学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その3)

2022-06-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月22日(水)13時14分0秒

筧氏が「正応六年(一二九三)四月二十一日の早朝、経師ヶ谷の頼綱屋形に得宗の意をうけた討手が馳せむかい、合戦のすえ、頼綱、飯沼助宗父子は、屋形に火を懸け、自害した」と書かれているように、平頼綱の本邸は名越の経師ヶ谷にありましたが、後深草院二条が向かったのは別の場所です。
即ち、

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 相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

とのことで、平頼綱の役宅は「相模の守の宿所のうち」の「角殿」であり、空間的にも頼綱は得宗・北条貞時に密着していた訳ですね。
そして、豪華絢爛な頼綱邸には、大柄で派手な雰囲気の平頼綱夫人が二条を待ち構えています。

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 御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短かなる白き直垂姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。
 御所よりの衣とて取り出だしたるをみれば、蘇芳の匂ひの内へまさりたる五つ衣に、青き単重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子とを、かたみがはりに織られたるを、さまざまに取りちがへて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く二番は濃き紫などにて、いと珍らかなり。「などかくは」といへば、「御服所の人々も御暇なしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、重なりばかりはとり直させなどするほどに、守の殿より使あり。
「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて公びたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知しいふべきことなければ、「御厨子の立て所々らく御衣の掛けやうかくやあるべき」などにて帰りぬ。
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ということで、「御方とかや」に二条の差別意識が少し出ていますが、とにかく頼綱夫人はそれなりに立派に見えたのに、頼綱入道がチョコチョコと走り寄ってきて、妙に袖の短い変な服装でだらしなく夫人に寄り添っていたのは興ざめであった、と二条の頼綱に向けられた視線は極めて辛辣です。
そして肝心の「五つ衣」は無教養で無知蒙昧な連中が訳の分からない裁ち方をしていたので滑稽だったけれども、自分が適切に指導してあげたところ、今度は得宗・北条貞時から使いが来て、将軍御所の公的空間は「比企にて、男たち沙汰」するが、「常の御所」の内装は「京の人」にチェックしてもらえ、という貞時の指示があったと聞き、面倒臭いなとは思ったものの、行き掛かり上、仕方ないかと思って行ってあげたら、こちらは「五つ衣」ほど目も当てられないという状況ではなく、少しアドバイスしてあげて帰りました、となります。
以上、長々と『とはずがたり』を引用しましたが、この場面では歴史学者が強調するところの平頼綱政権の「恐怖政治」の雰囲気が欠片も感じられないので、何だか妙な具合いですね。
なお、この「比企にて、男たち沙汰」云々の意味が分かりにくく、三角洋一氏のように「日記」の誤記ではないかとする研究者もおられますが、それではなおさら意味不明です。
少し時期は後になりますが、金沢北条氏の周辺に「比企助員」という早歌の作者が存在しているので、あるいは没落した比企一族の中で、政治的には重要な立場ではなくとも、何らかの特別な知識・技能を生かして将軍家・得宗家に仕えていた「比企」某がいたのかもしれません。

外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b50b1527bad3dab51ee650443f6cc38

さて、筧著に戻ると、筧氏は「東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品も、じっさいは後深草上皇から頼綱への贈与であったろう」と書かれていますが、対象が「五つ衣」ですから、ここは素直に女性から女性への贈り物と考えるべきでしょうね。
もちろん政治的な意味合いがあるので、後深草院の承認があったであろうことは当然です。
そして、筧氏は「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」という具合いに、ここでは何故か善空上人の名前を出しませんが、「第六章 両統迭立の日々」の「3 公家徳政のめざすもの」に再び善空上人が登場します。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その2)

2022-06-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月22日(水)10時10分39秒

前回投稿で引用した部分で、筧氏は「この間、洛中における得宗家の拠点、五条の安東平右衛門入道の屋形は、六波羅の分庁のような存在となり、蓮聖やその子息は、探題兼時腹心の被官(家人)として活動したであろう」と言われています。
私も安東蓮聖の周辺を少し調べてみましたが、「五条の安東平右衛門入道の屋形」が「六波羅の分庁のような存在」となっていたことを積極的に基礎づける史料はおそらくないだろうと思います。
また、蓮聖との関係は明確ではありませんが、安東一族であることは間違いない安東重綱は平禅門の乱で平頼綱を討伐する側に立っており、「六波羅を支配する御内人」の筆頭である長崎新左衛門入道性杲と安東蓮聖の関係が良好だったのかも不明です。
鎌倉幕府の首脳部が一枚岩でないのと同様、得宗被官も一枚岩ではなかったはずなので、安東蓮聖の役割については慎重に考慮する必要があると思います。
なお、私は善空上人関係の史料が出てくるとすれば、やはり久米田寺あたりからではないかと考えていました。
西大寺流の律宗は本当に急激に膨張したので、そうした巨大組織の通例として派閥対立はあったはずであり、大きく叡尊派と忍性派に分かれる中で、安東連聖が庇護した久米田寺は鎌倉と緊密に連繋していた忍性派の拠点だったと思われます。
とすると、平頼綱と近かったらしい善空上人は忍性派で、久米田寺とも関係があったのではないかと推測していたのですが、これもやはり慎重に考えるべきかもしれません。
ま、それはともかく、筧著の続きです。(p215以下)

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 飯沼助宗の検非違使補任といい、長崎性杲の六波羅における活動といい、頼綱執政期は、得宗御内人の朝廷側への接近を示す痕跡が、すくなくない。『とはずがたり』に言及された、東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品も、じっさいは後深草上皇から頼綱への贈与であったろう。上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる。敗訴者たちの多くが鎌倉へ下って事情を訴え、幕府が不快感を示したため、問題の律僧の口入(取り次ぎ)によって昇進した殿上人は出仕を停められ、また二百ヵ所におよぶ所領が本主の許に返付された(『実躬卿記』正応四年五月二十九日条)。このとき、長崎新左衛門入道(性杲)は、おなじく頼綱の一族、平七郎左衛門尉とともに関東へ召喚された、と伝えられる。上皇側近の律僧と、六波羅に駐在する得宗御内の有力者は、手を携えて、後深草上皇の治世に影響力を及ぼしていたのではあるまいか。
 長崎性杲が、関東へ向かいつつあった、六月五日のことである。頼綱は、山門出身の護持僧に、かつて城陸奥入道追討の際、効験をあらわした秘法を再び修すべきむね、極秘裡に申し送った。理由は「世上怖畏」である。長崎性杲の関東召喚にいたる経緯の中に、頼綱は、ある種の予兆を見て取ったのであろう。泰盛調伏に用いた秘法を、自らの身を守るため、役立てようとしたのである。頼綱の去るべきときが、近づきつつあった。正応六年(一二九三)四月二十一日の早朝、経師ヶ谷の頼綱屋形に得宗の意をうけた討手が馳せむかい、合戦のすえ、頼綱、飯沼助宗父子は、屋形に火を懸け、自害した。得宗の身辺には、弘安の第二次モンゴル合戦の際「御使」として現地へ赴いた安東重綱の姿があった。頼綱の死命を制したのは、おそらく、安東一族をはじめとする、おなじく得宗御内の人々であったろう。北条貞時の時代が、ここにはじまる。
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「東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品」については、『とはずがたり』に詳細な記述があります。
『とはずがたり』の巻四で、いつの間にか尼になっていた後深草院二条は正応二年(1289)二月二十日過ぎ、鎌倉に向けて京都を出発し、普通は二週間くらいの日程なのに一か月くらいかけてのんびり下って翌三月二十日過ぎに鎌倉に入ります。
そして鶴岡八幡宮や「荏柄・二階堂・大御堂などいふところども拝」んだ後、「大蔵の谷といふ所に、小町殿とて将軍に候ふは、土御門の定実のゆかりなれば」手紙を送ったところ、「小町殿」が「いと思ひ寄らず」「わがもとヘ」と言ってくれたにもかかわらず、「なかなかむつかしくて、近きほどに宿をとりて」過ごします。

http://web.archive.org/web/20150513072639/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-komachidono.htm

そして、しばらくブラブラしていると、九月になって惟康親王が将軍を罷免され、京都に送還されるという大事件が発生し、二条は、

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 さても将軍と申すも、ゑびすなどがおのれと世をうち取りて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後の嵯峨の天皇、第二の皇子と申すべきにや、後深草のみかどには、御年とやらんほどやらん御まさりにて、まづ出でき給ひにしかば、十善のあるじにもなり給はば、これも、位をも継ぎ給ふべき御身なりしかども、母准后の御事ゆゑかなはでやみ給ひしを、将軍にて下り給ひしかども、ただ人にてはおはしまさで、中務の親王と申し侍りしぞかし。その御あとなれば、申すにや及ぶ。何となき御おもひ腹など申すこともあれども、藤門執柄の流れよりも出で給ひき。いづ方につけてか、少しもいるがせなるべき御ことにはおはしますと思ひつづくるにも、まづ先立つものは涙なりけり。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

などと憤慨します。
そして、新たに後深草院の皇子である久明親王が将軍として東下することとなり、「平左衛門入道が二郎、飯沼の判官、未だ使の宣旨もかうぶらで、新左衛門と申し候ふ」助宗が迎えに行きます。
久明親王の到着が近づいて世間が騒がしくなったころ、「小町殿」から二条に手紙が来ます。

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 何ごとかとてみるに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前、御方といふがもとへ東二条院より五つ衣を下し遣されたるが、調ぜられたるままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家の習ひ苦しからじ。そのうへ誰とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模の守の文などいふものさへとり添へて、何かといはれしうヘ、これにては何とも見沙汰する心地にてあるに、安かりぬべきことゆゑ、何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

ということで、東二条院から平頼綱夫人に「五つ衣」が贈られてきたものの、文化レベルの低い「ゑびすなど」にはその扱い方が分からないので困っているようです、相談に乗ってもらえませんか、と依頼が来ます。
しかし、面倒なので何度も断っていたところ、とうとう「相模の守の文」(得宗の北条貞時の手紙)まで送られてきたので、仕方なく二条は平頼綱邸に向かいます。
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