次の文章を読み、〔 〕の中から正しいものを選び、その記号をマークせよ。
「夫れ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国と為る」これは日本のことを記した中国最古の史書(1)〔イ.史記 口.漢書 ハ.後漢書 二.魏志〕地理志燕地の条の一文である。
文中の楽浪とは(2)〔イ.周の武王 口.漢の武帝 ハ.北魏の孝武帝 二。唐の武宗〕が朝鮮半島の(3)〔イ.北部 口.中部 ハ.南部 二.南東部〕に(4)〔イ.紀元前108 口.紀元57 ハ.107 二.239〕年に設けた直轄植民地4郡のひとつ楽浪郡のことで、その中心は現在の(5)〔イ.ソウル ロ.仁川 ハ.平壌 二.釜山〕の付近にあった。
これにより(6)〔イ.紀元前1 口.紀元1 ハ.2 二.3〕世紀のころ、日本列島に多数の小国家が分立していたことが知られる。
「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬を以てす」という(7)〔イ.史記 口.漢書 ハ.後漢書 二.魏志〕東夷伝の一節は、そのような小国のひとつが、中国に使者を送り、中国皇帝の承認を得ることによって王権の強化をはかろうとしたことを示している。
文中の奴国とは現在の(8)〔イ.北九州市 口.福岡市 ハ.唐津市 二.佐賀市〕 付近にあった一小国と推定されている。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり。漢の時に朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国」これは(9)〔イ.史記 口.漢書 ハ.後漢書 二.魏志〕倭人伝の冒頭部分である。
文中の帯方とは後漢末期、遼東の公孫氏が楽浪郡の南部を割いて新設した郡で、その中心は今の(10)〔イ.ソウル ロ.仁川 ハ.平壌 二.釜山〕付近にあった。
同書によると(11)〔イ.1 口.2 ハ.3 二.4〕世紀の後半、倭国は大乱に陥り、長期にわたって収拾がつかなかった。
そこで巫女王(12)〔イ.天照大神 口.倭迹迹日百襲姫命 ハ.卑弥呼 二.神功皇后〕を共立し、内乱はようやくおさまったという。
彼女の没後、男王を立てると再び混乱が起ったので、宗女すなわち(13)〔イ.娘 口.姪 ハ.従妹 二.血縁のつながった女性〕を立てて、これをおさめたという。
この女王は(14)〔イ.188 口.239 ハ.266 二.362〕年中国に使者を派遣したが、その後しばらくの間、日本のことは中国の史書に見えない。
その問は日本における統一政権誕生の陣痛期で、中国に使者を派遣する余裕などなかったのであろう。日本のことが再び中国史書に登場するのは(15)〔イ.4 口.5 ハ.6 二.7〕世紀のはじめである、この世紀には倭の五王が次々と中国南朝に朝貢した。
五王の最後の武は(16)〔イ.神武 口.天武 ハ.文武 二.雄略〕天皇のことと考えられている。
倭王武の実名ワカタケルは(17)〔イ.群馬 口.栃木 ハ.埼玉 二.茨城〕県稲荷山古墳出土の鉄剣の銘や(18)〔イ.熊本
口・福岡 ハ.佐賀 二.大分〕県江田船山古墳出土の大刀銘にも見え、天皇の祖先である大和の大王による国土統一はこの頃迄にはほぼ完了していたとみられる。
(19)〔イ.宋書 口.南斉書 ハ.梁書 二.隋書〕夷蛮伝に載せる倭王武の上表文に東は(20)〔 イ.匈奴 口.毛人 ハ.隼人 二.熊襲〕を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国と言っているのはあながち誇張とばかりは言えないであろう。
[解答]
(1)ロ (2)ロ (3)イ (4)イ (5)ハ (6)イ (7)ハ (8)ロ
(9)ニ (10)イ (11)ロ (12)ハ (13)ニ (14)ハ (15)ロ
(16)ニ (17)ハ (18)イ (19)イ (20)ロ
(4)中国の朝鮮 支配
(17)(18)稲荷山古墳出土鉄剣銘 江田船山古墳出土大刀銘の覚え方
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