これってやはり化石? 私のライフスタイル!

ひともすなるブログなるものを、われもしてみむとてするなり

腸閉塞からの生還 … 励まされながらリハビリの日々

2011-01-31 | 腸閉塞
1月も今日で終わり。 

自宅に戻って10日も経ったのに まだ元の生活に戻れない。
病院でリハビリするのと 自宅でリハビリするのは 大変な違い。 自分と向き合う時間さえ億劫な毎日。

久々にブログの編集画面を開いた。 以下は20日朝に書き留めておいたもの。 


9日の午後には 信じられないようなサプライズがあった。

なんと友人Mが 東京町田から 見舞いに来てくれたのだ。

家を朝5時半に出て 飛行機に乗ってきたという。

顔を見たとたん 泣き出してしまった。

Mとは今年初めての着物でデートを 7日に約束していた。 手術が決まった時、プーさんにMにだけは デートが出来なくなったことを連絡してくれるように頼んでいたのだ。

母の友は私の友といった感じで プーさんはMに日頃冗談をいうほど親しくしているのだが、Mに電話をしたとたん 泣き出したという。

Mは私の顔を見なければ安心できないと はるばる鹿児島まで来る決意をしたという。

ベッドでリクライニングを起して 6時までおしゃべりを楽しんだ。

オレンジのアレンジメントは小田急デパートで前日 作ってもらったという。 『オレンジはエネルギーを与えるって教えてもらって この色にしたの。 花も飛行機に乗せてきたわ』 と 説明してくれた。 

花を見ていると ほんとにエネルギーをもらっているように感じた。

友人Mは6時過ぎに病院を出て 東京へとんぼ返りしていった。

メールがきても 返信したくても指が思うように動かない。こんなところまで弱り果てていた。

しかしこの夜 私は4時間ほどだが 入院以来初めて熟睡できた。

10日
おなかには体液を排出するためのドレーンチューブが入れてあったが、これが歩行を始めると悩ましかった。 ポシェットを首から斜めにかけて 排出された液を受け止めるパックをポシェットに入れ、歩いていた。 歩き出すと赤い体液はどんどんチューブを伝わり、パックに溜まっていく。 血を薄くしたその色が溜まっていき 日に数回パックから捨てられるのを見ると、体のエキスを捨てているような気がした。

この朝 主治医は 『もう管を取りましょう。』と言い、取ってもらう。

消毒して まず抜糸。 『はい、ゆっくりと 息を吸って ゆっくりと吐き出して。するするするー。 取れました』 という具合に 消毒から 抜糸 チューブの抜き取りまで 一動作ごとに説明しながら とってもらった。

どこまでも動作と言葉の優しい先生なのである。

それ以後 いろんな看護婦さんや外科の先生から 『管が取れて すっきりしましね。回復も早まりますよ』 と 声をかけてもらう。
私が このチューブから流れ出る腹水をとても気にしていたことは お見通しのようであった。

11日
縫合してあるおなかの糸を1本おきに半分ずつ抜糸があった。

点滴もこの日で終了した。

看護婦さんに首が濡れないようにしっかり保護してもらい トトにシャンプーしてもらう。

12日
朝 看護婦さんに 『点滴も終わったし 外出許可が出るようになったら、危篤状態の父に会いに行きたい。 トトがレンタカーで連れて行ってくれるといってるので』 と 話した。 私としては16日あたりを考えていた。

ところが トトに監督されながら5分粥の朝食をとっていると、主治医がステンレスのトレイを持ってきた。

私の名前を呼んだあと、『看護婦から 聞きました。 今から抜糸しましょう。 そして首のCVカテーテルも今から取りましょう』 と言われたのでびっくり。

トトに部屋を離れてもらい、まず首のCVカテーテルを抜いてもらう。縫ってあったのだが、さほど痛みもなく抜いてもらう。

抜糸は昨日より痛みも感じなかった。

先生は手を動かしながら言われた。
『鹿児島に車で帰省されたのは、倒れたお父様に会うためだったのですね。 今日はご主人もいらしているから、外出許可を出します。 後悔しないように お父様の息のあるうちに面会に行ってきてください。 僕は祖父の最期に間に合わなかった苦い経験があるのです』 と。

私もトトもびっくりした。

続けての注意事項は もっと心配なものだった。
急なおなかの痛みが始まったら、すぐにUターンすること。 その時は救急車を使うこと。

この朝から5分粥になっていたが、お昼はおうどんを50回ほど噛んで噛んで食べなさい。 お昼になったら必ず食べて 腸が動くようにしなさい。とも付け加えられた。

トトはそこまでしていかなくてもいいだろう と私に諦めるように言ったが、トトがいる時しか 面会に行けない。 私はがんばって行きたいと言い張った。

トトはすぐにレンタカーの手配をしに出かけ、私は外出許可証に必要事項を記入した。

許可証も主治医の先生自らもってきてくださった。

私はペットボトルを1本手に持ち 姪っ子が買ってくれてあった、フリース素材のパジャマを着て ダウンベストにダウンコートを着た。 服は吐しゃ物で汚れたのでクリーニングに出してあり、着る服もない状態だったから。

レンタカーの助手席のシートを倒して 乗っていった。 カーナビは到着予定を75分後としていたが、車の流れとは逆方向で 55分ほどで父のいる病院に到着。

右半身不随、失語症と診断された父はベッドの上で私以上に様々な管を入れられ、痛々しそうだった。

もちろん 声をかけても目を開けるわけでもなく、左手を握っても握り替えされるわけでもなかったが、絶対に私の声は父に届くはずと思い、泣きながら一生懸命語りかけた。

この日も雪が舞う冷たい日で 20分ほど面会して病院を後にした。

お昼は指示されたようにうどんを50回噛んで噛んで 少々食べた。 50回もうどんを噛むと 味はなく 小麦粉を練ったものを口に入れているようで 大変な苦痛だった。
この時以来 うどんは食べていない。 懲り懲りだった。

4時間足らずの外出をして 病院に戻り ベッドに倒れ込む。 無事に往復出来てほっとした。

夕方 入院後初めてのシャワーを姪っ子が一緒に入ってくれて 全身を丁寧に洗ってくれる。 暮れの29日以来の事。 
この後、病衣からパジャマに変える。

13日
病棟の回廊を歩く回数が一気に増えて 12周する。
病棟の西の端から東の端までは67メートルあると 同じように歩いている患者に教えてもらう。
この数字を教えてくれたのは76歳の男性。 退院したらゴルフを再開するのが目標とも。
床の方眼目のタイルを測ると29㎝あったという。 その方眼を一マスずつ数えたそうだ。

14日
この日の私を担当する看護婦さんは 優しい。 シャワーも一緒に入って手伝ってくれるというので 安心して入れる。

それでもシャワーを浴びて 髪を乾かしてもらった後は 息が上がってしまう。
歩くのはしばらくベッドで休んでからにするようにと言われる。

食事はやっと7分粥になり、お茶碗にちょっぴりお米の粒が増えてきた。

プーさんが最終便で来てくれるはずだったのに 残業だという。 とたんに体の力が抜けてしまう。


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腸閉塞からの生還 … 主治医に ありがとうございます と言われる

2011-01-19 | 腸閉塞
9日
朝から食事が始まった。

この病院では 重湯 → 三分粥 → 五分粥 → 7分粥 → 全粥 → 腸用普通食 という流れを二日間ずつ繰り返すと効かされていた。

重湯は飲めない人が多いけど、がんばって少しずつよく噛んで食べてくださいと 昨夜看護婦さんから言われていた。

最初の食事は 重湯 実のない味噌汁 りんごジュース 甘い飲み物 加工乳製品の飲みもの 200ccだった。

トトの監督のもと ゆっくりと噛みながら 上の朝食を30分かけて食べきった。

途中で苦しくなり 汗まで出るほどのきつい食事になった。

食べることに疲れて 横になりたかったが、食後10分は 絶対に横にならずに せめて30分は起きておくようにとの注意をされていた。

しかし もうこれ以上アルブミンの点滴をしたくなかった私は 味がどうこうなどいっておられず必死だった。

朝食が終わったころ もう一度顔を出した主治医の先生は 『どうでしたか。 食べれましたか?』 と 心配そうに聞かれた。

私が『全部食べました』 と答えると なんと 深々と一礼されながら 『ありがとうございます』 と 言われた。

ほかにも この主治医の先生は びっくりすることが色々とあった。

どの先生よりも 早く病室に顔を出すし、 その時には 私の一晩の看護記録に目を通してあったこと。

言葉づかいがとても丁寧だったこと。

私のレントゲン検査の結果がよかったり、血液検査の結果で 改善がみられると プリントした用紙を持って ほんとに自分の事のように喜んで報告にいらしたこと。

何よりも 優しさがすべての動作ににじみ出ていた。

その後も先生の口から たびたび 『ありがとうございました』 と言われ 私も『こちらこそ ありがとうございました』と 交わす日々が続いた。

私は順調に回復し始めた。
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腸閉塞からの生還 … 術後から4日間

2011-01-19 | 腸閉塞
ICUでの一夜は 傷の痛みは感じたものの 快適だった。

術前にお願いしてあった腰痛対策のために 何回も何回も体位を変えてもらえたし、持ち込んだテンピュールのマットは腰の絶妙な位置に常に置いてもらえ 体位を変えるたびにテンピュールのネックピローをどちらかの膝あたりに挟んでもらえた。

しかも1日の朝 トトはテンピュールのマイピローを持ってきてくれていたが、それもICUのベッドの上で私の頭を支えてくれていた。

人工呼吸器を外された後の喉のイガイガ感がひどかったが、これも何回もうがいをさせてもらえた。

口と唇が乾燥して辛かったので お湿りが欲しいと言ったら、ガーゼを濡らして口と鼻を覆ってもらえたのもよかった。

なんと朝が来ると 歯磨きもしてもらえ 体も拭いてもらえた。

これは救急救命病棟ではやってもらえなかったことだったので、感激だった。
( 31日に嘔吐を繰り返した私の口をすすいで 歯磨きをしてくれたのは 一般病棟に移ってから しかも午後のことで それもプーさんがしてくれたのだった )

5日
朝になると トトとプーさんと妹が面会に来てくれてた。

私の苦痛のない顔をみて みんなどんなにほっとしてくれたことか。

昼には 鼻のチューブをはずしてもらえ 体を全部清拭してもらった後、術後のガウンも着替えて 一般病棟に戻ることができた。

主治医も何回も顔を出してくれたし、痛みどめの点滴を術前に使用したものから 傷に効くものに変えるので 効果を確かめてくださいと言われたが、術後の痛みどめは硬膜外麻酔もまだ効いていたし 痛いと騒ぐほどのものではなかった。

この日のうちにベッドから立ち上がって 歩かなければならないと覚悟していたが 5日はひたすらベッドの中で寝てすごせばいいようだった。


6日
朝、目が覚めると 左の指も手首も肘もぱんぱんに腫れあがり、どの関節も曲げることもできないほどになっていた。

数人の看護婦さんがやってきて 『さあ、ベッドから起き上がりますよ』 と言われたので、『わかっています。 私は昨日のうちに起き上がらなければならないと覚悟していたので がんばります』 と 答えた。

ベッドのリクライニングが起こされた。 まず体を横にしてもらい 膝をまげて足を下ろすように言われる。

痛い! さすがに傷が痛む。 ベッドの柵を両手で掴んで 足を床につけなさいと言われるが 体に力がはいらない。 しかも左の手が曲がらずに思うように使えない。

両脇を支えてもらい やっと立ち上がった。

私は 『大丈夫です。 歩きます』 と 言ったが、 看護婦さんに 『顔中脂汗かいているわよ。 午前中は ここまでにして 歩くのは午後にしましょう。 あせらなくていいから』 と 歩行については 延期を言われた。

立ち上がった動作の逆をやって ベッドに倒れると 息が激しく上がっている。

随分と体力がなくなったことを いやっというほど感じた。

左腕の腫れあがりを 看護婦さんに訴えると 主治医と相談して 圧縮ホータイを指から二の腕まで巻かれた。

午後もう一度 同じようにベッドから起き ベッドサイドに立った。

病院は古く 病室にはトイレの設備はなく、共有トイレまで10メートルほどを歩かなければならなかった。

点滴用のバーを支えに もう片方の腕を看護婦さんに支えてもらいながら トイレまで歩く。

トイレで導尿の管を外してもらった。 用を済ませたら ナースコールを押し もう一度看護婦さんに支えられて ベッドまで戻った。

『導尿も外されたし、これからは がんばってトイレに歩いていきますよ。 歩けば 腸もよく動きます』 と 言われたが ベッドから起きたり寝たりしたときに傷が痛み 繰り返すだろう痛みを考えると 憂鬱になってしまった。

しかし そんなこと言っていられなかった。 プーさんに支えられてトイレに行き、用を済ませ 病室に戻ろうとすると プーさんは私を方向転換させて 病院の回廊を歩かせて病室へ戻るルートをとるのだ。

腸閉塞の痛みとは違うが 痛さをこらえてのリハビリが始まっていた。

この日も姪っ子が来てくれて 左の腕を指先から腕にかけてずーっとリンパマッサージをしてくれた。

1時間ほどマッサージしてもらうと 腫れも半分ほどに減ったようにみえた。

7日 
この日も午前中姪っ子とプーさんが 左腕と両足 背中 お尻のマッサージをしてくれたが、マッサージの効果は表れるものの、時間が経過すると腫れてくる。

主治医がきて 血液検査の結果から まだ低蛋白血症の状態が続いていると言われる。

食べ物を口にできない状態が1週間続いている。 アルブミンの点滴を使えば改善されるが 100%安全といえないので 躊躇しているとの説明だった。

食べれるようになれば 浮腫みは改善されるからということだった。

しかし 回復も見られていた。 この日術後三日目にして 元気のあるおならが出たのだ。

夜から朝にかけてコップ1杯の水を飲んでいいと言われた。 

ところが 一口飲むと おなかが痛くなった。

背中の硬膜外麻酔を入れてある部分も痛みだした。

背中の痛みは 麻酔がなくなったことにあった。 外科の先生は たまたま出払っていて 内科の先生が 背中に刺した針を抜いてくれたが、痛みはひどくなるばかり。

ナースコールを押して 痛い 痛いと言えば、 どこが痛いかと尋ねられる。 おなかだと説明すると 傷の痛みか おなかの中の痛みかと さらに尋ねられる。

傷もまだ痛んでいたし どこの痛みか自分でもよくわからなかった。

この夜も再び 痛み止めの点滴をしてもらうことになった。

術後初めて うとうとすることもできないほ辛い夜を過ごすことになった。

8日
主治医の先生は 毎朝7時過ぎから半にかけて、顔を出してくれていたが、8日の朝も7時過ぎに 私の名前をまずよんで 『おはようございます。 昨夜は大変だったみたいですね 』 といい、腹帯の下に聴診器を入れて腸の動きを調べていた。

その後、間もなく移動式のレントゲン撮影機がきて 腹部の写真を2枚撮っていった。

もう一度主治医と外科部長の回診があり、二人で相談して アルブミンの点滴をすることに。

昨夜の痛みの原因は 腹部にガスと1週間前の便が溜まっているのに 低蛋白血症の状態で 改善が腸の動きも弱いとのことだった。 腸を動かす点滴剤ももちろん前から使われていたのだた。

この日も長い時間かけて リンパマッサージをしてもらったが、改善はするものの また浮腫みだすの繰り返し。 左腕はマットが自分の体の厚みより高く置かれて 常にそのマットの上に置くようにとのことだった。

午後 少しだが 通じがある。 夕方もう一度顔を出してくれた主治医の先生は 『お水はいくらでも飲んでいいですよ。 ただし 炭酸とかはおなかが張るから やめておいてください』 と、私の通じがあったことを我が事のように喜んでくれた。

私はミネラルウォーターとポカリスウェットと少しずつだが 何回にもわけて 存分に飲んだ。

細胞に水分が補給されていく感じがして 点滴以上の効果を実感できた。
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腸閉塞からの生還 … 90/250センチ

2011-01-16 | 腸閉塞
3日の夕方座薬で腸を動かしてみましょうということで、座薬を使用された。

確かに 腸が動いて排便の気配がみられたが、我慢できずに 30分程したらプーさんにトイレに連れて行ってもらった。

どんなにがんばっても 小さな石ころほどの便の固まり3個ほどしか出ない。

3日の夜も痛みは続き、痛みどめを点滴に入れられた。

この日は右手もひどく浮腫んでいたし、腰・足・背中・腕と姪っ子とプーさんがリンパマッサージをしてくれていた。

担当の先生が朝の採決の結果をプリントアウトしてやってきて 話す言葉にびっくりした。

私が栄養失調状態だというのだ。

『ダイエットしたり 食事を抜いたりしていませんでしたか?』 と尋ねられた。

確かに暮れの30日は 父意識不明の電話の後、さまざまな準備に追われて 昼抜きになっていたが、夕食もクルマの中で採っていたし、31日も朝食・昼食もとっていた。

先生の言葉は ? ? ? だった。

4日の朝 もう一度座薬を使われた。 この時もわずかだか通じがあったが、便器を覗き込んだプーさんは 『5センチにも足りない細いものよ』 と落胆していた。

それでも私は腸が動きだしたので 高圧酸素療法で対応してもらえると期待して 気分も楽になった。

ところが 午後一番のCT撮影の後、病室に戻りベッドで臥せっていると 担当の先生と外科部長の二人が1時間もしないうちにやってきた。

私の名前を言った後 続いた言葉は

『申し訳ありません。 手術することになりました』 という外科部長の言葉だった。

それでも私は 動揺することもなく これでこの痛みから解放されるんだとほっとした気持ちになった。

『手術は明日の朝の予定でしたが、待てない状態なので、今夜します。詳しい話は担当の医師から』 と 外科部長は言ってベッドの側を離れて言った。

残った担当の医師が手術について話し始めた。

まずトトがいつ来るかということを尋ねられ、その夜最終便だと話すと、それでは 『ご主人様には電話で説明させていただくことにし、娘さんに必要な書類のサインをしていただきます』 と 言われた。

内容は 麻酔の方法についてが一点 点滴をするためにCVカテーテルという方法を行いたいということが一点 低たんぱく質血症状態なので アルブミンを点滴で使用したいということが主であった。

麻酔は硬膜外麻酔と全身麻酔を行うので人工呼吸器を気管に挿入することになるということだった。

全身麻酔は2か月前に経験していたので 私のほうからどういうものかわかっていると話した。

CVカテーテルについては 全身浮腫が起きているので 手や足から点滴の針を刺せない状態なので 協力してほしい との説明だった。

これも感染症などのリスクがあるからですよねと 私のほうから話した。

アルブミンについては 今の状態では手術に耐えられないので 是非使わせていただきたいが、アルブミンは生物由来のものなので 100%安全でないと付け加えての説明だった。

また 今回の腸閉塞の原因になった20年前の下腹部の手術について詳しく聞かせてほしいとも言われた。

手術した病院名、どんな手術だったかなどを尋ねられた。

癒着がわかったのは10年まえのことであるが、その経緯も詳しく尋ねられた。

そして 最後に 手術について何か質問はありませんか と 言われたので 私は二か月前に背中の脊髄近くにメスを入れられる手術をしたことを話した。

手術時間はどのぐらい要するかを尋ねると 『腸閉塞はおなかを開けてみなければ どの程度の時間を要するかは全く予測できません。』 とのことだった。 

さらに 私が 人工肛門になる可能性はどのぐらいかと質問した。

先生は 『人工肛門になる可能性もおなかを開けてみてからでないとわかりません。 必要な場合は もうひとつの手術が加わるので 時間はさらに長くなります。もし人工肛門の処置をした場合は半年から1年間はその状態が続きます』 との説明だった。

『私は腰痛持ちです。術後ベッドにじっとしているのが多分つらいと思うので 持ち込んでいるマット二つを腰などに充てて対応してほしい』と頼んだ。

プーさんは今にも泣き出しそうな顔をしていた。 父親に泣き声で電話し、その後主治医に代わってもらい 話は簡単にすんだ。 トトは最終便で帰ってくるので待っていてほしいと頼んだが、それは無理そうだった。

そうそう 主治医は私にもう一つ付け加えた話しがあった。

手術後覚醒し、私が手足を動かして治療の妨げになる可能性があったら、拘束したいので その期間の拘束を了承してほしいとのことだった。

そうなのだ、私はERで散々さわぎうめき いろんなチューブを外してほしいと叫んだ前科があった。

一通りの説明の後、ほかに何か質問はありませんかと言われた。

私は一瞬迷ったものの、やはり言いたいことを口にしてしまった。

『手術とは関係ないのですが、よろしいでしょうか。』と 言った後、『先生は腸閉塞の手術のご経験はどのぐらいですか』 と 聞いていた。

先生は 私の目を見つめながら 『200例ほどの腸閉塞の手術に立ち会い、50例ほどの執刀をしました。 ここは救急救命センターなので 腸閉塞で搬送される患者さんは多いほうです。』 と 答えられた。

つぎの言葉が 先生の経験を問う質問の前だったか 後だったか 覚えていない。 が こんなことも聞いてしまった。

「先生はどこの高校のご出身ですか」と。

すると、主治医の先生からでた高校名は 私やトトと同じだった。

さらに 外科部長も同じ高校だという。

『私は そうですか、実は私たち夫婦も同じ高校の出身なので … ご縁だと思います』と へんなことを私はくちばしってしまった。

そして最後に 『お任せしますので どうぞよろしくお願いします』 と 頭を深く下げた。

私がサインしたのは 一枚の用紙だけ。 主治医は 『わかりました』 と これまた丁寧に深く一礼して 病室を出て行った。

私の胸の奥に 絶対にこの手術には失敗したくないという思いがあり、執刀する主治医に身を任せるにあたり、なにか結びつきが欲しいと願っていたのだと思う。

それから看護婦さんからプーさんに 手術にあたり必要なものをそろえる説明が始まった。

書類も次々に渡され サインしていた。

ところが あまりにも急な展開だったので、看護婦さんもあわてていて 説明がくいちがったりした。

そんな中、再び主治医が顔を出し、『手術は夜ではなく 4時からとなりました』と言いにきた。

看護婦さんがあわてだした。 手術まで1時間しか残っていない。

プーさんもパニックになり 『もういいです! 必要と言われたものは 全部準備します』 とイラついた声を出す始末。

出て行った主治医は間もなく戻ってきた。『手術室は準備が整いました、3時15分には 手術室に入ってもらいます』

私はプーさんに色々と話す時間もないまま 手術室に移動することになった。

手術室の前で プーさんに 『ひいちゃんに電話して助けを求めなさい』 と 2時間でほど前に病院から自宅に戻った姪っ子の名前を口にして 心細がる娘を気遣うのが精いっぱいだった。


手術が終わり 覚醒した。 術後のガウンを着せられ ICUに移された。

トトの顔があった。 プーさんの顔もあった。 姪っ子もいた。

250センチあった腸のうち 90センチを切り取ったと説明を受けたような気がする。

時間を聞くと 9時ぐらいだったように思う。

ホテルをキャンセルして病院に泊まるというトトに ホテルに行くようにいい プーさんも今夜はホテルでゆっくり休みなさいと言えた。

私はおなかの中が軽くなっているのがわかったし 助かったと確信していた。

痛みは感じたが 痛い痛いと叫ぶような痛さではなかった。
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腸閉塞からの生還 … 手術までの88時間 七転八倒の激痛との闘い

2011-01-15 | 腸閉塞
鹿児島市立病院救急救命センターに搬送された私は そのちょっと前に意識を回復していた。

今度こそ この痛みからすぐに解放してもらえると思った。

右の鼻孔をいじられ うめき 次に左の鼻孔をいじられて何かを入れられた。

嘔吐もした。

そのあと また意識をなくし 気がつくと 手術室にいたように思う。

しかし 誰もそばにいない。

遠くに人影数人がいるのに 私の存在を無視して 何か話している。

長い時間が経過しているように思えた。 痛みは続き いつ 手術されるのだろうと そんなふうに思っていた。

(ところが 後でプーさんに確認すると 時間にして30分ほどだったという。 CT画像を撮り 何か確認をしていたそうだ)

随分待たされたような後、一人の医者がやってきて 「腸閉塞です。2週間から3週間かかります。手術はあす以降にします」 と言ったように思う。

その後 再び痛みで意識をなくした。

次に目が覚めた時 プーさんがそばにいた。

そして 「ママ、私 9日までママのそばにいるから」というようなことを言った。

プーさんはその日(1月1日)のうちに 飛行機で神奈川に戻る予定だったので、私はびっくりし、「会社は?」というようなことを口にしたと思う。

プーさんは、「休み取るから大丈夫」  と言った。

朦朧とした意識の中でも 『プーさんが休みとって私のそばにいてくれるとは どうやら私は大変なことになったらしい』 と思った。

あとプーさんは 「パパが朝一番の飛行機でここに来てくれるって」とも 教えてくれた。

その後 また意識をなくした 何回も何回も … 気がつくと 妹がいて背中をさすったり プーさんが背中をさすっていた。

後から聞いた話だが、私は導尿のチューブを入れられていたのに トイレに行きたいと騒いだり 体が痛いから起きたいと騒いだり 色々なチューブが邪魔だから 外してほしいと 騒いだり とにかく無茶苦茶な状態だったそうだ。

痛い痛いと騒げば 麻薬系の痛みどめの点滴をしてもらえた。 しかし その効果が持続しない。 すぐに騒ぎだす。

マスクをした無表情の看護婦さんがやってきて 一言も発せず 私の点滴に痛みどめを加えた。

私はプーさんに 「ねぇ ここの看護婦さん ロボットじゃないの?」と言ったそうだ。


朝 お昼前 トトがいた。 プーさんがいた。 先生とトトが出て行き 説明を受けていた。

そして二人で病室に戻ってきて ERから一般病棟に移ることになったと言われた。

トトが個室をお願いしますというのが聞こえたが、個室は満室で空きがありませんと言われたのも覚えている。

しかし 「別の階に 特別室があります。そこにされますか?」 と言われ トトは 「階が違ってもいいから この特別室に」 とこだわった。

「それでは そのようにしまよう」 と言われ さらに 「ただし 別の階だと 看護婦g
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腸閉塞からの生還 … おたかさん、未だ父に会えず

2011-01-11 | 腸閉塞
今日は、2011年1月11日 今年のblog再開にいい数字(と思いたい)

暮れの30日、父が意識不明になり 救急車で搬送されたと連絡を受けた私と妹は、東名自動車道の港北SAで合流し 私とプーさんは妹の車に乗り込み、夕方5時半ぐらいに 鹿児島を目指し出発した。

目的地まで約1300キロメートルの長いドライブがスタートした。

車のカーナビは走行中さほど目的地到着予定を変えず、31日昼過ぎには着くはずだった。

なのに私は未だ父に会えずにいる。
何でこんなことになってしまったのか!

何回か渋滞に巻き込まれたものの、甥っ子とプーさん二人が交互に運転し、夜明け前に関門海峡を抜け、九州に入った。

しかし順調だったのは福岡までだった。

辺りは銀世界に変わり、福岡の西(佐賀の方)は山々が真っ白に変容していた。

太宰府ICで降ろされ、国道3号線を南下することに。雪に慣れない九州の車はあちこちでスリップ事故を起こし、時速20キロメートル以下の運転が続いた。

それでももう一度久留米から熊本までは九州自動車道を走れた。
しかし熊本からはもっと速度は落ち、粉雪が降る中鹿児島県に入り、薩摩川内を過ぎたころから国道もチェーン規制になってしまった。

その頃から腹痛を感じ始めていた私は、トイレ休憩をしても、出るものもなく腹痛は激しさを増していった。

とうとうたまり兼ねて、妹が救急車の依頼の電話を入れてくれ、長い時間の痛みにさらされた私は、車の後部座席から引きずり出された。

地理的には串木野金山の入口付近だった。

この救急車の中で、私は痛いと呻き、手を握られ、頑張れ、頑張れと励まされながら、串木野の救急外来に搬送してもらった。

これで助かったと思った。

お尻に筋肉注射をされ、嘔吐した。

医者も看護婦もノロウィルスだと診断。
痛みは収まらず、呻く私のことを、痛い痛いと騒ぐ患者と言ったそうだ。

その後のことは覚えていない。

しばらくし、体温が34℃までさがり、呼吸が止まってしまったという。

それまで妹が医者に再三腸閉塞かもしれないと言っても、聴き入れてもらえなかったそうだ。

慌てたその病院は、別の病院への搬送先を救急隊員と必死に捜し、私は再び救急車の中に入れられた(と後で聞かされた)。

着いたのは鹿児島市立救急救命センターだった。
年が変わる数十分前だったという。

そのちょっと前意識を回復した私は、救命隊員に顔を叩かれ続けていたように思うのだが、同乗していたプーさんは、「そんなことない、ずっと励ましながら、名前を呼び続けていたよ」と言う。

救命車がサイレンを鳴らしつづけても、国道3号線30キロメートルを2時間ちょっと要するほどの、雪降る悪天候だったそうだ。

私はこの病院で助かった。
しかし そのあと三日半以上 激痛でのたうちまわることになった。
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