学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

堀米庸三氏と紅花資料館

2014-04-12 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月12日(土)09時28分54秒

石母田正とは何だったのかを考えるためには、氏の著書を読むのと平行して、同時代の他の歴史学者と比較する必要があるな、と思っているのですが、比較の対象として一番良いのは西欧中世史の堀米庸三氏みたいですね。
堀米氏は1913年生まれで石母田氏より1歳下、山形県出身で旧制一高、東京帝大文学部西洋史学科卒業。
石母田氏が学生運動・共産主義運動に熱心だったのに対し、堀米氏は文字通りの運動好きで、テニス・陸上競技・スキー・水泳とスポーツ万能。
マルクス主義の直接の影響は受けずに大学教員としてのオーソドックスな人生を歩む一方、社会的な活動も活発で、専門的な論文・著書以外に啓蒙的な著作や随筆も多いですね。
1975年、62歳で亡くなっていて、歴史学者としての活動時期はほぼ石母田氏と重なっています。
同氏の『わが心の歴史』(新潮社、1976年)に載っている「我が家のこと」には次の記述があります。

--------
 我が家の歴史は、初代が上州堀米村を出てここ山形県西村山郡河北町谷地沢畑に住みついた時代以来であるから、元禄十年頃(一六九七年頃)に始まる。(中略)
 初代と二代の記録は余りない。三代目になって突然豪農として頭角をあらわすようになり、四代目はその基礎に立ってこの地方(柴橋代官領)有数の名望家となり、また名主となった。これから幕末と明治の前期にでた六代目の時代までが、我が家の最盛期である。家伝によると四代目以降、次々に広く大名貸をやったことになっているが、それを直接証明する文書はまだみつかっていない。非常に数多く見出されるのは、山形方面のみならず仙台や石巻方面に及ぶ金融業関係文書である。地主としても小さくはなかったが、それ以上に我が家の声望を高めたのは、金融業であった。
 歴代の当主の中、最もはなやかな仕事をやり、現在の屋敷景観にも関係しているのは、六代目である。写真にもうつっている石壁の正面、屋敷の一番深いところに濠をめぐらした、いまでは日本でも珍しい御朱印蔵を建てたのも彼である。(後略)
--------

雑誌記事を転載したものなので『わが心の歴史』には建物の写真は出ていないのですが、さすがにここまで読むと、堀米氏の生家が河北町の観光名所「紅花資料館」であることに気づきました。
ただ、「我が家のこと」には最後まで紅花が登場しないのが、ちょっと不思議ですね。

紅花資料館
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/1833.html
「河北町の偉人 堀米庸三」
http://www.town.kahoku.yamagata.jp/2977.html
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「石母田正における「支配の正当性」」(by 古尾谷知浩氏)

2014-04-11 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月11日(金)22時10分39秒

>筆綾丸さん
ウェーバーとニーチェについては牧野雅彦氏も『責任倫理の系譜学』(日本評論社、2000年)で相当詳しく書かれていますね。
この本を手には取ったのですが、今の私には高度に過ぎるかなと思って、ちょっと躊躇っています。

『責任倫理の系譜学 ウェーバーにおける政治と学問』

それと、今日、図書館で古尾谷知浩氏の『律令国家と天皇家産機構』(塙書房、2006年)を見かけ、ウェーバーの匂いを感じたので中身を見たら、ウェーバーのてんこ盛りでした。

-------
序章 家産制支配
 はじめに─本書の課題
(中略)
  第一節 学説史の中の家産制
   一 石母田正における「支配の正当性」

 石母田正がその著書『日本の古代国家』の冒頭で引用したのは、ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』の次の一節であった。
「最も強いものでも自分の強力を権利に、服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人であり得るほどに強いものでは決してない。」(『社会契約論』第一編第三章)
 石母田がこの部分を引用した意図を考えるために、ここでしばらくルソー『社会契約論』における関係部分をみておこう。
「人間は自由なものとして生まれた。そしていたるところで鉄鎖につながれている。」
 この一節は誤解されることが多いが、ルソーはここで「この鉄鎖を断ち切って生まれたままの自由な状態に戻れ」と主張しているのでは決してない。彼は「自然に帰れ」とは一言も記したことはないのである。同じパラグラフの最後の部分をみてみよう。「どのようにしてこの変化が生じたのか。私は知らない。何がこれを正当なものとすることができるか。私はこの問題は解くことができると信ずる。」つまりルソーは人々を規制する社会秩序をどのようにして正当な、あるべきものとしていったらよいかということを議論の出発点においているのである。
 石母田が引用した部分も、この文脈の延長で理解すべきものである。すなわち、石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言しているのである。
(後略)
---------

この記述自体は分かりやすいのですが、古尾谷氏が2006年になってわざわざこんなことを書かねばならないのは、従来の歴史学者の大半が「石母田は『日本の古代国家』の冒頭で、「支配の正当性」という問題について議論することを宣言して」いない、と思っていたという事態の反映なのですかね。
この点、注(3)には次の記述があります。

---------
 本書と同様に、ウェバーから石母田正『日本の古代国家』を読み解こうとするのが、東島誠「非人格的なるものの位相─石母田正『日本の古代国家』で再構成されたもの」(『歴史学研究』七八二、二〇〇三年)である。首肯すべき点の多い論考であり、筆者も同様に石母田を批判的に継承しようとするものであるが、二点だけ指摘しておきたい。
 第一に、東島は、吉川真司が「律令官僚制の基本構造」(『律令官僚制の研究』塙書房、一九九八年、初発表一九八九年)で、石母田を批判したことに対し、「吉川は、・・・石母田の議論に貫通しているヴェーバリアン的な分析手法に無関心でありすぎるのではないか。」と批判する。しかし、むしろ吉川は石母田の分析手法及び分析結果について、ウェバー的な性格を見抜いた上で、正にその部分を否定しているように見える。
(後略)
---------

「ウェバー」と表記するのが古尾谷氏のこだわりみたいですね。
ま、それはともかく、この古尾谷氏の記述を素直に読むと、1971年に『日本の古代国家』が刊行されて以降、同書の「ウェバー的な性格を見抜いた」のは東島・古尾谷の二氏、または吉川・東島・古屋谷の三氏だけだった、ということになりそうですね。
ふーむ。
まあ、私としては、「ウェバー的な性格を見抜」けない人がいたとしたら、それは単なる間抜けだとしか思えないのですが。

『律令国家と天皇家産機構』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「アポロン的とディオニュソス的」 2014/04/10(木) 20:12:20
小太郎さん
失礼しました。早とちりでした。

山之内靖氏の『マックス・ヴェーバー入門 』をパラパラ読んで、ニーチェとヴェーバーの親縁性ということを興味深く思いました。
-----------------------
この『社会学の根本概念』は、文字どおり、ヴェーバーの死の直前に書かれたものなのですが、そうだとすればますます、この断片的な記録の意味は深刻だとしなければなりません。ヴェーバーは死の直前において、フロイトやニーチェの問題提起に合意し、彼の理解社会学によって解明できる範囲は限られたものでしかないことを公表していたのです。ヴェーバーはその直後の段階において、ニーチェに発するディオニュソス的な力の働きを容認したと見てよいでしょう。
人間の歴史をつき動かしてきた力には、マルクスが言うところの生産力とは質を異にし、さらにまた、ヴェーバーが生涯を通じて解明に取り組んできた宗教的救済に向かう観念の力とも異なるところの、いま一つの力が働いている。それは身体に源をもつ力である。このディオニュソス的な力は、しかし、あらゆる文化的意味の枠組みから外れた力であり、ニーチェの言葉を用いれば、「生成の無垢」と呼ばれるほかない力である。ヴェーバーは歴史において働く力の中に、この混沌たる無規定的なエネルギーの働きがあることを、最終段階において、はっきり確認したのでした。
『中間考察』において、近代文化のゆきつく果てに「死の無意味化」が現れてくると指摘されていることも、『社会学の根本概念』の以上の論点と重ね合わせて理解されるべきでしょう。近代以前の諸文化は、死そのものをも無意味とはせず、それに何らかの文化的含意を与えてきました。しかし、合理化のゆきついた果てにおいては、死は文字どおりに生物学的なレヴェルでの終焉というむきだしの姿をとって訪れることとなります。そしてそのことに、現代人は深い失望感を味わうことになるのです。(222頁~)
-----------------------
これは半分冗談ですが、石母田氏の『中世的世界の形成』が多くの中世史研究者を魅了してやまないのは、東大寺に対する黒田庄のディオニュソス的な力(「混沌たる無規定的なエネルギー」)にあるのではないか、というような感じがしないでもないですね。

また、ヴェーバーがよくイタリア旅行をしたというのも、じつに面白いですね。
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私がここで、むしろ中心として取り上げたいのは、ヴェーバーがしばしばイタリア旅行を繰り返した点からもわかるように、アルプス以北のプロテスタント的文化圏と、アルプス以南の、南欧的ないし地中海的文化圏の差異のもつ、きわめて大きな意味です。この脈絡から浮かび上がる論点には二つの側面があります。
第一は、アルプス以北の厳格なプロテスタント的職業義務の精神に対して、それとは対照的な南欧的な現世主義的心情の葛藤という側面です。そして、第二の側面として、ヨーロッパ都市市民の系譜に立つキリスト教精神に対して、それとは対照的な、古代ポリスの戦士市民の系譜に由来する騎士的な精神の葛藤という、第一のそれとは異なったもう一つの側面が浮かび上がってきます。(110頁)
------------------------

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マックス・ヴェーバー生誕150年

2014-04-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月10日(木)12時22分44秒

「歴史学と『日本人論』」には、

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 ですからダビデ王の場合の神と人間の倫理的な緊張関係というのは、早くいえばイスラエルにおける個と個ですね。個人と個人の人間関係の一つの緊張を示しているということを考えますと、ご存じのマックス・ウェーバーが『古代ユダヤ教』を書いたあの中で指摘しておりますが、イスラエルというのは、私もウェーバーの受け売りなんですけれども、一つの誓約共同体であって、その古代ユダヤ教をつくったのはエルサレムという都市ですね。都市国家なのだということを、彼は一つ指摘しておりますけれども、このことを考えますと、日本との違いの根拠がどこにあるかということが、若干展望されてくるわけです。
------

などという記述もあります(p306)。
石母田氏の著作を丁寧にたどれば、戦後、石母田氏がウェーバーをどのように受容したかはある程度明確にできそうですが、戦前は難しいですね。

ちなみにマックス・ウェーバーは1864年4月21日生まれなので、そろそろ150回目の誕生日です。
検索してみたら、岩波書店では「マックス・ヴェーバー生誕150年」と銘打って、著書の紹介をしていますね。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/donna14/top3.html

また、みすず書房からは去年、ヴォルフガング・シュヴェントカー氏の『マックス・ウェーバーの日本 受容史の研究1905-1995』という本が出たそうです。

-------
1984年、ドイツのJ.C.B.Mohr社から『マックス・ウェーバー全集』の最初の数巻が刊行されたとき、出版部、編集者、スタッフたちが驚いたのは、出版部数の三分の二がドイツでもなく、ヨーロッパでもアメリカでもなく、日本で売れたという事実だった。このような瞠目すべき事態を生んだ日本の社会科学の事情、ウェーバーと日本との親和性とは、いったい何なのか。
(中略)
そして戦後、大塚久雄を中心に丸山眞男、川島武宜らの影響のもと、マックス・ウェーバーの著作の翻訳や研究書の数はどんどん膨らんでゆく。1964年、500名が参加した東京大学における「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」は、その象徴的場であったろう。そこには、戦後における日本社会の分析や道筋の模索、マルクスとの対抗あるいは相互補完の可能性など、さまざまな思いや制約条件が重なっていた。さらに安藤英治、内田芳明、折原浩から山之内靖まで、ウェーバーの読まれ方は批判的に継承されてゆく。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07709.html

この「マックス・ウェーバー生誕百年シンポジウム」の記録は大塚久雄編で東大出版会から出ていて(『マックス・ウェーバー研究』、1965年)、その中の丸山真男「戦前におけるヴェーバー研究」と堀米庸三「歴史学とウェーバー」を読んでみましたが、戦前のマルクス主義の歴史学者にとっては、ウェーバーはなかなか難しい存在だったようですね。
戦前の思想の動向はめまぐるしく変化するので、時期によって相当違いはありますが、ウェーバーなど典型的なブルジョワ学問として排斥する人も多く、仮に個人的には影響を受けていたとしても、なかなか公言しづらい雰囲気もあったみたいですね。
ま、石母田氏個人にとってどうだったのかは今のところ全然分かりませんが。
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「私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども」

2014-04-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月10日(木)09時16分35秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
「今西さんという最近の人」は石母田氏の講演記録での表現です。
国会図書館サイトで検索してみたら、「罪意識の基底--源氏物語の密通をめぐって」(東京大学国語国文学会編『国語と国文学』1973年5月号)という論文みたいですね。
石母田氏は少し後で、

--------
学者はいろいろ詳しく調べてくれるのでありまして、『源氏物語』には罪という言葉が一八〇回出てくるそうです。私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども、学者というのはありがたいもので、一八〇回出てくる。これは物語のなかで、圧倒的に源氏というものが罪というものを意識した証拠である、というので、それもごもっともだろうと思います。
---------

と書かれていて(p307)、ここも注記はないのですが、今西氏の同じ論文で間違いないようです。
それにしても「私はそんな馬鹿なことは調べたことはないのですけれども」「それもごもっともだろうと思います」というのはずいぶんシニカルな表現ですね。

今西氏は『増鏡』第五「内野の雪」の冒頭場面から、同氏にとっては極めて論理的な推論を始める訳ですが、西園寺へ向かう道には「九十九折」はないのですから、ごくごく常識的に考えれば、自分の『源氏物語』についての教養をひけらかすのが大好きな『増鏡』の作者が、西園寺と『源氏物語』の「北山のなにがし寺」を重ね合わせて楽しんで書いているのだろうな、で済んでしまう場面ですね。
実際、今西氏以前の源氏学者で、今西氏のような変な疑問を抱いた人はいないのですから。
まあ、現代の国文学者というのは本当に奇妙な人が多いですね。
2008年に議論した当時、筆綾丸さんが書かれた「なぜ、こんなことに、それほど情熱を傾注できるのか」という禁断の疑問は永遠に解けそうもありません。

「今西論文その3、仮説の九十九折」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「過去の人」 2014/04/09(水) 22:19:36
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E7%A5%90%E4%B8%80%E9%83%8E
よく覚えていますが、今西祐一郎氏とは、この人ですね。
-------------------
『蜻蛉日記』が専門で、同書は藤原兼家の協力を得て書かれた、兼家家集の宣伝のためのものだという説を唱えている。
-------------------
こんな説を唱えて何のつもりなのか・・・。
現在、国文学研究資料館の館長とありますが、ということは、あの丸島和洋(敬称略)の所属長ということですか。

保立道久氏は変な表現をよくしますが、「今西さんという最近の人」とは意味不明です。最近を過去に置き換えれば、日本語らしくはなりますが。
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「今西さんという最近の人」

2014-04-09 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)21時01分47秒

保立道久氏の『歴史学をみつめ直す─封建制概念の放棄』(校倉書房、2004年)をパラパラ見たところ、内容面で変なのはともかく、石母田正氏への言及の仕方が気になりました。
例えばp141には「死去の前には『中世政治社会思想 上』(一九七二年)の解説を執筆して」とありますが、石母田氏が亡くなったのは1986年ですから「死去の前」は日本語として変ですね。
「最晩年の石母田は自己の社会構成論を組み直そうとしていました。それを示すのは、一九七三年の講演「歴史学と日本人論」です」(p142)、「晩年の石母田は、日中分岐の基礎にあったのは日本の未開性である、遅れて出発した日本は未開性を基礎として異なる方向へ進んだのだと切り返し」(p143)というのも、1973年の時点で61歳の石母田氏について「晩年」「最晩年」という表現が適当なのか。
結果的に病気で以降の執筆ができなくなったとはいえ、頭脳が研ぎ澄まされていた時期の石母田氏に「晩年」「最晩年」は変ですね。

気になったついでに「歴史学と『日本人論』」(岩波文化講演会、1973年6月28日、著作集第8巻)を読んでみたところ、

-----------
 それではこういう密通というものについて、光源氏はどのようにいったい意識していたかと言いますと、これまた今西さんという最近の人が指摘しておりますように、源氏は自分が密通して妻を奪ったわけですから、その被害者である桐壺の帝になりますね、これに対して「おほけなし」という言葉があるのですが、そういう言葉でもって桐壺に対する自分の感情を表現している。(p303)
-----------

とありました。
注記はありませんが、「今西さんという最近の人」とは今西祐一郎氏みたいですね。
もともと「義満が光源氏幻想を生きた」騒動は今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」という論文が発端なので、妙なところでお会いしたな、という感じです。

「今西論文その1、『源氏物語』注釈史」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932e4aff20b0309968010e86fc8f1134

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六波羅団地の悪夢

2014-04-09 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)19時23分43秒

>筆綾丸さん
「自戒をこめて」だと、「将来に向かって注意しましょう」みたいな感じで受け取る読者も多いでしょうね。
自説の撤回をするときは、きちんと過去の記述を特定し、これこれの理由で考え方を改めました、とはっきり書くのが一番良いと思いますが、小川剛生氏も偉くなりすぎてプライドが邪魔をしているのですかね。

高橋昌明氏は「推論が合理性の範囲を超えて暴走したかもしれない」と言われているので、自分が変なことを言っているとの自覚はあるのでしょうね。
「分かっちゃいるけどやめられない」という植木等の心境でしょうか。
昔はけっこう高橋氏の本を読んだのですが、「六波羅団地」で窒息死しそうになって以降、一冊も買っていません。

カテゴリー「高橋昌明『平家物語 福原の夢』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「ザムザのように」 2014/04/08(火) 15:46:16
小太郎さん
「物語を先例とするような悠長な雰囲気」という表現には、ザムザのように、ある朝、気がかりな夢から目覚めてみると、「丁寧な考証」をすっかり忘れていた、えーい、忌々しい、彼らはまだ、あの浪漫的な幻想に酔い痴れているのだろうか、といったような感情がよく出ていますね。

---------------------------
よく知られているように、一一世紀末~十二世紀初頭以降『源氏物語』第一次受容の波が見られた。そしてここが肝心な点だが、『源氏物語』と海幸・山幸説話の重なりを念頭に置くと、後白河が後者を通して自らを光源氏、平清盛を明石入道、徳子を明石の君になぞらえていた可能性が高い。つまり、コインに喩えると、絵巻はあくまで表の意匠、裏面の図柄は『源氏物語』で、そこには実は表とは別の同時代政治へのアレゴリーが刻印されている、といいたいのである。
(中略)
吉森佳奈子氏は、南北朝期の『源氏物語』古注釈書である『河海抄』の注釈にあげる例が、『源氏物語』成立以前のものだけでなく以後の例に及んでいる事実に注目する。そして、『源氏物語』以前に例はないのに、物語に書かれたことがすぐ後の時代に実現しているとして、「『源氏物語』のありようが享受者を引きつけ、現実をうごかすことになった」「謂わば、物語の史実化、先例化」があったと、主張している。『源氏物語』という言述の世界の広がりが、先蹤や史実になって現実社会を創造する関係である。もし、光源氏のふるまいが、清盛にとっての先例や行動の準則になっていたとすれば、後白河はそれを冷たく見据えながら、清盛が光源氏などとはとんでもない、お前は所詮明石入道に過ぎないのだ、と手のこんだ手法で決めつけていることになるだろう。
推論が合理性の範囲を超えて暴走したかもしれない。だが清盛が自らを光源氏に擬した云々はともかく、平家にとって『源氏物語』が予想以上に大きな意味を持っていた面は否定できない。
(?橋昌明氏『平清盛と福原の夢』130頁~)
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(注)絵巻とは彦火々出見尊絵巻のこと。

高田信敬氏は、「『源氏物語』の例をどれほど集めてみても、それはそれで貴重な仕事ではあるにせよ」と穏やかに云われていますが、本音は、位相ということを知らんのか、そんなこと、ただの暇潰しさ、ということかもしれませんね。

追記
河添房江氏の「准母(女院)」ですが、以下によれば、准母から女院までには背後に政治的な駆引きがあったことになりますね。
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経嗣たちが想像した通り、夫妻とも准三后であるのは清盛夫妻に倣うことになり、不吉でけしからぬ、と不満を匂わせたのであろう。改めて義満は自身への尊号を求めたが、それは難しい。むしろ、女院の制は「太上天皇に准じた」一種の待遇を意味するのだから、どうせ異例であるならば、当初予定されていなかった女院号宣下が、急遽発議されて実現した、と知られる。荒暦の記事は三月五日の院号定へと続き、康子の住居の名を取って「北山院」の号に決したとある。(小川剛生氏『足利義満 公武に君臨した室町将軍』247頁)
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「自戒を込めて」(by 小川剛生氏)

2014-04-08 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 8日(火)10時12分41秒

>筆綾丸さん
桜井英治氏と小川剛生氏は、確かに以前は「義満が光源氏幻想を生きた」みたいな訳の分からないことを口走っていたのですが、少なくとも小川剛生氏はそのような考え方を撤回していますね。
河添房江氏はご存知ないようですが、『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)には次の記述があります。(p257)

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光源氏は先例にならない

 ところで、近年、義満の行動は、源氏物語を意識していたとみる向きもある。とくに光源氏は栄華の絶頂に「太上天皇になずらふ御位」を賜って、以後、「六条院」と院号で呼ばれていることから、臣下が上皇となる先例たり得たとするものである。
 しかし、この一件においては、義満の年頭に光源氏があったとするのはどうであろうか。「太上天皇になずらふ御位」とはいかなるものか、さまざまに穿鑿されてはいる。もっとも、中世最高の水準にある注釈書、一条兼良の花鳥余情が「太上天皇と号せぬばかりにて、院司・年官・年爵・封 戸などは太上天皇に一事かはる所なし。これによりてこの物語に薄雲女院(藤壺中宮)ならびに六条院の御事には太上天皇になずらふるといふ詞をそへたり。これはまことの脱屣(退位)の御門の尊号にあらざるが故なり」と明確にする通り、太政天皇と同格の待遇を与えられたゆえ、院号をもって称されたと解すべきである(女院と同様である)。義満はあくまで尊号を求めていたのであるから、先例とするには足りない。そもそも、後亀山院への尊号宣下すら、荒暦によれば、過去の史実を踏まえたシビアなものであり、物語を先例とするような悠長な雰囲気はなかったであろう。
----------

まるで他人事のような記述ですが、小川剛生氏は『南北朝の宮廷誌』(臨川書店、2003年)では次のように書かれています。(219p以下)

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 先日、ある中世史研究者の方と話をしていた時、足利義満が『源氏物語』を読んでいたという記録はないか、と尋ねられました。まあ義満が熱中したという明徴はないけれど、あの頃なら梗概書がたくさんありますし、『河海抄』の著者もすぐ側にいますから筋くらいは熟知していたのでは、と答えると、政治的な軌跡を眺めると義満の脳裡には光源氏の姿が浮かんでいたのではないか、周囲の人たちも物語の登場人物そのままではないか、といくつかの例を挙げられました。
 なるほど、光源氏は澪標巻で右大将から内大臣に昇進して権力を掌握し、やがて冷泉帝の実父として(それは絶対の秘密でしたが)太政天皇に准ぜられて六条院という院号を奉られるのですが、これは義満が後小松天皇の父として法皇に准ぜられる過程によく一致します。同じく後小松の准母として女院となった妻の北山院康子(裏松資康の女)は紫の上に対置されます。夫より年長の正妻がいること(義満の正妻は康子の伯母にあたる業子で、義満より七歳上で早く寵を失った)、実子がいないこと、北山に縁が深いことなど、紫の上と奇妙に共通する点が多いのです。
 その驥尾に附していえば、もはやただのこじつけになってしまいますが、二条良基は、光源氏の後見で岳父でもあった摂政太政大臣に相当するようです。(下略)

「北山に集う人々」

ということで、百八十度、見解が変わっていますね。
小川氏は、『足利義満』の上記引用部分に続けて、

---------
 中世、源氏物語が強い発信力を持ち続けたことは喋々するまでもない。実際、源氏物語を意識したとおぼしき文学作品は枚挙に遑がない。王朝盛代の最良の遺産として、物語の内容は公家の「先例空間」のうちに入り込み、あたかも現実が物語を追うように叙述する手法もとられている。鎌倉時代の宮廷の歴史を源氏物語と重ねつつ描いた増鏡などはその好例であろう。しかし、それは創作という前提があるからで、現実社会において源氏物語の世界を再現したとまでは、断じがたいようである。あらゆる文化的創造の根源に源氏物語があったと見るのは、あながち間違いではないにしても、抑制した姿勢と、丁寧な考証が求められる。自戒を込めて次の文章を読まなくてはならない。「作品に刻印された『源氏物語』の例をどれほど集めてみても、それはそれで貴重な仕事ではあるにせよ、源氏愛好熱の高さは文学としての権威を確かめることなのであって、表現の対象たる個別の行事や儀式が、『源氏物語』を典拠として計画実施されたことの証左にはならないのである」(高田信敬「朱雀院の行幸」)。
---------

と書かれていて、この「自戒を込めて」の六字を見て、私はニヤニヤ笑ったのですが、果たしてこれだけ読んで小川氏が自説を撤回したことに気づいた人がどれだけいたのか。
最後の高田信敬氏(鶴見大学教授)の論文は森一郎ほか編『源氏物語の展望 第十輯』(三弥井書店、平23)に載ったものだそうですが、小川氏は平成23年(2011)になって、高田信敬氏の教示を受けて初めて自説の誤りに気づいたのですかね。
また、桜井英治氏は今でも「義満が光源氏幻想を生きた」みたいな妄想を抱いているのでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「中世幻想交響曲」 2014/04/07(月) 08:53:17
小太郎さん
http://forkn.jp/book/7378/page/1
佐野眞一氏の『渋沢家三代』は、いま手元になくて確認できないのですが、「にこやかな没落」は、「私の家はほとんど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を滑りだした。」(三島『仮面の告白』)や、「平家は明るい。明るさは滅びの姿だろうか?」(太宰『右大臣実朝』)などを意識しているのかもしれないですね。


---------------------
むしろ義満が国内でねらっていたのは、『源氏物語』の光源氏、つまり准太上天皇の再来のような立場であったのであろう。自分の妻の日野康子を後小松天皇の准母(女院)とし、義満自身も後小松天皇の父親代わりとなり、臣下の立場を超えた権力・権威をふるおうとしたのである。義満が光源氏幻想を生きたといわれる所以でもある。(中略)
和と漢の文化の統轄者としての義満は、その点でも『源氏物語』の光源氏像の後裔であり、再来であったといえよう。
そもそも、この北山殿行幸じたいが、『源氏物語』の藤裏葉巻の六条院行幸をイメージさせるもので、光源氏のような院政になぞらえた政治支配を、義満が後小松天皇行幸という儀礼空間で確認するものであった。(河添房江『唐物の文化史』134~136頁)
--------------------
巻末の参考文献には、三田村雅子氏の例の『記憶の中の源氏物語』などがあり(他に桜井英治氏や小川剛生氏の名もある)、「北山クヮルテット」はクィンテット、セクステット・・・と、野放図な拡がりをみせていますね。現在の日本における「源氏学」の目も眩むような(目の覚めるような?)深遠さ。三島の深遠な表現を借りれば、「暗い衝動のように燃え盛る病的な虚栄(?)」。また、どのような読者層を想定しているのか不明ですが、「准母(女院)」という書き方は、准母と女院が同値であるかのような印象を与えてしまいますね。
蛇足ながら、引用文中の「権力・権威をふるおうとした」ですが、「権威をふりかざす」とは云うものの、権威は Gewalt ではないのだから、「権威をふるう」とは云えないのでは? 権力と権威について、国文学者にヴェーバーのような緻密さは期待できないけれども。

---------------------
ところで、清盛をはじめとする平家一族の栄華は、高橋昌明氏により『源氏物語』のとある一族に擬えられているが、誰だかおわかりだろうか。その答えは明石一族である。出家した清盛は明石入道に重なり、国母となった中宮徳子は、明石の君と明石の女御(中宮)の両者を兼ねた役割ということになる。そもそも清盛と明石入道は、播磨守という官歴でも共通している。(河添房江『唐物の文化史』97頁)
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巻末の参考文献によると、これは高橋昌明氏の『平清盛、福原の夢』(講談社選書メチエ)に拠るらしいのですが(未読なので不明ですが)、こうなるともう、室内楽を飛び越えて、歴史学・国文学・美学綯い交ぜの「幻想交響曲」のようで、絶版の名曲「交響曲第1番 HIROSHIMA 」(伝佐村河内守作曲)を密室でひそやかに聴くような感じですね。枯尾花も見様によってはお化けに見える・・・。
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法政大学図書館・石母田正文庫

2014-04-06 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 6日(日)18時44分6秒

石母田氏の蔵書はどうなっているのだろうと思って検索してみたら、今は法政大学図書館に保管されているんですね。
そんなことも知らなかったのか、と言われそうですが、何せ『中世的世界の形成』すら相性が良くないと避けていた私ですから、基本的なところで穴だらけなのは仕方ないですね。
さて、「石母田正文庫」の蔵書数は和書6,569冊、洋書457冊だそうで、実に膨大としか言いようがありません。
洋書の方だけざっと見たら、石母田氏が読めたのは英独仏三ヶ国語で、ギリシア・ラテン語の文献は英訳本を読んでいたみたいですね。
マルクス・エンゲルス関係が揃っているのはお約束ですが、全体的な割合からすればそれほど多くはなく、哲学科在学当時の教科書らしいものから文学、法制史、宗教、文化人類学等、実に広大な領域に及んでいますね。
もちろん歴史書が多いのは当たり前ですが、仏語だとマルク・ブロックが比較的目立ちますね。
マルク・ブロックの悲劇的な死についてはエッセイも書かれていますから、特に関心が深かったのでしょうね。
マックス・ウェーバー関係は10冊弱程度ですが、これはいつ読んだものなのか。
後ろの方にはポリネシアなど未開社会の文化人類学の文献が目立ち、1960年代以降の関心の推移を反映していますね。

法政大学図書館・個人文庫リスト
http://www.hosei.ac.jp/library/collection/kojinbunko/ichigaya.html#bunko03

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渋沢家の「にこやかな没落」?

2014-04-06 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 6日(日)11時57分16秒

>筆綾丸さん
この前、渋沢栄一の生家「中ノ家」、地元の通称「なかんち」に行って、ボランティアの観光案内人のおじさんにいろいろ質問したのですが、その人は藍玉生産による血洗島周辺の豊かさを強調していましたね。
「中ノ家」よりも更に豊かで、幼いころの渋沢龍彦が妹と一緒に二階で自転車を乗り回したという「東ノ家」(ひがしんち)の位置も聞きましたが、同家の没落後、建物は地元有力者に買われて移築されてしまったので今は何も残っていませんね。
佐野眞一氏の『渋沢家三代』(文春新書、1998年)、以前読んだときはよくまとまった良書と思いましたが、著者自身の「没落」後に改めて読むと、下品な表現や妙な思い込みの多さが気になります。
私が一番不思議だなと思っていたのは渋沢敬三がGHQによる財閥解体に異常に協力的だったことで、もともと渋沢家は三井・三菱と比較したら財閥といえるような存在ですらなく、ちょっと工夫すれば、別に違法な手段を弄さずとも一族に財産を残すことはたぶん可能だったのに、殆ど自殺行為のように財産を捨て去ってしまった点です。
佐野眞一氏は「にこやかな没落」などと書いていますが、敬三本人は気分がさっぱりしても、巻き込まれてしまった一族はたまったものではないですね。
ま、というようなことをボランティアのおじさんに言ったら、その人も「そうなんですよねー」と言っていました。
地元の人は渋沢の財力が残って地元に貢献してくれたらありがたかったろうし、敬三が好きだった民俗学の世界の人も、従来どおり強力なパトロンとして活躍してくれたらどんなにありがたかったかもしれないのに、敬三は全てを捨て去ってしまいましたからねー。

渋沢栄一生家

>三田村雅子氏
以前、高岸輝氏の『室町絵巻の魔力』をきっかけに少し検討しましたが、訳の分からないことばかり言っていて、困った人ですね。
足利義満と源氏物語をめぐっては、今をときめく小川剛生氏や桜井英治氏も、熱病に罹ったようにタワゴトを言っていましたね。

高岸輝『室町絵巻の魔力』
組曲「北山」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「手墓村と血洗島村」 2014/04/05(土) 13:43:28
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9F%BA%E6%9D%91
指揮者の尾高忠明氏も尾高一族ですね。惇忠氏の手計村(昔の表記は手墓村)と云い、澁澤翁の血洗島村と云い、おどろおどろしい名が近接していて、しかも、同時に二人の偉人を輩出するという、利根川右岸における不思議な地ではありますね。

三田村雅子氏と云い、河添房江氏と云い、失礼ながら、源氏研究者は本当に大丈夫なんだろうか、という危惧を覚えます。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma21-12.htm
円覚寺は円覚経に基づくので濁音になるはずですが、ここでも宗教知識の欠如を露呈していますね。
「以昨日供養經巻。仰左衛門尉義村。遣三浦。被沈海底云々。依有御夢想告也。」(『吾妻鏡』建保元年十二月)という実朝の円覚経の話は、ドビュッシーの『沈める寺』のようで、私の偏愛するところです。

----------------
つまり国風文化とよばれる時代の内実をささえていたのが、東アジア交易圏であり、国風文化とは、鎖国のような文化環境で花開いたものではなく、唐の文物なしでは成り立たなかった文化なのである。
国風文化は都市の文化といわれるが、平安京という都市に富が集中するほど、唐物という奢侈品への欲望が日ましに高まることは必然であった。その意味では国風文化とは、唐物の奢侈品を享受する環境にあって醸成された文化といえよう。(河添房江『唐物の文化史』49頁)
----------------
ついでに言えば、そもそも「国風文化」なんて言い方は、言葉遣いとして間違っていますから、そろそろやめたほうがいいですね。平安時代に「国風」と言えば「土風」と同義で、つまりは地方のお国柄という意味です。決して「日本風」という意味ではありません。藤原明衡の『新猿楽記』のなかに、商人の主領、八郎真人が扱っている物品のリストがあって、「唐物」はこれこれ、「本朝の物」はこれこれというように書かれていますから、自国文化を指す場合には、「本朝文化」とでも言ったほうがよいかと思います。(東島誠×與那覇潤『日本の起源』35頁)
----------------
病膏肓に入る・・・東島氏のシニカルな表情が見えてくるようですね。
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尾高邦雄氏の「最初の出会い」

2014-04-05 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 5日(土)10時41分36秒

日本におけるウェーバーの受容史が気になって少し調べてみたのですが、手始めには中央公論社『世界の名著50 ウェーバー』(1975年)の尾高邦雄氏による解説が分かりやすいですね。

--------
最初の出会い

 マックス・ウェーバーの名をはじめて私が知ったのは、仙台の旧制二高の三年生のときであった。いまではもう半世紀近くも前のことになる。ウェーバーの名を教えてくれたのは、亡くなった兄の法学者朝雄(ともお)で、当時京都に住んでいた兄は、長い休暇のときはいつも東京に出てきて、麹町にあった母の家に泊まっていた。
 そうした兄の東京滞在のある日、つれだって神田へ古本あさりに出かけたが、たまたまはいった駿河台下の丸善神田支店の二階で、私ははじめてウェーバーの書物に出会った。重厚なドイツ書を並べた書棚から、兄はうやうやしく濃紺クロース装の分厚い一冊の書物をぬき出して、「これが社会学でいちばん偉い人の本だ」と教えてくれた。その本は、のちに私がウェーバーの書物のなかでも特別親しむようになった『科学論論集』であった。
 ウェーバーの書物をはじめて自分のものにしたのは、昭和四年に東大の社会学科に入学した年である。(中略)
 旧制高校でドイツ語を学び、それまで一、二冊のドイツ語原書も読み、社会学者のテンニエスやジンメルのクセのある文章にも接したことのある私であったが、ウェーバーのドイツ語の難解さは、また一種特別のものであった。お世辞にも名文とはいえない彼の文章は、一ページ読むのに一時間以上もかかることがあった。(後略)
--------

尾高邦雄氏は1908年生まれで、父方の祖父が尾高惇忠、母方の祖父が渋沢栄一という超エリート家庭に育った人ですね。
年齢は石母田氏より四歳上ですが、石母田氏は小学校を五年、中学校を四年で終了していて、普通の人より合計二年早いので、旧制二高と東大の入学はいずれも尾高邦雄氏より二年遅いだけですね。
東京育ちの尾高邦雄氏にして上記のような事情であり、他方、石母田氏の「私の読書遍歴」(著作集第16巻、283p以下)というエッセイによれば、石母田氏は旧制二高時代は原書も英語中心のようなので、石母田氏がウェーバーに触れたとしても、それは早くて大学入学後のようですね。
ちなみにこのエッセイには、

-------
 社会科学=マルクス主義を知ったのは高等学校二年のときで、三木清の著作や、あとで『転形期の歴史学』におさめられた羽仁五郎の諸論文を通してであったと思う。今でもこの二人の学者の論文があたえた新鮮で強烈な印象は昨日のことのように想起される。マルクス=エンゲルスの諸著作も、主としてこの二人の学者の眼を通して読んだので、一方ではマルクス主義の方向へ急速にひきよせられながら、他方では生の哲学に関心をもつようになった。この頃からディルタイのものを系統的に読むようになったが生の哲学は一般にこの時代のインテリゲンチャにとって魅力ある思想であった。(後略)
-------

とあり、「社会科学=マルクス主義」となっているので、この点からもウェーバーとはまだ縁がなかったであろうことが想像されます。
なお、高等学校二年というのは前述の理由で16歳の頃ですから、思想的にも相当な早熟ぶりですね。

>筆綾丸さん
河添房江氏は源氏物語の研究者であり、三田村雅子氏と共著も出している方ですね。
以前、この掲示板でも少し触れたように記憶しているのですが、かなり古い話だったのか、検索しても出てきません。
見慣れぬ振り仮名の数がそこまで多いと、何か異常な感じがしますね。
上行寺の「上行」など法華経由来の言葉ですから、読み方に河添氏独自の理論があるならば法華経受容の歴史から始めてもらう必要がありますね。

尾高邦雄

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「振仮名の文化史」 2014/04/05(土) 00:08:03
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/
河添房江氏『唐物の文化史』の内、「第四章 武士の時代の唐物」と「第五章 茶の湯と天下人」を、ザッと眺めてみました。
---------------------------
さて、この新書をまとめる間に、母の病気と死があり、その喪失感を埋めるかのように原稿を書きつづけた日々もあった。脱稿が最初に予定していたより、ずっと遅れてしまったが、それでも「研究者ならば、いつか岩波から本を出しなさい」と大昔、院生の私に言ってくれた父が健在なうちに、何とかこの本を捧げることができたのは幸いであったと思う。(237頁)
---------------------------
と「あとがき」にあり、念願の岩波新書のようですが、見慣れないフリガナが目立ちますね。些末なことながら、著者自身の読み方なのか、あるいは、岩波書店編集部の読み方なのか。・・・五月蠅いわね、昔のことだから、どう読んだか、ほんとはよくわからないの。

① 陳和卿(ちんわきょう) → ちんな(わ)けい? (113頁)
② 泉涌寺(せんゆうじ) → せんにゅうじ? (117頁)
③一山一寧(いちざんいちねい) → いっさんいちねい? (117頁)
④円覚寺(えんかくじ) → えんがくじ? (118頁)
⑤金沢実時(かねざわさねとき) → かねさわさねとき? (118頁)
⑥上行寺(じょうこうじ) → じょうぎょうじ? (120頁)
⑦ 一条経嗣(-のりつぐ) → ーつねつぐ? (135頁)
⑧ 牧谿(もくけい) → もっけい? (136頁)
⑨ 「万疋(ばんじょう)」の価値 → 「万丈(まんじょう)」の価値? (140頁)
⑩ 相国寺(そうこくじ) → しょうこくじ? (142頁)
⑪津田宗及(つだそうきゅう) → つだそうぎゅう? (150頁)
⑫滝川一益(たきがわかずまさ) → たきがわかずます? (152頁)
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「思想上の観点」についての和風解説

2014-04-03 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 3日(木)08時17分16秒

石母田氏の「文庫版によせて」は「思想上の観点」について、終始一貫、和風の解説をしていますね。

--------
文庫版によせて

 『中世的世界の形成』の本文だけを「文庫本」の形で刊行することになった。これは全く、石井進氏、千々和到氏、福田栄次郎氏等の努力によるものである。厚く謝意を表する。原本及び影写本の校合等から個々の誤植の訂正に至る仕事は、並大抵の苦労ではなかったのである(「凡例」参照)。
 『中世的世界の形成』の執筆に際し、歴史学上の過去の業績については、細大もらさず注記したが、一本にまとめるについての思想上の観点については何も触れなかったので、ここで一言しておきたい。
 当時の思想上の観点は多様であったが、その一つとして山路愛山を忘れることはできない。
 (16行略)
 また、一九二六年(大正十五)四月、幸田露伴は『為朝』を発表した。
 (11行略)
 一九三四年(昭和九)、国史研究会編集『岩波講座 日本歴史』の一篇として、平泉澄の「保元平治の乱と平氏」が現われた。皇国史観の初期の業績である。乱の原因は「上代末期に於ける腐敗堕落の積り積つて、遂に爆発したるもの」である。その結果は「すべてこれ道徳の蹂躙」であり、上下秩序の紊乱である。これが平泉澄による保元の乱である。更に平泉は「而して国体の自覚よりする国家革新の運動は、之を後鳥羽上皇の御指揮に待たねばならなかつたのである」と、この一篇を結んでいる(なお皇国史観の歴史観については、永原慶二『皇国史観』岩波ブックレット二〇、一九八三年刊、を参照)
 『中世的世界の形成』は、このような時期に、かかる歴史学の反動的傾向と戦うために書かれたものである。
 (9行略)
             (一九八五年七月)
--------

石母田氏は1986年1月18日に亡くなられているので、執筆は死去の半年前ですね。
この時点で石母田氏の健康状態は相当悪化していて、石母田達氏の「兄を偲ぶ」(『激動を走り抜けた八十年』p160、初出は『歴史評論』1986年8月)には、「義姉の話によると、兄はたびたび夜中に起きだして這うようにして机にかじりつき、新しく購入した本などを読み、清書に苦労するような、ふるえた字でこの原稿を書き上げたという。いま思えばこのとき注ぎこんだ精力と体力が、兄の死を早める一因となったのであろう」とありますね。
ところで石母田氏が平泉澄氏の1934年の論文を「皇国史観の初期の業績」とされている点、あれっ、と思いました。
これでは皇国史観の隆盛もたかだか十年ということになってしまいますから、永原慶二氏の『皇国史観』を読んだ読者が受けるであろう印象とはいささか齟齬がありそうです。
ま、それはともかく、「文庫版によせて」は日本国内のことしか書いてありませんので、石井氏のインタビューがなかったら「当時の思想上の観点」にウェーバーがあるとはなかなか気づけないですね。
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石井先生、「果たしてそれだけでしょうか」(by 小太郎)

2014-04-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 2日(水)21時31分24秒

先に「古代文化没落の社会的諸原因」とのタイトルで石井進氏の「『中世的世界』と石母田史学の形成」から少し引用しましたが、そもそもこの石井氏と石母田氏のやりとりは、1985年の『中世的世界の形成』岩波文庫版出版の準備として、石井氏が千々和到氏と一緒に「引用文書の対校や本文の正誤などのお手伝いをし、さらに「解説」まで書かせて頂」いた際に、「数回にわたって先生から執筆当時の事情などについてお話を伺」った時のものですね。(p131)
石井氏は続けて次のように書かれています。

-------
 古代の家族と村落、奴隷制と進めてこられた先生の研究が、ようやく古代社会の全体像の把握に向われた時、ウェーバーのこの論文が一つの役割を果たしたのではないでしょうか。「没落しようとする古代社会及び古代都市の歴史的表現として」宇津保物語をとらえようとする視角の設定のなかに、私はウェーバーの<ウンターガング>のひびきを感ずるのです。もちろん無所有・無家庭の奴隷大衆に家庭・財産を返還したところに奴隷制の決定的崩壊を説くウェーバーの視角が、そのまま先生の奴隷制から農奴制への転換論になっている、というのではありませんが。
--------

念のため確認しましたが、「宇津保物語についての覚書」の注記に引用されているのは日本の文献だけで、ウェーバーへの言及は一切ありません。
仮に石井氏が石母田氏が亡くなる前年にこのインタビューをされていなければ、「宇津保物語についての覚書」とウェーバーとの関係は誰にも知られなかった可能性がありますね。
ところで、上記引用部分の2ページ後には、

--------
 さて『中世的世界の形成』の内容ですが、最初の問題は、何故それが黒田荘でなければならなかったのか、です。初版の序には「無数の庄園のなかで関係古文書のもっとも豊富な庄園の一つであり、かつ平安時代から室町時代まで長い時代を行きつづけた」から、と記されていますが、果たしてそれだけでしょうか。先生に質問した時、言下に「それは黒田悪党ですよ」と言われました。「悪党には古代的世界の没落の表現として興味をもちました。黒田悪党といえば、当時の悪党研究の代表的事例でしたからね」とのことでした。
--------

とあります。
そして更に7ページ後に、

--------
 思えば愚問でしたが、私はこの「文庫版によせて」の原稿を拝見した時、「先生、愛山以外の当時の思想上の観点とは、何だったのですか」と申しましたら、「もちろんマルクスとウェーバーですよ」と答えられました。マルクスは当然ですが、ウェーバーがあげられたのは、例の<没落(ウンターガング)>との関連でしょう。(後略)
--------

とあって、石井氏はウェーバーの影響を「没落(ウンターガング)」に限定されていますが、ここは微妙ですね。
もっと広く、『中世的世界の形成』執筆当時、石母田氏にとってウェーバーがマルクスと並ぶ「思想上の観点」だったと考えることも十分に可能のような感じがします。
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ゾンバルトのDer moderne Kapitalismus

2014-04-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 2日(水)09時09分39秒

林健太郎氏は「石母田正氏の思い出」(著作集第4巻月報)において、「(石母田)氏が国史学科の前に哲学科にいたこともあってドイツ語をもよくし、殊に西洋中世の社会史の基本をよく捉えていることを知って益々敬意を深くした」と書かれていますね。
そして、次のように続けます。

--------
 その頃石母田氏は冨山房に勤めていて、私はよくここを訪れて彼と世間話をした。昭和十六年、独ソ戦が始まり、ナチス・ドイツ軍がソ連領を進撃していた頃、我々はもちろんソ連の最後の勝利を疑ってはいなかったが、このドイツの強さは予想外であった。(中略)
 やはりこの頃のこと、ある日彼が、自分はかつてゾンバルトの Der moderne Kapitalismus を買って持っているのだが、もうこんな本は要らないから古本屋に売ろうと思っているというので、それなら私が買おうと申し出た。そして私が一〇〇円と買い値をつけたところ、いやその半分の五〇円でよいと彼は言った。私の一〇〇円は口から出まかせであったが、彼の五〇円もその場の拍子だったろう。その頃の古本屋の相場は知らなかったが、私はともかく五〇円でこの大著を買うのは得なような気がした。そこで早速商談が成立し、数日後私は彼から全二巻四冊の大冊を受け取ったが、その後に会った時、彼はこの話を奥さんに話したところ学者が本を売るという法がありますかと大へん叱られたと言った。その時私はよほど、それなら本を返そうと言おうかと思ったが、折角手に入った本を手放すのは惜しい気がしたので、喉まで出かかった言葉をおし止めてしまった。このゾンバルトは今も私の書架にあるが、この本を見ると私は石母田夫人に悪いことをしたという気持ちを禁じ得ない。実は先年石母田氏没後の追悼の会で、私はこの話を披露し、その席には夫人が居られたのであるが、この日私は他用のためそそくさ退席してしまったので、夫人に直接お話する機を逸してしまった。二度目の残念事である。(後略)
--------

ヴェルナー・ゾンバルト(1863~1941)はマックス・ヴェーバーと一緒に『社会科学および社会政策雑誌』の編集をしていた人ですね。
ネットで見つけた池田浩太郎氏(成城大学名誉教授)の「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト─ゾンバルトとその周辺の人々」という論文によれば、Der moderne Kapitalismus (『近代資本主義』)にもウェーバーの著作が頻繁に引用されているそうで、ウェーバーもまた自分の論文でゾンバルトの見解を相当多量に引用し、検討を加えているような仲なので、石母田氏の問題関心からすれば、当然、ウェーバーの主要著作は全部ドイツ語で読んでいたのでしょうね。
林健太郎氏が「全二巻四冊の大冊」と言われている点は若干微妙で、池田浩太郎氏の論文と照らし合わせると、これは1916年に公刊された第2版の第1・2巻みたいですね。
ゾンバルトは1927年に『近代資本主義』第2版の第3巻『高度資本主義時代の経済政策』 Das Wirtschaftsleben im Zeitalter des Hoch-kapitalismus を出して、第2版は合計3巻6冊、本文3,200ページを超える大著となったそうです。
ま、それはともかく、石母田氏はドイツを中心とするヨーロッパの歴史学の動向は詳しく把握していた訳で、マックス・ウェーバーなど基本中の基本みたいな位置づけだったのでしょうね。

林健太郎

ヴェルナー・ゾンバルト

池田浩太郎氏「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト」

>筆綾丸さん
『中世社会の基層をさぐる』の「あとがき」と「解説」を読みましたが、まことに麗しい、ベタベタした師弟愛ですね。
こういうのを読むと東島誠氏のクールさが一段と光りますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「日蔭茶屋事件のあとさき」 2014/03/28(金) 21:16:38
小太郎さん
勝俣鎮夫氏『中世社会の基層をさぐる』の中の「バック トゥ ザ フューチュアー」を読みましたが、僭越ながら、素晴らしい論考ですね。
むかし、永井荷風の『つゆのあとさき』を読んだとき、小説の内容はともかく、なぜ「あとさき」で「さきあと」ではないのだろう、と思い、以来疑問でしたが、なかなか難しい問題なのですね。
-------------------
(心中して生きのびた二人が)さきにて行あひ、幽霊かと思ひ胆をけし、(「昨日は今日の物語」一六二〇刊)
(中略)
「アトヨリモ見事ナ花が開イタゾ」(「江湖風月集略注鈔二」寛永十年・一六三三年刊)(12頁)
-------------------
前者の「サキ」は未来の意、後者の「アト」は過去の意で、戦国時代、特に16世紀に新たな語意が生まれたようだ、と勝俣氏は言われます。「あとさき」という語への言及はありませんが、おそらく、これは戦国時代以後のもので、「つゆのあとさき」は「梅雨の前後」となり、時間の因果がスッキリしますね。
Back to the Future という表現はホメロスの『オデュッセイ』に由来し、背中から未来へ入って行く、というニュアンスがあり、ポール・ヴァレリーもよく同じような文句を好んだ、といような記述が続き、格調の高いエッセーのようですね。こういう洒脱な文章を読むと、中世史はいいなあ、と思いますが、桜井氏の『中世史への招待』では、中世史はつまらんのだろうな、という気になります。

http://www.chaya.co.jp/hikage/hikage_news.html
なお、同署の「あとがき」と桜井氏の「解説」には、葉山の海辺の茶屋に遊び、美味しい料理を楽しみ盃を重ねた、とありますが、これは葉山マリーナに近い日影茶屋なのだろうな、きっと。以前行ったとき、店員さんに、大杉栄が神近市子に刺されたのはどの辺でしたか、と尋ねたら、中庭の灯篭を指して、あの辺だと聞いております、ということでした。茶屋の前の道を三浦方面にしばらく行くと、『吾妻鏡』所載の森戸神社があり、そのさきは葉山の御用邸で、さらに行くと、鏡花の『草迷宮』の舞台ですね。運慶の仏像がある浄楽寺もこの辺ですね。

また、東島誠氏『公共圏の歴史的創造』には、
---------------------
・・・詩歌の世界においては、宗末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており・・・(274頁)
---------------------
と、江湖風月集への言及がありますね。
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