投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月16日(木)11時20分1秒
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府は客観的・中立的な存在ではなく、そして一枚岩でもなくて、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、
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亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
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とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
何とも皮肉なことに、亀山院が幕府の期待に応えて「徳政」を推進したが故に亀山院政は終わってしまった訳ですが、幕府は別に朝廷の「徳政」の度合いを審査する客観的・中立的な存在ではないのですから、政変により幕府の首脳部が変動すれば、その影響を朝廷が受けるのも当たり前と言えば当たり前の話です。
なお、小川氏が言われるように、後深草院の「院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあ」り、そこでは「僧侶・女房政事口入」を禁止するよう要請があった訳ですが、この申入れの後、間もなく善空(禅空)という律僧が朝廷の人事・所領政策に干渉するようになり、しかも善空の背後には平頼綱の一族がいたようです。
僧侶の口入を禁止するように要請した幕府側が、幕府の威光をひけらかす僧侶を通じて朝廷に口入を繰り返した、少なくとも後深草院側からはそのように見えた訳で、幕府の申入れなるものも文字通り素直に受け止めることはできません。
この善空の一件は小川氏も触れているので、後で改めて少し論じます。
さて、小川論文に戻って、続きです。(p42以下)
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その意味でいえば、為兼は伝奏でさえなく、「政道」について公的なルートでは何も奏上する立場にはなかった。為子も養子たちも同様である。為兼がしばしば伝奏の如き役割を果たしたのは事実であるが、それは「藤氏公卿不出仕之間、無人伝奏、或直問答、或以為兼卿問答、王威軽忽可恥可悲」と伏見院自ら認めるように、全くイレギュラーな事態であり、為兼が当時の「政道」の中心たる寺社の抗争・雑訴・叙位任官の問題について言上することは、すべて非分の「口入」とみなされた。ここで為兼が院政の実務を担当する廷臣に不可欠とされた文道(儒学)の才に乏しく、「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった。「後ノ三房」を始めとする、大覚寺統の治天の君に重要された廷臣が、こぞって文道の才学を謳われたことを想起すればよい。「世の人、漢家の才のみ政道にはよろしとおもへり。就中、近比この趣を度々奏聞に及べるよし聞こゆ」(『古今集浄弁注』)という二条為世の歎声はそれを受けている。いかに為世が「歌は神代のことわざとして漢土の書いまだ渡らざりし時より出で来て、風刺風化の心分明に侍るものを」と虚勢を張ったところで、歌道は所詮「政道」の実際の用には立たないのである。
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「「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった」に付された注(31)を見ると、「無才学」は『花園院宸記』正和二年(1313)六月四日条、「為兼卿文盲」は『園太暦』貞和二年(1346)十一月九日条ですね。
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府は客観的・中立的な存在ではなく、そして一枚岩でもなくて、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、
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亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
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とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
何とも皮肉なことに、亀山院が幕府の期待に応えて「徳政」を推進したが故に亀山院政は終わってしまった訳ですが、幕府は別に朝廷の「徳政」の度合いを審査する客観的・中立的な存在ではないのですから、政変により幕府の首脳部が変動すれば、その影響を朝廷が受けるのも当たり前と言えば当たり前の話です。
なお、小川氏が言われるように、後深草院の「院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあ」り、そこでは「僧侶・女房政事口入」を禁止するよう要請があった訳ですが、この申入れの後、間もなく善空(禅空)という律僧が朝廷の人事・所領政策に干渉するようになり、しかも善空の背後には平頼綱の一族がいたようです。
僧侶の口入を禁止するように要請した幕府側が、幕府の威光をひけらかす僧侶を通じて朝廷に口入を繰り返した、少なくとも後深草院側からはそのように見えた訳で、幕府の申入れなるものも文字通り素直に受け止めることはできません。
この善空の一件は小川氏も触れているので、後で改めて少し論じます。
さて、小川論文に戻って、続きです。(p42以下)
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その意味でいえば、為兼は伝奏でさえなく、「政道」について公的なルートでは何も奏上する立場にはなかった。為子も養子たちも同様である。為兼がしばしば伝奏の如き役割を果たしたのは事実であるが、それは「藤氏公卿不出仕之間、無人伝奏、或直問答、或以為兼卿問答、王威軽忽可恥可悲」と伏見院自ら認めるように、全くイレギュラーな事態であり、為兼が当時の「政道」の中心たる寺社の抗争・雑訴・叙位任官の問題について言上することは、すべて非分の「口入」とみなされた。ここで為兼が院政の実務を担当する廷臣に不可欠とされた文道(儒学)の才に乏しく、「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった。「後ノ三房」を始めとする、大覚寺統の治天の君に重要された廷臣が、こぞって文道の才学を謳われたことを想起すればよい。「世の人、漢家の才のみ政道にはよろしとおもへり。就中、近比この趣を度々奏聞に及べるよし聞こゆ」(『古今集浄弁注』)という二条為世の歎声はそれを受けている。いかに為世が「歌は神代のことわざとして漢土の書いまだ渡らざりし時より出で来て、風刺風化の心分明に侍るものを」と虚勢を張ったところで、歌道は所詮「政道」の実際の用には立たないのである。
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「「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった」に付された注(31)を見ると、「無才学」は『花園院宸記』正和二年(1313)六月四日条、「為兼卿文盲」は『園太暦』貞和二年(1346)十一月九日条ですね。