今日は、2011年1月11日 今年のblog再開にいい数字(と思いたい)
暮れの30日、父が意識不明になり 救急車で搬送されたと連絡を受けた私と妹は、東名自動車道の港北SAで合流し 私とプーさんは妹の車に乗り込み、夕方5時半ぐらいに 鹿児島を目指し出発した。
目的地まで約1300キロメートルの長いドライブがスタートした。
車のカーナビは走行中さほど目的地到着予定を変えず、31日昼過ぎには着くはずだった。
なのに私は未だ父に会えずにいる。
何でこんなことになってしまったのか!
何回か渋滞に巻き込まれたものの、甥っ子とプーさん二人が交互に運転し、夜明け前に関門海峡を抜け、九州に入った。
しかし順調だったのは福岡までだった。
辺りは銀世界に変わり、福岡の西(佐賀の方)は山々が真っ白に変容していた。
太宰府ICで降ろされ、国道3号線を南下することに。雪に慣れない九州の車はあちこちでスリップ事故を起こし、時速20キロメートル以下の運転が続いた。
それでももう一度久留米から熊本までは九州自動車道を走れた。
しかし熊本からはもっと速度は落ち、粉雪が降る中鹿児島県に入り、薩摩川内を過ぎたころから国道もチェーン規制になってしまった。
その頃から腹痛を感じ始めていた私は、トイレ休憩をしても、出るものもなく腹痛は激しさを増していった。
とうとうたまり兼ねて、妹が救急車の依頼の電話を入れてくれ、長い時間の痛みにさらされた私は、車の後部座席から引きずり出された。
地理的には串木野金山の入口付近だった。
この救急車の中で、私は痛いと呻き、手を握られ、頑張れ、頑張れと励まされながら、串木野の救急外来に搬送してもらった。
これで助かったと思った。
お尻に筋肉注射をされ、嘔吐した。
医者も看護婦もノロウィルスだと診断。
痛みは収まらず、呻く私のことを、痛い痛いと騒ぐ患者と言ったそうだ。
その後のことは覚えていない。
しばらくし、体温が34℃までさがり、呼吸が止まってしまったという。
それまで妹が医者に再三腸閉塞かもしれないと言っても、聴き入れてもらえなかったそうだ。
慌てたその病院は、別の病院への搬送先を救急隊員と必死に捜し、私は再び救急車の中に入れられた(と後で聞かされた)。
着いたのは鹿児島市立救急救命センターだった。
年が変わる数十分前だったという。
そのちょっと前意識を回復した私は、救命隊員に顔を叩かれ続けていたように思うのだが、同乗していたプーさんは、「そんなことない、ずっと励ましながら、名前を呼び続けていたよ」と言う。
救命車がサイレンを鳴らしつづけても、国道3号線30キロメートルを2時間ちょっと要するほどの、雪降る悪天候だったそうだ。
私はこの病院で助かった。
しかし そのあと三日半以上 激痛でのたうちまわることになった。
暮れの30日、父が意識不明になり 救急車で搬送されたと連絡を受けた私と妹は、東名自動車道の港北SAで合流し 私とプーさんは妹の車に乗り込み、夕方5時半ぐらいに 鹿児島を目指し出発した。
目的地まで約1300キロメートルの長いドライブがスタートした。
車のカーナビは走行中さほど目的地到着予定を変えず、31日昼過ぎには着くはずだった。
なのに私は未だ父に会えずにいる。
何でこんなことになってしまったのか!
何回か渋滞に巻き込まれたものの、甥っ子とプーさん二人が交互に運転し、夜明け前に関門海峡を抜け、九州に入った。
しかし順調だったのは福岡までだった。
辺りは銀世界に変わり、福岡の西(佐賀の方)は山々が真っ白に変容していた。
太宰府ICで降ろされ、国道3号線を南下することに。雪に慣れない九州の車はあちこちでスリップ事故を起こし、時速20キロメートル以下の運転が続いた。
それでももう一度久留米から熊本までは九州自動車道を走れた。
しかし熊本からはもっと速度は落ち、粉雪が降る中鹿児島県に入り、薩摩川内を過ぎたころから国道もチェーン規制になってしまった。
その頃から腹痛を感じ始めていた私は、トイレ休憩をしても、出るものもなく腹痛は激しさを増していった。
とうとうたまり兼ねて、妹が救急車の依頼の電話を入れてくれ、長い時間の痛みにさらされた私は、車の後部座席から引きずり出された。
地理的には串木野金山の入口付近だった。
この救急車の中で、私は痛いと呻き、手を握られ、頑張れ、頑張れと励まされながら、串木野の救急外来に搬送してもらった。
これで助かったと思った。
お尻に筋肉注射をされ、嘔吐した。
医者も看護婦もノロウィルスだと診断。
痛みは収まらず、呻く私のことを、痛い痛いと騒ぐ患者と言ったそうだ。
その後のことは覚えていない。
しばらくし、体温が34℃までさがり、呼吸が止まってしまったという。
それまで妹が医者に再三腸閉塞かもしれないと言っても、聴き入れてもらえなかったそうだ。
慌てたその病院は、別の病院への搬送先を救急隊員と必死に捜し、私は再び救急車の中に入れられた(と後で聞かされた)。
着いたのは鹿児島市立救急救命センターだった。
年が変わる数十分前だったという。
そのちょっと前意識を回復した私は、救命隊員に顔を叩かれ続けていたように思うのだが、同乗していたプーさんは、「そんなことない、ずっと励ましながら、名前を呼び続けていたよ」と言う。
救命車がサイレンを鳴らしつづけても、国道3号線30キロメートルを2時間ちょっと要するほどの、雪降る悪天候だったそうだ。
私はこの病院で助かった。
しかし そのあと三日半以上 激痛でのたうちまわることになった。