投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月22日(水)13時14分0秒
筧氏が「正応六年(一二九三)四月二十一日の早朝、経師ヶ谷の頼綱屋形に得宗の意をうけた討手が馳せむかい、合戦のすえ、頼綱、飯沼助宗父子は、屋形に火を懸け、自害した」と書かれているように、平頼綱の本邸は名越の経師ヶ谷にありましたが、後深草院二条が向かったのは別の場所です。
即ち、
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相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。
http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
とのことで、平頼綱の役宅は「相模の守の宿所のうち」の「角殿」であり、空間的にも頼綱は得宗・北条貞時に密着していた訳ですね。
そして、豪華絢爛な頼綱邸には、大柄で派手な雰囲気の平頼綱夫人が二条を待ち構えています。
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御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短かなる白き直垂姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。
御所よりの衣とて取り出だしたるをみれば、蘇芳の匂ひの内へまさりたる五つ衣に、青き単重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子とを、かたみがはりに織られたるを、さまざまに取りちがへて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く二番は濃き紫などにて、いと珍らかなり。「などかくは」といへば、「御服所の人々も御暇なしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、重なりばかりはとり直させなどするほどに、守の殿より使あり。
「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて公びたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知しいふべきことなければ、「御厨子の立て所々らく御衣の掛けやうかくやあるべき」などにて帰りぬ。
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ということで、「御方とかや」に二条の差別意識が少し出ていますが、とにかく頼綱夫人はそれなりに立派に見えたのに、頼綱入道がチョコチョコと走り寄ってきて、妙に袖の短い変な服装でだらしなく夫人に寄り添っていたのは興ざめであった、と二条の頼綱に向けられた視線は極めて辛辣です。
そして肝心の「五つ衣」は無教養で無知蒙昧な連中が訳の分からない裁ち方をしていたので滑稽だったけれども、自分が適切に指導してあげたところ、今度は得宗・北条貞時から使いが来て、将軍御所の公的空間は「比企にて、男たち沙汰」するが、「常の御所」の内装は「京の人」にチェックしてもらえ、という貞時の指示があったと聞き、面倒臭いなとは思ったものの、行き掛かり上、仕方ないかと思って行ってあげたら、こちらは「五つ衣」ほど目も当てられないという状況ではなく、少しアドバイスしてあげて帰りました、となります。
以上、長々と『とはずがたり』を引用しましたが、この場面では歴史学者が強調するところの平頼綱政権の「恐怖政治」の雰囲気が欠片も感じられないので、何だか妙な具合いですね。
なお、この「比企にて、男たち沙汰」云々の意味が分かりにくく、三角洋一氏のように「日記」の誤記ではないかとする研究者もおられますが、それではなおさら意味不明です。
少し時期は後になりますが、金沢北条氏の周辺に「比企助員」という早歌の作者が存在しているので、あるいは没落した比企一族の中で、政治的には重要な立場ではなくとも、何らかの特別な知識・技能を生かして将軍家・得宗家に仕えていた「比企」某がいたのかもしれません。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b50b1527bad3dab51ee650443f6cc38
さて、筧著に戻ると、筧氏は「東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品も、じっさいは後深草上皇から頼綱への贈与であったろう」と書かれていますが、対象が「五つ衣」ですから、ここは素直に女性から女性への贈り物と考えるべきでしょうね。
もちろん政治的な意味合いがあるので、後深草院の承認があったであろうことは当然です。
そして、筧氏は「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」という具合いに、ここでは何故か善空上人の名前を出しませんが、「第六章 両統迭立の日々」の「3 公家徳政のめざすもの」に再び善空上人が登場します。
筧氏が「正応六年(一二九三)四月二十一日の早朝、経師ヶ谷の頼綱屋形に得宗の意をうけた討手が馳せむかい、合戦のすえ、頼綱、飯沼助宗父子は、屋形に火を懸け、自害した」と書かれているように、平頼綱の本邸は名越の経師ヶ谷にありましたが、後深草院二条が向かったのは別の場所です。
即ち、
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相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。
http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
とのことで、平頼綱の役宅は「相模の守の宿所のうち」の「角殿」であり、空間的にも頼綱は得宗・北条貞時に密着していた訳ですね。
そして、豪華絢爛な頼綱邸には、大柄で派手な雰囲気の平頼綱夫人が二条を待ち構えています。
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御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短かなる白き直垂姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。
御所よりの衣とて取り出だしたるをみれば、蘇芳の匂ひの内へまさりたる五つ衣に、青き単重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子とを、かたみがはりに織られたるを、さまざまに取りちがへて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く二番は濃き紫などにて、いと珍らかなり。「などかくは」といへば、「御服所の人々も御暇なしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、重なりばかりはとり直させなどするほどに、守の殿より使あり。
「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて公びたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知しいふべきことなければ、「御厨子の立て所々らく御衣の掛けやうかくやあるべき」などにて帰りぬ。
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ということで、「御方とかや」に二条の差別意識が少し出ていますが、とにかく頼綱夫人はそれなりに立派に見えたのに、頼綱入道がチョコチョコと走り寄ってきて、妙に袖の短い変な服装でだらしなく夫人に寄り添っていたのは興ざめであった、と二条の頼綱に向けられた視線は極めて辛辣です。
そして肝心の「五つ衣」は無教養で無知蒙昧な連中が訳の分からない裁ち方をしていたので滑稽だったけれども、自分が適切に指導してあげたところ、今度は得宗・北条貞時から使いが来て、将軍御所の公的空間は「比企にて、男たち沙汰」するが、「常の御所」の内装は「京の人」にチェックしてもらえ、という貞時の指示があったと聞き、面倒臭いなとは思ったものの、行き掛かり上、仕方ないかと思って行ってあげたら、こちらは「五つ衣」ほど目も当てられないという状況ではなく、少しアドバイスしてあげて帰りました、となります。
以上、長々と『とはずがたり』を引用しましたが、この場面では歴史学者が強調するところの平頼綱政権の「恐怖政治」の雰囲気が欠片も感じられないので、何だか妙な具合いですね。
なお、この「比企にて、男たち沙汰」云々の意味が分かりにくく、三角洋一氏のように「日記」の誤記ではないかとする研究者もおられますが、それではなおさら意味不明です。
少し時期は後になりますが、金沢北条氏の周辺に「比企助員」という早歌の作者が存在しているので、あるいは没落した比企一族の中で、政治的には重要な立場ではなくとも、何らかの特別な知識・技能を生かして将軍家・得宗家に仕えていた「比企」某がいたのかもしれません。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b50b1527bad3dab51ee650443f6cc38
さて、筧著に戻ると、筧氏は「東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品も、じっさいは後深草上皇から頼綱への贈与であったろう」と書かれていますが、対象が「五つ衣」ですから、ここは素直に女性から女性への贈り物と考えるべきでしょうね。
もちろん政治的な意味合いがあるので、後深草院の承認があったであろうことは当然です。
そして、筧氏は「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」という具合いに、ここでは何故か善空上人の名前を出しませんが、「第六章 両統迭立の日々」の「3 公家徳政のめざすもの」に再び善空上人が登場します。