学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その19)

2022-06-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月19日(日)12時50分50秒

前回投稿で謎の律僧・善空上人とともに「暗躍」したらしい六条康能の経歴を見ましたが、寛元元年(1243)に叙爵して文永七年(1270)に正四位下、文永十年(1273)に近衛中将を辞した後は無官だった人が、弘安十年(1287)十月、後深草院政が始まった後、若干の昇叙と任官があったとしても、正応四年(1291)の失脚時に官位は正三位、官職は参議・民部卿程度ですから、まあ、目覚ましい立身出世というほどの話でもないですね。
さて、六条康能と同じく「暗躍」したらしい資緒王の経歴を『公卿補任』で見てみると、この人は文永八年(1271)に二十二歳で従三位に叙せられているので、建長二年(1250)生まれですね。
同年の尻付によれば、この人は白川伯王家の「故従二位行侍従資基王男」です。

建長六年(1254)正・13 侍従
同七年(1255)8・12 左少将(臨時宣下)
康元元年(1256)正 従五位上
同年      正・21 兼武蔵介
同年      12・13 遷任神祇伯(父譲。于時王氏。七歳)
正嘉二年(1258)2・27 正五位下
正元元年(1259)正・21 兼因幡権守
同年      2・21 従四位下
文応元年(1260)10・10 従四位上
弘長元年(1261)正・5 正四位下(大礼賞。十二歳)還任左少将
文永八年(1271)10・13 従三位

花山源氏の白川伯王家は神祇伯を世襲する、貴族社会の中でもかなり特殊な家で、神祇伯に任官すると源氏から王氏に復するのが通例です。

白川伯王家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E4%BC%AF%E7%8E%8B%E5%AE%B6

資緒王の場合、康元元年(1256)、三十一歳の資基王(1226-64)から神祇伯を譲られ、この時は僅か七歳です。
ただ、父親の資基王は別に出家するでもなく、この後、従二位まで昇叙し、侍従や安芸権守に任じられたりした後、文永元年(1264)十二月六日に出家、翌日死去して『公卿補任』から消えて行くので、白川伯王家は何だかよく分らない家ですね。
ま、それはともかく、資緒王の方はというと、文永八年(1271)以降、散位の末の方に「従三位 神祇伯」との記述が続いた後、

弘安六年(1283)正・5 正三位
正応元年(1288)8・25 従二位
同二年(1289)4・29 「以伯譲男資通王。後十月九日復解(母)」

とあって、四十歳で神祇伯を息子の資通王に譲り、以後は永仁五年(1297)十二月二十七日に出家して『公卿補任』から消えます。
その間、ずっと「従二位」とだけ記されますが、唯一、正応四年(1291)のみ「五月廿九日恐懼」とあります。
五月二十九日は『実躬卿記』に、

或以彼仁【善空】口入令昇進之輩、民部卿<康能>・中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>
解官。伯二位資緒等被止出仕。不可説々々。非所及言語事也。

と記された日ですが、ここに登場する「中将<資顕>」は資緒王の弟・源資顕です。
源資顕は正安元年(1299)に従三位に叙せられて『公卿補任』に登場しますが、その尻付に非常に奇妙なことが書かれているので、全文をそのまま紹介します。

-------
  従三位 源資顕 六月六日叙。元前右中将。
     故入道従二位侍従資基王二男。母。
建長八正六叙爵(王氏。于時博仲王)。建治三正廿九侍従(于時源資顕)。
弘安元十一十八従五上。同二十二二右少将。同五十二廿六正五下。同七正
五従四下。同八五廿二還任右少将。同十一正五従四上。正応三二七正四下。
同九月廿一復任(母)。十一月廿一転中将。同四正廿七解官。依恐懼也
(源空上人一拝之理也云々。)
-------

源資顕は建長八年(康元元年、1256)正月五日に叙爵ですが、「王氏。于時博仲王」とのことなので、ここだけ見ると父から神祇伯を譲られたようにも見えます。
しかし、先に概要を紹介したように、兄の資緒王が従三位に叙せられた文永八年(1271)の尻付には「康元元正日従五上(七才)。同廿一日兼武蔵介。十二月十三日遷任神祇伯(父譲。于時王氏。七才)」とあり、父から神祇伯を譲られたのは兄の資緒王なので、何故に源資顕が「博仲王」だったのか、よく分らないですね。
ま、それはともかく、博仲王から源資顕と改名した後、亀山院政下の弘安八年(1285)に従四位下、右少将だった資顕は、弘安十年(1287)の後深草院政開始後、従四位下、正四位上と昇叙し、中将にも任ぜられます。
しかし、正応四年(1291)「正廿七解官。依恐懼也(源空上人一拝之理也云々。)」とあって、まず正月二十七日という日付が不可解です。
ここはおそらく「五」を「正」、「九」を「七」と間違えただけと思いますが、「源空上人一拝之理也云々」は更に不可解で、「源空上人」と言われれば普通は浄土宗の開祖・法然上人(1133-1212)を連想してしまいます。
『公卿補任』を眺めていて目が点になることはあまりないと思いますが、この記述を初めて見たとき、私の目は点になっていたかもしれません。
まあ、ここも「善空上人」の単なる誤記でしょうが、『公卿補任』もけっこういい加減だなあ、と思わざるをえないですね。
さて、私にとって重要なのは「源空上人」という誤記ではなく、源資顕にとって善空事件に関与したことが経歴上の致命傷となった訳ではないことです。
八年後と時間は相当かかっていますが、資顕は永仁七年(1299)に従三位に叙せられて公卿の仲間入りをしているので、これで完全復活ですね。
その後は特に任官されることもなく、正安四年(乾元元、1302)「十一月廿一日薨」ということで『公卿補任』から消えて行きますが、公卿として「薨」ずることができたのは、白川伯王家のような、特色はあっても、それほど家格の高くない家に次男として生まれた資顕にとっては、それなりに幸せだったようにも思います。
以上、善空事件に関与した六条康能・資緒王・源資顕の三人の経歴を見てきましたが、もともとそれほど高い家格に生まれた人たちではないので、後深草院政の開始以後の昇進も、まあ、それほど大したものでもないですね。
六条康能と資緒王は失脚後数年で死んでしまいますが、源資顕は復活して公卿の仲間入りをしているので、善空事件全体が意外とショボい事件だったような感じもしてきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする