【問】次の文の( )に最も適当な語を記入し、また下線部に関する問いに答えなさい。
ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、19世紀の産業革命の進展とともに本格化した。まず19世紀の半ばに、「暗黒大陸」の実像を明らかにするため、( イ )などの探検家が内陸部の探検調査を行った。これらの探検の目的は、奥地へのキリスト教の布教や、奥地の首長との政治関係の樹立であった。いわゆる「アフリカ争奪競争」は1881年のフランスのチュニジア保護領化と翌年のイギリスによる(1)エジプト領有から加速する。それ以前にもすでにイギリスは、1815年の( ロ )議定書でオランダから手に入れたアフリカ南端の(2)ケープ植民地を拡大し、南アフリカ内陸部に植民地を広げつつあった。イギリスはエジプトと南アフリカの南北2つの拠点から大陸を貫く形で植民地の拡大に向かっていったので、これを大陸縦断政策という。一方、すでに1830年に( ハ )を植民地としていたフランスは、北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて大陸の中央部を東西につなげる大陸横断政策と呼ばれる植民地拡大政策をとった。イギリスとフランスの2つの政策が交錯した結果、勃発したのが( ニ )事件である。
イギリス・フランス以外にも、19世紀後半に入ると、イタリア・ドイツ・ベルギーなどヨーロッパの新興国が次々にアフリカへの進出を試み、植民地の境界をめぐる衝突が起こった。特に、西アフリカのニジエール川流域には北のサハラ側からフランス、南の大西洋側からイギリスの勢力が伸び、対立が明らかとなった。これに対しドイツの宰相( ホ )は1884年にアフリカ植民地化の列強の利害を調整する(3)ベルリン会議を提唱した。こうしたヨーロツパ列強の支配に対して、アフリカでは(4)さまざまな抵抗運動が起こったが、ヨーロツパ列強の軍事力の前に敗れ去った。
1904年、イギリスと(5)フランスは最終的な妥協策として、英仏協商を結んで同盟し、双方の植民地を確定した。この体制に対して、(6)ドイツのヴィルへルム2世は二度にわたる( ヘ )事件でフランスを牽制したが、結局フランスに譲歩せざるを得なくなり、( ヘ )はフランスの保護国となった。同じくイタリアはソマリランド・エリトリアを獲得し、さらに( ト )に侵入したが、96年にアドワの戦いで敗れて後退した。しかし、1912年、イタリアは(7)オスマン帝国との間でイタリア=トルコ戦争を起こし、北アフリカの現在の( チ )を植民地を獲得した。これにより、リベリアと( ト )を除くアフリカの全土はヨーロッパの列強によって分割しつくされ、ほとんどが植民地となった。
- (1)エジプト領有に関する記述で、誤りを含むものはどれか。
- a.ナポレオン軍に侵略・占領されたとき、エジプトはオスマン帝国の支配下にあった。
- b.ムハンマド=アリーはフランスの援助によってエジプトの近代化を進めた。
- c.フランス人レセップスがスエズ運河を完成させた。
- d.
- ウラービーの反乱鎮圧後、イギリスはエジプトを保護国化した。
- e.
- エジプトの保護国化の後、イギリスはフランスからスエズ運河会社の株を取得した。
- (2)ケープ植民地の首相として植民地拡張政策を主導したイギリスの政治家はだれか。
- a.グラッドストン b.ロイド=ジョージ c.ジョゼフ=チェンパレン d.ディズレーリ
e.セシル=ローズ - (3)
- ベルリン会議によってコンゴ領有を認められた国はどれか。
a.イギリス b.ベルギー c.ドイツ d.イタリア e.オランダ - (4)
- アフリカにおけるこれらの抵抗運動にあたらないものはどれか。
a.サモリ=トゥーレの独立運動 b.マフディーの反乱 c.マジ=マジの蜂起
d.シパーヒーの反乱 e.南アフリカ(南ア=ブール)戦争 - (5)
- この当時、フランスの植民地であった地域はどれか。
a.スーダン b.エリトリア c.ウガンダ d.アンゴラ e.ジブチ - (6)
- この当時、ドイツの植民地でなかった地域はどれか。
a.南西アフリカ b.タンガニーカ c.カメルーン d.トーゴ
e.ナイジエリア - (7)
- 第一次世界大戦前後のオスマン帝国に関する記述で、誤りを含むものはどれか。
- a.
- アブデュル=ハミト2世は、青年トルコ革命により帝位を追われた。
- b.
- オスマン帝国は、第1次バルカン戦争で敗北した。
- c.
- 第一次世界大戦後のトリアノン条約で、オスマン帝国は領土を大幅に失った。
- d.
- 第一次世界大戦後、トランスヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領とされた。
- e.
- ムスタファ=ケマルはギリシア軍を撃退した後、スルタン制を廃止した。
解 答
空欄
イ | ロ | ハ | ニ | ホ |
スタンリー | ウィーン | アルジェリア | ファショダ | ビスマルク |
ヘ | ト | チ | ||
モロッコ | エチオピア | リビア |
設問
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
e | e | b | d | e | e | c |
解 説:
1871年 リヴィングストン(英)、アフリカ奥地タンガニーカ湖畔でスタンレー(米)に救出される。
非はないリヴィン 助けたれ。
1871年 リヴィングストン タンガニーカ湖畔 スタンレー レオポルド2世
- ニ
1898年9月 ファショダ事件:1904年 英仏協商へ。
違約端折って 協商し。
1898年 ファショダ事件 英仏協商 04年
- ト
1896年3月 イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦いで大敗する。
いや苦労した エチオピア。
1896年 イタリア エチオピア アドワの戦い
- (1)イギリスのスエズ運河会社株買収は、保護国化の前の1875年。事実上の保護国化はウラービーの反乱(1881~82年)を鎮圧した後のこと。
- (2)
1890年 セシル=ローズ(英)、ケープ植民地首相に就任。
人はグレーな セ氏ケープ。
1890年 セシル=ローズ ケープ植民地首相
- (4)a.サモリ=トゥーレは西アフリカ、ギニアの民族指導者で1880年代にはサモリ帝国を築いて有力であったが、フランスの侵略を受けて敗れた。第二次大戦後のギニア独立運動指導者で初代大統領となったセクー=トゥーレはその孫。
- bマフディーの反乱はスーダンで起こった反英闘争。イギリス軍のゴードン将軍を戦死させ、激しく抵抗したが1899年に鎮圧された。
- cマジマジの蜂起とは1905~07年、ドイツ領東アフリカ(タンガニーカなど)を中心にして綿花強制栽培に反発して起こったアフリカ人の反乱。マジマジとは反乱を指導した呪術者がヨーロッパ人の火器から身を守るとして広めた霊水のこと。ドイツ軍によって鎮圧された。
-
ひどく怒るぞ マジ啖呵。
1905年 東アフリカ マジマジの乱 タンガニーカ
- dシパーヒーの反乱は「インド大反乱」のこと。
- e南アフリカ戦争はイギリスによカ側の抵抗とすることもできる。
- (5)ジブチはアフリカ横断政策の東の拠点〈フ〉。aのスーダンは98年にマフディー運動がエジプト・イギリス連合軍に鎮圧され、イギリスの領土となった。
- bのエリトリアはイタリアがベルリン会議(1884年~1885年)でエチオピアから分離させて領有した。〈t-リア〉。
-
- Cのウガンダは現在もイギリス連邦の国。
(6)ナイジェリアはイギリスの植民地。
(7)トリアノン条約は連合国とハンガリーの講和条約。オスマン帝国が締結したのは1920年のセーブル条約。そこでの大幅な領土の喪失に反発したケマル=パシャが、トルコ革命を起こしたのでオスマン帝国は消滅し、改めて23年のローザンヌ条約で新国境を定めた。1919年 〈ヴェルサイユ条約とその他の条約〉★★-
1908年 青年トルコ党の革命:皇帝アブデュル=ハミト2世、1876年のミドハト憲法の復活を承認。
行く親生徒 ボス、ブルー。
1908年 青年トルコ党の革命 (オーストリア)ボスニア・ヘルツェゴビナ完全併合 ブルガリア独立