福原成雄氏「京都市指定名勝 知恩院方丈庭園の成立について」
https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/617
さて、続きです。(p12以下)
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すなわち、金沢文庫の「結界唱相」(『金沢文庫資料全書』第五巻)には、「山城国愛宕郡速成就院結界唱相」が記載されており、その初度の年月日が文永三年(一二六六)十一月三十日となっているのである。その結界参加者は、次の通りである。
成円戒律房 善厳尊戒房
證円戒学房 禅恵本性房
賢栄円寂房 実禅尊願房
行忍禅行房 定円忍蓮房
頼禅阿忍房<比丘布薩役者>
正恵信戒房<比丘布薩并結界師>
円定房<答法> 了敏尊覚房<比丘布薩役者>
順乗理賢房<比丘布薩維那唱相>
禅信春円房<比丘布薩役者梵網維那>
信海円證房<比丘布薩役者> 已上比丘
行空円観房 隆慶寂印房<梵網役者>
已上法同沙弥
覚秀空證房<五徳梵網役者> 顕禅房<梵網役者>
已上形同
文永三年<丙寅>十一月卅日巳時初結同
十二月一日巳時解結畢
当院住持善厳
このうち、叡尊の授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)に名の見えるのは、成円戒律房・実禅尊願房・順乗理賢房であり、彼らは全て「大和国人」と言われている。つまり、彼らは叡尊の弟子であった。またこの他、善厳尊戒房は、宝治二年(一二四八)将来律三大部配分状(同前)によると、宋より将来した律部経典のうち「羯磨経疏記称一部廿一巻」を配分されており、光明真言結縁過去帳(前掲)にも「尊戒房 大谷寺」とある。大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう。彼も叡尊の弟子であって、史料に「当院住持善厳」とあることから、のちにこの寺院に住するようになった人間であると思われる。
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「大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう」に付された注(6)を見ると、
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(6)前掲結界唱相には、速成就院に続いて山城国愛宕郡白毫院、山城国愛宕郡乗台院の結界が記されている。
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とあり、東山太子堂にやたらと別名が多い理由の説明となっていますね。