投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月12日(土)09時28分54秒
石母田正とは何だったのかを考えるためには、氏の著書を読むのと平行して、同時代の他の歴史学者と比較する必要があるな、と思っているのですが、比較の対象として一番良いのは西欧中世史の堀米庸三氏みたいですね。
堀米氏は1913年生まれで石母田氏より1歳下、山形県出身で旧制一高、東京帝大文学部西洋史学科卒業。
石母田氏が学生運動・共産主義運動に熱心だったのに対し、堀米氏は文字通りの運動好きで、テニス・陸上競技・スキー・水泳とスポーツ万能。
マルクス主義の直接の影響は受けずに大学教員としてのオーソドックスな人生を歩む一方、社会的な活動も活発で、専門的な論文・著書以外に啓蒙的な著作や随筆も多いですね。
1975年、62歳で亡くなっていて、歴史学者としての活動時期はほぼ石母田氏と重なっています。
同氏の『わが心の歴史』(新潮社、1976年)に載っている「我が家のこと」には次の記述があります。
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我が家の歴史は、初代が上州堀米村を出てここ山形県西村山郡河北町谷地沢畑に住みついた時代以来であるから、元禄十年頃(一六九七年頃)に始まる。(中略)
初代と二代の記録は余りない。三代目になって突然豪農として頭角をあらわすようになり、四代目はその基礎に立ってこの地方(柴橋代官領)有数の名望家となり、また名主となった。これから幕末と明治の前期にでた六代目の時代までが、我が家の最盛期である。家伝によると四代目以降、次々に広く大名貸をやったことになっているが、それを直接証明する文書はまだみつかっていない。非常に数多く見出されるのは、山形方面のみならず仙台や石巻方面に及ぶ金融業関係文書である。地主としても小さくはなかったが、それ以上に我が家の声望を高めたのは、金融業であった。
歴代の当主の中、最もはなやかな仕事をやり、現在の屋敷景観にも関係しているのは、六代目である。写真にもうつっている石壁の正面、屋敷の一番深いところに濠をめぐらした、いまでは日本でも珍しい御朱印蔵を建てたのも彼である。(後略)
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雑誌記事を転載したものなので『わが心の歴史』には建物の写真は出ていないのですが、さすがにここまで読むと、堀米氏の生家が河北町の観光名所「紅花資料館」であることに気づきました。
ただ、「我が家のこと」には最後まで紅花が登場しないのが、ちょっと不思議ですね。
紅花資料館
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/1833.html
「河北町の偉人 堀米庸三」
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/2977.html
石母田正とは何だったのかを考えるためには、氏の著書を読むのと平行して、同時代の他の歴史学者と比較する必要があるな、と思っているのですが、比較の対象として一番良いのは西欧中世史の堀米庸三氏みたいですね。
堀米氏は1913年生まれで石母田氏より1歳下、山形県出身で旧制一高、東京帝大文学部西洋史学科卒業。
石母田氏が学生運動・共産主義運動に熱心だったのに対し、堀米氏は文字通りの運動好きで、テニス・陸上競技・スキー・水泳とスポーツ万能。
マルクス主義の直接の影響は受けずに大学教員としてのオーソドックスな人生を歩む一方、社会的な活動も活発で、専門的な論文・著書以外に啓蒙的な著作や随筆も多いですね。
1975年、62歳で亡くなっていて、歴史学者としての活動時期はほぼ石母田氏と重なっています。
同氏の『わが心の歴史』(新潮社、1976年)に載っている「我が家のこと」には次の記述があります。
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我が家の歴史は、初代が上州堀米村を出てここ山形県西村山郡河北町谷地沢畑に住みついた時代以来であるから、元禄十年頃(一六九七年頃)に始まる。(中略)
初代と二代の記録は余りない。三代目になって突然豪農として頭角をあらわすようになり、四代目はその基礎に立ってこの地方(柴橋代官領)有数の名望家となり、また名主となった。これから幕末と明治の前期にでた六代目の時代までが、我が家の最盛期である。家伝によると四代目以降、次々に広く大名貸をやったことになっているが、それを直接証明する文書はまだみつかっていない。非常に数多く見出されるのは、山形方面のみならず仙台や石巻方面に及ぶ金融業関係文書である。地主としても小さくはなかったが、それ以上に我が家の声望を高めたのは、金融業であった。
歴代の当主の中、最もはなやかな仕事をやり、現在の屋敷景観にも関係しているのは、六代目である。写真にもうつっている石壁の正面、屋敷の一番深いところに濠をめぐらした、いまでは日本でも珍しい御朱印蔵を建てたのも彼である。(後略)
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雑誌記事を転載したものなので『わが心の歴史』には建物の写真は出ていないのですが、さすがにここまで読むと、堀米氏の生家が河北町の観光名所「紅花資料館」であることに気づきました。
ただ、「我が家のこと」には最後まで紅花が登場しないのが、ちょっと不思議ですね。
紅花資料館
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/1833.html
「河北町の偉人 堀米庸三」
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/2977.html