2008 立命館大(一部改)
【問】次の文章を読んで空欄に最も適切な語句を記入し、下線部についてあとの問いに答えよ。
アメリカ合衆国のジャーナリストだったジョン=リードは、その著書のなかで次のような光景を描いている。
もう朝の3時過ぎであった。ネフスキー通りではすべての街灯が再びかがやき、大砲は持ち去られ、戦いのあったことを示す唯一のものは、焚き火のまわりにうずくまっている赤衛兵や兵士だけであった。市街は静穏であった――恐らくこんなに静穏だったことは、史上かつてなかったであろう。その夜はただ一つも追剥事件も、ただ一つの強盗事件もおこらなかった。
これは、ルポルタージュの古典として知られる『世界をゆるがした十日間』の一節である。彼は(1).社会主義革命でゆれるロシアの首都( A )で次々に起こる出来事を活写したのだった。彼のルポを読むと、静穏な表面のすぐ下には革命の主導権をめぐって煮えたぎるマグマのような対立があり、ぎりぎりのところで政治的理性を働かせようとする人々が右往左往していたことがよくわかる。(2).この事態に先立つ8ヶ月前に、ロシア帝政を崩壊させた革命があったが、それがもたらした矛盾が社会主義革命を生み出す最終的な土壌となったのである。
結局のところ、(3).社会主義革命の道筋を一貫して示し、政権打倒のため自党派の武装蜂起を組織したレーニン率いるボリシェヴィキが主導権を手中におさめた。そして、レーニンの指揮のもとで革命成功の翌日に開かれた、民衆の会議体であるソヴィエト組織の最高機関( B )において、新たな政権として( C )の成立が宣言された。
( C )は成立直後に、(4).3つの原則に基づく最初の対外政策である「平和に関する布告」と、(5).貧しい農民を主な対象として土地の( D )化をうたう最初の国内政策を発表・布告した。この国内政策はじつのところ、(6).ボリシェヴィキとするどく対立してきた、急進的学生・知識人を中心とする革命党派の農民・農業政策を「密輸」したものにほかならなかった。
この後、革命はボリシェヴィキの一党独裁のもとでの国家管理へと変わり、1930~40年代には( E )の独裁権力のもとで数多くの悲劇を生み出していく。多数の人々が死に追いやられたこの悲惨さをもって、革命を全面的に否定する根強い傾向が存在している。だが、革命から多くの年月がすぎ、資本主義による貧富の差が拡大しつつある今、貧しい者たちが幸福に暮らせる世界を夢見たこの「壮大な実験」の失敗が問いかけているものは何なのかをとらえなおす意味があるのではないだろうか。
- (1)
- (a) 当時のロシアではグレゴリウス暦とは異なるロシア暦を用いていたが、その暦ではこの社会主義革命は何と呼ばれているか。
- (b)それは西暦何年におきたのか。
- (c)社会主義革命の理念を明らかにした『共産党宣言』の著者2名を答えよ。
- (2)
- (a)この革命はロシア暦では何と呼ばれているか。
- (b)このとき崩壊したロシア帝政は何王朝と呼ばれていたか。
- (c)帝政にかわって成立した政権を何と呼ぶか。
- (d)
- また同年7月以降、その首相となった人物は誰か。
- (e)
- 秩序を安定させようとする政府とならんで、ソヴィエトが「もう一つの政治権力」として併存する状態が生じた。この状態を何と呼ぶか。
- (3)(a)
- レーニンがボリシェヴィキの基本方針として発表した文書は何と呼ばれているか。
- (b)
- その文書では社会主義革命に向けた政治スローガンが決定されたが、その言葉を答えよ。
- (4)(a)
- この3原則を答えなさい。
- (b)
- 翌年のドイツとの単独講和ではこの原則は適用されなかった。その条約名を答えよ。
- (c)
- ボリシェヴィキ政権の外務人民委員となった人物で、後に世界革命論を主張し、主流派の一国社会主義路線と対立したために失脚して暗殺されたのは誰か。
- (5)(a)
- この最初の国内政策は何と呼ばれるか。
- (b)
- この政策は国内の反革命や外国軍による干渉戦争の激化などに対応して、翌年、私企業の一切禁止、労働義務制、農民からの穀物強制徴発と配給制度などに強化された。それらの施策を何というか。
- (6)(a)
- この党派とは何か。
- (b)
- この党派は、「人民の中へ」をスローガンとした政治潮流につらなるものだった。その政治潮流を主張した人たちは何と呼ばれたか。
解 答
空欄
A | B | C | D | E |
ペトログラード | 全ロシア=ソヴィエト会議 | 人民委員会議 | 国有 | スターリン |
設問
1 | a | b | c | ||
十月革命 | 1917年 | マルクス・エンゲルス | |||
2 | a | b | c | d | e |
二月革命 | ロマノフ朝 | 臨時政府 | ケレンスキー | 二重権力 | |
3 | a | b | |||
四月テーゼ | すべての権力をソヴィエトへ | ||||
4 | a | b | c | ||
無賠償・無併合・民族自決 | ブレスト=リトフスク条約 | トロツキー | |||
5 | a | b | |||
土地に関する布告 | 戦時共産主義 | ||||
6 | a | b | |||
社会革命党 | ナロードニキ |
解 説: 空欄 A.モスクワが首都になるのは1918年。
B.C.「全」の中に「人」
E.
1924年〈ソ連〉レーニン死去。
レーニン死。
1924年〈ソ連〉レーニン死去。
(1)
1848年 マルクス、エンゲルス『共産党宣言』
嫌よ嵌るよ 共産党。
1848年 マルクス 『共産党宣言』
(3)a.
1917年4月 〈ロシア〉レーニン亡命先のスイスより帰国、四月テーゼを発表。
得意なレーニン 帰国して。
1917年 レーニン スイスから帰国 四月テーゼ すべての権力をソヴィエトへ
(4)a.「むばいしょむへいごみんじけつ。」
- (6)a.社会革命党は、ナロードニキの流れを汲む政党で、農民層を支持基盤として農民への土地配分を主張していた。三月革命では革命政権内の多数派を形成し、その中の右派のケレンスキーが首相を務めた。しかし、右派はボリシェヴィキ(工場労働者を支持基盤とする共産主義者)との連携を重視する左派と対立するようになり、十一月革命では排除された。「土地に関する布告」はその要求を認めたものであった。