投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月23日(木)11時03分4秒
「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」(p215)と、何故か「ある律僧」の名前を出さなかった筧氏は、「第六章 両統迭立の日々」に入ると「3 公家徳政のめざすもの」で善空上人の名前を二度登場させます。
この節は、
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「徳政」はじまる
三人の武者、伏見天皇を襲う
三条実盛の女
伏見天皇の「徳政」
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と構成されていますが、「「徳政」始まる」の冒頭、筧氏は、
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亀山上皇の周辺の人々は、弘安七、八年のころから、一つの可能性を意識せざるを得なくなった。皇位交代(春宮胤仁親王、のちの後伏見天皇の即位)の可能性である。平安時代半ば以降、在位十年をこえた天皇はすくない。天皇が代わっても、多くの場合、治天の君の地位はゆるがなかったが、今回、春宮は、亀山の兄、後深草上皇の系統である。皇位の交代は、ただちに天皇家の家長の座に波及するであろう。この可能性から、すこしでも遠ざかるための方途が、真剣に求めらなくてはならぬ。
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と書かれています。(p247)
しかし、胤仁親王(後伏見天皇)は弘安十一年(正応元、1288)生まれなので、「弘安七、八年のころ」には存在しておらず、ここは熈仁親王(伏見天皇、1265生)の勘違いですね。
後伏見天皇(1288-1336)
さて、「弘安徳政」の内容を説明された後、筧氏は、
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ここでちょっと先回りして「徳政」のゆくえを見ておくことにする。亀山のあとを襲って治天の君となった後深草は、評定衆のメンバーから、名家出身者を排除した。訴訟当事者双方の言い分を聴取する場は、全く消え去ったか、そうでなくとも出現する度合いを大きく減じたであろう。第五章「岐路に立つ鎌倉幕府」で触れたように(二一五頁)、後深草は、側近の律僧、善空上人にもろもろの訴訟を取り次がせ、のちに鎌倉幕府の申し入れによって本主のもとに各々返付された所領は二百ヵ所に達した、という。これは、訴人もしくは論人どちらかの主張を取り上げて判決が下された結果であり、後深草が「奏事」一本槍、しかもかなり恣意的なやり方で、所務相論をはじめとする訴訟に臨んだ可能性を示す。なお、鎌倉幕府の申し入れがなされるに至ったのは、京極為兼が「公家御使」すなわち伏見天皇の使者として鎌倉に下り、善空の排除をはたらきかけたことによるらしい。天皇は、父上皇の下した判決を正すにあたり、関東に訴えて、とくにその介入をもとめたのである。父子の間も、また微妙であった。
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とされるのですが(p249以下)、「亀山のあとを襲って治天の君となった後深草は、評定衆のメンバーから、名家出身者を排除した」は、事実認識として誤りではないかと思われます。
本郷和人氏は、『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)において、
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ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。
近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親
翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。
西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経
これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごと-に伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。
とされており、中御門経任以下、後深草院政下においても名家出身者はけっこう評定衆となっていますね。
ま、それはともかく、伏見天皇が、二百ヵ所にも及ぶ所領の訴訟で「父上皇の下した判決を正すにあたり、関東に訴えて、とくにその介入をもとめた」のであれば、後深草院としては面目丸つぶれも良いところで、「父子の間も、また微妙」どころか、いくら温厚な後深草院といえども激怒して伏見天皇排除のために何かやりそうなものです。
しかし、この時期、後深草院・伏見天皇間で深刻な闘争が勃発したような気配は全くありません。
筧氏の見解は何とも不自然なのですが、それは筧氏の史料解釈の誤りの可能性を示唆しています。