今日は用があった鹿児島市のデパート山形屋へ
2号館6階へのエスカレーターを昇った右手に大きな絵が掛けてあります
東郷青児の油絵
東郷青児は鹿児島生まれの洋画家で、子供の頃は青柳という和洋菓子店の包装紙を描いた人という認識
雑誌とかの挿絵でもちょくちょく見かけたような記憶も
デフォルメされた女性は、透明感があり、それなのにセクシャリティを感じさせず
好きな画家でした
甘いものが好きだった母が、青柳の菓子を買ってくると、菓子より包装紙が欲しかったのを覚えています
wikiによると、描かれている女性のイメージと真逆の なかなか情熱的な人物だったそうです
竹下夢ニの妻と懇ろになり、刃傷沙汰へ発展したり、宇野千代が愛人だったり
「かごしま」という絵を制作しているという写真
何人も絵筆を持っていて、工房の作品のよう
大きな壁画のような絵を見ながら、しばし子供時代にスリップ
幼稚園の友達のお父さんも画家
割と近くに住まい兼アトリエがあり、とてもモダンな家
玄関入ると左手に対面キッチン、ダイニングルームも当時珍しい洋間、奥に広いアトリエがあり、キャンバスが何枚も縦に重ねてあり、お父さんは絵を描いていて
そんなアトリエで怒られることもなく友達と遊んでいました
畳敷きの和室がなく、夜はどうやって寝ているんだろう?そんな事を口に出したことはなかったけど、不思議に思っていました
家の作りは違っていたし、お父さんもお母さんもモダンだったけど、それ以外は違いは感じられず
幼い頃の記憶に刷り込まれた2人の画家
まつわる色々を久しぶりに思い出したことでした
ブログ友のCharlotte michiganさんが砂蒸し温泉にコメントをくださったので、先日のブログをさらに詳しく紹介です
上は熱い温泉の砂の中に埋まっている所です
ここは、鹿児島県指宿市山川の東海シナ海に面した海岸の砂地
だから
砂蒸しする場所はこんなところ、海の向こうの山蔭は大隅半島の佐多岬です
あるいは
砂蒸しから出てきて海風に吹かれている所から、海岸の向こうに開聞岳を見ることが出来ます
この海岸は崖に面していて、崖の上は温泉の噴煙が上がっています
近くには地熱発電の研究所も
この砂地に温泉水を引き込んで、砂を熱して砂蒸しに利用しているようです
温泉水に熱せられた砂に体を横たえて、上から熱い砂をどんどんかけられます
簡単には身動き出来ないほど
砂から出る時は、足先を動かし手先を動かして少しずつ砂を払いのけて起き上がるのです
コロナ禍以前はスタッフの方が、持ち込んだスマホで色々と写真を撮ってくれていました
こんな写真もありました
砂蒸しに入る前
いまはスマホの撮影サービスは無し(コロナ対策で)
砂場に行くときもマスク着用、砂をかけてもらう前にマスクを外してポリ袋に入れます
こんな対策がしばらくは続きそうですね
私が砂むし温泉の効果を知ったのは30代だったと思います
クリスマスイブの日に、トトの母様のお遣いでクリスマスケーキを届けるために車に乗っていました
運転はトトさんだったかな?
市電も走る大きな交差点を右折しようとしていた時に、自転車が横断しようとしていてブレーキをかけました
その時赤いフォードのジープのような車に追突されたのです
後方車の前方不注意でした
検査の結果、軽い鞭打ちを起こし 首にコルセットしてもらいましたが、頭が重いのです
4日後ぐらいにこの砂むし温泉に行きました
その時は、何かの効果を期待しているわけではなく、子供たちへ体験させるため
ところが 私の頭の重さや不快さが、砂蒸しから出て家に帰る頃には消えていたのです
お陰で忙しい暮れから新年にかけて、無事に過ごすことが出来ました
これまで何回となく出かけている砂むし温泉ですが、その時の効果は絶大でした
指宿市には何ヵ所か砂蒸し温泉があります
鹿児島湾に面した指宿の温泉地の砂蒸しも経験していますが、私はこの自然に抱かれるようなロケーションの山川の砂湯里砂蒸し温泉♨️が、一番好きです
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
一昨日の夜ごはんは、豆腐クリームのドリア
木綿豆腐一丁に麦味噌と西京味噌をブレンドしたものを大さじ1強入れて、ハードプロセッサーで滑らかな豆腐クリームを作ります
ご飯をキノコと一緒にソテーして、そぼろご飯に使った鶏そぼろも混ぜ込んで、豆腐クリームをかけて、シュレッドチーズをぱらぱら
オーブントースターでチーズが溶ける程度に焼きました
トトさんには、さらに鶏そぼろを焼き上がった上からトッピング
こちらの方が見た目も美味しそう
ホワイトクリームよりヘルシーで、お味も上々でした
他は酢の物と焼き茄子
昨日の夜ご飯は、鯖の幽庵焼き
ほうれん草の白和えとかぼちゃのそぼろ煮
昨日の挽き肉は合い挽き肉
玄米ご飯とカボチャの味噌汁も食が進みました
今朝のベス🐕🦺のお散歩気分は平和公園辺り
迷うことなくぐんぐんリードを引いて目的地へまっしぐら
公園内をぐるぐる クンクンしながら歩き回り、平和の鐘を突いて、さぁ帰ろうかとベス🐕🦺を促したら
復元された三角兵舎の方へ私を引っ張ります
なんと今日は入口が開いていました(そんな時間に当たった?)
随分長いこと 中を見学していなかったので、今日は中に入ってみました
当時の三角兵舎の中の、特攻兵の写真が展示してあります
突撃の前の日の様子でしょうか?
殆どが母親へ手紙を書いています
こんな感じで寝ていたようで、復元された布団一式も展示してあります
布団の足元の壁には小さなトランクが一つ
こんな小さな荷物で、この地にやってきて、飛行訓練を受けて、飛び散っていった特攻兵
ここは三角兵舎を復元してある建物
戦時中は、三角兵舎はもう少し山間部の松林の中にありました
今は建物は残っていません
昨年5月にベス🐕🦺の散歩を兼ねて行っています(途中まで車で)
敵の飛行機から見つからないように、山の中に、しかも建物の半分は土の中(半地下)
たくさんの人が、武家屋敷や特攻基地跡の平和公園にやってきます
でも、格安ツアーか修学旅行が殆どでバスの団体さんばかり
だから、短時間で観光していくだけ
一帯には、戦争の爪痕が沢山残っていますが、個人の旅行者でもなかなか訪ねられない場所です
地元民でも、なかなか行かないところでしょう
残念なことですが、私たちもベスと散歩であちこち歩かなければ、行かなかった場所かも
トトさんは、民泊の中学生を連れて見学させたそうですが
復元された三角兵舎を出ると、外からの外観も一方向からは分かります
でも戦時中は、この三角屋根も草や松や杉の枝で覆ってわからないようにしていたことでしょう
今日は平和公園内の山桜が一本咲き始めていました
気持ちのいい朝で、ベスは芝生に寝そべって
トトさんが先に歩いていくのが不満そう
おすわりし直しても、動かない
トトさんとベス🐕🦺との根比べ
トトさんが途中まで引き返して、おやつを見せたら歩き出しました😄
家に帰り着くと、我が家の山桜も一気に開いていました
昨日までは蕾だったのに
駆け足で春も過ぎていきそうです
今朝 ベスの散歩に家を出たのは、5時半を少しまわっていました
歩き出してしばらくすると、東北の方向に怪しげな雲
明け方の雲のない空に、そこだけもくもくと沸いています
すぐに桜島が派手に爆発したんだと思いました
我が家は、桜島の南西に位置しますが、桜島を見ることは出来ません
年に一〜二回、大爆発をして噴煙が高〜く上がった時に、桜島を思い出す程度
彼方の空を見上げると、噴煙の形が刻々と変わっていきます
一時は昇る太陽が隠れるほどでした
今日は 降灰の被害に遭うかと案じましたが、北東の方に流れていったようです
鹿児島市内を車で走っていると、白く汚れた車に出くわすことがあります
その車がどの方向から走ってきたかすぐにわかります
あるいは、降灰中に運転していると、もちろんフロントガラスにも落ちてきて、とても厄介
これに雨でも降っていたら、ほんとに悲惨です
運転中に降灰に遭遇したら、フロントガラスが傷つくので ワイパーは使いたくない
でも安全運転のためには、やむを得ずウォッシャー液どんどん吹きつけながらワイパー使用となります
37年前の7月30日、私は長男の出産のために里帰り中でした
予定日を1週間過ぎても、お産の気配はなく、大きく突き出た重たいお腹と早くサヨナラしたくて、毎日毎日階段を上り下りしたり(当時両親は集合住宅の11階住まい)、日傘をさして歩いたりしていました
その日も、天文館方面に歩いて出かけていて、桜島の大爆発に遭遇
しかも、市街地に噴煙は流れてきて、日傘をさしていても、全身灰まみれ😰
帰宅してシャワーを浴びようとしていた時に、破水しました
病院に電話すると、すぐに来院するようにとの事
灰被れの頭がとても気になったのに、シャンプーも諦めて病院に
その後すぐには陣痛はやってこなくて、生まれたのは次の日の午後でした
当時は出産後すぐにシャワーは使えず、汚れた髪が気になってシャンプーしてもらったような記憶があります
桜島の噴火でもう一つの嫌な思い出は、買い直す前の軽トラ運転中の事です
エアコンがついてなくて、窓を開けて風を入れながら運転
その時も真夏でした
たまたま高速道路を走っている時に、ドカ灰に遭遇しました
窓を開けていると、目にも灰が入ってくるので、窓を閉めて走行です
狭い車内は、サウナ状態💦
この時も、とんでもなく辛い思いをしました
今日の噴火は、噴煙を5000メートルの上空まで吹き上げたと夕方のニュースでやっていました
大きな被害はなかったようですが、降灰で酷い目にあった人や車はたくさん出た事でしょう
桜島は年に何回爆発するか、統計があります
一年に千回以上の爆発が何年も続いた事も
千回以上とは、毎日噴火しているとしても、日に三回爆発していることになります
驚きの回数です
こんな噴火活動が活発な桜島の側で暮らしているし、台風も頻繁に通過したり上陸したりするし、自然に関しては 他の県民より諦観しているように思えます
ベス🐕🦺と朝の散歩は、だんだん遠くへ、歩いたことのない方面へと変わってきてきます
ルーティンのようなコースはベスも飽きるみたいです
新しい道を歩き始めると、足どりも軽く、リードを引っ張ります
私の祖母の出身地近くまでベスに引かれて歩いていたら、橋の側に石碑がありました
立ち止まって読み始めると、あら、どこかで聞いたようなお話です
尾ノ鼻の狐
むかし、古狐が夜通る人をだましていたずらをしていました。
そのため、横峯の一郎茶屋では、古狐のいたずらを防ぐために「シロ」という、白毛の大きな犬を飼っていました。
ある夜、堂前の権右衛門という人のもとに、「今晩、横峯のある家に嫁入りするのだが、途中茶屋の前を通るので、キツネよけの大犬が吠えると困るから取り押さえておいてくれ」と言う、嫁入りの一行が訪ねました。そこで、権右衛門は言われるまま、シロに綱をかけて一行が通り過ぎるまでひかえてあげました。そのお礼に権右衛門は、両手一杯の小判をもらいました。
次の朝両手一杯もらった権右衛門の小判は
葉っぱになっていました。また横峯には嫁入りの家は一軒もありませんでした。
尾の鼻に伝わる狐のお話です。
地形は、盆地で周りは田畑。中央を川が流れていて、橋の辺りが両側の山が迫り出して一番狭くなっています
夜道は、暗くて怖い場所だったのでしょう
夜道は用心して歩きなさいと、子供たちに教えていたのが、このようなお話が出来たのでしょうね
それにしても、なんとなく、どこかで聞いたような内容
あの、🎶でんでんでんぐり返ってバイバイバイ🎶のメロディーが頭の中でリフレインされてました😄
ベスと歩いていると、面白い発見があり、散歩の楽しさも倍になっています
一年に三日しか公開されない豊玉姫神社の水からくりを見に行った
あいにくの雨
随分前に地元の有志の努力で再開されたと聞いていたけど、見たのは初めて
想像以上によくできていた
音楽あり、ナレーションあり
大変な苦労があっての上演だろう
今日は二日目
三回目は、間をおいて二十日らしい
お天気になることを願わずにはいられない
山川の砂蒸し温泉まで行ってきた
ゴールデンウィークの後の平日なので、観光客もぐっと少なく待ち時間ゼロ
ガラガラで いいタイミングだった
砂蒸し温泉の砂は、人が蒸されるたびに、大量の汗が排出されてかなり汚れるのだという
指宿の砂蒸し温泉に行った時、蒸し場をプールのようにお湯をためて、砂を洗っていると聞いた
今回はいつもの蒸し場よりより海岸に近い場所
砂はいつもより熱めで、20分我慢できず、砂を払った
しかし短時間でも全身を血液が駆け巡ったようで、大変気持ちいい
体がとても軽くなった
蒸し砂から出て、しばらく海風に吹かれながら、はるか彼方の東シナ海や頂上付近を雲に覆われた開聞岳を眺める
雲一つなく晴れていれば申し分ないが、今回のように少々小雨がぱらつくような日でもなかなか風情がよい
この景色も砂蒸し効果に大きく作用していると思う
近いうちに来たいと来るたびに思う
今回は隣接している丘の上の露天風呂付散策
いつも白い蒸気を上げているのが、昔の温泉熱を利用した塩田跡だと知った
地球は生きている
熱いマグマの上で生活していると強く実感できる場所だ
私たち夫婦が終の棲家と決めた父の故郷から 今年もふるさと納税の報告書が届きました
特定寄付金の受領証明書に添えて 特産品の新茶が二つと かごしま応援者証という割引証やら ふるさと寄付金の使途 それに広報誌3ヶ月分です
トトが 定年退職後は私の祖父母が建てた家に帰ろうと決めたのは 十年ほど前のことです
トトは 『妻である私は 二人姉妹の長女で墓守をする立場にあるのだから』 という考えでした
父に相談すると それはそれは喜んでくれました
父が退職後二十余年過ごした家を 私たちの終の棲家と決めた本気度を示したのが トトのふるさと納税という形だったのですが、晩年の父はふるさと納税の概念を十分に理解していなかったと思います
トトが退職して ずーっと住むようになるまで まだしばらくあるのですが、 元気で働いて 納税出来て 夢が叶えばいいなと そういうことを願うというより 祈る毎日です
特定寄付金の受領証明書に添えて 特産品の新茶が二つと かごしま応援者証という割引証やら ふるさと寄付金の使途 それに広報誌3ヶ月分です
トトが 定年退職後は私の祖父母が建てた家に帰ろうと決めたのは 十年ほど前のことです
トトは 『妻である私は 二人姉妹の長女で墓守をする立場にあるのだから』 という考えでした
父に相談すると それはそれは喜んでくれました
父が退職後二十余年過ごした家を 私たちの終の棲家と決めた本気度を示したのが トトのふるさと納税という形だったのですが、晩年の父はふるさと納税の概念を十分に理解していなかったと思います
トトが退職して ずーっと住むようになるまで まだしばらくあるのですが、 元気で働いて 納税出来て 夢が叶えばいいなと そういうことを願うというより 祈る毎日です
3月12日は 母の命日です
母が亡くなって今年で28年でしょうか 昭和58年のことです
私は1歳半になった息子を抱え 妹は1月に生まれたばかりの娘を抱え その当時の田舎の風習に従って行った父の生家での葬式の後片づけに追われていました
父は覚悟していたものの 葬式を出した後は嘆くばかりで茫然自失の状態でした
乳飲み子を私たち姉妹でおぶったりしながら片づけていたのですが そのとき 庭から父が声をかけました
『二人とも 出て来てごらん。 庭の梅が悲しいまでに美しく咲いている』 父は泣いていました
梅の花は母が好きだった花でした
夫婦で梅の木の接ぎ木の仕方を習ったりして 田舎の広い庭には地植えされたり 鉢植えされたりしている梅の木がずいぶん増えていました
私たち姉妹は 母が亡くなった後の様々な対応に心底疲れてもいたので 泣く暇もないといった状態というか 父のような悲しみを受け止められずにいました
そこで 父のその『庭の梅の花が悲しいまでに美しく咲いている』という言葉に妹が切れて 父とけんかになってしまいました
父の嘆く気持ちは重々とわかっていても 『よくも淡々と雑用をこなせるなぁ』という父の思いを 言外に感じていたのでした
以来私たち姉妹は梅の季節になると当時の父の言葉を思い出すようになりました
その後も 梅の木の管理だけは一生懸命にしていました
ところが二年前の冬に 父から私に相談がありました
『鉢植えの梅の木を 近所の人やいとこやお世話になった人にあげたいと思うが どうだろうか』 という内容でした
もちろん父は 『こんなにたくさんの大きな鉢植えがあっては 後を次いだおたかさんが苦労するから』 とも言ってくれました
私としては 『お父さんの好きなようにしたらいいわよ』 というしかありませんでした
そうして 父が愛して慈しんだ庭からたくさんの梅の木の鉢植えがひとつふたつと消えていき 今では6鉢ほどになってしまいました
私は結婚以来ずーっと集合住宅暮らしなので庭木の手入れをしたことがありません
去年の夏 暑い中妹がボウボウに伸びていた梅の枝の剪定をしてくれました
そんなに坊主にするの? と心配するほどでしたが 季節が巡ってくると 見事に次々と花が咲き出しました
そんな中 今日は少し早いのですが トトと二人でお寺に行ってきました
妹から届いたお供えに添えてあった手紙に
『梅は咲いていますか? お父さんと二人で笑い語らっているでしょうね』 とありました
私も同じようなことを思っていました
写真ではよくわからないのですが 白いしだれ梅の木に 赤い梅の枝が接いであります
接ぎ木をしたのは30年ほど前のことでしょうか 赤い花の枝は下の方です
下の枝は 妹がほんとにばっさりと切ってしまったので 咲いている花も少々
今年はもう少しのばしてあげましょう
父と母が一本の梅の木にいるような気のする今日でした
母が亡くなって今年で28年でしょうか 昭和58年のことです
私は1歳半になった息子を抱え 妹は1月に生まれたばかりの娘を抱え その当時の田舎の風習に従って行った父の生家での葬式の後片づけに追われていました
父は覚悟していたものの 葬式を出した後は嘆くばかりで茫然自失の状態でした
乳飲み子を私たち姉妹でおぶったりしながら片づけていたのですが そのとき 庭から父が声をかけました
『二人とも 出て来てごらん。 庭の梅が悲しいまでに美しく咲いている』 父は泣いていました
梅の花は母が好きだった花でした
夫婦で梅の木の接ぎ木の仕方を習ったりして 田舎の広い庭には地植えされたり 鉢植えされたりしている梅の木がずいぶん増えていました
私たち姉妹は 母が亡くなった後の様々な対応に心底疲れてもいたので 泣く暇もないといった状態というか 父のような悲しみを受け止められずにいました
そこで 父のその『庭の梅の花が悲しいまでに美しく咲いている』という言葉に妹が切れて 父とけんかになってしまいました
父の嘆く気持ちは重々とわかっていても 『よくも淡々と雑用をこなせるなぁ』という父の思いを 言外に感じていたのでした
以来私たち姉妹は梅の季節になると当時の父の言葉を思い出すようになりました
その後も 梅の木の管理だけは一生懸命にしていました
ところが二年前の冬に 父から私に相談がありました
『鉢植えの梅の木を 近所の人やいとこやお世話になった人にあげたいと思うが どうだろうか』 という内容でした
もちろん父は 『こんなにたくさんの大きな鉢植えがあっては 後を次いだおたかさんが苦労するから』 とも言ってくれました
私としては 『お父さんの好きなようにしたらいいわよ』 というしかありませんでした
そうして 父が愛して慈しんだ庭からたくさんの梅の木の鉢植えがひとつふたつと消えていき 今では6鉢ほどになってしまいました
私は結婚以来ずーっと集合住宅暮らしなので庭木の手入れをしたことがありません
去年の夏 暑い中妹がボウボウに伸びていた梅の枝の剪定をしてくれました
そんなに坊主にするの? と心配するほどでしたが 季節が巡ってくると 見事に次々と花が咲き出しました
そんな中 今日は少し早いのですが トトと二人でお寺に行ってきました
妹から届いたお供えに添えてあった手紙に
『梅は咲いていますか? お父さんと二人で笑い語らっているでしょうね』 とありました
私も同じようなことを思っていました
写真ではよくわからないのですが 白いしだれ梅の木に 赤い梅の枝が接いであります
接ぎ木をしたのは30年ほど前のことでしょうか 赤い花の枝は下の方です
下の枝は 妹がほんとにばっさりと切ってしまったので 咲いている花も少々
今年はもう少しのばしてあげましょう
父と母が一本の梅の木にいるような気のする今日でした
ブログ訪問してくださいました皆様 今年もよろしくお願いいたします
私の新年は 妹と甥っ子と三人で父亡き後の家で迎えました
大晦日の夜 一年前を思い出した妹は泣き出してしまうほどでした
24日クリスマスイブの日は ぎっくり腰になってしまい 四つんばいでしか家の中も動けないほどでした
2011年は 自分の体に次々とトラブルの起きた年であり 年の初めから終わりまで 東日本大震災や台風による水害 タイの洪水など社会的にも辛いことの多かったほんとに生涯忘れられない年になってしまいました
くじけそうになる自分を励ましてくれたのは まずは身近な家族でしたが、遠くや近くにいる友人の温かさにどれほど励まされたことか
そして東日本大震災で被災したひとを励ました様々な著名人の言動や活動も 私を鼓舞してくれました
いつかは巡り巡って 逆の立場になれたらと思う今日この頃です
さて トップの写真は 墓守のために私が引き継いだ実家の庭です
父が退職後 祖父の家の庭を手入れしたり手直ししたりして慈しんでいた庭の一部です
この地に帰って暮らすようにならなければ 木々の刈り込みや草取りなど思うようには出来ないのですが 夏以来この庭の手入れは私に新しい楽しみを与えてくれています
生きとし生けるものは最後に土に返る その土に触れることの楽しみを見つけました
手入れしても手入れしても追いつかない草の勢いですが やらないよりはマシであり やったことだけはある
自分の作業の結果がダイレクトに表れる草取りの前と後です
私が生まれた次の年に立て直された現在の母屋は 増改築を繰り返しながら半世紀以上が経ち 快適に住むには大きな手入れの必要があります
今年の我が家の一大イベントは この母屋のリノベーション
期待と不安で 熟年夫婦の会話が何故か増えているこの頃です
今年は自分で着ている着物も書き留めていきたいと思っています
腰を安定させるために病院で出された太めの腰ベルトをしてもまだ心細い状態でしたが 年末の移動も着物にしたらぐっと楽になりました
帯は付け帯びでお太鼓部分は 往きは省略して 友人からプレゼントされた羽織の袖をとったものを羽織って防寒コートでした
かえりは 付け帯びも付けて同じく袖無し羽織と防寒コート
この袖無し羽織は 簡単なリフォームで肩周りがとてもフィットしている優れものです
別の機会にこの袖無し羽織だけ お話したいとおもいます
私の新年は 妹と甥っ子と三人で父亡き後の家で迎えました
大晦日の夜 一年前を思い出した妹は泣き出してしまうほどでした
24日クリスマスイブの日は ぎっくり腰になってしまい 四つんばいでしか家の中も動けないほどでした
2011年は 自分の体に次々とトラブルの起きた年であり 年の初めから終わりまで 東日本大震災や台風による水害 タイの洪水など社会的にも辛いことの多かったほんとに生涯忘れられない年になってしまいました
くじけそうになる自分を励ましてくれたのは まずは身近な家族でしたが、遠くや近くにいる友人の温かさにどれほど励まされたことか
そして東日本大震災で被災したひとを励ました様々な著名人の言動や活動も 私を鼓舞してくれました
いつかは巡り巡って 逆の立場になれたらと思う今日この頃です
さて トップの写真は 墓守のために私が引き継いだ実家の庭です
父が退職後 祖父の家の庭を手入れしたり手直ししたりして慈しんでいた庭の一部です
この地に帰って暮らすようにならなければ 木々の刈り込みや草取りなど思うようには出来ないのですが 夏以来この庭の手入れは私に新しい楽しみを与えてくれています
生きとし生けるものは最後に土に返る その土に触れることの楽しみを見つけました
手入れしても手入れしても追いつかない草の勢いですが やらないよりはマシであり やったことだけはある
自分の作業の結果がダイレクトに表れる草取りの前と後です
私が生まれた次の年に立て直された現在の母屋は 増改築を繰り返しながら半世紀以上が経ち 快適に住むには大きな手入れの必要があります
今年の我が家の一大イベントは この母屋のリノベーション
期待と不安で 熟年夫婦の会話が何故か増えているこの頃です
今年は自分で着ている着物も書き留めていきたいと思っています
腰を安定させるために病院で出された太めの腰ベルトをしてもまだ心細い状態でしたが 年末の移動も着物にしたらぐっと楽になりました
帯は付け帯びでお太鼓部分は 往きは省略して 友人からプレゼントされた羽織の袖をとったものを羽織って防寒コートでした
かえりは 付け帯びも付けて同じく袖無し羽織と防寒コート
この袖無し羽織は 簡単なリフォームで肩周りがとてもフィットしている優れものです
別の機会にこの袖無し羽織だけ お話したいとおもいます