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清和源氏の系譜

2017-05-17 | ベック式!日本史用語集

 

経満寄りの 寄りよ良い よしち為義 良しとより。

経基 満仲 頼信 頼義 義家 義親 為義 義朝 頼朝


[ポイント]

1.清和源氏の主な棟梁は、経基1→満仲2→頼信3→頼義4→義家5→義親 為義 義朝 頼朝9とつづいた。

[解説]

1.平安時代の皇室は皇族に源姓を与えて臣籍に降下させ、皇族増加を抑え財政の窮迫を防いだ。清和源氏清和天皇から出た源氏。子(親王)で賜姓したのは5人。さらに孫たちもすべて源姓を賜姓しているが、貞純親王の子経基の系統がもっとも栄えた。

2.源経基(生没年不詳)は、清和天皇の孫で貞純親王の子。追捕使小野好古の副官として藤原純友の乱を鎮圧する。


3.源満仲(912?~997)は、藤原北家と結びつく安和の変での密告を機に、畿内に地盤を築く。


4.源頼信(968~1048)は、平忠常の乱の武功で東国進出をとげる。


5.源頼義(988~1075)は、頼信の子で前九年の役で活躍し、東国武士の棟梁としての地位を確立。


6.源義家(1039~1106)は、前九年の役で父に従軍、後三年の役(豪族清原氏の内紛)で活躍。

〈2016慶大・商AB方式:「
 朱雀天皇の時代、桓武天皇の子孫である平将門や、藤原北家の出である[ 13 ]が承平・天慶の乱を起こした。また1019年には刀伊の入寇があり、[ 14 ]らがこれを平定した。承平・天慶の乱に関連して登場するのが、後の武家社会の中心的存在となる清和源氏の[ 15 ]である。その子、[ 16 ]は安和の変にかかわり、藤原摂関家との関係を深くした。1028年に起きた平忠常の乱では、[ 17 ]がこれを平定し、源氏の東国進出の足がかりを築いた。その後奥羽地方を舞台に、源頼義・義家父子は前九年合戦で出羽の清原武則とともに陸奥の安倍氏を討ち、さらに、源義家は清原氏の内紛に介人する形で後三年合戦を[ 18 ]とともに戦って、奥羽地方は[ 18 ]の支配するところとなる。源義家にとっては思惑違いの結果に終わったが、それでも源氏の名声を世に広めることにはなって、後世に大きな影響を及ぼす。しかし源義家の後は、その子、[ 19 ]の乱、および一族の内紛もあって源氏の勢力は停滞を余儀なくされる。」

(答:13藤原純友、14藤原隆家、15源経基、16源満仲、17源頼信、18藤原清衡、19源義親 ※原問には選択肢が65語あり)〉

〈2016立命館大・全学部2月3日:「
問題a 下線部1の人物源満仲の子が平定した、関東地方で生じた反乱を何というか。」

(答:平忠常の乱)〉

〈2012中大・法:「
 清和源氏は、清和天皇の孫とされる経基王が源の姓を受け、武蔵介となったのに始まる。清和源氏は畿内に本拠地を構えつつ、中級貴族として活躍していった。源経基の子である源満仲は2安和の変の際に陰謀事件に加わるなどして藤原氏との関係を深めていった。源満仲は藤原兼家に、満仲の子である源頼光・頼信兄弟は藤原道長に仕え、諸国の受領を歴任した。

 1028(長元元)年に上総国で[ 2 ]の乱か発生すると、源頼信は房総半島に広がったこの乱を平定した。これにより関東の平氏は衰退し、源氏は東国進出への足がかりを得ることとなった。 1051 (永承6)年に安倍頼時が反乱を起こした際には、源頼信の子である源頼義が、子の義家とともに束国の武士を率いてこれと戦った。頼義・義家父子は、安倍頼時が戦死した後も、その子である安倍貞任らの激しい抵抗を受けたため、出羽国の清原氏の助けを得て3.この反乱を平定した。

 安倍氏滅亡後、奥州で勢力をふるったのは清原氏であった。しかし、清原氏一族の中で紛争が発生したため、源義家は清原氏の一族であった清原(藤原)清衡を助けて4.この紛争を制した。以後、奥州は藤原氏が三代にわたって支配し、北方との交易や金などの産出物による富を背景にして5.京の仏教文化の移入に努め、繁栄を誇った。

問1 文中の空欄[ 2 ]に入るもっとも適切な人名を漢字で答えなさい。

問3 下線部2の安和の変は、村上天皇の死後、左大臣源高明が左遷された事件であるが、源高明は誰の擁立を企てたとして左遷されたのか。適切な人名を漢字で答えなさい。

問4 下線部3に関する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

 a これは朝廷の許可なしに行われた私戦とみなされたため、反乱を平定した源氏に対する恩賞は出されなかった。
 b 『陸奥話記』は、この経過を記した軍記物語である。
 c この反乱の平定後、陸奥国の備えを固めるため、源頼義は陸奥守に任じられた。

問5 下線部4の紛争を描いたもので、源義家が雁の列の乱れから敵の伏兵を知りこれを攻めている場面が有名な美術品を何というか。漢字で答えなさい。

問6 下線部5に関する説明文として正しいものにはイ、誤っているものにはロをマークしなさい。

 a 院政期に、京では六勝寺と総称される大寺院が造営された。
 b 京の仏教文化は地方にも広がりを見せたが、寺院に所属しない聖や上人による布教活動に負うところが大きかった。
 c 藤原清衡が建立した中尊寺金色堂には、藤原三代の遺体が安置されている。」

(答:問1平忠常、問3.為平親王、※「かあき」は「めひ」を擁立。問4aロ・bイ・cロ、問5後三年合戦絵巻、問6aイ・bイ・cイ)〉

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『雨月物語』

2017-05-17 | 『新世界史頻出年代暗記』

否むや雨月秋に読み。

1768年 『雨月物語』上田秋成(うえだあきなり))(読本

[ポイント]
1.上田秋成の代表作は、読本の『雨月物語』。


[解説]

1.文化期には、滑稽本人情本など絵入りの本の系統に対し、文章主体の小説で歴史や伝説を題材にした読本(よみほん)には、大坂上田秋成(1734~1809)に始まり、江戸曲亭馬琴(きょくていばきん)(1767~1848)がでて、評判を得た。

2.上田秋成は、大阪生まれの歌人、国学者、読本作家。代表作『雨月物語』(1768年刊)ほか旺盛な著作活動をおこなった。作家活動の傍ら医師としての修行もおこない、大坂尼崎で町医者を開業。同時代の本居宣長とその皇国主義を批判する論争もおこなうなど多彩な活動をおこなった。


3.代表作の『雨月物語』は、短編小説(「浅茅が宿(あさじがやど)」など)集。怪談の形式で怪異な世界を描きつつ、人間の本質の迫っている点で、文学的に高く評価されている。佐藤春夫三島由紀夫など、後世の近代作家たちに影響を与えた。

2013同志社大学・文経済:「
【設問e】下線部e上方の浮世草子作者に関して、井原西鶴より約100年遅れて同じ大坂で浮世草子を書き、その後『雨月物語』など読本の作者としても知られた人物名を漢字で記せ。」

(答:上田秋成)〉


2012同志社・神商心理:「

問オ.『源氏物語』を借り、時代を異にして江戸幕府大奥の実情を描写したともいわれる『偐紫田舎源氏』の著者名を選べ。

 1.柳亭種彦 2.上田秋成
 3.為永春水 4.恋川春町

(答:1)〉

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