1月も今日で終わり。
自宅に戻って10日も経ったのに まだ元の生活に戻れない。
病院でリハビリするのと 自宅でリハビリするのは 大変な違い。 自分と向き合う時間さえ億劫な毎日。
久々にブログの編集画面を開いた。 以下は20日朝に書き留めておいたもの。
9日の午後には 信じられないようなサプライズがあった。
なんと友人Mが 東京町田から 見舞いに来てくれたのだ。
家を朝5時半に出て 飛行機に乗ってきたという。
顔を見たとたん 泣き出してしまった。
Mとは今年初めての着物でデートを 7日に約束していた。 手術が決まった時、プーさんにMにだけは デートが出来なくなったことを連絡してくれるように頼んでいたのだ。
母の友は私の友といった感じで プーさんはMに日頃冗談をいうほど親しくしているのだが、Mに電話をしたとたん 泣き出したという。
Mは私の顔を見なければ安心できないと はるばる鹿児島まで来る決意をしたという。
ベッドでリクライニングを起して 6時までおしゃべりを楽しんだ。
オレンジのアレンジメントは小田急デパートで前日 作ってもらったという。 『オレンジはエネルギーを与えるって教えてもらって この色にしたの。 花も飛行機に乗せてきたわ』 と 説明してくれた。
花を見ていると ほんとにエネルギーをもらっているように感じた。
友人Mは6時過ぎに病院を出て 東京へとんぼ返りしていった。
メールがきても 返信したくても指が思うように動かない。こんなところまで弱り果てていた。
しかしこの夜 私は4時間ほどだが 入院以来初めて熟睡できた。
10日
おなかには体液を排出するためのドレーンチューブが入れてあったが、これが歩行を始めると悩ましかった。 ポシェットを首から斜めにかけて 排出された液を受け止めるパックをポシェットに入れ、歩いていた。 歩き出すと赤い体液はどんどんチューブを伝わり、パックに溜まっていく。 血を薄くしたその色が溜まっていき 日に数回パックから捨てられるのを見ると、体のエキスを捨てているような気がした。
この朝 主治医は 『もう管を取りましょう。』と言い、取ってもらう。
消毒して まず抜糸。 『はい、ゆっくりと 息を吸って ゆっくりと吐き出して。するするするー。 取れました』 という具合に 消毒から 抜糸 チューブの抜き取りまで 一動作ごとに説明しながら とってもらった。
どこまでも動作と言葉の優しい先生なのである。
それ以後 いろんな看護婦さんや外科の先生から 『管が取れて すっきりしましね。回復も早まりますよ』 と 声をかけてもらう。
私が このチューブから流れ出る腹水をとても気にしていたことは お見通しのようであった。
11日
縫合してあるおなかの糸を1本おきに半分ずつ抜糸があった。
点滴もこの日で終了した。
看護婦さんに首が濡れないようにしっかり保護してもらい トトにシャンプーしてもらう。
12日
朝 看護婦さんに 『点滴も終わったし 外出許可が出るようになったら、危篤状態の父に会いに行きたい。 トトがレンタカーで連れて行ってくれるといってるので』 と 話した。 私としては16日あたりを考えていた。
ところが トトに監督されながら5分粥の朝食をとっていると、主治医がステンレスのトレイを持ってきた。
私の名前を呼んだあと、『看護婦から 聞きました。 今から抜糸しましょう。 そして首のCVカテーテルも今から取りましょう』 と言われたのでびっくり。
トトに部屋を離れてもらい、まず首のCVカテーテルを抜いてもらう。縫ってあったのだが、さほど痛みもなく抜いてもらう。
抜糸は昨日より痛みも感じなかった。
先生は手を動かしながら言われた。
『鹿児島に車で帰省されたのは、倒れたお父様に会うためだったのですね。 今日はご主人もいらしているから、外出許可を出します。 後悔しないように お父様の息のあるうちに面会に行ってきてください。 僕は祖父の最期に間に合わなかった苦い経験があるのです』 と。
私もトトもびっくりした。
続けての注意事項は もっと心配なものだった。
急なおなかの痛みが始まったら、すぐにUターンすること。 その時は救急車を使うこと。
この朝から5分粥になっていたが、お昼はおうどんを50回ほど噛んで噛んで食べなさい。 お昼になったら必ず食べて 腸が動くようにしなさい。とも付け加えられた。
トトはそこまでしていかなくてもいいだろう と私に諦めるように言ったが、トトがいる時しか 面会に行けない。 私はがんばって行きたいと言い張った。
トトはすぐにレンタカーの手配をしに出かけ、私は外出許可証に必要事項を記入した。
許可証も主治医の先生自らもってきてくださった。
私はペットボトルを1本手に持ち 姪っ子が買ってくれてあった、フリース素材のパジャマを着て ダウンベストにダウンコートを着た。 服は吐しゃ物で汚れたのでクリーニングに出してあり、着る服もない状態だったから。
レンタカーの助手席のシートを倒して 乗っていった。 カーナビは到着予定を75分後としていたが、車の流れとは逆方向で 55分ほどで父のいる病院に到着。
右半身不随、失語症と診断された父はベッドの上で私以上に様々な管を入れられ、痛々しそうだった。
もちろん 声をかけても目を開けるわけでもなく、左手を握っても握り替えされるわけでもなかったが、絶対に私の声は父に届くはずと思い、泣きながら一生懸命語りかけた。
この日も雪が舞う冷たい日で 20分ほど面会して病院を後にした。
お昼は指示されたようにうどんを50回噛んで噛んで 少々食べた。 50回もうどんを噛むと 味はなく 小麦粉を練ったものを口に入れているようで 大変な苦痛だった。
この時以来 うどんは食べていない。 懲り懲りだった。
4時間足らずの外出をして 病院に戻り ベッドに倒れ込む。 無事に往復出来てほっとした。
夕方 入院後初めてのシャワーを姪っ子が一緒に入ってくれて 全身を丁寧に洗ってくれる。 暮れの29日以来の事。
この後、病衣からパジャマに変える。
13日
病棟の回廊を歩く回数が一気に増えて 12周する。
病棟の西の端から東の端までは67メートルあると 同じように歩いている患者に教えてもらう。
この数字を教えてくれたのは76歳の男性。 退院したらゴルフを再開するのが目標とも。
床の方眼目のタイルを測ると29㎝あったという。 その方眼を一マスずつ数えたそうだ。
14日
この日の私を担当する看護婦さんは 優しい。 シャワーも一緒に入って手伝ってくれるというので 安心して入れる。
それでもシャワーを浴びて 髪を乾かしてもらった後は 息が上がってしまう。
歩くのはしばらくベッドで休んでからにするようにと言われる。
食事はやっと7分粥になり、お茶碗にちょっぴりお米の粒が増えてきた。
プーさんが最終便で来てくれるはずだったのに 残業だという。 とたんに体の力が抜けてしまう。
自宅に戻って10日も経ったのに まだ元の生活に戻れない。
病院でリハビリするのと 自宅でリハビリするのは 大変な違い。 自分と向き合う時間さえ億劫な毎日。
久々にブログの編集画面を開いた。 以下は20日朝に書き留めておいたもの。
9日の午後には 信じられないようなサプライズがあった。
なんと友人Mが 東京町田から 見舞いに来てくれたのだ。
家を朝5時半に出て 飛行機に乗ってきたという。
顔を見たとたん 泣き出してしまった。
Mとは今年初めての着物でデートを 7日に約束していた。 手術が決まった時、プーさんにMにだけは デートが出来なくなったことを連絡してくれるように頼んでいたのだ。
母の友は私の友といった感じで プーさんはMに日頃冗談をいうほど親しくしているのだが、Mに電話をしたとたん 泣き出したという。
Mは私の顔を見なければ安心できないと はるばる鹿児島まで来る決意をしたという。
ベッドでリクライニングを起して 6時までおしゃべりを楽しんだ。
オレンジのアレンジメントは小田急デパートで前日 作ってもらったという。 『オレンジはエネルギーを与えるって教えてもらって この色にしたの。 花も飛行機に乗せてきたわ』 と 説明してくれた。
花を見ていると ほんとにエネルギーをもらっているように感じた。
友人Mは6時過ぎに病院を出て 東京へとんぼ返りしていった。
メールがきても 返信したくても指が思うように動かない。こんなところまで弱り果てていた。
しかしこの夜 私は4時間ほどだが 入院以来初めて熟睡できた。
10日
おなかには体液を排出するためのドレーンチューブが入れてあったが、これが歩行を始めると悩ましかった。 ポシェットを首から斜めにかけて 排出された液を受け止めるパックをポシェットに入れ、歩いていた。 歩き出すと赤い体液はどんどんチューブを伝わり、パックに溜まっていく。 血を薄くしたその色が溜まっていき 日に数回パックから捨てられるのを見ると、体のエキスを捨てているような気がした。
この朝 主治医は 『もう管を取りましょう。』と言い、取ってもらう。
消毒して まず抜糸。 『はい、ゆっくりと 息を吸って ゆっくりと吐き出して。するするするー。 取れました』 という具合に 消毒から 抜糸 チューブの抜き取りまで 一動作ごとに説明しながら とってもらった。
どこまでも動作と言葉の優しい先生なのである。
それ以後 いろんな看護婦さんや外科の先生から 『管が取れて すっきりしましね。回復も早まりますよ』 と 声をかけてもらう。
私が このチューブから流れ出る腹水をとても気にしていたことは お見通しのようであった。
11日
縫合してあるおなかの糸を1本おきに半分ずつ抜糸があった。
点滴もこの日で終了した。
看護婦さんに首が濡れないようにしっかり保護してもらい トトにシャンプーしてもらう。
12日
朝 看護婦さんに 『点滴も終わったし 外出許可が出るようになったら、危篤状態の父に会いに行きたい。 トトがレンタカーで連れて行ってくれるといってるので』 と 話した。 私としては16日あたりを考えていた。
ところが トトに監督されながら5分粥の朝食をとっていると、主治医がステンレスのトレイを持ってきた。
私の名前を呼んだあと、『看護婦から 聞きました。 今から抜糸しましょう。 そして首のCVカテーテルも今から取りましょう』 と言われたのでびっくり。
トトに部屋を離れてもらい、まず首のCVカテーテルを抜いてもらう。縫ってあったのだが、さほど痛みもなく抜いてもらう。
抜糸は昨日より痛みも感じなかった。
先生は手を動かしながら言われた。
『鹿児島に車で帰省されたのは、倒れたお父様に会うためだったのですね。 今日はご主人もいらしているから、外出許可を出します。 後悔しないように お父様の息のあるうちに面会に行ってきてください。 僕は祖父の最期に間に合わなかった苦い経験があるのです』 と。
私もトトもびっくりした。
続けての注意事項は もっと心配なものだった。
急なおなかの痛みが始まったら、すぐにUターンすること。 その時は救急車を使うこと。
この朝から5分粥になっていたが、お昼はおうどんを50回ほど噛んで噛んで食べなさい。 お昼になったら必ず食べて 腸が動くようにしなさい。とも付け加えられた。
トトはそこまでしていかなくてもいいだろう と私に諦めるように言ったが、トトがいる時しか 面会に行けない。 私はがんばって行きたいと言い張った。
トトはすぐにレンタカーの手配をしに出かけ、私は外出許可証に必要事項を記入した。
許可証も主治医の先生自らもってきてくださった。
私はペットボトルを1本手に持ち 姪っ子が買ってくれてあった、フリース素材のパジャマを着て ダウンベストにダウンコートを着た。 服は吐しゃ物で汚れたのでクリーニングに出してあり、着る服もない状態だったから。
レンタカーの助手席のシートを倒して 乗っていった。 カーナビは到着予定を75分後としていたが、車の流れとは逆方向で 55分ほどで父のいる病院に到着。
右半身不随、失語症と診断された父はベッドの上で私以上に様々な管を入れられ、痛々しそうだった。
もちろん 声をかけても目を開けるわけでもなく、左手を握っても握り替えされるわけでもなかったが、絶対に私の声は父に届くはずと思い、泣きながら一生懸命語りかけた。
この日も雪が舞う冷たい日で 20分ほど面会して病院を後にした。
お昼は指示されたようにうどんを50回噛んで噛んで 少々食べた。 50回もうどんを噛むと 味はなく 小麦粉を練ったものを口に入れているようで 大変な苦痛だった。
この時以来 うどんは食べていない。 懲り懲りだった。
4時間足らずの外出をして 病院に戻り ベッドに倒れ込む。 無事に往復出来てほっとした。
夕方 入院後初めてのシャワーを姪っ子が一緒に入ってくれて 全身を丁寧に洗ってくれる。 暮れの29日以来の事。
この後、病衣からパジャマに変える。
13日
病棟の回廊を歩く回数が一気に増えて 12周する。
病棟の西の端から東の端までは67メートルあると 同じように歩いている患者に教えてもらう。
この数字を教えてくれたのは76歳の男性。 退院したらゴルフを再開するのが目標とも。
床の方眼目のタイルを測ると29㎝あったという。 その方眼を一マスずつ数えたそうだ。
14日
この日の私を担当する看護婦さんは 優しい。 シャワーも一緒に入って手伝ってくれるというので 安心して入れる。
それでもシャワーを浴びて 髪を乾かしてもらった後は 息が上がってしまう。
歩くのはしばらくベッドで休んでからにするようにと言われる。
食事はやっと7分粥になり、お茶碗にちょっぴりお米の粒が増えてきた。
プーさんが最終便で来てくれるはずだったのに 残業だという。 とたんに体の力が抜けてしまう。